2.助け
『式神』が見えるようになって初めての朝。つまり、私の転校生活2日目の朝は、今まで見ていた景色と、大きく違う・・・・・・と言うほどでもなかった。
てっきり、空中に人魂が飛んでいたり、お化けがそこら辺をうろついているものだとばかり思っていたから、昨日の出来事なんて、嘘だったんじゃないかとさえ思えてくる。
まだ慣れない道を歩いていると、黄色い帽子を被った少年少女が横を駆け抜け、電柱に止まった小鳥が仲良さそうにさえずっている。洗車をしていたおじさんから挨拶された時は、飛び上がって、上手く返せていたか今になって後悔している。
良く言えばなだらかな、有り体に言えば田舎の光景に、少し心が安らぐ。しばらく歩くと、お菓子のようないい香りがしてきた。見ると、昨日お邪魔した瀬名高君の家が見える。朝が買いに来る人が多いのか、そのパン屋さんにはお客さんがぎゅうぎゅうだった。
朝は昨日手土産にもらった新作のアップルパイを食べてきたけど、この香りの前では、お腹がなってしまいそうになる。踵を返して、横断歩道で青信号を待った。そういえば、まだ緊張しているからか、胃がかなり縮小してしまって、あまりご飯を食べられなかったけど、アップルパイはすんなりお腹の中に入った。自然な甘さが、口になじんでいる。
すると、「椿さん!」と不意に背中から声をかけられた。振り返ると、昨日積極的に話しかけてくれたポニーテールの女の子が立っていた。確か名前は、本庄さんだ。
「あ、おはよう、本庄さん」
「名前覚えててくれたんだー!おはよう、早いね?」
昨日、黒い霧に包まれていた時とは打って変わって、今の彼女ははつらつとした笑顔で話しけてくれている。きっと、あの曇った顔こそ、悪意が『廃絶』によって増長されてしまった証拠なのだろう。いつか、『廃絶』の組織の人たちとも会うのだろうか、と思うと、少し怖い。
「どうしたの、椿さん。ぼんやりしちゃって」
「え?ああ、何でもない。ほ、本庄さんこそ、早いね。何か用事?」
「私は朝練!陸上部ってほんっとに朝早くてさー。まだまだ寝足りないよー」
そう言ってだるそうに伸びをする彼女に、昨日の会話を思い出す。確か1年なのにエース候補で、校内で少し有名になっているらしい。彼女は肩から黒光りしている大きなエナメルバッグをかけていた。
「速く走れるってすごいよね。私は運動苦手だから・・・・・・」
「そうなの?今度、一緒に走ろうよ!私がサポートするからさ!」
「あ、ありがとう・・・・・・本庄さんは、走るの、好きなの?」
楽しそうに跳ねている彼女は、私の質問にきょとん、とすると、少し下を向いた。ぐっと唇を噛んだその時の表情が、脳裏に焼き付く。でも一瞬でパッと笑顔になる。青い空にも負けないくらいの、さわやかな笑顔だ。
「うん、大好き!!」
「・・・・・・素敵だね。好きなものがあるって、いいな」
「椿さんは、何かないの?好きな人とか!!まあ、こっち来たばっかりだし、難しいか・・・・・・あ、台心とか!」
「台心先生?なんで?」
「だって、あの顔だよ!?うちじゃ大分有名だよー。っていうか、あいつの宿題、やってないや。はは、すっかり忘れてたー」
「・・・・・・宿題なんて、あったっけ」
「え、あれだよー。台心の、5ページ目の問題、一問だけだから解いてこい、ってやつ。もしかして、椿さんも忘れた?」
「・・・・・・すっかり」
冷や汗が噴き出してきて、必死に鞄の中身をあさっていると、ぷっと噴き出す声が聞こえてきた。
「あはは、椿さん、意外なんだけど!めっちゃ真面目そうだと思ったら、意外とおっちょこちょいなんだね!?いいね、そういうギャップ、私好きだよ!」
本庄さんがからっとした笑顔を向けてくれる。私も口を抑えて、笑っているように見えるポーズを取った。内心、好きと言ってくれたことがすごく嬉しかった。
「そうかな。教えてくれてありがとう。朝の時間に、解いちゃおうかな」
「それがいいねー。良かったら、後で一緒に答え合わせしようよ!って、あ!!時間ヤバい!ごめん椿さん、また後で!」
時計を見て飛び上がった彼女は、さすがのエース候補の速度で私の元を一瞬で去った。あっという間に一人、茫然とする。でも、道のりへと足は軽かった。早速、こんなに話せる人ができるだなんて、幸せだ。
校門をくぐり、下駄箱に靴を入れ、廊下を歩く。この学校はなぜか1年の教室が3階にあるので、私は地味に息を切らしながら階段を登った。踊り場につき、不意にガラス越しにグラウンドが見える。本庄さんがいないか、目で追っていた時だった。
「よお、わざわざ俺が出向いてきてやったんだ、こっち向けや」
口汚い、でも澄んだ声が聞こえて、私は一瞬にして総毛立ち、振り返る。
そこには、昨日の金色の髪をした人が、こちらを睨みつけていた。ふわりと浮いて、喧嘩でも売るように顔を近づけてくる。オレンジのピアスが日を反射して、瞬時に目を刺した。
「なあ、俺が見えてんだろ?」
「・・・・・・うん」
「ちっ、なんでそんな平然としてんだ。気に入らねえな。人間ってもんは、俺の前では慌てふためいて、顔真っ赤にして、ひれ伏すのが当然の態度だろ」
どんな当然だ、と突っ込みたくなるけど、平然にしようとしているわけではない。突然の『式神』の襲来に、身がすくんでいる。怖いわけじゃないけど、昨日が現実であったことを思い出して、一気に非日常に引き込まれた気分だ。
「・・・・・・・あなたは『式神』なんでしょう?あなたは、私を選んだの?」
「あぁ?ああ、盤渉から聞いたのか。つうか、てめえなんて選んでねえわ。廃絶の気配がしたから来てみたら、てめえが引っぱたいてきたんだろうが」
「そ、そうなの?」
案外普通にコミュニケーションが取れていることに驚きつつも、私はなんて言ったらいいのか分からず、言葉に詰まった。聞いていた話と違う。瀬名高君を心で呼ぶも、金髪の人は私に足を向けるような位置へと浮き上がった。足はないから、嫌な気持ちにはならなかったけど。
「そうだ。この俺が、てめえみてえなぼけーっとした女を選ぶわけがねえ。もっと強そうな、屈強な男を選ぶはずだ。俺に釣り合う奴なんて、そういるわけがねえがな」
足を組んだ(?)まま浮いているので、そのままひっくり返ってしまいそうだったけど、私は一旦瀬名高君に話を聞こうと、この場を切り上げようとした。そもそも人と話を切り上げるほど話したことがないので、ひとまず永遠さんと別れる時、彼の言っていたことを真似てみる。確か、こんな感じだった。
「・・・・・じゃあ、この辺で。ばいばい」
「あぁ!!?ばいばいだと!?この俺に向かって!?」
永遠さんの台詞は彼にはお気に召さなかったようで、彼は喧嘩どころかキスできるくらい顔を前に突き出してきた。そんなことされても、どうしたらいいのか分からない。ゆっくりと横に避けつつ、一歩ずつ階段へと足を進めていく。
「あ、てめえ!逃げようとしてんじゃねえ!!」
「・・・・・・えっと。あなたの名前は?」
「あぁ?教えるわけねえだろうがよ!!」
「そう。じゃあ」
「おい!!もっと突っかかれよ!!!」
まだ叫び続ける彼を置いて、私は教室に向かった。少し、いやかなり失礼な態度だったかもしれないけど、下から誰かが階段を上がって来る音が聞こえたのだ。このままだと、一人で何もない空間に向かってしゃべる人になってしまう。転校してすぐ変な噂が立つのは避けたかった。あとは、瀬名高君が来てから考えよう、と思った。
教室を開けると、まだ早かったのか誰もいなかった。でも、すぐ後ろから、大きな声をかけられる。
「おはよう!!」
驚いて誰かと振り返ると、そこには可愛らしい女の子が立っていた。ショートカットの髪に、ハートのクリップを付けている。身長は私より小さかったけど、大きくて気の強そうな目に、私は少し圧倒された。昨日、教室にこんな子はいなかった。また式神かと、私は彼女の足を見る。上履きには、『碁色』と書かれている。
「・・・・・・私の足見て、どうしたの?」
「え?えっと。足があるかな、と思って・・・・・・」
「?なるほど??足は一応あるけど・・・・・どういう答えよ」
彼女は私の意味不明な回答に苦笑しつつ、持っていた鞄を後ろ手に持ち替えた。
「私、碁色レイ。もしかして、転校生の子?うちのクラスに来た、とは本庄たちから聞いてるけど・・・・・・」
「あ、そうです。椿夕陽です。よろしくお願いします」
「へえ、随分お嬢様っぽいね」
「お、お嬢様?」
「うん。なんか、世間を知らない箱入り娘って感じ」
碁色さんはふいっと顔を逸らし、自然に私をすり抜けて教室に入ると、私の隣に鞄を置いた。昨日空席だった場所だ。高校生活初日から欠席するなんて、勇気のある子だ。でも、さっき本庄さんの名前も出てきたし、友達は多いのだろう。私は何とか、会話を繋げようとする。
「そ、そんなこと初めて言われたよ。碁色さんも、可愛いよね。そのハートのピンとか・・・・・・」
すると、碁色さんは固まったように黙ってしまった。返答を間違えたかと一気に不安が押し寄せてくる。しかし、さっきの態度とは打って変わって、彼女はパッと顔を上げ、嬉しそうに駆け寄って来た。
「そうなの!!これ、可愛いでしょ!?あなた、分かってるね!!あ、夕陽ちゃんでいい?私のことは、レイでいいよ!!」
花の咲いたような顔で私の手を取り、ヘアピンの魅力について熱弁する彼女に、私は少し面食らいつつも、ああ、この人もいい人だ、と実感した。本当にここには、私を不気味だと遠ざける人がいない。綺麗な形の爪をした彼女の手が触れて、いかにも女子という感じで、少しドキドキした。
その後もぞろぞろとクラスメイトが集まり、台心先生の号令で朝のホームルームが始まり、淡々と授業が行われていった。瀬名高君も相変わらず元気なようで、クラス中の笑いを集めていて、見ている私も笑顔になれた。こんな人気者の彼と秘密を共有できているなんて、特別な気分だ。
碁色さんも彼に劣らないくらい人気者で、頻繁に女子から話しかけられている。時々授業中居眠りをしていて、先生にあてられた時には私に答えを聞いてきたけど、そんな所が愛される理由なんだろうな、と私は思った。前で授業をしている台心先生も、顔もさることながら、その緩さと上司への態度のメリハリが生徒間で受けているようで、面白い人だった。
ここに来てから、他無県にいた時に感じていた疎外感や悲しい気持ちは感じていない。むしろ、楽しい。ちょっと特殊な環境かもしれないけど、それが心地いい。早く永遠さんに報告したいな、とぼんやり黒板を見ていた矢先だった。
「よお、間抜け面。何ぼけっとしてんだよ」
「!!」
急に耳元で囁かれ、私は飛び上がった。ガタン、と派手に椅子が音を立て、クラス中の視線が私に集まる。
「ん?どうした、椿。虫でもいたか?」
「・・・・・・は、はい」
台心先生の声に、必死に頷く。彼の勘違いを利用して、何とかこの状況を乗り越えようとする。この声は絶対に金髪のあの人だ。まさか授業中も邪魔してくるだなんて、瀬名高君に執事のように無言でついているバンシキさんとは正反対の厄介さだ。
「あ?誰が虫だよ。おい、無視してんじゃねえよ、虫だけに、つって。くくくっ」
全く面白くないギャグを言って、彼は目の前で笑い転げている。私は彼をどかそうと、煙を払うように手を振った。
「お、そんなでかい虫なのか。まあ、窓でも開けとけば出て行くだろ」
「えー、台心、それって余計入って来るんじゃない?」
「先生は付けてくれ。はい、本庄が先生を付けなかったので、ここ、解いてみろ」
「えー、なんでよー」
先生が上手く授業に戻してくれたけど、金髪の人の邪魔は止まらず、さっきから勝手に私の鞄から教科書やらノートやらを手に取り、物色している。助けを求めて瀬名高君を見るけれど、彼は教科書を盾のようにして、完全に爆睡していた。バンシキさんはこちらの状況に気づいているようで、トントン、と優しく彼を起こそうとしている。でも叩き方が完全に赤ちゃんを寝かしつける親のようで、逆効果です、と叫びたかった。
「なんだ、こんな簡単な問題解いてんのか。アホに加え馬鹿とは、お前も救いようがねえなあ。お、なんだこれ、握り飯か。不格好だな。へえー、これがいわゆるスマホってやつか」
私は段々イライラしてきた。あまりにも勝手な行動に、さっそく式神が嫌いになりそうだ。瀬名高君たちは式神は人を選ぶ、と言っていたけれど、当人は選んでないというし、挙句の果てにこの所業だ。授業が終わったら流石に怒ろうと心に決めて、何とか終了のチャイムを迎えた。
「ふう・・・・・・ちょっと、あなた」
しかし、振り返っても誰もいない。姿を消したのか、どこかへ行ってしまったのか、さっきの妨害が嘘のように何もない。私は辺りを見回したけれど、彼の痕跡は一つも残っていなかった。
「ねえ、夕陽ちゃん、大丈夫?さっきから何か我慢してるみたいだけど。お腹痛いの?」
隣のレイちゃんが怪訝そうに話しかけてくる。私は本当のことを言いたい気持ちを我慢して、首を振った。
「ううん、大丈夫」
「そう?ねえ、一緒にお昼食べようよ。本庄たちも一緒だけど、いい?」
「う、うん。嬉しい、ありがとう」
嬉しいお誘いに、私は鞄を取って彼女たちが集まっている机に向かう。みんな快く迎えてくれて、じんわりと嬉しさを感じながらお弁当の入っていた袋を開いた。
「・・・・・・」
「あれ?夕陽ちゃん、ご飯は?」
「もしかして忘れた?」
朝作った鮭とわかめのおにぎりが消えている。絶対彼の仕業だ。言葉が出なくて、がっくりと肩を落とす。みんなが私の巾着の中身を見て、あー、と同情の声を上げている。
「あはは、意外と夕陽ちゃん家のお母さんっておっちょこちょいなんだね。お弁当入れ忘れちゃうなんて」
「え、レイ、椿さんのこと夕陽ちゃんって呼んでるのー?私も夕陽ちゃんって呼んでいい?」
「も、もちろん・・・・・・」
「ふふ、声に元気がないよ。下に購買あるから、適当にパンでも・・・・・・」
「その心配には及ばない!!」
背後からの急な大声に、私は飛び上がった。今日はやけに後ろから話かけられる日だ。
「何、瀬名高。夕陽ちゃんびっくりしてるじゃん」
「はっはっは、ヒーローは遅れてくるものだからね!」
「意味わかんないし、ヒーローはすぐ来なさいよ」
レイちゃんの的確な突っ込みをものともせず、瀬名高君は持っていたメロンパンを差し出し、そのままかがんで内緒話でもするように目線を合わせてきた。彼の声は通常が大きいので、あまり小声にはなっていない。
「さっきは気付いてやれなくてすまない。少し話をしたいから、また放課後時間をもらえるかな?」
「・・・・・・分かった。えっと、このパン、くれるの?」
「ああ。さっきのお詫びだ。良ければもっとたくさんあるから、遠慮なく言ってくれ!」
「ねえ、瀬名高。放課後がどうとか聞こえたけど、あんた風紀委員でしょ。今日の集合かけられてるの、忘れてないよね?」
本庄さんの横にいた女の子が、彼を訝し気に睨む。教室の壁に貼り出されている委員会のメンバーが書かれた紙には、風紀委員の欄に彼ともう一人の子の名前があった。
「ああ、もちろん忘れてないさ!しかし、何だったかな?」
「忘れてんじゃん!!」
「す、すまない。では椿君、悪いんだが、僕が来るまで待っていてもらうことはできるだろうか?」
「いいよ。特にやることもないし」
私は二つ返事で了承した。式神のことについても聞きたかったけど、彼と一緒にいるだけで楽しい。本条さんは目元を拭って泣いている真似をしている。なんだかお母さんみたいだ。
「優しいねえ、夕陽ちゃんは・・・・・・」
「そういう本庄は、また部活?」
「そうだよー。たまには休みも欲しいよねー。あーあ、雨降らないかなー」
「えーー。どうしたの、元気ないじゃんー」
「・・・・・・べっつにー。ただ、なんか疲れちゃったからさー」
そう言って、本庄さんはぐーっと伸びをした。エースにもそう言うことを思う時もあるんだ、と意外な気持ちになる。朝からふと見せる彼女の暗い顔は、気のせいで済ませていいのだろうか。レイちゃんはそんな本庄さんを、少し心配そうに見ていた。
「じゃあ夕陽ちゃん、また明日ね!無理に瀬名高に予定合わせる必要なんてないんだから、帰っちゃってもいいと思うよ!」
放課後、レイちゃんは明るくそう言って、慌ただしそうに帰っていった。みんな部活や掃除へと向かって、席を立っていく。何もすることがない私は、ぼんやりとその様子を、別世界のように見つめていた。
「椿さん、どうしたの?」
クラスの男子が、箒を持ったまま話しかけてきて、私は慌てて教室を飛び出した。すぐボケッとしてしまうのは私の悪い所だ。こういう所が気持ち悪いのだと、叔母さんたちにも言われた。
私は瀬名高君を待つ間、どこかで時間を潰そうと廊下を歩いていたけど、肝心なことに気づき、すぐに足を止める。待ち合わせ場所を決めるのを忘れた。自分含め、おっちょこちょいだな、と息をつき、あてもなく下駄箱の近くに来る。
少し傾き始めた太陽につられて、私は靴を履き替え、校庭へと出た。校内は入学の時に軽く案内してもらったけど、校外を探索するのは初めてだ。
緑の葉を生い茂らせた木や、銀杏の木を横目に、私は校庭のグラウンドで走り回るサッカー部や陸上部を見た。みんな暑そうに汗を拭いながらも、楽しそうだ。私は部活に入ったこともないし、運動も苦手だから、正反対の立場にいる彼らが一層眩しく見える。
歩き続けていると、校舎を曲がった先に、外に面した渡り廊下を見つけた。ここを渡ると、体育館に繋がる。『土足禁止』の貼り紙が張られていたので、私はそこを突っ切るために、しゃがんで靴を脱ごうとした。
その時、どすっと何かが落ちる音がした。咄嗟に渡り廊下の柵に隠れ、様子を伺う。
そこには、下を向く本庄さんと、数人の女の子がいた。近くには、運動選手が水分補給の時に使う大きなタンクが、どくどくと中身を零しながら転がっている。
「ねえ、こんなに濃いスポドリ、飲めないに決まってるでしょ」
「うちら太らそうって思ってんの?そうしたらタイムも遅くなるし、あんたが目立つにはもってこいのやり方よねえ?」
「うわ、それ言えてるわ。少し私よりタイム速いからって、調子乗ってんじゃないわよ」
話の内容に、途端に全身の血管が縮んでいって、手足が冷たくなる。私が一番苦手な雰囲気だ。過去に言われてきたことがトラウマのように蘇って来て、悪口が全て自分に向かってくるような気がして、耳を覆いたくなる。
でも、本庄さんは笑って顔を上げた。震えている手を後ろに隠して、ぐっと拳を握りしめている。
「そんなつもりじゃないです。教えてもらったように粉は配分しましたし、他の人も平気そうに飲んでましたよ」
「みんな我慢してたんだっつうの。そんなことも知らず、エースはお気楽でいいよねー」
「顧問に媚売ってんのか知らないけど、いつまでもそんなつけ上がったままいられると思ったら大間違いだから」
「今回の大会も、なんか根回ししたんじゃない?だから選手に選ばれたんでしょ」
あまりにもひどい言いがかりに、私はスカートを握りしめた。本庄さんも笑顔を崩し、ぐっと唇を噛みしめている。彼女のポニーテールが、悔しそうに震えていた。
私は、朝の本庄さんの笑顔を思い出す。あんなに明るく、私なんかにも笑顔で話しかけてくれたあの笑顔が、今こんなにも歪んでいる。すると、日の当たらない、鬱蒼とした木々の後ろに、何かが蠢いているのを見つけた。
昨日と同じような、黒い煙だ。女の子たちから立ち上り、その上に、誰かの手が見える。
心霊現象のようなその光景に、私は思わず立ち上がってしまった。
「は?誰?」
「何見てんだよ」
彼女たちの声に、ハッと目の前の状況に立ち返る。憎しみにも近い目線が6つ、こちらに突き刺さってくる。今は白いあの手の方が気になってそれどころじゃないけど、結果的に見つかってしまったのなら、もう後には引けない。黒い煙に勇気をもらったと思いつつ、私は口を開いた。
「・・・・・・本庄さんは、そんなことしない」
本庄さんが、顔を上げて私を見る。途端に顔を歪め、ぽろっと涙を零した。その顔が目に入り、私はぐっとお腹に力を込める。先頭に立っている女子の一人が、イラっとした様子で大きく叫んだ。
「何言ってるか聞こえない!!何かあんなら、はっきり言いなさいよ!!」
「本庄さんは、悪いことはしない。純粋に、走るのが好きなだけだよ」
「はあ!?急に出てきて、何言ってんのよ!!」
声が掠れて上手く喋れない。でも、私は彼女たちを見据えた。今朝の会話で、彼女が一瞬顔を曇らせた理由が分かった。思えば、一年生でエースになるということは、それまでいた上級生を蹴散らす、ということだ。先輩からすれば、いい気持ちはしないのだろう。
それでも、たった2日しか話してないのに、私は本庄さんを大切に思っていた。だからこそ、悪く言われているのが嫌だった。
「真顔でキモイんですけど!!何考えてんのよ!」
「本庄の友達だか知らないけど、出しゃばってんじゃないわよ!!」
すると、一気に黒い煙が噴き上がり、彼女たちを覆いつくした。傍で、白い手袋をした人物が、おかしそうに顔に手を当てている。ショートカットのその人は顔に痣のようなものがあり、顔立ちも男性か女性か分からない。でも、私と目が合った瞬間、ヤバッとでも言いたげに眉を上げ、女の子たちの陰に隠れた。
これも式神かな、ろくな人がいないな、と呆気にとられていると、急に黒い煙が私の方に襲ってきた。
「え」
まずい、と本能的に感じとり、私は体育館の方に走った。渡り廊下を駆け、閉ざされた扉を叩く。しかし、視界が暗くなり、恐る恐る振り返った。
もはや女の子と呼べないくらい真っ黒な影が3つ、私を覆い隠そうとしている。何も触れてないのに、首が絞められる感覚に襲われる。
「っ!!」
苦しくて仕方ないのに、声が出ない。逃げようにも、扉が開かない。体も動かない。涙が滲んできて視界がぼやけ、私は目を閉じた。
瀬名高君が頭をよぎる。彼を思い、助けを心の中で叫んだ。
バンッ!!!!
風を切るような音に、私は目を開ける。黒い塊が浮遊し、さらさらと消え、視界が開けていく。
「・・・・・・っ、ごほごほっ!」
喋ろうとして、咳き込む。嫌な痛みが喉に残り、声が出ない。その場でうずくまっていると、誰かの靴が目に入った。顔を上げるより先に、つま先で顎をすくわれる。意地悪に片頬を上げて笑う彼は、救世主というより悪役だった。
「よお、間抜け。虫に助けられる気分はどうよ?」
金髪の彼が、椅子もないのに足を組み、顎に手を当ててこちらを見下ろしていた。夕日が差し込んできたのか、黒かった木々に光が戻る。無地の渡り廊下に柵の影が伸びていた。
「・・・・・・あなたが、助けてくれたの?」
「はあ?助けてねえよ。廃絶をぶっ殺しに来ただけだ。ほら、怖かっただろ?泣いてもいいんだぜ?」
私は何も言わず、というかなんといったらいいのか分からず、でも少しカチンときたので、痛む手で彼の靴を掴み、私はなんとか立ち上がった。胃を直接かき混ぜられたような酷い気分だ。さっき、黒い物体に触れられたからだろう。横を見ると、本庄さんと先輩たちが倒れている。私は駆け寄ろうとしたけど、ぐっと腕を掴まれる。
「おい、なんか言うことねえのかよ。無様にしゃがみ込むてめえ、ひっどいもんだったぞ」
「・・・・・・お礼を言うのが遅くなってごめんなさい。助けてくれてありがとう。でも今は、彼女たちを助けないと」
「んなもんどうだっていいだろ。つうかてめえ、本当に怖がってんのか?なんで顔色一つ変えねんだ。この目ん玉は飾りか?」
彼の手が伸びてきて、私は咄嗟に手でガードする。相変わらずひどい態度だけど、助けてくれたのには変わりないし、彼に触れられて嫌な気分はしなかった。何と言うか、胃の不快感が浄化されていく気がする。
「う、うう・・・・・・」
うめき声が聞こえ、私は金髪さんを押しのけると、起き上がろうとした先輩の一人に声をかけた。本庄さんたちの体は軽く上下していて、息はあるようだった。
「大丈夫ですか?」
「あれ、あなた、誰?え、というか、何でここに?あれ、本庄たち、何で倒れてるの?」
本気で驚いている彼女に、私はすぐ悟った。きっと、あの白い手袋をしていたショートカットの人が、『廃絶』の人だ。彼のせいで、元からあった悪意が増幅されて、本庄さんを追い詰めたのだろう。そう、信じたい。
私は体育館の扉を叩き、助けを呼んだ。さっきは鉄の壁かと思ったけど、振動と音が伝わったのか、中からユニフォームを着た男の人が開けてくれて、先生を呼んでくれた。
本庄さんたちは保健室で手当てを受け、命に別状はないと帰宅することになった。
「すみません、助けてくれてありがとうございました」
「夕陽ちゃん、ありがとう。何であそこにいたのか、私もよく覚えてないんだけど・・・・・・夕陽ちゃんが来てくれて助かったよ!」
先輩たちと本庄さんからお礼を受ける。彼女は何も覚えてないようで、不思議そうに首を傾げている。でも、憑き物が落ちたみたいに、またあの明るい顔で笑ってくれた。
後ろの先輩たちが気まずそうにしているのが見える。きっと、本庄さんを良く思っていなかったのは、事実なのだろう。もしかしたら、呼び出して追い詰めようとしたのも、彼女たちの意志だったのかもしれない。
でも、そこに『廃絶』が関わっていたのもまた事実だ。きっと、悪意が膨れ上がって暴走してしまったのだろう、と私は踏ん切りをつけて、口を開いた。
「これからも、みんなで楽しく走ってください。応援しています」
私の言葉に、本庄さんも先輩たちも顔を見合わせ、ふふっと笑い合う。何かおかしなことを言ってしまっただろうか。彼女たちは笑顔で頷きあって、背を向けた。
「じゃあ、また明日ねー!あ、私のことは、萌でいいよー!」
「本庄、声でかいよ」
「あ、すみません!」
楽しそうに笑う彼女たちを見送って、私はさっきからずっと後ろにいた、金髪の人を振り返った。難しそうに顔をしかめ、小さくなっていく彼女たちの背中を睨んでいる。
「なーにが楽しく走れ、だ。あいつらがあの女をいじめてたのは変わりねえだろうが」
「・・・・・・でも、みんな笑顔になったんだから、それでいいよ」
「あーあ、いい子ちゃんはこれだから嫌いなんだよ」
そう言って、そっぽを向く彼に向かって、私はもう一度お礼を言った。廊下には、影が私の分だけ伸びている。
「改めて、助けてくれてありがとう。本庄さん・・・・・・萌ちゃんたちを、助けてくれて」
「だーかーら、助けてねえんだってば。ありがとうっつうんなら、ちったあニコリと笑ってみろや」
眉間に皺を寄せて振り向く彼越しに、瀬名高君が走ってくるのが見える。私を見た瞬間、笑顔で手を振ってくれた。
「おーい、椿君ー!大丈夫かーい!」
息を切らす彼の後ろには、バンシキさんもいる。私は膝に手を突く彼の背中を擦ろうとしたけど、さすがに馴れ馴れしいかなと思って手を引っ込めた。
「大丈夫だよ。走って来てくれたんだね」
「それはもちろん!委員会の会議中に『廃絶』の気配がして駆け出そうと思ったら、バンシキが、タンギンがいるから大丈夫、と教えてくれてね!でも心配だったから、校舎中駆け回って君を探していたんだ!全く、待ち合わせ場所を指定し忘れるなんて、僕としたことが」
屈託のない笑顔を向けてくれる彼を見て、私はふっと気が楽になった。この明るさが私の中で救いになっている。
「もしかして、タンギン、って、この人の名前?」
振り返ると、式神二人が宙に浮いたまま、話し合っていた。光は透けていないのに影ができないのは不思議な光景だ。
「おい盤渉、勝手に名前教えんなよな。こいつか、噂の底抜け元気馬鹿は」
「・・・・・・断金。なぜ、名前を秘密にするんだ・・・・・・彼は、光と言う。決して、馬鹿ではない」
「んなこた知ってんだよ!つうか、相変わらずだな。会話おっせえ。んで、こいつは・・・・・・」
タンギンさんの目線がこちらに向けられ、私は瀬名高君を見る。ニコニコと笑う彼はどうぞ、と手を広げたので、私はとりあえず挨拶をした。
「・・・・・・椿夕陽です。よろしくお願いします」
「椿だあ?んな綺麗な名前、おめえには似合わねえよ!」
「そうかな?僕は美しい彼女にぴったりな名前だと思うよ!なあ、バンシキ!」
「・・・・・・ああ」
思わぬ賛辞に顔が熱くなるけど、それどころではないので、私は未だにこにこしている彼に聞いた。本当に校内中走って探してくれたのだろう、うっすら汗をかいている。
「瀬名高君。私は、タンギンさんに選ばれたの?彼は違う、って言ってるんだけど・・・・・・」
「ん?選ばれたから、君は彼らが見えるんだぞ?なあ、バンシキ」
「・・・・・・ああ。断金と君は、縁で結ばれている」
「ああ!?こんなひょろっちい奴が主なんて、認めねえぞ!!」
「主?」
瀬名高君は指で下駄箱の方を指して、帰りながら話そう、と促しつつ、口を開いた。向かい側のガラスに見回りの先生が鍵を閉めているのが見えて、私も歩みを進める。
「僕たちは式神に選ばれた『主』だ。主と式神は共存関係で、式神は主から力を借りる代償として、主を必ず守る。主は式神に力を貸す代償として、悪意という、まとまった負の感情にさらされる。こうして、お互いが協力して、悪意を払い続けるんだ。これが除怨と、僕らの関係さ!」
靴を履き替えながら、後ろについてくる彼らを見る。バンシキさんは私と目が合うとぺこりと頭を軽く下げ、タンギンさんは舌打ちをした。
「今日、みんなから黒いもやもやが出るのを見たんだけど・・・・・・あれを晴らすのが、『除怨』かな?」
「ああそうだ!今日、さっそくやってみたのかい?」
「やってみたかは分からないけど・・・・・・私は、毎回あんな感じに苦しくなるのかな」
横を歩く瀬名高君に言うでもなく、ぽつりとこぼす。クラスで始めて黒い霧を見た時とは桁が違うほど、今回の煙は心にくるものがあった。トラウマを掘り返されたような、呼吸も苦しくなるほど、悲しい感情だった。
「それは・・・・・・そうだ。僕も除怨で人々の悪意に触れると、毎度悲しい思いをするよ。でも、バンシキは僕に笑いかけてくれる。彼ならきっと、僕の苦しみも、悪意を煽られたみんなも救ってくれると、信じている。だから、乗り越えられるのさ!」
瀬名高君は嬉しそうに言い、バンシキさんを見る。彼はにこ、と微笑むと、私を頭に向かって手を差し伸べた。
すると、急にふっと頭に重みがのしかかり、二つしかなかった影が三つに増える。顔を上げると、彼は手を離し、ゆっくりと口を開いた。
「・・・・・・私たちと共に、乗り越えよう。あなたなら、きっと大丈夫」
オレンジの光を帯びる彼はとても美しく、この世のものとは思えないくらい整った顔で私を見つめた。藤の花の色の長い髪がたなびき、どこか懐かしい香りがする。鼓動が速くなり、私は顔を下げた。
「おやおや、椿君、バンシキの美しさに顔を赤らめているね?君はすぐ顔に出るね、素直で結構!」
「おい、待てよ。こいつの顔は一ミリも変わってねえだろうが。どこが赤いんだ、夕日のせいじゃねえのか?」
タンギンさんが私の顔をまざまざと見て、終いにはバンシキさんを押しのけて私を頬を引っ張り始めた。顔が変わらないからと言って毎回この仕打ちを受けるのは、さすがにやめてほしい。
「えっと、私、生まれつき表情が変わらないの。嬉しくても悲しくても、笑えないし泣けない。だから、気味悪がられてきたんだけど・・・・・・瀬名高君。どうして私の表情が分かるの?顔色だって、変わらないはずなのに」
沈みかけた太陽を背に受け、彼は一瞬驚いた顔をした後、ぴょんっと跳ねた髪を揺らして優しく笑った。バンシキさんの顔と重なり、目が離せなくなる。
「どうしても何も、僕は君が笑って、顔を赤くして、顔をしかめて、微笑んでいるのが見えるんだ。顔には出ていなくとも、君の心がそうある通り、僕には見えるんだよ」
不思議な高揚感と、期待と、嬉しさとが混ざり、私は泣きそうになった。心がそうある通りに見える。その言葉を、どれだけ求めてきたか。
彼との関係を切りたくない。私を分かってくれる人といられるなら、この不思議な状況を生かして、奮闘してみたい、と思った。
「・・・・・・ありがとう、瀬名高君。私、これからも主として頑張ってみる」
「おお、そうか!共に仲間として頑張っていこうではないか!この前は『式神仲間』としたが、『主仲間』と言ったほうがいいだろうか?・・・・・・おっと」
校門を出たあたりで、急にふらついてしまい、瀬名高君が上手くキャッチしてくれる。ぐーーーーー、と自分のお腹が鳴り、ふふっと微笑んだ声が聞こえた。顔がじわじわ熱くなる。
「そうなんだ、式神に力を貸すと、僕たちはかなりエネルギーを使うから、お腹が空くんだ。良かったら、また僕の家のパンを持って行ってくれないか。母が君を気に入っていてね、アップルパイの感想も聞きたい、と言っていた」
「あ、ありがとう・・・・・・恥ずかしいね」
「はっはっは、誰にでもあることだから大丈夫さ!いい機会だ、タンギン、君が彼女を支えてあげたらどうかな?」
「はあ!?なんで俺が!」
「・・・・・・君の主だ。私たちは、主を守らねばならない」
「盤渉、こういう時だけハキハキ喋るんじゃねえよ・・・・・・くそ、仕方ねえな、ほら行くぞ!!」
タンギンさんの大きなため息が聞こえた後、彼は私の腕を掴んで肩に手を回すと、ずんずんと歩き始めた。
「ちょ、早いよ。というか、タンギンさん、ちょっと背が高すぎ・・・・・・」
「ああ?知らねえよ。てめえが伸びろや」
「そ、そんな無茶ぶり初めてだよ」
半分引きずられながら、私たちは歩き出す。これから起こることは楽しいことばかりではないかもしれない。でも、私は今、ここに越してきて本当に良かったと思った。




