スモーキンシアター
俺の肺は俺のものじゃない。三年前、臓器移植で俺のものになった。元は飯島光太という人のものだ。光太とは親戚同士で、年は俺の二つ上だった。あまり話したことはなかった。俺は殆ど病院で生活していて、親戚の集まりみたいなものにあまり参加していなかった。光太は事故に遭って脳死状態になったらしい。光太の親は臓器移植を承諾したようだ。俺のことを知っていたからかもしれない。親は俺によく、お前は生かしてもらっているんだ、という。光太に感謝はしている。でも俺は、誰かに生かされているとは思いたくなかった。
タバコを吸い始めたのは十七の時だった。俺の高校は全然頭のよくない工業高校で、周りの奴らがみんな吸ってたから自然と俺も吸うようになった。俺は吸い始めるのが遅い方だったと思う。自分の肺ではないという意識があったから、なんとなくタバコは避けていた。最初は付き合いで吸っているだけだった。親にタバコのことがバレた時、父には殴られ、母には泣かれた。そういえば、お前は生かしてもらってるんだ、というのはその時に言われた言葉だったかもしれない。親が怒る理由が多分、俺が心配だからじゃなくて、飯島さん、光太の母に申し訳なかったからなんだと思ったら、なんだかどうでもよくなった。
飯島光太の家は母子家庭だった。生活にも相当苦労していたらしい。俺が臓器移植を受けてから、飯島さんは金に困ると俺の家にやってきて、両親から金を貰っていた。俺がいる時でも、それは平然と行われていた。両親が何も言わずに金を渡しているのを見て、俺は何かとてつもない違和感を感じた。俺を生かしているのは光太の肺であって、お前ではない。そう叫びたかった。
俺は今十八で来年からは就職。就職と同時に家を出ようと思ってる。俺の部屋の白い壁はヤニで少し黄色くなっている。親からはまだタバコを吸うなと言われ続けている。やめないなら一人暮らしは許さないって。仕送りはいらない、自分の収入で何とかするって言っても、お前だけの命じゃないんだぞって言われると俺は何も言えなくなってしまう。
今日内定をもらった。本格的に就職の時期が迫ってきている。でも、一人暮らしの承諾はまだ得られていない。内定をもらえたことは嬉しいはずなのに、家に帰りたくなかった。俺は一人で家の近くにある公園のベンチに座り、タバコを吸っている。夕方、日が短くなってきて、少し暗い公園。タバコが少しずつ短くなっていく。俺は煙を見つめながら、考えることはたくさんあるはずなのに、何も考えられないでいた。その時、足音が聞こえた。小さい足音。その足音がだんだん大きくなってくる。タバコを地面に捨て、足で踏みつけてから、足音のする方を見ると、飯島さんが俺のことを真っ直ぐに見ながらこっちに向かって歩いていた。飯島さんは俺の前で立ち止まって、俺のことを見下ろしている。
「優斗くん」
「……飯島さん」
しばらくの間見つめあっていた。飯島さんの顔には前見た時よりもシワが増えているように見えた。疲れたような顔をしているけど、目だけには力がこもっていて、俺のことを真っ直ぐに見据えている。バッ、という音がして、飯島さんの手が俺のほうに伸びてくる。俺は反射的に体を硬直させた。次の瞬間、飯島さんの右手が俺の左手に握られていたセブンスターを奪い取った。
「これは何?」
静かな問いだった。怒っているようでも、悲しんでいるようでもなく、ただ本当にそれがなんなのかわからないような、そんな声だった。
「タバコです」
「なんで」
「吸うんで」
俺はなんと言えばいいのかわからなかった。飯島さんが聞きたい答えと違うことはわかっていたが、もうどうでもよかった。怒鳴られれば済む話だ。そう思っていたが、飯島さんはこっちを見ようともしないで、静かにセブンスターを見つめていた。沈黙が流れる。たった数秒の沈黙が、とてつもなく長く感じた。
「……光太はバイトしながら学校に行ってて、でも成績は優秀で、みんなから好かれてて、将来は公務員になりたいって言ってて、公務員なら収入も安定するし、高卒でもなれるからって、家のことは俺がなんとかするからって…………光太が言ったの。俺に何かあったら臓器提供をして欲しいって。事故に遭う二週間前だった。私は本気で取り合わなかったけど、もしかしたら光太は何かを感じてたのかも。うちに光太の延命治療をする余裕なんてなかった。だから光太は私が困らないように……」
急に息子自慢をされても困る。俺は何も言えずに、ただ飯島さんの手に握られたセブンスターを見ていた。
「優しい子だったの」
「……そうですか」
それ以外に何もいうことができなかった。俺の陳腐な回答を飯島さんはどう思っているのだろうか。
「優斗くんには光太の分まで生きて欲しいって思ってる」
あなたと俺の間にどんな関係があるのだろうか。飯島さんが俺の長寿を願う意味がわからない。いや、ひとつだけ心当たりがある。
「今日はなんでこんな所にいるんですか」
俺は視線を上げ、飯島さんの顔を見ながら尋ねる。
「……買い物に来ただけよ」
飯島さんが俺と目を合わせないようにしているのがわかる。飯島さんの家はこの辺ではないし、この辺りにはたいした店もない。来る理由は一つしかなかった。
「俺の家に、金を貰いに来たんですか」
飯島さんは顔色をひとつも変えることなく、俺の方を見た。視線がぶつかる。なんとなく目を逸らしてはいけない気がした。
「これ、返すわね」
飯島さんは右手に持っていたセブンスターを俺の方に投げた。俺は咄嗟に反応できず、不恰好に投げられたセブンスターをキャッチした。
「あとこれ」
飯島さんがカバンの中をゴソゴソとあさり、何かを取り出してまた俺のほうに投げる。今度は慌てることなく、片手でそれをキャッチした。
「なんですか」
投げられたものはライターだった。なんでこんなものを。飯島さんもタバコを吸うのだろうか。でも吸うとしても俺にライターを渡す意味がわからない。
「光太の形見よ」
飯島さんはなんでもないことのようにそう言った。なんだ、光太も吸ってたのかよ。少し意外だった。
「ありがとうございます」
俺が言い終わると、飯島さんはじゃあと小さな声で言って、俺の前を通り過ぎて行く。
「……俺の親に言っといてくれませんか」
俺は飯島さんの背中に向けて声を出す。
「優斗くんにはもう会いたくないから家から追い出せって」
声を聞いた飯島さんは一瞬足を止めて、少しだけ後ろを振り返った。
「言っておくわ」
そう言うとまた足早に歩き始める。俺の家の方向に向かって。飯島さんの足音が遠ざかって、完全に音が聞こえなくなる。なんだかドッと疲れた。俺はタバコを一本取り出して、さっきもらったライターで火をつけた。