第5話 森の王
魔力は何もしなくても体内を循環するものだけれど、そのスピードは自覚して巡らす場合の十分の一になる。それは偏に、指先や足先といった末端に魔力が溜まりやすいからだ。
そして、俺たち治癒魔法師の魔力は特殊でどの属性の誰の魔力とも反発しない。
これこそが治癒魔法師としての資質であり、他人の魔力への干渉を可能とする。
俺は少しの魔力を指先に流し込み、オティリオの手のひら全体に溜まっていた魔力を動かした。
オティリオの肩が大きく跳ねる。
「わかるか?これがオティリオの魔力」
「なんかグワって動いた!指がずれたかとおもった!」
「さらっと怖いこと言うな……」
ちょっと呆れて肩をすくめたが、次の瞬間俺は目を見開いた。
触れた右手を起点として、オティリオの魔力が全身をいきなり循環し始めたのだ。まるで、一つの石を除いたことで急激に堰き止められていた川が流れるように。
知らず上がる口角を止められない。
まず魔法師は、自身の魔力を自覚するのに大なり小なり苦労する。これは俺が魔力に干渉するというズルを行ったことで比較的簡単にクリアしたが、自覚した魔力を扱う事はまったくの別次元だ。
自身の魔力を澱みなく流すこと、これは体内の魔力濃度を一定に保つことに繋がる。それは魔力量を最も効率的に増やす方法であり、微細な魔力コントロールを身につける第一歩だ。
回帰前のオティリオも、同じく才能があったのだろうか。それがこの家の風潮に染まった事で、開花せずに朽ちてしまったのかと思うと胸がざわめく。
意外だったのが、怒りだけでなく何故という疑問が湧いてきたことだ。
才能はある。この家門の人間のポテンシャルは、おそらくみな一緒だ。そうである筈なのに、回帰前俺が最高峰の治癒魔法師と呼ばれたのは、俺だけが治癒魔法の研鑽を積んだから。
前回の俺はこの時点で関心をゼロにしていた。でも今は一歩進んで考えられる。
何故この家の人たちは、両親は、弟は治癒魔法を極めようとしなかったのか。ただの怠惰とは思えない、何か理由がある気がした。
少し考え込んでいた俺は、異変に気付くのが遅れてしまった。
「ねぇにーさま!こっからどうすればキラキラ出せる!?」
オティリオの魔力が突如膨張する。
人為的な干渉がなければあり得ない現象だ。だが誰がこのゼットバランの敷地内で?
いや、まずは魔力を落ち着かせる方が先だ。俺は握ったままだった手に力を込めたが、その瞬間それが悪手だったことに気付く。
オティリオの魔力に触れたそばから、自身の魔力も引きずられるように暴走し始めたからだ。まるでコントロールが効かない。
溢れ出た魔力が黄金の光を撒き散らして、俺たち二人の周りを荒れ狂っている。
そしてコントロールを失った魔力が強い力で引っ張られ、足場が不安定になった。どこか別の場所に落ちる事を悟った俺は、オティリオの手を引いてその頭を抱え込んだ。
しかし、くると思っていた衝撃はいつまで経ってもこず、俺はそろりと瞼を持ち上げた。
頬をくすぐる草の感触と湿った土と花の匂い。どうやら柔らかな草花の上に倒れているらしい。
ゆっくり体を起こすと、どこまでも花畑が広がっていた。この世のすべての色を持ってきたかのような、カラフルで色鮮やかな花弁が天へと巻き上がっては溶けていく。
見上げた空は青くなく、ひたすらに真っ白であった。だが太陽も雲もない白い空は、一定の暖かな光を降り注いでいる。
ひどく美しく、心地の良い世界であった。
何処だ、ここ。
額を抑えようとしたが、その手に何かが繋がっているのに気付いて視線でそれを辿っていく。
そして隣に倒れている人影を見た瞬間、どこか夢現だった意識がはっきりした。
「オティリオ!」
ぱっと見異常はなく、魔力で確認してもどこにも怪我はない。しかし、ゆすっても身じろぎ一つなく眠り続けいる様はどう考えてもおかしかった。
俺はその手を握ったまま、警戒を解かずに慎重にあたりを見回した。
人の気配はないが、空気中の魔力濃度があり得ないほどに濃い。
どれだけ魔力操作に慣れていたとしても一瞬で昏倒してしまいそうな中、俺とオティリオの魔力が凪いでいるのが不自然だった。
それにこの安全がいつまで持つか分からない以上、長居をするのは得策ではない。一か八かで声を上げた。
「おーい、誰かいないのか?」
声は風に流されて消えてしまった。
美しいけど、現実味のない世界にぽつんと取り残されたような孤独感が、じわじわ俺の心に焦りを落としていく。
その時後ろから突風が吹いて、小さな衣擦れと布のはためく音がした。
「誰だ!?」
『振り向かないでください』
男とも女ともとれる不思議な声を聞いた瞬間、抵抗する気持ちがすっと消えてなくなり、その言葉に大人しく従ってしまった。
『私の庭に生まれし子ら、ですね。……ですが、まだまだ未熟な様子。
ここには偶然迷い込んでしまった』
穏やかだけど、人を従わせる声だ。
ここに来る直前にいた場所と、人ならざるものの魔力に、俺は心に浮かんだ名前を半ば確信を持って言った。
「……もしかして、“森の王“?」
『おや、懐かしい呼び方だ。それにその魔力、もしやゼットバランの子かな?』
「そうだ」
『そうかそうか。かなり良い所まで行っているが、まだ足りないね。
極地に辿り着いたらいつでもおいで。約束のものを授けてあげよう』
約束のものって何だ?
そう聞きたかったが、視界が白い光で染まっていく。
くそ、抗うことができない……!
せめてもの抵抗に、ぎりぎりまで目を開けようとする。しかし、耳鳴りがする程の強い光にいつの間にか視界は閉ざされていた。
一瞬だった気もするし、すごく長い時間が経ったようにも感じた後、ふと鳥が羽ばたく音が聞こえた。
背中に大樹のごつごつとした感触がある。
色のついた空に、一面の芝生。どうやら戻って来れたようだった。
知らず強張っていた肩の力を抜いて、いつの間にか落ち始めていた太陽をしばし呆然と眺める。
我に返って隣を確認すると、オティリオもちゃんといて小さく唸りながら目を開けた。
「にーさま、手、いたい」
そこで強く握りしめすぎていた事に気付いて、謝りながら手を離す。しかし、その手が尋常じゃないほど熱い気がして思わず額に手をやった。
「オティリオ?お前、大丈夫か」
「あれ、にーさまがさんにんいる……」
言うなり目を回してしまったオティリオに、俺は冷や水を浴びせられた気持ちになった。
魔力の存在を自覚してすぐに高濃度の魔力に晒されたのだ。異常をきたしていても何も不思議ではない。
俺はオティリオを背負うと、全速力で走り出した。
オティリオが小さくとも7歳の体ではかなりしんどく、汗だくになりながら転がり込んできた俺を見たメイドは、驚きの声を上げていた。
オティリオを下ろして、熱が出ている事を伝えるとにわかに屋敷が騒がしくなる。
集まってきた執事やメイドが俺の背からオティリオを抱き上げると、俺は力が抜けてしまって座り込んでしまった。
尋常じゃなく息が切れて、体が重く少しも動けない。
「レイモンド様……?」
一人のメイドが膝をついたが、それより先に俺の体が傾いた。
漣のような悲鳴があちこちから漏れる。
しかし地面の激突する前に俺の体は温かい何かに包まれた。
「ひどい熱です!旦那様に報告を、部屋も準備なさい!」
焦ったカペラの声を遠くに聞きながら、俺は抗う事なく目を閉じた。