裏野ドリームランド
「ねぇ、次はあれに乗ろうよ!」
そう言って岩井まりやは遠くに見えるジェットコースターを指差した。
ジェットコースターは、裏野ドリームランドの目玉アトラクションのようで、中央通りの行き着く先にある。メインゲートを潜って真っ先に目に映るのは、遠くにそびえるジェットコースターであるし、背を向けていない限り、中央通りを歩くときは必ず「ナイトメア」という名のジェットコースターのうねったレールが視界に入る。開けた中央通りには、定期的にナイトメアの乗客の悲鳴が駆け抜けるのだ。
「絶叫系は苦手?」
返事のない天野涼平の顔を覗こうとして、まりやはようやく涼平が隣にいないことに気がついた。先程まで涼平の手を握っていたまりやの左手は、なぜか空を掴んでいる。
「涼平?」
周囲を見渡しても、涼平はどこにもいない。
それどころか、あんなに高かった太陽がいつの間にか沈んでいて、家族連れの喧騒もナイトメアから届く悲鳴も聞こえなくなっていた。まばたきをした刹那に、不思議と閉園時間を迎えてしまったのか、ドリームランドの中央通りにぽつんとまりやだけがいる。まりやは腕時計に目をやったが、腕時計は電池が切れてしまったのか、秒針を小刻みに震わせていて、正しい時刻を指していなかった。スマートフォンで時間を確かめようと、バッグに手をやったが、さっきまで肩にかけていたはずのバッグがいつの間にかなくなっている。
通りの両端のアトラクションや建物は、防犯のためか、常夜灯によって申し訳程度に照らされていた。陽の光の下では、遊具の鮮やかなペイントに心を踊らせたが、白い人工的な光に一部分のみを曝した状態では、ひどく無機質に見えて、なんだか不気味に思えた。
「涼平?」ともう一度呼んでみたが、返事はなかった。
涼平はまりやを置き去りにして帰ってしまったのだろうか。そんなはずはなかった。記念すべき初デートだ。喧嘩をしたわけでもない。単にはぐれてしまったのだろう。涼平を探して、まりやは中央通りをナイトメアに向かって歩いた。時折「涼平?」と声を掛けてみたが、反応はなかった。聞こえるのは、通りの植え込みに棲む夏虫の鳴き声とカツンカツンと石畳を叩く、まりやのヒールの音だけだった。
ナイトメアの前まで辿りつき、通りを左に折れた。道は緩やかな弧を描いて、そのまま裏通りに入った。大きなコーヒーカップが回転するアトラクションの横を通り過ぎたところで、まりやは「あっ」と声をあげた。人がいたのだ。海賊船を模した振り子運動をして回転する遊具のゲートのところ、常夜灯に照らされてラビー・ザ・ラビットが立っていた。ラビー・ザ・ラビットというのは、裏のドリームランドのマスコットキャラクターで、ぽっこりと出た腹とストライプのパンツが特徴の、その名の通りウサギのキャラクターだ。そのラビーの着ぐるみが風船を持って立っていた。
「あの、すみません」
まりやは歩み寄っていったが、ラビーは反応しなかった。着ぐるみだけで、中に人が入っていないのかもしれないと思いながらも、まりやはもう一度「あのぉ」と声を掛けた。するとラビーの耳の部分がぴくりと動いた。仕掛けの細かさに感心しながら、まりやはラビーに近寄っていった。
「営業時間ってもう終わっちゃったんですか? 気がついたら誰もいなくなってて。彼氏ともはぐれちゃうし」
振り向いたラビーの目つきに、まりやはぎょっとして、思わず足を止めた。ラビーの目は赤く爛々と光を放っていた。まるでまりやを威嚇するようにラビーがふぅふぅと唸っているのは、日が沈んでも残っている暑さのせいなのだろうか。
不穏なものを感じ取って、まりやは一歩後ずさった。ラビーが手に持っていた風船を空に放ったのを合図に、まりやは身を翻して駆け出した。走りながらミュールを脱ぎ捨て、裸足で石畳を踏む。痛いなんて言ってられなかった。ラビーはまりやを追ってきているのだろうか。ふぅふぅという唸り声は聞こえない。ドタドタとした足音も聞こえない。でも振り返る勇気はなかった。
中央通りには入らず、そのまま駆け抜け、先ほどとは反対側の裏通りに向かった。スピードを上げ、遠心力を御しながらカーブを曲がる。呼吸がままならなくなって、裏通りに入るとすぐさま傍にあった建物の入口部分の暗がりに身を潜めた。ぜぇぜぇと息が漏れてしまうので、手で口を覆い、細く呼吸した。少しして、まりやのものとは違う、ふぅふぅという息遣いが聞こえてきた。足音は聞こえない。走っていないのか、着包みの足裏の素材がクッションになって、足音を消しているのかはわからない。
まりやは隠れるように建物の奥へ進んだ。屋内は火災報知器の赤い光によって照らされていた。そのおかげで、まりやはミラーハウスにいるのだとわかった。鏡の迷宮は地下にあるようで、下へ続く階段があった。まりやは意を決して、階下へと進んだ。空調の切られた迷宮はむわっとした熱気が立ち込めていた。
日中のミラーハウスは、煌々と明かりが焚かれているのだろうか。しかし今は足元に非常灯があるのみだった。非常灯だけでは光量が足りず、鏡はまりやの全身を映さない。はっきりと見えない部分から不意にラビーの手が伸びてきそうで、身体が強張る。鏡に手を這わせて、鏡の張られていない面を探して進んだ。
ミラーハウスが地下に続いているのはラッキーだったかもしれない。地下迷宮へ続く階段は出口を兼ねていなかった。出口はまったく別のところにある可能性が高い。つまりラビーから大きく離れたところに抜け出られるかもしれないのだ。
しかしミラーハウスの中を進むのは、耐えられないほどもどかしかった。まっすぐ突っ切りたいのに、ぐるぐると迷路の中を回らされる。行き止まりに差し当たると逃げ場のない恐怖がさらにのしかかった。息を殺して、そろりそろりと引き返す。どうにか昇りの階段を見つけた頃には、汗がぐっしょりとブラウスに染みを作っていた。階段を昇ると出口から吹き込む風がまりやの身体を撫でた。その心地よさに束の間酔いしれて、まりやはほっと一息吐いた。
常夜灯の光を避け、暗がりから外の様子を覗った。ラビーの姿は見当たらない。耳を澄ます。ふぅふぅという荒い呼吸音も聞こえない。通りを挟んだ向こう側に観覧車の搭乗口が見えた。観覧車というのは廻しっぱなしにしているものなのか、日が沈んだ今でも動いていた。
まりやはおぼろげに記憶しているドリームランドの地図を思い返した。おそらく今いる位置からはメインゲートよりも第二ゲートのほうが近い。そこから逃げ出すのがいいだろう。ラビーは園外までは追ってきたりはしないだろうか。わからない。でもドリームランドに留まるよりはずっと安全な気がした。
第二ゲートに向かって駆け出そうとして、まりやはふと足を止めた。もしも涼平がまりやのことを探していたらと考えたのだ。幼い頃、まりやは犬に追いかけられて、すべり台に逃げ込んだことがある。犬はすべり台の上までは追ってこなかったが、まりやを獲物と認識したのか、いつまでもすべり台の周りぐるぐると歩き回った。薄暗くなっても犬は離れず、まりやはずっとすべり台から降りることができなかった。一生降りられないかもしれないと思うと、怖くて涙が零れた。そこに現れたのが涼平だった。涼平はたやすく犬を追い払うと「もう大丈夫」と言って、まりやに微笑みかけた。夕日に照らされた涼平の顔は輝いていて、この人は王子様なんだとまりやは思った。涼平のことはもっとずっと前から好きだったが、絶対に涼平のお嫁さんになるんだと決めたのは、このときだった。
そんな記憶があるから今回も涼平が助けようとしてくれているのではないかと思ってしまう。助けにこなかったからといって、まりやの気持ちが冷めるなんてことはない。恐ろしいのは、まりやがドリームランドから抜け出せたことに気づかず、涼平がまりやを探し続けて園内を歩き回ることだ。そしてラビーと鉢合わせになって襲われることだ。ドリームランドを抜け出すのは、涼平がいないことを確認してからのほうがいいと思った。
まりやはそろりと観覧車の搭乗口に移動した。係員などいないから自分でゴンドラの扉を開く。金属のかんぬきが軋んで、ギギギと音を立てた。慌てて、周囲に目を配った。ラビーらしき影はない。ゴンドラが地上から五○センチほど浮いたところで、まりやはゴンドラに飛び乗った。
ゴンドラの内側にはかんぬきがないから、扉は手で引っ張って抑え、閉まっているように見せかけた。椅子には腰掛けず、うずくまって身を伏せて、高度があがるのを待った。
浅はかな考えであることはわかっていた。ゴンドラにいることがラビーに気づかれたら、まりやには逃げ場がない。先程のゴンドラの扉を開けたときの音は、離れた場所にいても聞こえたかもしれない。
そうっと顔を上げ、窓から下を覗き込んだ。常夜灯に照らされているスペースに次々と目をやった。涼平はいない。途中、ラビーを見つけた。待ち伏せをしているのか、メインゲートのあたりにじっと立っていた。まりやが観覧車に乗ったには気づいていないようだ。もう一度、ドリームランド全体を見渡した。ラビーの居所は把握できたので、今度はより注意深く視線を這わせ、涼平を探した。人影は見当たらない。またメインゲートに視線を移した。ラビーは同じところに立ったままだ。
涼平がドリームランドに残っていないのなら、まりやに留まる理由はない。観覧車を降りたら、一目散に第二ゲートまで走るだけだ。
「えっ」
少しほっとして椅子にもたれかかったとき、ありえないものが視界に飛び込んできた。
まりやは目を疑った。一つ前のゴンドラにラビーがいたのだ。目を赤く光らせて、まりやをじっと見ていた。ふぅふぅという息遣いが聞こえそうに思えた。驚愕と恐怖でまりやは思わず扉から手を離してしまった。扉は開け放たれ、地面が見えた。まだ飛び降りられる高さではなかった。
でもラビーはメインゲートのあたりにいたはずなのだ。観覧車の下までは来ることができても、一つ前のゴンドラに乗ることなどできるはずがない。落ちないように気をつけて、まりやはメインゲートを見た。ラビーは変わらず、そこにいた。混乱した。ラビーは一体だけではないのか。
メインゲートにいるラビーが振り返って、観覧車のほうを見上げた。目があったような気がした。ラビーがゆっくりと移動を始めた。
「涼平! 助けて!」
まりやは叫んだ。
ひょっとしたら、涼平はどこかに隠れて、まりやを助け出す機会を窺っているのではないか。そうあって欲しいとゴンドラが一周する間、心の底から祈った。
でも涼平は現れなかった。
まりやはゴンドラから引きずりだされ、二体のラビーに左右から腕をがっちりと抑え込まれた。振り払って逃げることはできなかった。
「どうやったって逃げられないんだよ」
低くくぐもった声で、まりやの左脇を固めているラビーが言った。
「いつも諦めが悪いんだから」
右のラビーが言った。
それでまりやはこれが夢であると気づいた。毎夜見る悪夢だ。けれど、夢だと気づいても目を覚ますことができない。ドリームキャッスルへと連行される道すがら、何度も覚醒を試みた。が、夢の世界から抜け出すことはできなかった。感覚を研ぎ澄まして枕の感触、シーツの肌触り、タオルケットのかすかな重さを探ろうとしても、石畳が蓄えた熱気が足裏から消えることはなかったし、着ぐるみのねっとりとした毛の感触は、腕にまとわりついたままだった。
ドリームキャッスルに着くと、隠し階段から地下に降りる。何のためにある地下室なのか、まりやにはわからない。いや、夢の中の光景に意味や理由を求めるのは、不毛なことかもしれない。部屋には拘束具の付いた椅子がぽつんと置かれていて、まりやはいつもそこに座らされる。首も手首も足首も固定され、完全に身体の自由を奪われるのだ。そしてラビーはまりやのブラウスを引き裂き、右の乳房の上あたりに何度も何度もナイフを突き立てるのだ。痛いと恐怖に耐えきれなくなって気絶したとき、ようやく悪夢は終わる。
まりやはキャミソールの胸元を引っ張り下げて、右胸を見た。一部が痛々しく紫に変色していた。悪夢にうなされている間にきつくつねっているのか、日を追うごとに痣は大きくなっていた。
涼平にはまだ裸を見せたことがない。まりやの右胸の痣を見て、涼平は幻滅しやしないだろうか。それが気がかりだった。毎夜ドリームランドの悪夢にうなされることよりもずっと大きな問題だった。




