14.初バイト
「夕陽ちゃん、これとかどうかな?もう秋の食材を使ったパンも考えないとだし、生地はさっくり系よりしっとり系の方がいいかな?」
「そ、そうですね。栗がしっとりペーストになっているのなら、土台の生地はしっとり、周りはさっくりでいいと思います」
「だね。さっすが、夕陽ちゃん!」
由子さんの満面の笑みに、期待の重さに肩がどんどん丸くなっていく。でも、いつも焼きたての香ばしい香りが漂うこの部屋では、私の胃袋は常に元気にすかせているようだった。
「母さん、椿君に変なことは言ってないだろうね?」
ひょっこりと、瀬名高君が怪訝な表情をしながら厨房に顔を出す。由子さんはため息をついて、しっしっ、と追い払いようなしぐさを取った。彼がここに見に来るのも、これで5回目だ。
「だーかーら、大丈夫だってば。一応そこら辺の常識は持ち合わせてるつもり。今日一日だけなんだし、せっかく来てくれたんだから、楽しんでもらわないとね?」
そう言って、由子さんはウインクをした。こういうところを見ると、つくづく親子だなあと実感して、微笑ましくなってしまう。
「はい、今すごく楽しいです」
「本当にかい?何かあったら僕に遠慮なく・・・・・・」
「いいから、追加のパン出してきてちょうだい!!」
「わ、分かった」
一撃を食らい、瀬名高君はすごすごと店内に戻っていく。そんな彼の後姿を見て、私の横にいたタンギンとバンシキさんがひそひそ話しているのが聞こえた。
「あいつ、将来嫁に尻に敷かれるタイプだな」
「・・・・・・光は、優しいから」
「はっ、優しいっつったって、ひょこひょこウロチョロしやがって、あいつどんだけうろつき回るつもりだよ。ガス切れしちまうぞ」
「・・・・・・ああ。だから、今日来てくれて、感謝する。椿」
バンシキさんの囁きにくすぐったさを覚えつつも、お客さんからの声掛けに笑顔で応じ、歩き回る彼を厨房から見ていると、今日は本当に来て良かったと思えた。
「はあ?底なし馬鹿の手伝いに行きてえだと?」
瀬名高君の家を訪れた翌日、私は早起きして、タンギンの相談を持ち掛けてみた。肯定的なことにしろ否定的なことにしろ、何か言われるんだろうなとは思ったけど、彼は意外と客観的な視点からの意見をくれる。自分のことに精一杯で周りのことが見えなくなりがちな私が気づけないことも、言い方はきついけど教えてくれるので、タンギンからの意見はどうなのか聞いてみたかった。
「うん。瀬名高君、昨日すごく疲れてるみたいだったし、お店もすごく忙しそうだったし。私今暇だし、瀬名高君にはお世話になってるから・・・・・・こういうの、迷惑かな?どう思う?」
タンギンは省エネモードらしく、私の後ろから顔を覗かせているだけだったので、私は彼の顔を見れるよう首を傾けた。タンギンは鏡に映らないので、洗面台の鏡には不自然な恰好をした私が見える。
「んーー、あいつんちが求人広告を出してるかにもよるんじゃねえか?人手が足りてんだったら、即席の、素性も知らねえ奴を雇いはしねえだろうよ」
「す、素性知れてないかな、私。でもそうだよね、見てみるね」
「よし、今からあいつんちの壁見に行くぞ」
「え、壁?」
意図が分からなくて彼を見ると、彼もまた同じような顔で私を見ていた。タンギンは私が取り出したスマホを見ると、チッと舌打ちして気まずそうに姿を消してしまった。
「タンギンって、もしかしてすごく昔の人?」
「誰が昔だ。ジジイ扱いすんな」
「し、してないよ。えっと、これどうやって検索するんだっけ」
「てめえも大概だろ。今を生きてんのによ」
瀬名高君のお家を検索すると、すぐにヒットした。最近食べログで有名な人が絶賛したらしく、その影響で繁盛しているみたいだ。ぱっと見、求人のお知らせは見当たらない。
「私、行っても邪魔かな」
「邪魔だろうが何だろうが、一回行ってみたらいいじゃねえか。断られたら、そん時はそん時だろ」
「そ、そうかな。でも、そうなるとちょっと気まずいし」
「ほら、行け行け。そうこうしてるうちに日が暮れちまうぞ」
「でも・・・・・・」
「うるせえなあ、でもが多いんだよてめえは」
そんなこんなで、とりあえず瀬名高君にラインをしてみることにした。すると、すごい速さで快諾の返事が返ってきて、今に至るというわけだ。一応バイトという形になるので、給金は出してくれるらしいけど、流石話題のパン屋さんなだけあって、由子さんも瀬名高君のお父さんも目まぐるしく働いていた。パン屋さんなんて一見可愛くてゆったりとしていそうだけど、内実はこんなに大変だったなんて、やってみないと分からないものだ。
「あの、私も何かお手伝いしましょうか。裏方のことなら、私でもできるかなと思ったんですけど」
「いいのいいの!夕陽ちゃんはその神の舌で、次に売り出すパンの試食をする、っていう立派なお仕事があるんだから!力仕事はパパと光に任せておきな!」
由子さんはそう言ってけらけらと笑い、重いであろう鉄のトレーにまだ白くてぷにぷにしたパンをほいほい載せていく。力仕事が多いとは思っていたけど、由子さんはすごく力持ちみたいだ。身長は私より小さいのにすごい。袖から見えるたくましい筋肉は私でも惚れ惚れしてしまう。
厨房の隅でさっきから試食ばかりしているけど、洗い物は主に食洗器を使ってはいるものの、繊細な機械は手で洗っているようだし、パンの飾り付けはもちろん手作業だし、この3人でお店を回せているのが奇跡のようにさえ思えた。瀬名高君は運動神経がいいのでこれくらい大丈夫なのかもしれないけど、私だったら半日でへとへとだろう。特に彼は店内でお客さんの対応やトレーの持ち運び、会計など、とにかく歩き回っているようだった。これで疲れない方がおかしい。
私は小声でこっそりタンギンに話しかけた。バンシキさんは心配そうに自分の主を目で追っている。
「ねえ、タンギン。私見たいな素人でも出来て、お店の役に立てて、ただ座ってるだけじゃない仕事ってないかな?」
「お前、意外と注文多いよな。そういうところは図太いのによ・・・・・・そうだな、掃除とかどうだ?店の外とかよ」
「なるほど、いいね!タンギン天才」
「おう、ふふん、まあな!俺が天才なんて、周知の事実言ってんじゃねえよ」
得意げなタンギンに、私まで嬉しくなる。掃除なら私でもできるし、役にも立てる。やっぱりタンギンは周りをよく見ているなあ、と感心した。
パンをすごい速さで綺麗なロール状にしている由子さんの元に行って、邪魔にならないように話しかける。マスクをしているので声がこもりやすいし、私の声は大きいとは言えないので、空気をたくさん吸った。
「由子さん、お店の外のお掃除してもいいですか?それなら、私でもできるので」
「ん?ああ、掃除は一応、営業中はやらないことにしてるんだ。食品を扱ってるから、もし埃が舞いでもしたらパンが危ないからね・・・・・・あ!」
由子さんは思い出したようにまん丸な目をさらにまん丸にして、いいこと思いついた、という顔をした。本当に瀬名高君とそっくりだ。
「ねえ、夕陽ちゃん。夕方から、ビラ、配ってもらってもいい?」
「お前には一番不向きな仕事だな」
「それは、否定できない・・・・・・」
タンギンの容赦のない言葉に、私は手に持った大量のチラシを一旦テラスのテーブルの上に置いた。紙の正面にはパステルピンクの文字で「senapan」と書かれていて、周りに色々なパンの写真が載っている。見ているだけで美味しそうだけど、最近一度にパンを食べすぎて、見慣れてきてもいた。傍に試食用として、小さく切ったパンと楊枝もある。これかチラシを道行く人に渡して宣伝をするというのが、私に課された仕事だった。由子さんには夕方からでいいと言われたけど、ここでお飾りのように座ってパンを食べるというのも嫌だったので、今からやります、と申し出た。もちろん外は暑く、お店のテラス席にある扇風機をガンガンにかけてくれたので、少しはましだった。このお店には飲食スペースは少しあるけど、やっぱり夏は外で食べる人はいないようだ。
「お前、知らない人に声かけるなんてできんのか?」
「・・・・・・今まで、人に嫌われ続けてきたから、自分から関わるのなんて、初めて」
「だろうな。ま、やるっつったんだから、やり抜けよ。いい機会だ、社会勉強だろ」
「・・・・・・椿。暑くなったら、無理せず中に入るんだ」
バンシキさんが心配そうな顔をしているのを見て、私は少し元気が湧いてくるのを感じた。ただでさえ自分の主が心配なのだろうに、私のことまで気にかけてくれて、優しい式神だなと思う。
「ありがとうございます。由子さんが涼しいようにパラソルも取り付けてくれましたし、水分補給も自由にして良いそうなので、できるとこまで頑張ります」
そう言うと、私は気合を入れるためにぐっと拳を握った。髪も一つに括ったし、瀬名高君とお揃いの腰にリボンがあるエプロンもつけた。タンギンの言う通り、こんな機会中々ない。バイトは一度もしたことがないので、上手くいくかは分からないけど、やれるだけやってみよう。
チラシを片手に、パラソルから出ないようにして、手をメガホンの形にして口を開ける。でも、声が出ない。ずっと変なポーズのまま止まっているので、通りすがりの人に変な目で見られ続けている。
「おい、漫才やってんじゃねえんだぞ」
タンギンに小突かれ、私は心を決めて、通り過ぎる人達に声をかけた。そもそも、この暑さの中外に出る人はあまりいないようだったけど、近くに神社という涼しいスペースがあるからか、ちらほらと見かける。
「せ、senapanでーす。美味しいですよー、いかがでしょうかー」
・・・・・・誰一人として、受け取ってくれない。というか、私の声が小さくて届いてないのか、見向きもしてくれない。もう心が折れそうだった。
「声がちいせえ。蝉の方が声でけえぞ。もっと張れや」
「せ、senapanでーす!いかがですかー!」
「もっと明るく。顔が変わんねえ分、声上げてけ!」
「美味しいパンがお手頃価格ー!夏でもパクパク食べられまーす!」
タンギンのスパルタ指導の下、私は声を上げ続けた。今の時代、こうして原始的にチラシを配っていること自体が珍しいからか、何人かは受け取ってくれた。もしくは、私の必死さに同情してくれたのか。どちらにせよ、もらってくれるのはありがたいことだ。いつもティッシュを配っている人に対して、気まずくて目をそらしてしまう私は、あの人たちに今、すごく敬意を抱いている。
「あ、暑い・・・・・・水」
「いい感じじゃねえか。てめえにしちゃ、声出てたな。ほれ、濁った水」
「スポーツドリンクね。タンギン、カタカナに弱すぎじゃない?」
「うるせえなあ!てめえに言われたくねえんだっつうの!!」
バンシキさんがすっと傍に来て、ぱたぱたと綺麗な手で内輪のように仰いでくれる。実体化するのを忘れているのか、何も風を感じないけど、気持ちが嬉しい。
「・・・・・・代わりに、断金が呼び込みをすればいい」
「なんで俺がやるんだよ!!式神が労働なんてやってられるか!!」
「タンギンはどこからその大きな声を出してるの?」
冷え冷えのスポーツドリンクを体に流し込みつつ、横目で自分の式神を見る、バンシキさんじゃないけど、私もタンギンが代わりにやってくれればなあ、なんて思ってしまう。もちろん一般の人には聞こえないから意味ないし、わざわざ実体化してもらうのは流石に気が引けるけど、彼の声の大きさは中々なものだ。
「んなもん、腹からに決まってんだろ。てめえは腹筋なさすぎだ。ほれ、タオル。つっても、ぶっ倒れんじゃねえぞ。こんな量、一人で捌き切る方が無理ってもんだからな」
「・・・・・・うん。ありがとう。もう少し、頑張ってみる」
こうして、しばらくは頑張って呼び込みを続けた。途中で瀬名高君のお父さんが持ち歩き式のクーラーを持ってきてくれたり、瀬名高君が応援で来てくれたり、由子さんが無理しないでいい、と止めてくれたりとあったけど、何とか十数枚は配ることができた。中には試食もしてくれて、店内に入ってくれた人もいたので、努力が報われたようですごく嬉しかった。
こうして、少し暑さも落ち着いてきた頃、人通りも多くなり、少しずつチラシもはけていった。ちょっと喉が痛くなってきたけど、まだ大丈夫だ。減っていくチラシと試食用のパンが、達成感を与えてくれる。
「夏でも美味しいパンですー、いかがでしょうかー」
「へえ、一つもらおうかな。おすすめは?」
「えっと、おすすめは・・・・・・」
私の方に来て声をかけてくれた人に、試食のパンを渡そうとする。ぱっと顔を上げたその人に見覚えがあって、つい固まってしまった。ひらりと適当に上げられた手は、いつもの腕時計はしていなかった。
「はは、元気だったか?椿」
「だ、台心先生・・・・・・」
「一応、うちは申請すればバイトはオッケーだけど、申請してないと校則違反だからな。他の先生にはバレないようにしろよ」
「は、はい。先生は許してくれるんですか・・・・・・?」
「めんどくさいし、別にいいよ。今日は先生じゃなくて一般人だから」
さらりとそういう先生は、当然だけどいつものスーツではなくて、Tシャツに長ズボンというすごくシンプルな私服だった。アイドルさながらの顔立ちなのでどんな服でも似合いそうだけど、ここにありさちゃんがいたら絶叫してただろうな、と思うと少し可笑しかった。
「外で見ると、椿って高校生っぽくないな。もっと大人に見えたわ」
「そ、そうですか?先生も、スーツじゃないの新鮮ですね」
「確かに、鈴木先生とかはいつもジャージだもんな。今日は休日だし、適当でいいかと思ってさ。で、ここって瀬名高の家だよな?手伝ってんの?」
先生が店の前にいるだけで、間違いなく道行く人の注目が集まっている。つられて、お客さんの入りもいい。私の声掛けよりこの人がいるだけの方が効果的だとはっきり分かって、なんだか虚しい。
「そうです、あまりにも瀬名高君がげっそりしてたので、出来ることはないかと思って」
「え、あの瀬名高がか?普通に心配だな、ちょっと見てくる。椿もまだやるんだったら、頑張ってな。水飲めよ」
そう言って、先生はお店に入っていった。つられて、ぞろぞろと目がハートになった女性のお客さんが店内に向かう。先生はやっぱりモテるんだなあ、とぼんやり思う。
「あいつ、ただの女好きかと思ったら、底抜け馬鹿の心配もするなんて、意外と生徒思いなんだな。ただの尻軽男かと思ってたけどよ」
「た、タンギン、どちらに対しても悪口だよ。でも、そうだね。よし、あと少し頑張ろう」
げっそりした瀬名高君に声をかけている台心先生と、意外な訪問に驚いている瀬名高君を窓ガラス越しに見て、私はよし、と立ち上がった。頑張れ、というようにバンシキさんが手を振ってくれる。なんだか背中越しに仲間がたくさんいてあったかいな、と嬉しくなりつつも、私は声掛けを続けた。
「あら、美味しそうなパンですね。一ついただいてもいいですか?」
その時、フリルがたくさんついた黒い日傘を指した女性がこちらに近づいてきてくれた。物腰柔らかそうな声だけど、つばの広い帽子を被っているので、顔は見えない。
「はい、もちろんです。どうぞ、おすすめの枝豆パンです」
「ありがとう。声が掠れているわ、呼びかけ、頑張ったのね」
優しく笑う口元と添えられた華奢な手が見える。その人の優しさに、心がほだされそうだった。
でも、何となくざわざわする。この人が近づく度、すごく違和感があった。
「あ、ありがとうございます」
そう言って、パンを刺した爪楊枝をその人に差し出した。女性の綺麗で傷一つない、真っ白な細い手がこちらに伸びてくる。
「夕陽!!」
タンギンの鋭い声が聞こえた時と、女性の手が私の手ごと掴んだのが同時だった。
「可愛いお方。欲しいのはあなたよ」
帽子の陰から見えた妖しい真っ黒な目と頬の痣に、一瞬で寒気が走る。手から染み込んでくるおぞましい感触と共に、私は前に体が倒れていくのを感じた。
「触んじゃねえ!」
タンギンが鋭い蹴りを女性に放つ。目の前の白い学生服服と、首元に蝶々結びで結ばれた赤い紐が見えて、バンシキさんが受け止めてくれたのだと自覚した。ただ、すごくふらふらする。視界が揺らぎ、血液に固いビーズが詰まったような感覚が止まらない。目を開けているだけで酔いそうだ。
「私、顔は運命の人にしか見せないの。じゃあ莫目、やることはやっといたから、あとはよろしく」
「おい待て!!てめえも廃絶の一人か!?」
「呼ばれて飛び出てじゃじゃじゃじゃーん!どうもー、みんな大好き莫目です!」
絶望的な声が聞こえて、目を開ける。声だけで何が起きてるか分かるけど、立ち上がろうにも力が入らない。抱えてくれているバンシキさんの声が聞こえる。
「椿、大丈夫か。起き上がれるか」
「バンシキさん・・・・・・すみません。今起きます」
「無理はしない方がいい。先ほどの彼女はかなり強かった。直接触れられたダメージがあるだろう」
「・・・・・・」
それでも、彼の瞳をじっと見て、なんとか焦点を合わせる。バンシキさんの瞳はタンギンに似て透き通った白だけど、よく見ると虹色が見えそうな不思議な色をしている。おかげで大分視界がクリアになってきた。私は立ち上がり、タンギンの方を見る。
そこには、待ちゆく人達が道路で何人も倒れ伏していた。みんな、苦しそうに頭を抱えたり、胸を抑えたりしている。中にはパンの袋を持った人もいた。道路に、瀬名高君が丁寧に包んだ袋が散らばっている。
「タンギン!」
「あ、夕陽ちゃんじゃないですかー。お久しぶりです!会いたかったですよ」
マクモさんが、首をかくっと曲げてこちらに手を振っている。相変わらずの千鳥足でこちらに歩み寄ってくる彼に、タンギンは焦った顔で叫んでいた。
「お前、まだふらついてんだろ!こっち来るんじゃねえ!こいつは俺が片付ける!」
「夕陽ちゃん、今日は頑張ってましたねー。君の声はすっごいか細くて全然聞こえませんでしたが、必死に喚いてるのは分かりましたよ!すごい!偉い!」
マクモさんはタンギンの蹴りやパンチをものともせず、可愛くパチパチと手を叩いて私に話しかけてくる。じわじわとこちらに近づいてきているので、私はぐっと足に力を込めた。船酔いをしているみたいだ。バンシキさんは瀬名高君の元へ行ったのか、近くにはいなかった。
「ふらついてますねー、いい感じに哀れです!もっと近くで見たいです、そちらに行っていいですかー?」
「ふざけんな!てめえ、前より機敏になってねえか!?」
「それはもちろん、あなたたちの情報は掴んでますから!意外と運動神経がいい断金さんが夕陽ちゃんの元にいるなら、合わせて僕も頑張りますよー!」
タンギンの蹴りを瞬時に後ろに下がって避けたマクモさんは、そのままぐっと地面を踏みしめ、軽やかに地面を蹴って宙に舞った。映画のような光景に、体が止まってしまう。
「なっ、いつの間に・・・・・・」
「君たちは僕らを舐めすぎです。僕たちはずっとずっとずっと、君たちを見てるんですから」
「ね?」
その声が一瞬で耳元に来て、私は思わず咄嗟に耳を抑えてしゃがんだ。見上げると、夕陽の光による影がまるで付いていない、その空間だけ切り取ったように存在しているマクモさんがこちらを見下ろしていた。全く光のない目玉が二つ、ぽっかりと可愛い顔に穴を開けている。
「あ、やっとこちらを見てくれましたね?ハーイ、夕陽ちゃん。さっきの彼女、強かったでしょ?ぶっちゃけ僕なんかより全然手強い相手だと思いますよ?」
差し出してくる白い手袋を付けた手を無視して、地面に膝と手を突いていつでも立ち上がれる姿勢を取る。同時に、遠巻きにバンシキさんの焦った声が聞こえた。彼のこんな大きな声、今まで聞いたことがない。
「光・・・・・・!断金、光は店から出られない。あの女が、空間術を使ったんだ」
お店の方を振り返ると、こちらを見て必死に窓ガラスを叩いている瀬名高君が見えた。窓は危険だと思ったのか、倒れるお客さんをかき分けてドアへ向かっている。
「チッ、まじかよ。勝絶は?」
「それが、今日は別の地域を見回りしているとのことだ」
「タイミングわりいな。いや、この時を狙ったのか」
「ねえ、僕の話、聞いてます?」
式神たちの会話に意識を集中させていると、目の前にマクモさんの顔が来て、私はのけぞった。咄嗟のことに、後ろに倒れそうになる。マクモさんは私に手を伸ばして、ぐっと私の腰を掴んだ。恐怖よりも戸惑いが勝って、呆然としてしまう。
「おっと。危ないですよ」
「・・・・・・どうして、普通に触れるの?」
「あー、夕陽ちゃんの手って細くて冷たくて気持ちいいですね!人間は今夏なんでしょ?このクソ暑いのにどうしてこんなに血の気が引いてるんですか?これから死ぬんですか?」
私は混乱した。さっきの女性みたいに、廃絶に触れると直接感触があるわけではない。でもこの前彼に触れた時は、そこから彼らの体が溶け出すように纏わりついてくるはずだ。でも今は、マクモさんは倒れかけた私の腕を掴み、ぺたぺたと触っている。疑問に頭を支配されていると、マクモさん越しにタンギンがこちらを見ているのに気づいた。隣には、主がいないバンシキさんもいる。
こちらを指さして、30、と手で数字を作っている。私は瞬時に、30秒間、マクモさんを引き付けておいてくれ、ということだろうと察した。式神は主の考えがある程度分かる、というけど、私だってタンギンの考えていることが分かるようになってきた。私はマクモさんの腕を握り返し、どこにも行けないようにする。人間とは思えない冷たさの彼の手は、私より太いのに壊れてしまいそうで、お菓子みたいだった。
「え、夕陽ちゃん、意外です。君がこんな積極的だなんて!もしボスにバレたら殺されちゃいますけど、幸せなのでいいですよね!」
「さっきの女の人は、誰?あなたたちの仲間?」
マクモさんはタンギン企みに気付いているのかいないのか分からないけど、私の顔をじっと覗き込んでいた。ここで目を逸らすと、彼の意識が式神に向かってしまう。負けじと、睨み続ける。ブラックホールを目に入れたような、不気味な目だ。宝石みたいに透き通った式神たちの目とはまるで違う。
「それは答えられません!仲間の情報を漏らすわけにはいきませんから!彼女は普段人前には姿を見せませんので!」
「き、綺麗な人だったのに、もったいない。また会いたいな、名前は?」
「あー、その言葉、めっちゃ喜ぶと思いますよ!!名前は方響だなんて、漏らすわけにはいきませんけどね!」
「・・・・・・マクモさん、それわざと?」
「え?あ、夕陽ちゃんの目が少し優しくなりました!何でですか、方響の話をしたからですか?」
体感的に、あと10秒。流石にマクモさんも、私がこちらに自分を引き付けているのは分かってきただろう。もしかしたら分かってないかもしれないけど。
すると、すっと頬にマクモさんの手が伸びてきた。顔を触っているとは思えないくらい、引っ張ったりこねたりつまんだりしていて、鳥肌が止まらない。
「そういう顔もするんですね。この顔にボスは惚れたのかなあ。僕にはわかりません。君が髪も声もボロボロで、涙も枯れ果ててこちらを見上げる顔が一番かわいいと思うんですけど。まあ、そろそろいいでしょう、茶番も」
眉を下げ、マクモさんはきゅっと目じりを細めて笑うと、パッと手を離した。まずい、と本能が叫んでいる。マクモさんが体を傾け、タンギンたちの方を振り返ろうとした。
「待って!!!」
咄嗟のことに、自分が出した声かも分からない。一瞬静寂が起こり、マクモさんが驚いた顔で目をこちらに向けている。真っ黒な彼の目に、少し光が映りこんだような気がした。
「よくやった、夕陽!!」
そう叫ぶ声が、タンギンとバンシキさんが突っ込んでくると共に耳を掠めていく。二人の飛び蹴りを食らったマクモさんは、綺麗に後ろに吹っ飛び、パン屋の壁に思いっきり打ち付けられていった。ヒリヒリした感触に下を向くと、彼の5本の指の跡が、腕にくっきり残っていた。
「・・・・・・ありがとう、椿。おかげで時間が稼げた」
「ああ。これで二人の主がいるんだ、除怨しちまおうぜ」
「ふ、二人?瀬名高君は閉じ込められちゃったんじゃ」
両脇でヒーローのように佇む式神たちを見上げると、タンギンがしてやったりといった顔でにかっと笑った。こんなタンギンを見るのは初めてだ。まるでいたずらが成功した少年みたいだ。
「こいつら、別の奴がかけた術には干渉できねえんだろ。てめえは最初、あの女に術をかけられた。だから、莫目は新たにてめえに術をかけられなかったんだ」
「・・・・・・術が、彼女の方が強いからか、上書きができないからか、分からない。だが、彼女の術がかかった店内に莫目を触れさせることで、術が解けてしまったようだな」
二人の言葉に、ハッとする。だからマクモさんは、普通に私に触ることができたんだ。それを瞬時に見抜くだなんて、タンギンは本当に、式神として優秀なのだと感じる。
「椿君!バンシキ!タンギン!」
瀬名高君の明るい声が聞こえて振り返ると、彼がいつものようにぶんぶんと手を振ってこちらに向かっていた。緊張の糸がほどけかけるけど、気を新たに、意識を集中させる。まずは、悪意で苦しんでいる人を助けなくては。
「いい心がけだな。よし、ぱぱっとやっちまうか!」
「うん!信じてるよ、タンギン!」
「当ったり前だ!」
「手間をかけてすまない。僕たちも行くぞ!」
「・・・・・・ああ。もちろん」
こうして、タンギンとバンシキさんの除怨のおかげで、無事全員の悪意を祓いきることができた。悪意の煙がどこにもないことを確認すると、タンギンは真っ先にまだ店の前でうずくまっているマクモさんの方に近づいていき、彼の胸倉をつかんだ。
「てめえ、よくもやってくれたな!!あの女を出せ!!」
普段聞かない彼の本気の怒鳴り声に、身がすくむ。私が怖がっていることに気付いたのか、瀬名高君が傍に来て、手を握ってくれた。温かくて、大きな手だ。
「・・・・・・いってえなあ。靴になんか仕込んでただろ。てめえだと、花札か」
先ほどの朗らかなマクモさんとは打って変わって、彼はどすの効いた声で、ゆっくりと顔を上げた。スーツも腕章も破れ、手袋も黒く汚れ、痛みに顔を歪めている。今までにないほどボロボロになっている彼の姿に、私は一瞬、可哀そうと思ってしまう。
気持ちが伝染してしまったのか、タンギンが私を振り返った。その隙に、マクモさんはタンギンの手を振り払い、髪をかきあげて宙に浮いた。
「ははっ、主が俺らに同情するなんざ、馬鹿にも程があんだろ。でも、中々優秀だな?口に花札でも仕込んでたのか?あれはどうやったんだ?」
私ではなく、タンギンに向けて言い放った言葉を、タンギンは睨みつけるだけで答えなかった。あれとはなんだろう。戸惑っていると、マクモさんがこちらを見てにぱっと笑って手を振った。本当に同じ人かと疑ってしまう。
「夕陽ちゃん、君は馬鹿なのか優秀なのか分かんないですね?そこの彼と君を引き離すのが狙いだったんですけど、君も中々に厄介ですねえ。お名前、なんでしたっけ?」
いつもの調子に戻ったマクモさんの問いに、瀬名高君もいつもの調子で胸を張っていた。なんだかすごく安心する。
「僕の名前は瀬名高光!身長178センチ、体重は61キロ!最近は量ってないので、誤差はある!バンシキの主だ、よろしく頼む!!」
「不必要な情報ありがとうございまーす。一応、覚えておきますけど。じゃ、僕はこれで。あー、痛いなー。骨がちぎれそうだー。今日は寝れるかなー」
そう言って、彼はぱっと、シャボン玉が消えるようにいなくなった。空間が切り取られたように、その場にいた痕跡は一切残していない。私たちはしばらく、彼が消えていったオレンジ色の空をただ見つめていた。
「夕陽ちゃん、今日は本当にありがとね!特にビラ配り!この暑い中、よくやってくれたよ。途中、お客さんと長く話してたみたいだったけど、何かあった?大丈夫だった?」
由子さんが店内の看板をくるりと返すと、心配そうに傍に来てくれた。お店の中には、厨房で片付けをしている瀬名高君のお父さんと、売り場で撤去作業をしている由子さん、瀬名高君、邪魔にならないように隅に身を寄せた私と台心先生がいた。なぜ先生がここにいるのかは分からないけど、なぜか不思議とこの場になじんでいる。
「大丈夫です。お店も、何か変わったことはありませんでしたか?」
「変わったこと?うーん、さっきすっごい眠くなっちゃったけど、特に何もなかったね。もう、夕陽ちゃんとこの先生のおかげで、売り上げが右肩上がりだよ!先生、わざわざ来ていただいてありがとうございます。よければこれ、持ってってください」
由子さんが台心先生に礼を言うと、先生はいつもの調子はどこへやら、爽やかな笑みを浮かべて頭を下げていた。初登校の日に、校長先生と会った時の彼を思い出す。
「いえいえ、こちらこそお邪魔して申し訳ありません。私も十分買わせていただきましたし、こちらは生徒にあげてやってください」
先生の手には、パンがぎっしり詰まったビニール袋が握られていた。こんなに一人で食べきれるのだろうか。まあ、彼女がいたり、結婚したりしていれば問題ないだろうけど。ありさちゃんがこれまた絶叫しそうだ。
由子さんが台心先生のスマイルに頬を染めつつ私に目を移すと、そうだ、といった様子でレジに走っていく。茶封筒を持ってくると、何かをさらさらと書き、私に差し出してくれた。あと、パンの紙袋も。
「はい、夕陽ちゃん、今日のバイト代。本当に助かったよ、ありがとね。さんざん食べたと思うけど、良かったらこれ、持って帰って」
「そ、そんな。悪いです、やりたいって言ったのは私ですし」
「いいんだって、その気持ちだけで嬉しかったしさ。ほらほら」
「で、でも・・・・・・」
「せっかくのご厚意なんだし、受け取っとけば?金は大事」
隣で台心先生が囁いてくる。この適当さ、タンギンみたいだ。そういえば本人は、バンシキさんと一緒にショウゼツさんの元に今日の報告をしに行ったので、ここにはいない。新しく姿を見せたあの廃絶の女性は、結構衝撃だったようだ。私はゆっくりと、封筒と袋を両手で手に取る。袋の中のパンは温めてくれたのか、焼きたてなのか、程よく熱が伝わってきて、まだ少し血の気が引いている手の血行を良くしてくれた。
「じゃあ、お言葉に甘えて・・・・・・ありがとうございます。よければまた、お手伝いさせてください」
「もちろん!またお願いね。じゃあ、今日はひとまず先生と帰りましょうか。私は閉店業務があって外せないから、お見送りできないし」
少し抵抗はあるけど、由子さんの後ろでいそいそと片付けや明日の仕込みをしているお父さんと瀬名高君が見えて、私は頷いた。瀬名高君にはまた後で連絡しよう、と出口に向かう。
「はい。ありがとうございました」
「それでは私も失礼します。お邪魔しました」
「はーい。二人とも、また来てくださいねー。待ってまーす」
朗らかに笑う由子さんに礼をして店を出ると、私と先生は無言のまま歩き続け、目の前の横断歩道に立った。もうすっかり暗くなっていて、信号機の赤が目に来る。横をちらりと見ると、先生と目が合った。彼はおかしそうに吹き出している。
「なんだ、その顔。すっごい訝しんでそうな顔だけど」
「い、いえ、別に。ただ、オンとオフの切り替えがすごいなーと思って」
「よく言われるわ。ま、椿も社会人になったら分かるよ。ま、それはいいとして。こんなに外も暗いから、家まで送るわ。って言っても、椿は嫌がりそうだけど、一応先生なんで。大人しく送られてくれると助かる」
「ご迷惑じゃないでしょうか」
「全然。ほら、道案内して」
横断歩道が青信号に変わり、先生はどうぞ、と言ったように手を伸ばす。いつもタンギンがこうして横にいるけど、やっぱり実際の人間がいるのは少し違和感があった。ありさちゃんにバレたら殺されそうだなと思う。当の本人は何も気にしていないようで、大あくびをしていた。
「ふあーあ。ねむ」
「・・・・・・先生は、なんだか不思議な人ですね」
「え?よく言われるわ。そんなんで大丈夫かよって」
「そ、そこまでは言ってないですけど」
前に住んでいた他無県は割と都会だったので、暗くなっても外はビルの明かりがあったけど、ここは一本道をずらすと途端に街灯が少なくなる。いつもはタンギンがいてくれるので何とも思わなかったけど、彼がいない今、こうして夜道に大人の人がいてくれるのはありがたかった。大人は頼れる存在だってことは、美麗さんの件で実感しているし。
「そういや、今日飯食ってなかったわ。パンも買ったし、これでいっか」
「先生は、頼っていいのでしょうか」
「え、何急に。もしかして幻滅された?」
角を曲がって住宅街に出ると、一軒だけ明かりがついていない私の家が見えてくる。まだタンギンが返ってくる様子はない。家に一人でいるのは数か月ぶりだと気づいて、少し心細くなった。一緒にいて気まずかったけど、もう少し一緒にいてくれないかな、なんて勝手に思ってしまう。振り返って、ぎょっとしたように目を開いている先生を見た。
「着きました。送ってくれて、ありがとうございました」
「もしかして、この家?まじの一軒家じゃん。椿ん家って、もしかして金持ち?」
「いやいや、親戚が使っていた家ですし、祖母たちにお金を払ってもらっているだけで、私は何もしてないです。ちょっと広すぎて、持て余してはいますけど」
「だろうな。二階まであって、完全に家族暮らしのやつだもんな。最近、暮らしはどうだ?やっていけてるか?」
隣の家の明かりで体の半分が照らされている台心先生を見上げる。いやに気にかけてくれるなとは思っていたけど、高校生がこんな一軒家に住んでいるだなんて、説明しきっていない事情があるのがバレているのだろう。中学では一応祖母たちがいたし、先生も表情が変わらない私を煙たがっていたから、分かっていても台心先生の優しさについ戸惑ってしまう。
「はい。ひとまず・・・・・・家政婦さんに、家事をお願いすることにしたんです」
そう言うと、先生は少しほっとしたように微笑んだ。不意打ちの表情に、ドキッとしてしまう。
「そっか。良かった、それなら生活は安心だな。学校に長々と拘束されてんのに、身の回りの世話もしなきゃなんねえって、意外と大変だからな。椿が元気で暮らせんのなら、それでいいや」
「・・・・・・先生は、私にすごく優しいですよね。みんなにも、そうなんですか?」
先生は若干顔をしかめて私を見る。ちょっと言い方が良くなかったかな、と口を開こうとすると、困ったように首に手を当てた。
「それ、すっごい周りから言われんの。特に女子生徒からは、なんでこんなに優しいの、私のことが好きなの?って。自分の学校の生徒を心配するのって、そんなにおかしく見えるか?」
「おかしくはないです。私が先生っていう存在から、ここまで気にかけてもらったことがないので、特にそう感じてるのかもですけど。ありさちゃんは、台心先生はみんなに優しいって言ってました」
「あいつは俺のことフィルターかけて見てるだろ。生徒が好きだのなんだの、変な噂が立たないように結構気を付けてるつもりなんだけどな。もう慣れたし」
フィルター、というのは、ありさちゃんが台心先生のことが好きだから、特に注目しているということだろう。ということは、先生はありさちゃんの気持ちに気付いているのだ。先生という立場なのに、こんなに顔がいいと、自然と女子生徒も寄ってきやすくなるだろう。彼も苦労しているんだな、と思う。彼を廃絶のボスだと訝しんでいた私でさえ、先生といると少し緊張する。
「慣れたって、どういうことですか?」
「まあ、話せば小一時間くらいかかるから、また今度な。つうか、長話させてごめん。こうして生徒と一緒にいるのも、本当は良くないんだろうけど。何か近所で言われてたら、椿からも弁解してやってくれ」
「な、なんだか投げやりですね。そんな中、送ってもらってすみません」
「いいのいいの。もう噂とかいちいち気にすんのも疲れたし」
「ほ、本当に何があったんですか」
はは、とあからさまに気の抜けた笑い声を残して、台心先生は手を振って帰っていった。呆然と手を振り返す。なんだか不思議な人だな、という気持ちと、やっぱり顔はいいな、という気持ちで、私は中々家に入ることができなかった。
「おい、何やってんだよ」
ゴンと頭を叩かれ、すぐに振り返って上を見上げた。予想通り、タンギンが夜空に体を透かせながら、宙を浮いていた。やっと来てくれた。
「タンギン!」
「うお、びっくりした。そんな勢いよく振り返って、どうした。ここで何やってんだよ、早く入れよ。つうか、ここまで一人で帰ってきたのか?危ねえから、あの馬鹿の家で待ってればよかったのに」
「ううん、台心先生が送ってくれたよ。今さっき、帰ったとこ。丁度すれ違いになっちゃったね」
「はあ!?あのすけこまし野郎、生徒に手ぇ出してんじゃねえぞ!!何もされなかったか?家に入れなかったのは賢かったな!」
機関車のごとく速攻でぶち切れるタンギンに笑いつつも、格子を開けて玄関の扉に鍵を刺す。やっぱり、タンギンの安心感は格別だ。最近いつも誰かが傍にいてくれているので、恵まれているなと思う。今までの孤独の分が幸せになって返ってきたようだ。
家に入り、靴を脱いでとりあえず手を洗う。タンギンは実体化したのか、リビングからご飯の用意をしてくれている音が聞こえる。鏡に映った自分は結構げっそりとしていて、初のバイトと新しい廃絶のメンバーの襲来に疲労しているようだった。実感すると、体にもどっと疲れが出てくる。
「ほれ、パンあっためたから食えよ。サラダは簡単なもんしかできねえけど。こんな時間だし、食い過ぎんなよ?」
ひょっこりと洗面所のドアから現れたタンギンを見て、不意に台心先生が頭をよぎる。ハッとして、手に持っていたタオルを握りしめた。
「・・・・・・タンギン、台心先生に似てるかも」
「・・・・・・は?・・・・・・はあ!?」
時間差で怒りが来たのか、彼は勢いよくぐるりと回り込むと、私の背中をぐいぐい押した。引っ張られるがままに椅子に座り、湯気が立つ食材に目を向ける。心なしか少し目が霞んだ。
「ほれ、さっさと食べろ、そして寝ろ!!今日は疲れてんだ、寝言は寝て言えや!」
確かに、少し疲れた。私はパンを口に突っ込みつつ、既視感のことをふと考える。タンギンと台心先生は、顔ももちろん似ているけど、雰囲気もそっくりなのだ。上手く言えないし、今は疲れて変なことを言っているだけかもしれないけど、すごく自分の中では腑に落ちている。
「タンギン。タンギンって、モテる?」
「もう早く食え!!風呂沸かしとくから!!」
嘆くタンギンを横目に見つつ、私はぼんやりと、お皿に乗ったミニトマトにフォークを刺した。




