18.訪問
時計を確認する。11時まであと30分だ。リビングのソファで座っていても落ち着かず、私は立ち上がって冷蔵庫に麦茶とオレンジジュースが揃っているか確認した。彼は甘党だから、お茶うけにチョコとクッキーも用意してある。
洗面所に行って、自分の身なりを確認する。秋らしい恰好をレイちゃんが選んでくれたので、そのまま着てみたけど、すごく可愛い。でも私に似合っているだろうか。大きめの茶色のワイシャツに白ニットなんて、人生で初めて着た。なんなら、こんなに短いスカートも初めてだ。
「おい、落ち着きなさすぎだろ。ちょこまか動きやがって、しつけのなってねえ犬かよ」
「だ、だって、永遠さんが来るんだもん。ちゃんとおもてなしできるか、緊張しちゃって・・・・・・」
私の様子を見かねたのか、タンギンが出てきてため息を吐いている。彼の顔を見ると不思議と幾分か落ち着いたけど、あと残り25分じっとしていられる自信がない。
今日は休日で学校はお休みだ。この前タンギンが吉報だと言っていたのは、永遠さんからの手紙だった。内容は、彼は携帯が壊れてしまったらしく、私との連絡が取れなくなってしまったことと、今日ここに来ることが書かれていた。
一時期は永遠さんが廃絶のボスなんじゃないかと疑ってしまった時期もあったけど、今はそうじゃないだろうとタンギンとも話し合ったので、こうして彼も手紙を素直に渡してくれたのだろう。タンギンは不満そうに顔をしかめつつも、何をするでもなく、私の傍でカーペットにコロコロをかけている。彼が永遠さんを廃絶ではないと判断した一因である、永遠さんとの別れ際にもらったメダルは、今日はお守り代わりとしてポケットの中にいれている。こうして一緒にいてくれる存在がいるんだよ、と永遠さんに報告出来たらいいのにな、なんて思っていた矢先だった。
ピンポーン!
インターホンが家中に鳴り響き、持っていたクッキーの箱を落としかける。ついに来た。私は走って、モニターのスイッチを押す。見ると案の定、永遠さんが画面の向こうに映っていた。近すぎて画面から見切れているところも、永遠さんっぽい。
《こんにちは、楠摸ですー》
「はーい、今開けます」
少し声が震える。私は急いで廊下を走り、靴下がつるつると滑ってつまずきそうになりつつも、玄関で急ブレーキをかける。鍵を捻ってドアを開けると、外の光が漏れてくると同時に、太陽にも負けない笑顔の永遠さんが立っていた。思わず手を取りそうになってしまう。
「こんにちは、夕陽ちゃん!久しぶりだねー」
「こんにちは!お久しぶりです!わざわざ来てくれてありがとうございます!」
「あはは、といっても、数か月前にここに来たんだけどね」
「でもあの時は、こうしてゆっくりお話しできなかったですもんね」
彼は相変わらず体のあちこちにベルトを巻き、工具やら筆やら絵具やらを括りつけている。いつも着ているトレンチコートは今の時期には少し暑そうだったけど、彼自身がぽかぽかした雰囲気を纏っていて、全く違和感がなかった。彼からぎゅっと抱きしめてくれて、私も抱きしめ返す。石鹸の香りがして、懐かしさが胸にじんわりと染みてきた。
「夕陽ちゃん、この前より少し背が伸びたんじゃない?昔から大人っぽかったけど、すっかりお姉さんになったねー」
「永遠さんこそ、なんか大人って感じがします。他無県を離れてから、まだ一年も経ってないんですけどね」
「あはは、確かに。でも夕陽ちゃんとはずっと一緒にいたからなあ、離れてる間結構寂しかったよー」
永遠さんはそう笑うと、私の体を優しく離して微笑んだ。彼がこの雨宿町を斡旋してくれて、私はここで幸せな日々を送っていたけど、彼はあそこでずっといたのだ。ビルの光と大量に行きかう人しかないあそこの冷たさに一人身を置く状況は、想像しても決して楽しいものではない。
「・・・・・・私も、寂しかったです。やっぱり永遠さんの安心感は、何物にも代えがたいですから」
「嬉しいなー。でも、夕陽ちゃんがここで楽しそうにやっていってるとこを想像しただけで、僕は頑張れたよー。そう言えば、僕大学卒業できそうなんだー。というか、もうしたのかー」
「え!?そ、そうなんですか!?単位、足りたんですか!?」
「そうそう、この春頑張って取り切ったの。もうすぐ卒業式なんだ。先生が泣いて喜んでて、僕も嬉しくなっちゃったよー」
「あはは・・・・・・おめでとうございます。卒業式、行きたいです」
「いいよいいよ、夕陽ちゃんも忙しいだろうし。それに僕も、いつ卒業式あるか分かってないし」
あはは、と軽く笑う彼を見て、夏でもないのに、すごく心がポカポカする。私はすっと玄関に手を向けて、お出迎えの用意をしようと靴を脱いだ。永遠さんもつられて家の中に入る。
「すみません、ずっと立ち話させちゃってました。どうぞ入ってください。今お茶持ってきます」
「あはは、ありがとう。でも夕陽ちゃん、ちゃんと鍵は閉めないと。変な人が来ちゃったら困るでしょー」
「そ、そうでした」
永遠さんがガチャリ、と代わりに鍵を閉めてくれる。私は廊下を駆けていくと、後ろからタンギンがぼそりと私に耳打ちした。
「あいつがあってお前あり、って感じだな。すげえだらしねえ感じとか」
「う、まあ、否定はできないかも。でも永遠さん、いい人でしょ?タンギンも気に入ってくれると思う」
お茶を注いで、テーブルに運ぶ。永遠さんの「洗面台借りるねー」という声に、適当に返事を返した。
「・・・・・・ふん。あいつがすげえ強い力で存在を隠してんのかもしれねえし、油断はできねえよ。そこらへんの干渉は、力が強ければ強いほど悟りにくいからな、俺は気を緩めねえでいるからな」
「うん。そうだね・・・・・・」
「・・・・・・チッ。しょげんじゃねえよ。いいからお前は何も考えず、呑気にあいつと話してりゃいいじゃねえか」
タンギンが舌打ちして、また私の背中に引っ込んでいく。彼は、心配事は引き受けるから、今はただ楽しめと言ってくれているのだろう。やっぱりタンギンは優しい。感謝しつつ、私はリビングにやってきて永遠さんを席に案内した。
「わあ、広いね。夕陽ちゃんだけだとちょっと寂しいかもだけど、すごい、綺麗に掃除されてる」
「あ、あんまり見られると、恥ずかしいです。永遠さん、お茶で良かったですか?」
「もちろん!ありがとう。だってほら、夕陽ちゃん、掃除は言われないとしないタイプでしょ?だから意外だったんだ。洗濯物だって、柔軟剤を量らずにドバドバ入れたり、しわくちゃのままハンガーにかけようとしたり」
「も、もうやめてください。昔のことはいいじゃないですか」
ケラケラと笑いながら、永遠さんは椅子に座ってお茶を飲んだ。この空間に私とタンギン以外がいると、なんだか少し違和感があった。エンジンがかかったのか、しばらく彼は懐かしそうに私の生活力のなさを思い出しては笑っていた。この場にはタンギンもいることは、彼は気が付けない。私は傍で笑いを押し殺しているタンギンを何とか無視して、改めてリビングを見た。埃一つないのは、毎日タンギンが掃除をしてくれているからだろう。私の気が付かない所で、働いてくれているのだ。
「くっくっく、お前、面白すぎるだろ。今までどうやって生きてきたんだよ」
「う、うるさい」
「ん、なんか言った?」
永遠さんの不思議そうな顔に、私は手を振ってごまかす。こうして正面から永遠さんを見ると、やっぱり彼は前より大人っぽくなっている気がした。優しそうなたれ目なのは変わらないけど、くせっけの髪が少しまとまっていたり、体格が良くなっていたり、観察すればいくらでも挙げられる。私の思っていることに気付いたのか、永遠さんはくすくす笑って、テーブルに身を乗り出した。
「僕、最近鍛えてるんだ。ちょっと筋肉付いたの、分かる?」
「え、永遠さんがですか?買い物に行くのもめんどくさくて、そこらへんの草でご飯を済ませようとしていた永遠さんが?」
「ゆ、夕陽ちゃん。さっき昔の話笑ったの、怒ってるでしょ?ま、まあ、僕も夕陽ちゃんがいなくなってから、何もすることがなくなっちゃってさ、だったら体力付けておこうかなーって思って。仮にも美大生だし、おしゃれもしておいた方がいいのかなーってさ」
永遠さんが少し恥ずかしそうに髪をいじりながら言う。私も、別れ際ホームで腕を引っ張られた時に感じた彼の男らしさに、ただののんびりお兄さんじゃないことは知っていた。これ以上逞しくなったら永遠さんっぽくないな、と思うけど、これくらい逞しくないと永遠さんは生きていけるか心配なので、何も言わないでおく。
「そうなんですね。ちょっと意外でしたけど、かっこいいです」
「ほんとにー?ありがとう。夕陽ちゃんも、すっかりお姉さんだねー。そういう服着るイメージなかったなあ」
「これ、実は友達に選んでもらったんです。秋らしい服持ってなかったので、せっかく永遠さんに会うし、コーディネートしてもらって・・・・・・」
言いかけて、途中で止める。永遠さんは机に肘を突いて、目頭を押さえて泣いていた。ぎょっとして、慌ててティッシュを引っ張り彼の傍に行く。タンギンはぽかんと口を開いたまま、私が座っていた近くにうっすらいるのが見えた。
「ど、どうしたんですか!?私、永遠さんを悲しませること言っちゃいましたか?」
「い、いや・・・・・・夕陽ちゃんに、友達ができて・・・・・・僕は本当に、嬉しいよ。良かった、楽しそうに生活できてて・・・・・・うう」
大粒の涙を零しながらティッシュを受け取り、へにゃっと笑う永遠さんに、私まで涙腺が緩みそうになった。彼のこういう優しいところは、全く変わっていない。
「ふふ、これも全部、永遠さんのおかげですよ。ありがとうございます。ここに来てから、私すごく楽しいです」
「ううううーーー、良かったよおおーー」
「と、永遠さん!?た、タンギ・・・・・・じゃなかった、えーっと、とにかくティッシュ持ってきます!!」
そんなこんなで、私は今までの楽しい生活を永遠さんに話した。話始めたら芋づる式にどんどん伝えたいことが増えてきて、言葉がつかえてしまう。でも永遠さんは、そんな私の拙い話にも深くうなずいてくれたり、時には笑ってくれたりして、しばらく二人でお喋りをしていた。この前の球技大会ぶりなのに、話題が尽きない。居心地良いってこういうことなんだな、と私は彼を見て癒されながらも、彼の紆余曲折ある単位習得までの道のりを聞いていた。
「それにしても、永遠さんがとうとう大学を卒業するだなんて、時が経つのは早いですね」
「あははー、確かにね。もう校舎内でも迷いまくったから、知らない場所なんてないくらいにはあそこにいた気がするなー」
そう言うと、永遠さんはあ、という風に目を見開いて、ポンと手を叩いた。嬉しそうにニコニコしながら、持ってきた鞄に手を突っ込んでごそごそと何かを探している。相変わらず大きな荷物だ。
「じゃーん!夕陽ちゃん、もうお姉さんだし、アクセサリーとかもたくさんあるんじゃないかと思って、アクセサリースタンドを作ってきたんだ!良かったら使ってみてね」
「わあ、すごい・・・・・・!永遠さん、ほんとになんでも作れるんですね」
彼が持っていたそれは、透明なアクリルで出来ていて、外からでも中身が確認できるようになっていた。丁度ティッシュケースくらいのサイズなので、机の上に置いておいたら、インテリアにも見える。私は思わず立ち上がってそれを受け取り、間近で見つめた。表面には気泡も傷も何一つなくて、永遠さんの腕の良さが伺える。仄かに差してくる日差しが箱の中を通って七色にきらめいた。
「そんなに喜んでくれると、頑張って作ったかいがあるよ。教授には、何関係のない物作ってるんだ!って怒られたけどね」
「ふふ、何となく想像できます。そう言えば永遠さん、メダルも作ってくれてましたよね。私、大事に持ってるんです。ほら」
私はポケットの中からメダルを取り出すと、彼は最高に嬉しそうにぱあっと顔を輝かせた。私も嬉しくなって、手に持ったメダルを見る。レジンで中に閉じ込められている花びらは色あせることなく、優しいピンクを保っている。
「嬉しいなあ。それ、僕の中で最高傑作なんだ。めちゃめちゃ教授には怒られたけど、腕前は褒めてもらえたんだよ。大切な人にあげるって言ったら、何とか許してくれてさ」
「そうだったんですか。やっぱり永遠さん、こういうの作るの上手なんですね。これからは、物づくりの仕事に就くんですか?」
私が一旦ケースを置いた時、隣でタンギンがにゅっと出てきて、怪しそうにケースを観察していた。つい目線が彼の方に行ってしまう。一応、永遠さんがレイちゃんにとプレゼントしたメダルには、悪意を増長させる力が宿っていたことがあるので、今回も易々と見逃すわけにはいかないのだろう。永遠さんの声に、慌てて彼の方を向く。
「そうだね、就活はしてなかったんだけど、教授の知り合いにガラス製作所の人がいたみたいで、推薦してくれたんだ。だから僕も卒業したらそこで働く予定なんだ!」
「へえ、すごいですね。場所は他無県ですか?」
「ううん、知らない!」
「・・・・・・いつから働き始めるんですか?」
「・・・・・・知らない」
私たちとの間に、重い沈黙が訪れる。最初は笑っていた永遠さんも流石にヤバイと思ったのか、だらだら汗をかきながら、慌てて鞄からパソコンやら手帳やらを開いて確認していた。永遠さんらしいけど、ちょっと心配になる。
そんな彼を眺めていると、耳元でタンギンの声が聞こえた。不意打ちだったのでちょっとびっくりする。
「これは特に何もない」
私は永遠さんにバレないように軽く頷くと、彼の椅子の後ろに回り込んで、何をしているのか見ようとした。内心、すごく嬉しかった。やっぱりあのメダルは偶然だったのだ。永遠さんは廃絶には何の関係もない。それが分かっただけで、心が躍る。
「永遠さん、何をしてるんですか・・・・・・」
私がそう声をかけると、彼はくるっとこちらを振り返って、ぱたんとすぐパソコンを閉じた。何かを隠しているようにも見えたけど、彼の笑顔に、特に気にならなくなってしまう。彼はピッと指を立て、私の手を取った。
「そうだ!ここら辺、案内してくれない?夕陽ちゃんが思い出に残ってるとことか知りたいな!」
「わ、分かりました。じゃあ外に出ましょうか。今支度支度してきますね」
コートを取りにリビングを離れる時、ちらっと中を伺う。永遠さんはまだ手帳とにらめっこしながら、「教授、いつ学校にいるんだっけ・・・・・・」と真剣な顔でぼやいていた。おそらく、仕事のことをあまり聞いていなかったのだろう。微笑ましく思いつつも私は、そんな彼を鋭い眼光で睨んでいるタンギンが、どうしても気になってしまった。
「うーん、それにしても、いい天気だねー。もうすっかり秋だ、落ち葉の匂いがするー」
「そうですね。永遠さん、鼻いいですね」
外に出ると、永遠さんはぐーっと背伸びをして、大きく息を吐いた。私はそんな彼に背を向け、家の鍵を閉める。先に家の門に向かう彼に付いていく時、カラン、と鍵を落としてしまい、急いで拾い上げる。
「あれ、夕陽ちゃん、家の鍵に何も付いてないの?」
「はい、言われてみれば何も・・・・・・全然気にしてませんでした。でも最近、よくこうして落としたり、鞄の中で見失っちゃったりすることがあって、困ってるんですよね。鈴でも付けようかな」
永遠さんはゆっくり歩いていた足を止め、頬をぷくりと膨らませてこちらを見た。大きくトレンチコートが翻る。彼は丁度タンギンくらいの背丈だけど、不思議と子供っぽいしぐさも似合ってしまうから不思議だ。
「もう、夕陽ちゃん、それこそ僕に頼んでよー!夕陽ちゃんが好きそうなデザインならすぐに浮かぶし、こっそり学校に忍び込めばまだ材料貸してもらえると思うし!」
「そ、それは、嬉しいような、心配なような・・・・・・じゃあ、これからお店に行って、キーホルダー、一緒に選んでもらえませんか?」
「もちろん!・・・・・・あれ?なんかこっちからいいにおいがする!行こう、夕陽ちゃん!」
「え?ちょっと、永遠さん!」
彼が笑って私の手を取る。彼の大きな歩幅にも自然と付いていける自分に、私はこの人に育てられたのだなあ、と実感した。どんどん背も離れていって、今度は住む所まで違くなってしまったけど、感覚は変わらないのだ。
しんみりしていると大通りに出て、いつもの通学路に着く。近くには瀬名高君のお家のお案屋さんと、レイちゃんのお家の碁色神社が見えた。おそらく永遠さんが惹かれているのは、前者の方だろう。案の定、彼はそこまで走っていって、私に許可を取るようににっこにこでお店を指さした。そんな顔をされては、案内せざるを得ない。
「ここ、すっごいいい匂いするね!夕陽ちゃんもよく行くの?」
「そ、そうですね。よく行くというか、友達がいるというか・・・・・・」
「え!?そうなの!?とりあえず入ろうか!」
永遠さんが大きく扉を開くと、中で頭巾を被ってパンを売り場のトレーに移していた瀬名高君が、私を見て思いっきり「あ!」と言う。店内のお客さんが彼の方を見てびっくりしていて、厨房から恐ろしい眼光の由子さんが顔を覗かせていた。でも私と気づいたのか、一瞬で優しい顔に戻る。
「椿君!!珍しいね、休日に来るだなんて!今日は美しい秋晴れだし、散歩でもしていたのかい?秋になっても君の美しさは変わらないね、そう、このアールグレイパンのように、いつでも上品なままだ!!」
本日のスピーチを終えて、トレーを自信気に上へと上げる瀬名高君に、永遠さんはポカンとしていたけど、すぐに拍手をした。その音に瀬名高君も永遠さんの存在に気付いたのか、おや、という顔をしてびしっとかしこまる。彼の後ろで、穏やかな目をしたバンシキさんと、鬼のような目をした由子さんがこちらを見ている。私はどうすればいいのだろうか。
「申し訳ない、初対面なのに挨拶もせず!僕は瀬名高光と申します!椿君とはクラスメイトであり、友達です!あなたは・・・・・・椿君の、お父さん、は、年齢的に違いますよね。お兄さんですか?」
彼の問いかけに、ちらりと永遠さんが私を見たのが分かる。両親がいないことは、瀬名高君には伝えていない。永遠さんは私の気持ちを慮ってくれたのか、ぱっと明るい顔で応じた。そういえば、レイちゃんと美麗さんには伝えていたけど、彼には伝えそびれてしまっていた。言い出すタイミングが掴めずここまで来てしまったけど、できるだけ彼に隠し事はしたくない。切り出したいけど、また空気が重くなってしまうのは目に見えているので、複雑な気持ちになる。
「初めまして、僕は夕陽ちゃんの友達の、楠模永遠と言います。ここに引っ越してくる前まで、結構仲良くさせてもらってたので、今日は元気かなー、って会いに来ちゃったんだ」
「なるほど!椿君の友達ですか!お兄さんと間違えてしまって、すみません。今丁度家業を手伝っていて、トレーとトングで両手が塞がってしまっていて。握手もできずにすみません」
「いえいえ。礼儀正しいね、君。光君って呼んでもいいかな?」
「はい、もちろんです!椿君、素晴らしい友達がいるんだね!僕は嬉しいよ!せっかくだ、存分に買って行ってくれ!今日のおすすめはいちごパンだ!」
高笑いをしながら去っていく瀬名高君の背中を二人で見守っていると、私はバンシキさんがタンギンの方に向かっていくのが見えてハッとした。隣を見ると、永遠さんもいない。辺りを見回すと、彼はトングでカチカチと音を鳴らせながら、楽しそうに店内に並んでいるパンを物色していた。私に気付いたように、ぶんぶんと手を振っている。
「夕陽ちゃーん、こっちおいでー!いちごパン、ここにあったよー!」
ふと、瀬名高君は永遠さんに少し似ているな、と思う。私の無表情から感情を読み取ってくれたり、底なしにポジティブだったり、太陽のように明るくて安心できる存在だったり・・・・・・瀬名高君と一緒にいると楽しいのは、無意識に私が、彼と永遠さんを重ねてしまっていたからだったのかもしれない。厨房越しに、由子さんに怒られていても笑っている瀬名高君と、その様子を見てさらに笑っているお客さんたちが見える。永遠さんと違うのは、ああやって彼が誰からも好かれている所が、私の目の前で見ていなくてはならない所だ、なんて卑屈な考えがよぎってしまう。私はその思いを振り払うように、永遠さんの元へと駆けていった。
「はーあ、たくさん買ったねー!光君ともすっかり意気投合しちゃって、夕陽ちゃんがここでの生活が楽しいって言った理由が分かった気がするよ!もしかして、ちょくちょく話に出てきた男の子って、光君のこと?」
結局、パンを買った後でも、永遠さんと瀬名高君はトークを繰り広げ、しまいには由子さんが止めに入るまで話していた。明るい人格同士惹かれ合うのだろうか。活動的ですかっとした瀬名高君と、穏やかでのんびりした永遠さんもまた、レイちゃんと美麗さんのように相性がいいな、と思った。永遠さんはまたぐーっと背伸びをして、幸せそうにパンが詰まったビニール袋を上に持ち上げている。夏よりも日差しが陰るのが早くなったのか、空はもう夕方になりかけていた。いかに私たちがパン屋に入り浸っていたのかがよく分かる。
「そうです。まさか二人があんなに仲良くなるだなんて思ってなかったですけど・・・・・・」
「あははー、思った以上に会話が弾んじゃったね。しかし、この前のレイちゃんと言い、ここは明るくて優しい人が多いねー。噂以上だ、夕陽ちゃんをここに呼んでよかったよ」
横断歩道で信号を待ちながら、永遠さんがそんな風にぼやく。私は彼を見上げていた視線を前に戻して、過ぎ行く車を見た。ちょこちょこもうライトが点いている車もある。
「・・・・・・そうですね。永遠さんがここを勧めてくれなかったら、私はこんなに楽しい生活を送れてなかったです。ほんとに、ありがとうございます」
私が頭を下げると、永遠さんがふふっと笑ったのが聞こえる。ぱっと手を差し出してくれたので、私は彼の手を取る。大きくて温かい手だ。
「君が幸せなら、僕も嬉しいよ。本来なら僕が君を幸せにできたら、なお良かったんだけど」
「もう十分、幸せをもらってますよ。私こそ、恩返ししたいくらいです」
横断歩道を渡りきり、二人で学校沿いの道を軽く駆ける。流れていく景色の端に、サッカー部がグラウンドで練習しているのが見えた。私たちはそんなに速く走っていないはずなのに、びゅんびゅんと耳元で風を切る音がする。
「恩返しかあ。僕は夕陽ちゃんといられれば、なんでもいいんだけど」
永遠さんがそう言ってこちらを見る。彼の深い紫色の瞳に目が吸い寄せられた、その時だった。
「うわあっ!!」
空間に響いた叫び声に、私は手を離して辺りを見回す。咄嗟に背中の感覚を意識すると、タンギンがいない。思わず後ろを振り返ってしまう。どこに行ってしまったのだろう。永遠さんと一緒にいて楽しかったからか、全く気付かなかった。自分の浮かれっぷりに嫌気が差してくる。
「夕陽ちゃん、あそこ!」
顔を上げると、さっきまで見ていた校内のグラウンドから、黒い靄が溢れかえっている。どうしようもできないに、私は硬直してしまった。あれは間違いなく悪意だ。でも、今はタンギンがいないので、除怨はできない。瀬名高君を呼んできてもいいけど、この状況をほったらかしにして大丈夫だろうか。そんなことを考えている間にも、悪意の煙は一層強く立ち上り、ついに竜巻のようになって砂嵐を起こし始めていた。
《嫌だ嫌だ嫌だ、いやだいやだ!!!》
「っ!!」
強い拒絶の叫びが脳の中に反響し、思わず頭を抑える。かなり強い悪意だ。このままにしておけば、学校も部活の人も危ない。
「夕陽ちゃん、ここは一旦逃げよう。ここにいても危ないだけだ。すぐに警察を呼ぶから、早く!」
永遠さんの呼びかけに、私は何も言えなくなってしまう。頭が真っ白になる。どうしたらいいのだろうか。何もできないからとこのまま逃げるか、現場に行くか。でも行ったところで、私自身に何かできるというわけではない。でも、このまま見逃していたら、被害はもっとひどくなってしまうかもしれない。
「夕陽ちゃん、何してるの!ほら、早く!!」
彼の手が私の腕を掴む。私が次に見た光景は、彼の手が上に向いているのと、目を開いてこちらを見ている永遠さんの顔だった。自分の手首がヒリヒリする。私は、彼の手を振り払ったのだ。あまりのことに、自分でも自分の行動に頭がついていかない。
「ど、どうしたの、夕陽ちゃん」
「あ・・・・・・えっと・・・・・・私、消火活動してきます。どこに消火器があるかも知ってますし」
「危ないよ!!君が行ったところで、出来ることは限られてるじゃないか!!後のことは警察に任せて逃げよう!夕陽ちゃんが怪我でもしたら、僕は・・・・・・」
永遠さんはぐっと顔を歪ませ、今にも泣きそうな顔になっていた。彼のこんな顔を見るのは初めてだ。なぜか不意に、他無県の記憶が蘇ってくる。彼がいつも一人で家にいたこと。ピンポンを押しても、彼以外が出てくることはなかったこと。彼には、家族がいないこと。
なぜか場違いにも思い出された事実に、私は胸にぽっかり穴が開いたような、すごく切ない思いが沸き上がってくるのを感じた。このまま永遠さんを一人にしたら駄目な気がする。他無県でもなんでもない、どこか遠くに行ってしまうような気がする。
私は永遠さんの手を掴んで、学校の柵に足を掛け、勢いよく飛び上がった。一瞬の浮遊感と片手に繋がれた感覚に、不思議と自分は最善の判断をしたのだ、と自信を感じる。永遠さんの手を掴んだまま現場に走り、私は彼を背中に隠すように立つと、私はその場にぐっと力を込めて足を踏ん張り、祈ろうと手を組んだ。邪念が入らないようにふう、と息を吐き、心を込めて祈る。
タンギン、早く来て!
「言われなくてもいるっつうの」
耳元で聞こえた声に、ばっと顔を上げる。私が求めた人物は、いつものように白いジャケットをたなびかせて、少し半笑いのまま私をまっすぐ見つめていた。信じていた気持ちに応えてくれたことが嬉しくて、思わず跳ねてしまう。
「タンギン!来てくれて良かった!!」
「そりゃこんだけやべえことになってたら気付くだろ。お前こそ、よく逃げ出さなかったな。褒めてやる」
彼が実体化して、私の頭を乱暴に撫でる。くすぐったさを感じつつも、崩れそうになる足をなんとか踏みとどまった。本当は、すごく怖かった。
「だって、このままにしておけなくて・・・・・・タンギンが来てくれるって、信じてたから」
「はっ、来るもなにも、後ろにいるっつうの。でもさっきまで、出てこれなかったんだ・・・・・・」
タンギンが私の後ろを振り返りながら、段々声を弱くする。ハッとして見ると、永遠さんが信じられないものを見たような顔で青ざめていた。大きく見開かれた目は、さっきまでそこにいなかったはずのタンギンを捉えている。
「え、その人・・・・・・・誰?急に、人が・・・・・・」
「チッ、今はそれどころじゃねえ。悪いが、大人しくしててくれ」
タンギンはそう言うと、永遠さんの前に立ち、彼の額に手を近づけた。すると、永遠さんが糸が切れた人形のようにその場に崩れ落ちた。背筋が寒くなって慌てて駆け寄ると、彼は安らかに寝息を立てているだけだった。
「悪いが、今は除怨が先だ。夕陽、行くぞ」
「う、うん。永遠さんは、無事なの?」
「ああ。ちょっとばかし記憶を消させてもらったが、俺を見たとこだけだ。とにかく行くぞ」
タンギンは現場に足を向ける。私は噂に聞いていた、そして自分もシンセンさんにかけられてしまった記憶の消去を実際に見て、思わず愕然とした。あの時はなんとも思わなかったけど、自分が信頼している式神が易々とそれを行っていると、少し恐怖を感じる。式神にとっては蚊を祓うようなことかもしれないけど、人間にとっては恐ろしい技だ。いつか自分もそうされてしまうのではないかと。
その時、タンギンが硬直したままの私を振り返る。口に手を添えてメガホンみたいにすると、はっきり聞こえる声で言った。
「俺はお前の記憶は消さねえ!!絶対だ、約束する!!お前が俺を信じたように、俺もお前を信じてる!!」
私は浮かんできた涙を拭って、ぐっとお腹に力を込めて足を踏み出す。大切な人が記憶を消されて倒れていく光景なんて、見たくなかった。でも、私は目の前にいる、ぶっきらぼうにこちらを見ている式神を信じたい。彼なら、救ってくれる。悪意からも、悩みからも。
「・・・・・・タンギン、やっぱ声大きいね」
「今言うことかよ。ほら、もう遊んでられねえ。行くぞ!!」
タンギンは素早く手に花札を握り、彼の数百倍大きくなった竜巻に、臆することなく歩み寄っていく。不思議と彼は風に巻き込まれることなくその場に立ち止まると、勢いよく振り被って花札を地面に叩きつけた。
パアン!!
「ニを司るは壱越!一つ越えて、ホを司るは平調、ヘを司るは勝絶!その成りには、下無、双調、鳧鐘、黄鐘、鸞鏡、盤渉、神仙、上無。遅れて、ニの次が断金!」
タンギンの除怨の言葉を聞く度、段々と意味が分かってくる。きっとこれらは、式神の名前なのだろう。ということは、式神は12人いるということだ。後会ったことのない人は、6人だ。こうして全員の名前を読み上げることだけで、彼が強いのが何となくわかる気がする。
タンギンはいつもより大きな声で、激しく札を叩きつけている。すると、ずらりと今までの札がタンギンの後ろに、まるで守り神のように並んだ。私は足を踏ん張る。いつもよりも力を吸い取られていく感覚が襲ってきて、私は倒れないように組んでいた手に力を入れた。
「ここに悪を晴らし、善を持って、お終い」
最後は静かに手を合わせたタンギンは、黒い靄が晴れるまで動かなかった。次に彼が動いた時には、ふう、と大きな息を吐き額を拭っていた。それほどまでに今回の悪意は強大だったのだろう。私も、つい地面にしゃがみこんでしまう。
「ふう・・・・・・今回は割と手強かったな。まあ、俺にかかればこんなん屁でもねえけどよ。ほら、立てるか?」
タンギンは除怨が終わったばかりで疲れているだろうに、すぐに私の元まで来て手を差し伸べてくれた。私は精一杯笑って握り返し、何とか立ち上がる。お腹が空いた。
「ほれ、行ってやれよ。なんとかさんのとこに」
タンギンの声にハッとして辺りを見渡す。無事に悪意は祓われたのか、サッカー部の人たちもまだ寝ていた。地面には、竜巻が通った溝がありありと残されているけど、何とかなるだろう。それより今は、永遠さんだ。
「永遠さん!大丈夫ですか!!」
倒れている彼を揺さぶる。永遠さんの顔はいつもより青白いけど、息はしているようだった。何度か肩を叩くと、彼はゆっくりと目を覚ました。安心からか、どっと疲労感が襲ってくる。
「良かった・・・・・・」
「あれ、夕陽ちゃん?僕、何してたんだっけ・・・・・・あれ?ここ、校庭?なんで学校にいるんだっけ?」
「そ、それは・・・・・・ちょっと、サッカー部の様子がおかしくて。永遠さんが勇敢にも、助けてあげたんですよ」
「そうだっけ・・・・・・ふあーあ。なんだか眠くなってきちゃった。なんかよく分からないけど、暗くなってきたし、もう帰ろっか」
サッカー部の人たちが起きる前に、私たちはそそくさと校庭から抜け出して家に戻ることにした。永遠さんはもうタンギンを見た時の記憶はないらしく、何事もなかったようにまたとりとめのないお喋りをしていた。顔色も戻ったようだし、彼も幸せそうなので、私も何も知らないふりをする。背中を確認すると、タンギンは除怨で疲れたのか、ぐっすり寝ているようだ。お疲れ様、と心の中で話しかける。
「そうだ、夕陽ちゃん。渡したいものがあってさ」
「私にですか?ケースならもらいましたよ」
「ほら、キーホルダー探すって話してたでしょ。結局お店行けなかったし、僕が作ったのでよかったら」
私の家の玄関の前で、永遠さんが思いついたようにまた鞄に手を突っ込んでいる。ぱっと彼が出したものは、丸い銀の輪っかと、鍵が付けられそうなフックが付いている金属らしきものだった。夕陽を帯びつつある日の光に照らされ、鈍く銀に光っている。またいつもとは違う系統だけど、それなりに大きいので見失うことはないだろう。
「わあ、なんか知恵の輪みたいですね。でもシンプルでかっこいいです。もらっていいんですか?」
「もちろん!こんなので良ければ。これなら毎日帰る時、僕を思い出してくれるだろうし・・・・・・夕陽ちゃんがいなくなって、僕も寂しかったからね」
「永遠さん・・・・・・」
永遠さんが少し照れたように言って、優しくはにかむ。私もつられて笑い、それを受け取ろうとした。
「おい」
次に瞬きした時には、驚くことに、タンギンが私と永遠さんの間に立ち、私に触れようとしていたキーホルダーを鷲掴みにしていた。衝撃すぎて言葉が出ない。これに触れるということは、タンギンは実体化しているということだ。それはつまり、タンギンは永遠さんからも見えている。
「た、タンギン・・・・・・?」
彼は永遠さんを強く睨みつけると、掴んでいたキーホルダーを片手でバキン!!と破壊した。何が起きているのか分からず二人を見比べる。永遠さんはなぜか、まだはにかんだまま私を見た。途端に息が詰まる。顔にくっきり影ができていて、まるで永遠さんじゃないみたいだ。
「夕陽ちゃん、この人誰?」
「・・・・・・あ、と・・・・・・」
突然のことに、なんと言ったらいいのか分からず、言葉にならない声が喉から出る。なぜタンギンはわざわざ記憶を消したのに永遠さんの前に現れたのだろう。永遠さんも、なぜ最初に彼に会った時は驚いていたのに、今突然タンギンが現れたことに驚かないのだろう。タンギンは握りしめていた手をゆっくりと広げると、パラパラと欠片が零れ落ち、不思議と地面に当たって消えていった。タンギンが口を開く。彼とは思えないほど低い声だった。
「・・・・・・俺は、こいつの家政婦だ。帰りが遅いから、待ってたんだよ。そしたら変な男に変なもん渡されようとしてんじゃねえか。んなもん黙ってられるかよ」
「へえ、夕陽ちゃん、家政婦さんなんて雇ってたんだ。それにしては、随分と学生みたいな格好だね。あと、僕は決して変な人じゃないよ」
永遠さんは表情は笑っているのに、明らかに目が笑っていない。変な人と言われて怒っているのか、キーホルダーを壊されて怒っているのか、もう分からない。タンギンはハッと息を吐くように笑うと、永遠さんの鼻がくっつきそうなくらいの位置に立った。タンギンも口角は上がっているけど、目が完全にキレている。
「お前、変なもん作んのはいいがよ、あんまりこいつを巻き込むんじゃねえよ。人間の悪意を増長させるもんを作る天才なのか、てめえはよ」
「僕はそんなつもり一切ないけどな。夕陽ちゃんにプレゼントしたいものをしてるだけだよ。悪意がどうとか、何を言ってるのか分からないけど、君こそその口の利き方、考えた方がいいんじゃない?」
二人の会話にピンとくる。もしかしてさっきのキーホルダーは、レイちゃんにあげようとしたメダルのように、また悪意が増長されるものだったのだろうか。永遠さんも自覚があるのかないのか分からないけど、作り出すものが悪意にまみれているものだったら問題だ。
永遠さんはぱっと私の方を見ると、いつものようにニコッと笑って手を振った。笑顔でも、今は少し怖く見える。
「今日はもう帰るよ。じゃあね、夕陽ちゃん!家政婦さんにあんまり唆されないようにね?」
「あ、永遠さん・・・・・・」
「また会いに来るよ」
私の声には応えず、彼はひらりと手を振って駅の方に行ってしまった。しばらく呆然としてしまう。何があったのだろう。永遠さんは一体何者なのだろうか。
「・・・・・・おい、ずっと外いると冷えるぞ」
タンギンが私の手を取って、玄関へと引っ張ってくれる。永遠さんとは違って冷たい氷のような手に、彼はこうして触れていても式神なのだと嫌でも痛感する。でも、今の私にとっては彼の強引さが救いだった。私は玄関に入った途端、足が言うことを聞かず、しゃがみ込んでしまった。疲れからか体が重い。でもそれ以上に、永遠さんのことが頭から離れなくて、悲しさと困惑がずっと脳を駆け巡っていた。ふくらはぎが太ももに当たり、自分の体がいかに冷え切っていたかが分かる。
「夕陽」
タンギンの声に顔を上げると、彼が湯気の立つコップを持って、私と目線を合わせるようにしゃがみ込んでくれた。玄関のドアの擦りガラスから漏れる光がタンギンの目を光らせる。さっきの永遠さんみたいに顔に影ができて表情が見えにくいのに、彼の目が澄んでいるのが分かる、私はなぜか、涙が溢れてきた。なんで今自分が泣いているのか分からない。でも、タンギンがいてくれること、彼が守ってくれたことに、涙が止まらない。
「ほれ、これ持て。直持ちすると熱いから、取っ手触れよ。って、おい」
タンギンが差し出してくれたココアの香りに、ふと緊張の糸が切れる。私はタンギンに体を預け、彼の肩に顔を埋めた。なぜか不思議と懐かしい香りがする。お香のような、花のような、不思議な香りだ。
「・・・・・・重いだろうが。世話が焼けんなあ」
私の意識は、そこで途切れた。ただ覚えているのは、タンギンが言った言葉と温かいココアの香りだけだった。




