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「ちょっと一服つけてくる。手続きが終わったようなら声を掛けてくれ」
「あっ、一人だけずるい!」
「お前は後だな。二人で外に出ちゃ、呼ばれても分からねえだろ」
前世の習慣と言っていい物か。単に屋内というより、灰皿もない高級ホテルのロビーで煙草に火を点けるのが憚られるような気がして、俺は1人で外に出た。路地というより建物の隙間に入り込み、まだ今日は数えられる本数の煙草を吸った。
煙に気がついて俺に目をやった通行人がぎょっとしたように驚いて視線を逸らす様子を観察するのが思いのほか楽しい。
ヒデはロゼについて旅をしながら冒険者として仕事をしたいらしい。全くの未経験でハンバーたちのように立派な護衛が務まるとは思えなかったが、雇用するかどうかを決めるのはロゼだ。行き場がないようならまた俺と一緒に洞窟へ戻ったって構わない。
俺はどうするか。ひとまず洞窟へは戻るが、その後の生活や人生に青写真が思い描けない。だらだらとこの数年と同じように過ごしているうちに、数年が経ってしまいそうだ。それはそれで良いかもしれない。前世だって、食うために働いていたようなものだ。食っていけるなら不便はあっても困ることはないような気がする。
目標なんてない。俺はもう40代のおっさんだ。大工は1人じゃ出来ないし、恐らく組合のようなものがあるだろう。こんなおっさんを新人として仕事を教える親方も大変だろうし、何より自分が仕事をするために、この世界での家の建て方を含め、新しく何かを身につけるのが億劫で仕方が無かった。
そう考えれば、転生なんてせず、寿命は寿命で全うしたままでも良かったかもしれない。転生系の物語の主人公達は、何故生き返ることにあんな喜ぶのだろう。辛い思いをしていたならなおさら、生き返って今度こそはと気張らず、転生時にそれを断ったっていいじゃないか。……物語にはならないが。生き返ることを拒否する死者達に頭を悩ませる神視点の話とか、あっても面白いかもしれないな。
「ノリさーん。どこー?」
くだらないことを考えていたら、ヒデの呼ぶ声がした。
「おう、今行く」
路地から顔を出して吸いさしをもみ消し、携帯灰皿に押し込んだ。
「そんなところにいたら、ノリさんの風貌なら怪しすぎて捕まるよ」
「やくざもんが狙いを定めて下見してるってか」
「そうそう。うわあ、凄く想像できちゃうなあ。……いやいやなんでもないよ?」
にょきにょき伸びてきてもまだ俺より低いところにある頭を掌で掴んでやると、失言に気がついて慌てて誤魔化した。
「手続きは終わったのか」
「ううん、そうじゃなくて。宿帳とかいうのに記名がいるんだってさ」
さすがは高級ホテルだ。識字率はそう高くなさそうなのに、当たり前のように字を書かせるのか。
受付へ歩いて行くと、住所やら滞在予定やらが細々書かれた帳面が開かれていた。
「お客様。お連れ様も直筆のご記名をお願いしておりまして」
ロゼの相手をしているフロントマンは、俺の顔を見て顔を引き攣らせつつも、宿帳の記入欄を指さした。
「分かりました」
返事をしたものの、筆記用具を持って俺は固まった。
字が書けない。翻訳能力によって読むことは出来るのだが、どうやって書けば良いのか分からなかった。
「どうしたの?」
横で俺の順番待ちをしていたヒデが問う。
「読めるけど書けないことをすっかり忘れてたんだ」
「え? あなた、字が書けないの?」
「こっちの言葉はしゃべれるし読めるけど、書けないんだった」
「平民にしては知的レベルが高いと思っていたから、すっかり油断していたわ。でも、こっちの言葉はということは、違う言葉なら書けるのかしら?」
「故郷の字なら書ける。名前は忘れていなかったし、字も覚えている」
「それでもよろしくて?」
ロゼはフロントマンに尋ね、了承を得る。
渡された鉛筆のような筆記具で、数年ぶりに文字を書いた。書き慣れていたはずの飯田則行の4文字は歪んでしまったが、慣れない文房具のせいだと思い込むことにした。
「これでいいか」
「いいも悪いも、こんなに細かくて込み入っている文字は初めて見たわ。これが本当にあなたの名前を表わしているのか、私には判断がつけられない」
そりゃそうだろう。漢字がこの世界にあるとは思えない。俺の他に日本語の読み書きができるのは隣にいるヒデだけのはずだ。
「ロゼさん、俺もこの字しか書けないんだけど、それでいいかな」
「ヒデくんも、普通の字で自分の名前が書けないの?」
「うん、俺はこの国の生まれだけど、読み書きが出来るのは村長くらいっていうド田舎の出身だし、文字はノリさんから教わったんだ。ノリさんの知らない文字は俺にも書けないよ」
「そう……今夜は読み書きの練習をみっちりしてあげましょうね」
「ええー、ゆっくり休みたかったのに」
「はっは、頑張れよ」
勉強を予告されてがっかりするヒデが記名するのを見ながら俺は笑ってやった。
「他人事みたいに笑っているようですけど、ノリさんも一緒に覚えるのよ」
「はっ?」
「誰にも読めない字を書いたって仕方がないでしょうに」
苦い顔をしている俺が楽しかったのだろう。今度はヒデが笑っていた。
「お前そうやって笑ったこと、後で覚えてろよ」
「あははは、顔が怖いって、ぷぷぷぷ。ホテルの人が怖がってるよ」
横目で見てみれば、カツアゲにでも遭ったかのような青白い顔をしているフロントマンが冷や汗を掻いていた。
ゴタゴタしつつも無事にチェックインが終わり、二階の客室へ案内される。隣同士で、ツインルームを二つ取ったようだった。
ツインといっても結構広い。布団さえ持ってくれば、もう1人くらい余裕で寝られそうだった。ロゼはそんな部屋を、一人で二人部屋を使う事になる。護衛として正式な契約こそしていないものの、多少の宿泊料金を値切って部屋が離れ、危険が増すのは同じ屋根の下で過ごす意味が無いと説明した。
「3人部屋の方が良かったかしら」
「やめてくれ、元はと言えばあんたはやんごとなきお方なんだろう。余計な火種を生んで煙を立たせることはない」
「そうなのよ」
「理性的な判断に感謝……」
「だから外出先で、夫や子供と同じ部屋で過ごしたことがなくって。お互いに血は繋がらないけれど、親子3人旅の雰囲気を味わえそうじゃない」
「ロゼさんが俺のお母さん!? なにそれすごくいい!」
ヒデがはしゃいだ。
「勘弁してくれ、やりたきゃ二人だけでやってくれ」
「おかあさーん、お父さんがつまんないこというー」
「のりの悪いお父さんですねえ」
「俺の名前と掛けたつもりかよ」
ふふふと上品だがわざとらしく笑って誤魔化された。
「飯にはまだ少し時間があるんだろう。先に体でも洗ってくるか」
「ではお湯とタオルをもらってきましょうか」
ロゼの提案に対して疑問を浮かべていたのだろう俺を見て、ヒデがピンときたように言った。
「ノリさん、濡らした布で体を拭うだけで、風呂は普通の宿屋なんかにはないよ」
「高級ホテルなのにか」
「当たり前じゃないの、どれだけコストがかかると思っているのよ」
「そんなん魔法でちゃちゃっと……町中だから無理なのか」
「ええ、その通りよ。不便だから魔法は使えなくても、魔道具が普及し始めてきたわ。それでも出せるお湯なんて、一階分が桶に1~2杯というところなの。ここはかまどで沸かしたお湯をもらえるけれど、多くの冒険者が使うような宿なら水だけよ」
日本人としてはやっぱり毎日湯船に浸かりたい。洞窟に温泉があって本当に良かったと思った。
「ないなら仕方ないか、なら飯の時に声を掛けるんでいいな」
体を拭くだけならそれほど時間もかからないし、女性であるロゼの前で服を脱ぐのも問題がある。




