3.4 Optics 光学
世界は終わることなく、爽やかな朝がやって来た。
よく考えてみれば、後ろ言葉《バックワーズ》はラトちゃん以外に読めはしないんだ。
慌てずに対処すればいい。
「ソフィーさん、黒い本を知りませんか、全てが黒い本を」
「とりあえず、その子を降ろせば?」
「…zzz」
朝から、僕はラトちゃんを背負ったままギルドに来ていた。
「珍しく慌てちゃってどうしたのさ。黒い本なんて知らないよ。見たこともないのに」
「見かけたらすぐに教えてください。ところで、カナリアoさんは休暇ですか?」
「ルークンが行ってた緊急クエストの報告で、今日はずっと王都のギルドと《遠話》だって。おかげであたしがこんな朝早くからクエストカウンターもやらされるってわけ」
ライトブラウンの兎耳を垂らしたソフィーさんは大きくあくびをする。
昨日は横のカウンターに居たと思ったのに、実物を盗み見ていなかったのか。好奇心旺盛なソフィーさんにしては珍しい。
「今日から訓練するのは聞いてるけど、訓練者が寝てたんじゃあ受付できないよ?」
「ぼくは寝ていないのだ」
ラトちゃんは僕の肩に乗せていた顔を上げて明瞭に答えると、背中から床に降り立った。
「甘えていただけだからな。受付はぼくからお願いするのだ」
「ねぇ、ちょっと今度さ、甘えかた教えてくれない? 最近ルークンが厳しいんだよ~」
「先に受付の仕事をしてください」
「ほら厳しい! いーじゃん、誰も並んでないんだからさー」
職務を優先させることや、僕の店の中での禁酒を言い渡すことを厳しいとは言わないと思う。
「ソフィー、そのうちまたルーちゃんが甘やかしてくれるけど、それは今じゃない。そういうお日柄なのだ」
「今は真面目に働くっきゃないかー」
大げさに兎耳を萎れさせたソフィーさんは、魔力板を操作してラトちゃんの訓練を受付した。
ギルドの外では準備万端のロザリィさんが、ずいと立っていた。どうやって僕達の動向を掴んでいるんだろう。何も連絡していないのに。
「さあ......行きましょうか!」
「ロザリィ、同行は許可できないのだ」
ロザリィさんの顔が青ざめ、背後には、がーん、という文字が見える。
僕は思わず目を擦った。
どうして文字が浮かんでいるんだろう。何かの魔法だろうか?
「...ど......どうしてですか..........?」
「今からするのは、ぼくとルーちゃんだけのひみつ特訓なのだ。ふたりだけの秘密なのだ!」
「ぐぬぬ......そういうことなら......仕方ありませんッ」
血涙を流しそうな表情で唇を噛むロザリィさんに見送られ、街の外へ出掛けた。
そして僕たちは街を出てから草原を歩いて抜け、銅星冒険者の定番の採取場である森に来ていた。
「サンプリングする際は、採り尽くさずに、必ず残すようにする。こうすれば、同じ地点でまた採取できるようになるからね」
「またここで採取できるように、ぼくも協力するか」
薬草を採取したラトちゃんが手を翳すと、引き抜かれた薬草がポンっと音をたてて完全に再生した。一般の冒険者には、このような手法は取れない。
「こうやって元に戻しておくのだ」
「ラトちゃん、本に書いた魔法以外を使うのは冒険規定外になりやすいから、あまりよくないよ」
「魔法は使ってないけれど、ルーちゃんがそういうなら、元に戻すは魔法として書いておくか」
ラトちゃんが魔導書をめくると、識別不可能な紋様が浮かび上がった。明らかに銅星のプリーストの能力から逸脱している。でもここは、なるようになると割り切ろう。
森の中を歩きながら、迷わないためのマッピング方法や、モンスターの通った痕跡の見つけ方などを説明していく。
訓練の流れのなかでモンスターの足跡を追っていくと、遠くにゴブリンが1体確認できた。
ゴブリンは獣人族型モンスターの代表格で、多くの地方に広く分布している。ラトちゃんより小さい背格好で、皺のきざまれた顔と縦に尖った耳が特徴的だ。
単体としての強さは銅星1でも勝負になるくらいだ。ただし森に生息する個体は緑色の肌をしているので見つけにくく、不意を突かれて苦戦することがあると聞く。
「見える? あそこにゴブリンがいる」
「もちろん。向こうにいっぱいいる穴もあるのだ」
「巣があるのか」
通常、ゴブリンは単独から数匹で行動するモンスターだ。ただし、上位種の実在下では社会を作ることがある。
巣を形成したゴブリンは高い繁殖力を発揮し、組織的に周囲の動植物、あるいは他モンスターを狩猟採取していく。
周囲に天敵がいない場合、環境資源を食い潰しながら、個体数と活動範囲を急速に拡大していき、非常に膨大な集団になってしまう。
対処が遅れれば、外壁を有する街でも飲みこむくらいの集団に。
よって、巣が確認された場合は優先的な討伐対象となる。巣の討伐は、少なくとも数10名単位の冒険者が動員される協力クエストだ。
今回は訓練を優先し、その後で情報を取得できればギルドに報告することにした。
「とにかく、あのゴブリンを討伐しよう。ラトちゃん、魔導書に書いた魔法を使って、ゴブリンを倒せる? さっき僕がやったみたいに」
「ぼくは分かってきたのだ。こういうのを魔法でやるのが冒険者らしいな」
自信溢れる口とともに開かれた魔導書には、僕にも読める共通言語が浮かび上がっている。
「射法《まじっくあろー》」
ラトちゃんが最下級の魔法名を読み上げると、青白い閃光の軌跡がゴブリンを飲み込んだ。本来表れるはずの魔法の矢は僕には視認できず、周囲の魔力場が急激に乱された証拠たる轟音だけが、キラキラと輝いて僕に残響した。
ラトちゃんがゴブリンがいた方向を指差しながら僕の袖を掴む。
「ルーちゃん、こんなんでいい?」
「すごい…! 完璧だよ!」
「えへへ、頑張ったかいがあったのだ」
僕は思わずラトちゃんの両手を握りしめて感動を伝えた。
ラトちゃんの魔力は、表現するのさえ困難だ。例え100000…と白書いっぱいに0を書き続けて、その本を、書いた0の数だけ集めても、それを何度繰り返しても、意味はまったく無い。
そもそもが、数字や文字では表せない類の魔力なのだ。
それをこの世界で実現できる範囲に制御したラトちゃんの技量に、僕はただただ感服した。
「たくさんいる方もやっつけるか?」
「ううん、今日は状態を確認するだけで帰るよ。ギルドへの報告も冒険者の大切な仕事だからね」
報告を怠ると大いに注意を受けることは実証済み。
さて、巣を形成しているのであれば、通常よりもゴブリンの個体数は増加しているはず。すると、巣の周囲の環境資源、例えば木の実や昆虫、小動物などの個体数は狩られて減少しているはず。
つまり、巣の周囲の情報を集めることで、巣の外側から集団の規模を推定することができる。
ラトちゃんが示す方にしばらく歩くと、深い茂みに小さい踏み跡が増えてきた。近くに巣穴があると仮定し、周囲の植生を確認する。
「ここらへんだけ地面ばっかなのだ」
「群生相が根こそぎか。結構荒らされてるな」
可食植物が採り尽くされており、ちらほらいた小動物も見かけなくなった。不気味なほど静まり返った森に、僕達の歩く音だけが足底から伝わってくる。
調査を切り上げようとした矢先、僕の視界にアラートが表示された。
【Caution: Enemy Approaching】
「囲まれそうになってるみたい。思ったより組織的だな」
「魔法、使う?」
「いや、このまま戦闘を避けて帰ろう。かなり高度に統率された動きだから、もしかすると学習されるかもしれない。なるべく対策されないようにしないと」
僕は本を開いて魔法陣を一つ展開すると、バッグから魔力板を取り出して状況を確認する。出力された地図上には魔力源を示す赤丸が表示され、僕達を囲うようにじりじりと近づいている。
「ルーちゃん、それどうしたの? カッコいいのだ!」
「魔力で動く道具、魔道具の仲間だよ。これ自体は単なる箱みたいなもので、使いたい機能は自分で実装しなきゃいけないんだけどね」
もともと術理院で使っていたもので、機能を拡張しながらまだ活用している。かなり高価なので、おいそれとは買い換えられない。
「上を飛んでいる魔法陣は、周囲に魔力光を発信している。そして、魔力源にあたって反射して帰ってくる魔力光を検出する。反射光の向きと波長を調べることで、方向と距離が分かるんだよ」
「ニンゲンにもその光が見えるのか?」
「見えなくても光はあるんだ。さあ、行こうか」
光学では光を様々な波長、ようは長さみたいなもので扱う。その波長を、僕達はたとえば色として認識している。
ただし、視認できる光の波長の範囲は限られている。短い紫外光や長い赤外光の色を認識することは、感覚に乏しい術理院会員の獣人族には不可能だ。
でも、僕達は見えない光の波長の具体的な値を、測定や分析を通して知ることができる。
光と色の話は奥が深いのでここでは詳細は述べないことにする。興味がある方は成書を参照されたい。




