月の光が二人だけを照らしていた。そして、勇者は死んだ。
相対するのは強大な敵――魔王。
圧倒的な……いっそ暴力的にすら思えるほどの魔力だ。
まさしく、死の象徴だった。
しかし不思議と恐怖心はなく、むしろ頭の片隅にどこか妙に冷めた部分があるのを自覚していた。
正面に構えた聖剣の柄をグッと握り、気合を入れ直す。
「――覚悟しろ! 魔王!」
戦いが始まった。
剣が舞い、魔法が吹き荒れる。
死闘だった。少なくとも、勇者である俺にとっては。
神速の剣閃から生じた衝撃派が、石造りの天井を穿った。
火球が壁を破り、崩れ落ちた瓦礫を突風が吹き飛ばした。
やがて数時間にも及ぶ戦いにも、決着のときが訪れる。
「はぁぁぁああああ!!!!」
渾身の一振りだった。
これで仕留めるはずだった。
そのつもりだった。
だがその攻撃は結界に阻まれ、届きすらしなかった。
――ガキィン!!
衝撃と同時に鈍い音がして、両の手から圧が消えた。
たたらを踏んで得物を見れば、途中から折れてなくなっている。
急に音が消え、時が止まったように感じた。
一瞬遅れで背後から、軽い金属片の落ちる、カラカラと乾いた音が聞こえた。
それはまるで敗北を告げる鐘の音のように、俺の心に虚しく響いた。
腕から力が抜け、だらりと垂れる。
見上げれば天井はなく、代わりに星の広がる夜空と輝く月があった。
「――殺せ」
天を見上げたまま言った。
「もはや万策尽きた。俺の攻撃は何一つ届かなかった。俺の怪我はすべて自身の攻撃の余波で出来たものだ。俺はこれだけ全力でお前を殺す気で戦ったのに、お前には攻撃をさせることすらかなわなかった」
俺の頭からは血が流れ、顔をべっとりと濡らしている。
身体も切り傷、打撲だらけで、あちこち痛む。
体力も魔力もすべて尽き、頼みの綱の聖剣すら折れた。
何より、心が折れた。
「少し、話をしないか?」
「……お前と話すことなど何もない。さっさと殺せ」
「それが望みなら殺してやるとも。だが、いいじゃないか。最後に少しくらい。私は退屈なんだ」
なぜか申し訳なさそうに微笑む魔王に、俺は首を縦に振った。
適当な瓦礫を見繕い、二人並んで腰かけた。
「つまらない昔話をしよう」そんな出だしで、魔王は話し始めた。
「ここにはかつてよく栄えた街があった」
「――街だと? ここに?」
驚きのあまり口を挟んでしまった。
この辺りは見渡す限りの荒野だ。
建物など、この魔王城以外に何もなかったはずだ。
「ああ、そうだとも。もうずいぶん前になるがね」
過去を懐かしむように目を細め、魔王は星を見上げる。
「私は生まれたときから魔力が多かった。物心つくとすぐに次の魔王候補として育てられることになった。訓練漬けの毎日だった。魔王候補は他にもいたが、私はあっという間に抜き去ってしまった。十年ほど経った頃には、私の相手になるものは誰もいなくなったよ。そしてその代の魔王に戦いを挑まれ、いとも簡単に破った」
月が魔王の横顔を照らしていた。
淡い光がその輪郭を露わにしていた。
綺麗だった。美しかった。
だがなぜか……儚げに見えた。
「私は新しい魔王として担ぎ上げられた。皆、『歴代最強の魔王だ』と持て囃した。魔族は強い者に従うものだ。全員が私に傅いた」
――私はただ流されるままに戦っただけなのにね。
そう言って、自嘲気味に笑みを浮かべた。
「それでもしばらくはそれで良かった。だが問題が起きた。――私は強すぎたのさ」
「……それに何の問題が?」
魔王は困ったように眉尻を下げた。
――瘴気だよ。魔王はぽつりと漏らした。
「私の魔力は瘴気となって周囲を汚染する。みんな、ただ近くにいることすら出来なかったのさ。私が魔王になったのはまだ十三の頃で、成長途中だ。年を重ねるごとに、私の周りから誰もいなくなっていった。成人となるころには街ごと消えた。消えざるを得なかったのさ。なにせ近くにいたら死んでしまうからね」
「それは……」
何か言おうとしたが、何を言っていいのかわからなかった。
代わりに「それで今、何歳なんだ」と訊いた。
「女性に気軽に歳を訊ねるもんじゃない」
「あ、いや、すまん」
慌てて謝る。
魔王でもそんなこと気にするのか、と思ったが、当の魔王はフッと表情を緩めた。
「――冗談だ。そうだな……。正確にはわからないが、もう三百は超えただろうか」
――三百年。
途方もない時間だ。
そんな年月を彼女は一人で過ごしてきた。
この生き物はおらず、草一本すらない荒野で。
どんなに孤独だろうか。
誰一人話す人はいない。
誰かと関わろうとしただけで、誰かを死なせてしまう。
俺には想像もつかなかった。
「……そうか、それは辛かったな」
うまい言葉が浮かばなかった。
もっと気の利いた言葉をかけてやりたかった。
だが訓練と戦いしか知らない俺には、そんな簡単なことすらできなかった。
「人間の尺度で測るなよ? お前たちのような短命種族と私たちとでは時間の捉え方がまるで違う。人間にとっては想像の埒外であっても、魔族にとっては大したことはないことなど、いくらでもあるのだから」
牽制するように、魔王は俺を睨んだ。
だが恐怖は感じなかった。
俺よりも遥かに強大な存在であるはずなのに、だ。
魔王の心の内が、どこか理解できるような気がしたのだ。
「だがそれでも、寂しさを感じたのだろう? だからこうして俺と話をしてるんじゃないのか」
「――まあ、な」
暫し空白の時間が流れる。
どちらも、何も話そうとしなかった。
「……退屈しのぎなら、今度は俺の話をしよう」
気が付けば、俺はそんなことを口にしていた。
この時間をまだ終わらせたくない――そんなふうに思ったからかもしれない。
「俺は田舎の村でなんてことない農家の、普通の両親の間に生まれた」
返事を待たずに話し始める。
「五年ほど経った頃だ。突然国から使者が来た。抵抗したが、半ば無理やり連れて行かれた。そして王に謁見させられ、『お前を勇者と認定する』とただ一方的に告げられた」
魔王が神妙な顔で相槌を打った。
横目で確認し、先を続けた。
「そこからは勇者としての教育が始まった。お前と大体一緒だな。来る日も来る日も訓練だ。ついでに礼儀作法や言葉遣いなんてものもの叩きこまれた。まあ……性に合わなかったから、お偉いさんたちと会うときくらいしか使わなかったけどな。『勇者たるもの勇者らしくあれ』だとさ。笑っちゃうよな。こっちはただの農家のせがれだっての」
冗談めかしてハハハッと笑うが、魔王は困ったように少し微笑んだだけだった。
「俺の周りにいるのは偉そうなじじいか、堅っ苦しい騎士どもくらいで、同年代のやつなんて一人もいなかった。そして十八になった頃、いきなり国中にお披露目されて放り出されたよ。『魔王を倒してこい』ってな。なんだこいつら……って思ったけど、それでもまあ――一応は育ててもらったし、両親にも結構な金が渡されたらしいからその恩義もあってここまで来た。んで、お前に負けた」
魔王は何も言わなかった。
何を言っていいのか、わからない様子だ。
こいつも俺と同じで、あまり口の上手い方ではないのかもしれない。
……それも当然か。だって話す相手などいないのだから。
「なあ、知ってるか? 国が軍を出さずに、勇者に魔王を倒しに行かせる理由を」
興が乗った俺は、そんなことを口にしていた。
「……いいや」
魔王は少し考え、首をゆっくりと横に振った。
それを確認し、俺は「――面子さ」そう零してから、話し始める。
「魔王を放置することは民衆が許さない。しかし国が出張って、負けたら事だ。勇者が負けるだけなら、『あいつが弱かったからだ』で済む。要するに、俺は捨て駒ってわけだ。駄目で元々。もしも倒せたら儲けもの……ってところだな」
言い切ると、魔王はこちらの目をじっと見た。
何秒か、そのまま見つめていた。
そして――
「…………お前はここに」
何か言いかけて、そこで言葉を切った。
そして言い辛そうに何度か口を噤んだあと、やがて決心したかのように言った。
「――お前はここに、死にに来たのか」
何かがカチリと嵌ったような気がした。
そうか……俺は死にたかったのか。
両親から引きはがされ、故郷を追われ、孤独な環境を強制されながらも自ら死ぬ勇気は出ず、国を救うために戦ったという理由の元に、こいつに殺されに来たのだ。
「そうかな……うん、そうかもしれない。きっとそうだ。だから、遠慮なく殺してくれ」
頷くたびに実感がわいてきた。
とてもしっくりときていた。
それになんだか、満足していた。
もう思い残すことはないと思った。
「では……その命――」
魔王が立ち上がった。
――とうとう殺される。
そう思って目を瞑り、力を抜いた。
今から来るであろう攻撃を、全て受け入れようとした。
覚悟は出来ていた。
だが訪れたのは、想像とはまるで違った衝撃だった。
「――尽きるまで、私と一緒に歩んでくれないか?」
「……え?」
目を開けると、魔王が手を差し出していた。
「お前が飽きるまででもいい。私と共に生きてほしい。私は退屈なんだ。そしてそんな私と一緒にいても死なないのは、この世界中を探してもお前だけだ」
「……バカじゃねえのか? 俺は勇者で、お前は魔王だ。それに俺は……お前を殺しに来たんだぞ」
「それでも、だ。なんなら隙をついて私を殺してもいいぞ? ああ。そうだ、それがいい。お前は私を殺す機を窺いながら、私と一緒に暮らせばいい。それならお前も勇者としての面目が立つというものだ」
魔王は憑き物が落ちたような顔をしていた。
先ほどまでのどこか翳りのある雰囲気は鳴りを潜め、とても堂々と俺を見下ろしていた。
そのとき一条の風が吹き、魔王の長い銀髪をふわり、はためかせた。
月の光を反射したそれは、まるで朝露に濡れた蜘蛛の糸のように、きらきらと輝いていた。
――思わず、見惚れてしまった。
「どうした? 手をとらないのか? それとも、本当に殺されてしまうのがお前の望みなのか?」
こちらを試すように見る魔王の手を取って、立ち上がる。
再び、目線が合った。
そうだ、意趣返しをしてやろう。ニヤリ笑って言った。
「お前、そうやって堂々としている方がずっと綺麗だな」
「……ッ……バカなことを言うんじゃない! 私を揶揄ってるのか!」
弾かれたように繋がっていた手を離し、魔王は顔を逸らした。
夜闇を照らす柔らかな銀光が、赤くなった頬をほんのりと映し出していた。
案外、こっちの方の防御力は低いんだな。
なんだか可笑しくなってくつくつと笑うと、魔王は不満気に口を尖らせた。
それを見てまた笑った。
「しょうがねえな。じゃあしばらく一緒にいてやるよ。それに俺なら、もしかしたらその瘴気? もなんとかしてやれるかもしれねえし」
「……本当か!?」
ガバッとこちらに近づいた魔王を「近い近い」と押しのけつつ、言った。
「俺は攻撃魔法だけじゃなくて聖魔法も得意なんだよ。たぶんお前と一緒にいて大丈夫なのもそのせいだ。だからいろいろ試してみようぜ。――何せ、時間だけはたっぷりあるからな」
「……ああ……ありがとう。よろしく頼む……」
先ほどまでの態度はどこへ行ったのやら。
静かに嗚咽を漏らす魔王を抱き留め、背中をぽん、ぽんと軽く叩いた。
なんてことはない。
こいつも俺と同じで、ずっと言い知れぬ孤独に苛まれていたのだ。
☽
魔王を倒す勇者としてここに来た俺はたった今、死んだ。
ずっと俺の中に燻っていた、どこか希死念慮にも似た感情もいつの間にか消え失せていた。
だがその代わりに、今は生への活力が湧いて来る。
こいつと一緒に生きてみたい。
生きて、幸せになりたい。
幸せにしてやりたい。
腕にすっぽりと収まる、意外にも小さかった存在を感じながら、俺は生まれて初めてそんなことを思ったのだった。