プロローグ
私は、感情がないらしい。
お父さんが死んだときも。
お母さんが夜逃げした時も。
何度も何度も冷たくあしらわれた時も。
私は、無表情だったらしい。
自分の中では、驚いたり、喜んだりしているつもりだ。もちろん、悲しんだりも。
でも、それが顔に出ていないらしい。
そんな私を、周りの人は気味悪がった。まるでロボットだと。
行くあてのない私を引き取ってくれた叔母さんと叔父さんは、最初は必死に笑いかけてくれた。うちの娘がごめんね、って、何回も謝ってくれた。
でも、ずっと無表情の私に嫌気が差したのか、疲れたのか、最近は私の顔すら見てくれなくなった。
そして、中学を卒業した翌日、ついに言われた。
「金はいくらでもやるから、これからは一人で上手くやっとくれ。もう私たちは、あんたに構っちゃいられないよ」
「・・・・・・なぜ?」
つい、私は口を滑らせた。普段なら、悲しい気持ちを押し殺して頷くのに。
理由なんてきっと、私の顔を見たらお母さんのことを思い出すから、だと思っていた。
私の疑問に、叔母さんは私の足元にちらりと目をやり、心の底から出たようなため息をついた。私はそのわずかな風に、体がふらつきそうになった。
「あんたがいると、ご近所さんから苦情が来るんだよ。窓からじっと見てきて気持ちが悪いとか、ぼーっと空ばかり見ていて怖いとか。私たちは、もう限界だよ」
頭と地面がどんどん離れていくような感覚に襲われた。原因は私自身にあった。お母さんに勝手に責任を転嫁してしまっていたことも含めて、私は悲しかった。でも、やっぱり顔には反映されていなかった。本物のロボットになったように、その場から動くことができなかった。
「ほら、これ。あんたが十分生活できるだけの金は入ってるよ。学費はうちから払うから、高校はここから離れたところに行っておくれ。明後日中には、ここを発てるようにね」
そう言って、叔母さんは私に通帳を押し付けた。名義には、私の名前が明朝体で印字されていた。
その後の記憶はない。気が付いたら、はす向かいに建っている、永遠さん家の前まで来ていた。
永遠さんは、近所の優しいお兄さんだ。いつも所々寝癖がついていて、穏やかに垂れた目元から、近所ではマスコットのような扱いを受けている。美大生で、今は2年留年しているらしい。
夕焼けで不気味なほどに伸びた自分の影が、玄関を覆い隠している。インターホンを押そうか迷っていると、丁度玄関から永遠さんが出てきた。いつものように、どこで買ったのか分からない変なTシャツに、鋏やらペンやらを括りつけたベルトを巻いている。最初はびっくりしたけど、もう慣れた。
「あれ、夕陽ちゃん。どうしたの?」
ただ家の前で突っ立っている私を気味悪がることなく、いつもみたいに、彼は笑いかけてくれる。
家を追い出されるので、行く当てがないんです、とは言えなかった。そんなことを言って、困らせるのは嫌だったからだ。永遠さんは優しいから、泊まらせてくれと言ったらすんなりオーケーと言うだろう。でも、それだと叔母さんたちの言う条件に合わない。彼らは、私にどこか遠くに行ってほしいのだ。
永遠さんは黙りこくった私の顔を覗き込んだ。ふんわりと花のいい香りがする。
「・・・・・・そんな悲しい顔して、どうしたの?ちょっとそこらへん、散歩でもしよっか」
そう言って、彼は私に手を差し出した。私はその優しさに泣きそうだったが、我慢して彼の手を取った。とても温かい手だった。
彼の言う散歩は、距離がとても長い。正直足が疲れてしまうのが目に見えていたが、不安で揺らいだ心を落ち着かせるのには丁度良かった。
透き通った水が流れる川沿いは虫が多いけど、今は寒いからか何もいない。草が千切れた青臭い匂いがツンと鼻を突く。私が下を向いてとぼとぼと永遠さんについていくと、彼は私の隣に並んで、軽くかがんだ。彼の身長は、私より少し高い。
「叔母さんたちと、何かあった?」
私は驚いた。彼はいつも、私の心を見透かしたように察してくれる。しかも、寸分たがわずに。
「・・・・・・一人暮らししろって言われました。だから、もうここにはいられません」
私がそう呟くと、永遠さんは足を止めた。私は彼と目を合わせられなかった。三年間履いたローファーが、土や埃で鈍く艶めいているのが見える。
ちらっと永遠さんを見ると、彼はすごく真剣な表情で私を見ていた。
彼はすぐ顔に出る。ニコニコしている日は大学に行けた日(朝起きられた日)だって分かるし、幽霊でも乗り移ってそうな程げっそりしている時は、教授に怒られたか、絵が上手く描けない時だ。
そんな彼が、私のためにこんな顔をしてくれている。それだけで、なんだか嬉しかった。
私は感謝を伝えようと、口を開いた。
「永遠さん。今まで本当に・・・・・・」
そう言いかけた時、彼は手を伸ばして、自分の口に人差し指を軽く当てた。
「夕陽ちゃん。僕、いいとこ知っているよ。雨宿県っていうんだ」
彼の口から出た言葉は、私に明るい未来を約束しれくれるような、頼れる声だった。
「そこはね、日本一優しい県だって言われてる。住む人は、他人を思いやり、尊重できる。特に日影町は、喧嘩や犯罪が起きない平和な街として有名だ。夕陽ちゃん、そこに行こう。僕も手伝うから」
彼はそう言って、私の目の位置まで腰をかがませた。彼の優しいたれ目が、陰る夕日の光を反射して光る。
眩しいくらいの優しさに、私は視界が潤むのを感じた。でも涙は出なかった。出ないはずだった。
「あは、夕陽ちゃんが泣いてる。珍しいね」
ぽろ、と、自分の目から何かが零れるのを感じた。これが涙だということを、彼の言葉でようやく気付いた。
どんなに辛い時も、悲しい時も、いくらそれが表情に出ないとしても、私に寄り添い、私を分かってくれようとした人。
ぽんぽん、と私の頭を撫でてくれた手は、大きくて、少しだけ重かった。
それからは、永遠さんとも協力して、日影町にある、転校先の高校を見つけた。入学手続きに少し手間取り、私は一週間遅れての入学となった。
荷物が少なかったので、引っ越し業者を呼ばずに済んだ。駅までのお見送りは永遠さんが来てくれた。もちろん、叔母さんたちは来なかった。
駅のホームに立って、電車を待つ。私は前に立つ永遠さんの背中を見つめた。傍にある彼の背中が、ぐんと遠くにあるように見える。
これでお別れになってしまうかもしれないことがすごく寂しくて、つい、彼の服の端を掴んだ。
「夕陽ちゃん、寂しいの?大丈夫、僕も寂しいよ」
彼はそう言って笑った。この笑顔がもう見られなくなると思うと、胸が空っぽになる思いがした。
「そうだ、これあげるよ」
そう言って、彼はトレンチコートのポケットから何か光るものを取り出した。
それはガラスだった。メダルの形で、中身には花びらやラメが入っていて、すごく綺麗だった。
「これ、僕が実習の時に作ったんだ。あの日は授業に出てもいいかなって思って大学に行ったんだけど、僕この授業履修してなくてさ。教授にこっぴどく怒られちゃったよ。こんなことしてないで履修してる授業に出てさっさと卒業しろ!ってさー」
「・・・・・・ふっ」
微塵も反省していないように口をとがらせる彼に、思わず笑いが零れる。でも、傍から見たら、ただ強く息を吐いたようにしか見えないのだろう。
「夕陽ちゃん、笑ったなー?いいね、そうやって感情を少しずつ出していけば、きっといいことが起こるよ・・・・・あ、電車来たね」
電車が冷たい風を巻き起こし、私たちの髪と服をなびかせる。嫌な記憶ごと吹っ飛ばしてくれるようで、不思議と心地よかった。
『・・・・・・ご乗車ありがとうございました。次は、日野翳に停まります』
本当に、これが最後の時だ。私はぐっと顔を上げて、微笑んでいる永遠さんを見上げた。アナウンスに負けないように、胸にいっぱい息を吸う。ちゃんと、感謝が伝わるように。
「永遠さん、本当にありがとうございました。私、永遠さんのこと、ずっと忘れません」
彼は軽く目を見開き、やがて笑顔になった。私が一番好きな顔だった。
「どういたしまして。僕も、忘れないよ。ずっと」
これ以上いると離れたくなくなってしまいそうだったので、一礼して、急いで車内に乗り込む。じんわりと視界が歪んでいくけど、背を向ければ彼に見えることもない。
『19番線、ドアが閉まります。ご注意ください』
ホームに背を向けたままアナウンスを聞く。本当に旅立つんだ、と実感していたその時だった。
急にぐいっと腕を掴まれ、背中が永遠さんにぶつかる。信じられないくらいの力で私を引っ張り、私の耳に口を寄せた。
「絶対、君に会いに行くから。その時まで、どうか待ってて」
その時の彼の顔を見ることは出来なかった。背中を押された瞬間と、電車の扉が閉まるのとが、同時だった。
流れゆく景色が視界の端に映るも、私は今起きたことが衝撃的すぎて、そのまま扉の前で茫然とする。
車内には人は誰も乗っておらず、ぶら下がっているつり革が無機質に揺れている。
「・・・・・・永遠さん、あんなに力、強かったんだ」
成人男性じゃないと出ないであろうあの強さは、私の知らない、男らしい永遠さんだった。
最後の最後でかっこいい所を見せてくれるなんて、反則だ、と思った。
トンネルに入り、耳に圧迫感を感じながら車内ガラスを見る。やはり、私の顔は顔色も表情も、何一つ変わっていなかった。
でも、心臓はどきどきしている。永遠さんが見せた男らしさに、緊張しているのが分かった。
ゴーーー・・・
「あ」
手を添えていなかったキャリーケースがひとりでに車内を走っていくのが見えて、私はようやく足を持ち上げた。




