第30話「◼️◼️◼️◼️◼️◼️」
一ヶ月が経つのが早い!
気がつけば一ヶ月半だよ……。
生きる英雄リカルドが学院の訓練場にて、大罪教の幹部が一人、『憤怒司教』のディエトと対峙していたその頃。
セレナは帝都の南部を駆け巡っていた。
南部は帝都における住民のおよそ七割が生活する居住区域であり、セレナが感知した小さな敵意の集合体が幾つも屯している区域でもあった。
工業区域である北部や商業の栄える東部に比べ、道筋がシンプルである南部や西部は、敵でも難なく地形を覚えることができ、帝国側が最も地の利を活かしにくい区域とも言える。
「お嬢様、お待ちをーーーー!」
いったん屋敷に戻り、剣や術符といった装備を整えたセレナは、侍女であるユーフォリアの勧告を無視して外へと飛び出す。
自分も皇族の末席である以上は見逃せないと考え、剣を携えて駆け巡るセレナ。未だ学生であるというのに、その行動力は関心を得るものであった。
だが、内面と外面は一致しない。
「一体、何なのよ……!」
肩で息をして眉間に皺を寄せ困惑した表情を浮かべながら、謎の現状に疑問を訴えるセレナ。それは彼女がさきほどまで相手していた敵集団に関係する。
突如として現れた謎の敵集団。血染めしたような赤いーーいや赤黒いローブには見覚えがある。イフリア大陸にて凶悪と認定された犯罪テロ組織『大罪教』だ。
今回の目的も、やはり前回の『帝都襲撃事件』と同様に、セレナを狙った襲撃だろうか。だがそれにしては、セレナを狙う人の気配が少な過ぎる。
この状況下で考えられる可能性は二つ。
一つは、セレナ=フローラ・オーディオルムを取り囲む信頼できる味方を排除したのち、彼女を奪取する可能性。彼女が皇族という立場上、彼女を守護する存在は少なくはない。しかも直属の護衛として第一騎士団の精鋭が関与していることから、先に外堀を崩した方が賢明だと普通ならば考える。
そしてもう一つは、彼女とは別の目的がある可能性。これに関しては情報が存在しないため、確定するには要素があまりにも足りない。
前者である可能性は、既に限りなくゼロだと言えるだろう。なにせセレナは既に大罪教の幹部と思しき人物を目撃している。視認できる範囲に捕縛対象がいるにも関わらず、それを逃すとは考えにくい。
ーーしかし、セレナの見たあれは、もはや人間と定義して良いものか。
二メートルにも迫る巨躯と、赤黒い色に染まったローブの先から伸びる二本の腕。察するに、その肢体は人間が鍛錬の末に至る極限を遥かに上回っているだろう。
さらに、そのフードの奥に見えた眼差しは、世界の全てに関心を示していないかのように『無』を体現しており、無駄のない動作には人間性すら感じられない。まるで意思を持たない模造兵のようだ。
だがあの瞬間、男から感じた感情の一片、噴火にも似た溢れんばかりの「憤怒」は、一瞬にしてセレナに敗北を連想させた。
少女は走った。息を切らせながら、ただただひたすらに。必死になって、重たくなった足を動かし続けた。
少女は走った。その背後にて感じ続ける圧倒的な殺気から、少しでも遠くへと、少しでも離れた場所へと向かうために。
少女は走った。発展途上の幼い本能が感じ取った「確実なる敗北」を迎えないために、もはや確定された勝敗を決さないために。
それほどあの男は、セレナにとって恐怖であり脅威であった。勝てないことなど当然のように理解でき、それは覆しようのない事実であった。
「……っ」
悔しそうに歯をくいしばるセレナ。しかし勝てないと判断した相手から逃亡を選択するのは、決して間違ってはいない。ディエトからの一目散な逃走は、むしろ最適解とすら言えた。
だが、そこまでの思考に至らないセレナは、自分のとった行動に強い疑念と罪悪感を抱きながら、再び敵の気配を目掛けて街中を走り抜ける。
自分が掲げる帝国騎士としての理想。その理想に自らで泥を塗ったことが、何よりも気に食わない。挽回するためにも、ここから逃げるわけにはいかない。不純な感情が彼女の心を動かす。
理性よりも感情が優先され、激情した彼女は単独で行動する。その後ろ姿に、いつもの彼女らしい冷静さは毛頭も感じられなかった。
それからしばらくして、手当たり次第の範囲を見回ったセレナは、踵を返して再び敵の気配を捜索しようと試みた、その時だった。
白雷が、落ちた。
「……っ。これは!?」
空は気持ちの悪いほどの晴天であり、落雷が落ちるような可能性は、ほぼ皆無な状態だ。しかしその雷は、導かれたように真っ直ぐに降り落ちて会場の方へと飛来した。
それとほぼ同時に、空気が痺れるような感覚が肌を伝い、一瞬にして空気の質が上昇する。微々たる変化かもしれないが、セレナは確かにその変化を感じた。
セレナはこの異変に覚えがあった。ほんの三日ほど前、ほぼ同様な現象を見受けた覚えが。親友ユリアの父親ーーリカルドが、どうやら【顕現武装】を発動させたようだ。
戦況を一転させるために用いられる、魔術の究極形態である【顕現武装】。それが用いられたということは、やはり相手の男はそれほどに危険な存在だということだろう。
オルフェリア帝国にて最強を誇る騎士リカルド。そんな彼が本気を出さねばならない、本気を出さねば勝てないと判断した。その怪物性は認めなければならない。
そしてその怪物を抑えるために、帝国側は最強の駒を使ってしまった。残る駒の中にも腕の立つ者はいるが、彼らならば自ずから戦地へと参じているに違いない。
返した足を一旦停止する。この状況で自分が取るべき最適な行動とは一体何だろう。冷静さを少し取り戻したセレナは、感情的になっていた自分の行動を恥じながら、考える。
三つある騎士団の中で、第一騎士団が所有する一騎当千の帝国騎士たち、『殺戮番号』。No.1を務めるリカルドと、非戦闘員でありながら称号を持つNo.8のケルティア=マクヴェンソンは除外して、残るは七人。
敵が既に内部に侵入していることから考察するに、殺戮番号も内部にて戦っている可能性が高い。
「……けど」
果たしてそうだろうか。彼らは自分よりも数段上の存在だ。思考も戦術も、自分では考え用のない可能性すら考慮する。
多数の殺気が混ざり合った結果、今のセレナでは敵の所在が明確に判別できない。彼女にとって、帝都中に広がる殺気の中から第六感のみで正解を見つける行為は、砂漠の中から砂金を見つける行為に等しい。
だから考える。あいにく余裕は無いが、猶予ならそれなりにある。可能性を模索するには十分な時間が。
深く深く考え込む。それくらいしか、今の彼女には出来ないから。
だがそんな彼女に困難が降り注いだ。
「か、はぁ……!?」
殺気が密度を増した。以前までの殺気ですら、胃の中をかき混ぜられるような気持ちの悪さを感じていたというのに、これはそれを遥かに超える。
不純物は一切混じっておらず、淡白でいながらも濃密。唐突に水中へと身を投じられたように、体中を謎の圧力が襲いかかる。いつもよりも重力が鮮明に感じられ、頭の先から指先に至るまで、全ての動きがとても鈍い。
脱水状態時のように頭が激しく痛み、少しでも気を許してしまえば、胃に入っていた物を全て嘔吐してしまいそうだ。
予想を超える異常事態に、脳が正常な活動を阻害する。通常に働いていたはずの思考が、呼吸が、鼓動が狂ってしまう。このままではーーーー死んでしまう。
死ぬ? 死ぬってなんだっけ? あれ、体がふわふわしてきた。音も全く聞こえないや。苦しいことが何もかも消えていく。ああ、なんだかきもちがいいな。しかいもしろくなってきたし、もう、このまま、どうにでもーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「しっかりしなさい」
パシッと、乾いた音が頭蓋の中で反響する。数秒ののち、その音は自分が平手打ちを受けたことによって発生した音なのだと理解した。
意識を持ち直したセレナは、未だ頬に残る微かな痛みを感じながら、その視線をゆっくりと上に向ける。
するとそこには、一人の女性が立っていた。
顔は分からない。目深に被ったフードのせいで、顔のほとんどが遮られている。だが顎の輪郭や桜色の小さな唇から、間違いなく女であり、美人であることを悟った。
だがこの殺気の充満した空間で、意識を正常に保ちつつ他人の心配をできる胆力。それはきっと、人間が持ち得る心の強さでは無い。
魔剣祭の会場に現れた謎の男と同等の、いやもしかしたらそれ以上の怪物かもしれない。きっと、どれだけ自分が有利な条件下で勝負を挑もうとも、それすら覆せるほどの実力差がある。
女性の指先の動きのひとつですら、セレナにとっては恐怖に値するものだ。
だが、そんな彼女がとった行動は平手打ちだった。しっかりしろと、セレナに活を入れながら、優しく厳しい一撃を見舞ったのだ。
「あな、たは……」
どうしても知りたい。彼女の正体を、彼女の在り方を、彼女の強さの根源を。それがきっと、どこかで自分に繋がると、彼女自身の本能で感じてしまったから。
【顕現武装】を習得しているからこそ分かる。女性の内に秘められた魔力の奔流は、まるで大海のようだ。果ては見えず、また底も知れない。彼女と比べてしまえば、自分など水溜りにすら思えてしまう。
だがそんな彼女はセレナの態度に憤慨するでも、無視するでも無く、返答の代わりに小さく首を横に振った。振って、そうして言った。
「ごめんね。君に顔を見せることは出来ない。そうすると、きっと君は、この世界に絶望を抱いてしまうから」
「なに、を……」
絶望を抱いてしまうと、そう彼女は言った。頭痛に耐えながらも、必死にその言葉を噛み砕こうと試みるが、まったくもって無理だ。
おそらくではあるが、セレナと彼女は初対面だ。人並み以上に記憶力の良いセレナは、一度聞いた人の声は大抵覚えている。だが彼女の声を、セレナは知らなかった。
しかし彼女は、セレナに顔を見せられないと言う。初対面の相手に顔を見せてはいけないということは、自分の正体がセレナに知られる事よりも、自分の正体がセレナの知る何かに関するから見せられないのか。
それがどうして世界の絶望に繋がるのか。
分からない、そこに関連するまでの情報が何一つない。額に汗を浮かばせながら、セレナはじっと謎の女性を見つめた。
しかし女性はセレナの視線に気にすることなく、自分の進めたいように話を始める。
「さて。そろそろ落ち着いたかな?」
「……そういえば、さっきから何もーー」
そうだ。気が付けば、先程から自分に襲い掛かる殺気の重圧が嘘のように消滅している。未だ覚束ないが、呼吸も思考も正常だ。
それがどうしてなのかは理解できない。だがそれが、彼女が側にいるからだということは理解できた。それ以外に消滅する原因が無いからだ。
自分の身体が正常に戻ったことを確認するセレナ。その姿を見た女性は、安堵したように微笑みを浮かべたと思ったら、すぐに頬を引き締めて話し始めた。
「よし、なら次だ。君は今すぐ彼の元へ、アラン=フロラストの元へ向かってくれ。理由は単純、彼に君が必要だからだよ」
「え、それはどういう……」
「すまない。君に説明をしている暇は無い。……だが、どうか頼む。彼にはどうしても君の言葉が必要なんだ」
女性から唐突に告げられた指示は、なんとも単純でいて、しかし同時に理由のはっきりとしないものだった。
告げられた瞬間は、その曖昧さに不安と疑惑を抱いた。しかし、その女性の顔は見えないはずなのに、セレナは彼女が嘘をついているとはどうしても思えなかった。
アランの元に向かって欲しい。これほどの実力を持つ人物が、自分ではなく他人に頼るという状況。それほどアランの戦場の分が悪いということか。
ならばこそ疑問に思う。どうしてそんな所へ自分が向かうことに意味があるのか、と。セレナの実力は中の上あたり。新米帝国騎士には勝るとも、殺戮番号らには到底及ばない。
だが彼女は言った。理由を説明をしている暇は無い、と。それほど切羽詰まった状況なのか。今この瞬間ですら勝敗を決してしまうほどに、危険な戦況なのか。
「……」
セレナは考える。正直なところ、そんな危険な場所に赴く行為などしたくはない。自ら命を捨てに行くようなものだから、その行為は蛮勇と言えるだろう。
だがアランが危機なのだ。自分の師匠とも言えるべき存在の命が危ぶまれる。本当ならば助けに行きたい。
だが邪魔にならないだろうか?
きっとそこは超高度な戦術によって繰り広げられる、コンマ数秒の油断が命取りになる戦場だ。そこに自分が現れれば、アランの足枷になってしまうのではないだろうか。
そんなことはしたくない。ならばーーーー
……ううん、それは言い訳。
頭を小さく横に振り、自分の考えを否定する。たしかに足枷になってしまうかもしれない。形勢が不利になってしまうかもしれない。
それでも力になりたい。少しでも助けになりたい。そういう思いは、心の底で静かに芽生えていた。だからこそ、セレナの答えはとても簡単だった。
「いいわ。それで、彼はどこ?」
覚悟を決めた目を彼女に向け、腹を括ったような表情でセレナは問いかける。
すると女性は最初から答えを知っていたかのように、戸惑う様子もなく即座にとある方角を指差した。土地勘のあるセレナにとって、それがどこを指すかなど明白だった。
「……学院?」
「そ、学院。正確には学院の訓練場、つまり君が元いた場所だ。今の君なら感じることができるだろう?」
「感じる……」
そう言われて、感覚を尖らせる。心を落ち着かせ、感じるままに身を委ねる。空気の流れやささいな振動、遠方で響く爆音や金属同士が奏でる不協和音。体の感覚を内側から外側へと拡げるように、ゆっくりと馴染ませる。
すると、すぐに感じた。
火柱のような圧倒感の側にある、微弱な炎の気配を察知した。リカルドのものかと考えたが、これは違う。弱々しくも荒ぶるような強い意志を感じる炎、それはまさしくアランの炎だ。
「見つけた!」
気配を感知したセレナは、間髪いれずに駆け出した。もうアランのことしか頭に無いかのように、眼前に立っていた女性のことなど露ほども想わず。
自分が行なった技術が、帝国騎士の中でも数人しか、アランですらできない気配感知の奥義、『感覚拡張』だということも露知らず。
漲る魔力に身を任せ、放たれた矢のように疾走する。その後ろ姿を見つめる女性は、ほのかに微笑みを浮かべていた。
「うん、これで大丈夫だ」
それが何を意味するのか、きっと彼女以外の誰もが理解できないだろう。
この先の、可能性の道筋など。
◆
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー暗い、な。
再び意識が覚醒した時、視界に映ったのは天に昇る太陽ではなく、その逆。悉くの闇だった。
暗夜ではなく、ましてや光を全て遮断した暗室のような場所でもない。そこでは何も見えず、何も聞こえず、何も臭わず、何も触れることのない。ただの闇であった。
最悪な気分だ。そう吐き捨てながら、黒に近い紺色の、まるで鮮やかな夜空のような髪色をした青年ーーアラン=フロラストは体を起き上がらせようと試みる。だが、
「あ、あれ……?」
力が入らない。あたかも脳と体をつなぐ神経が全て消失したかのように。脳が命じた指示に体は従うことはない。
どれだけ命じても指は、手は、腕は、体は、それらを構成する全てが、ピクリとも動く気配がない。まるで首より下が石にでもなったような気分だ。
仕方ないとため息を漏らし、起き上がることを諦める。そしてしばらく周囲を見渡したアランは、ふと疑問に思い、呟く。
「そういや、ここは、どこだ……?」
直前までの記憶では、たしかアランは大罪教の幹部ーーディエトと対峙していたはずだ。
自身の奥義である【顕現武装】を用い、かつ一撃必殺を誇る技【大地を穿つ神の雷槌】にて、確実に仕留めたはず。
ならどうして、こんな場所にいる?
思い出せない。その後になにが起きたのか、自分になにがあったのかを。
うーんと、唸るようにしばらく考えるアラン。だがやはり、どうしても思い出せない。
すると唐突に、声がした。
『…ぉ、久し…り…な』
その声は時折ノイズが入っており、その声の主がなんと言おうとしたのか正確には理解できない。
しかし、その声が誰のものかは、一言を聞いた瞬間から瞭然であった。
「なんだ、お前か……」
それは、もう一人のアランともいうべき存在。アランの心の中に潜む、アランの魂を構成する「心の紙片」が擬人化したものであった。
ならばここは、アランの心の中ということになる。心の紙片は、心の中でしか存在できないからだ。とりあえず自分の所在を知ることができ、一安心するアラン。だがすぐに次なる疑問を提唱した。
「なあ、俺はどうなったんだ?」
『ーーーー』
すると、すぐにはその疑問に対する答えは返ってこなかった。ノイズのせいで聞こえなかったのかと考えたが、それにしては余りにも静かすぎた。
しかし数秒して、声が返ってくる。
『…前は……死…だよ』
やはり声にはノイズが入っている。だが心の紙片の口から溢れ出た「死」という言葉は、単純かつ明確にアランの現状を述べていた。
「そうか……また、死んだのか……」
死んだ。ならばこの世界が、アランの心が暗闇に覆われていることにも納得がいく。死者の世界に色など不必要だからだ。
ようやく現状を把握できたアラン。あまりの呆気なさに深いため息を息を漏らしながら、その他の情報を少しでも仕入れるために、思考を加速させる。
先ほどから声のするアランの心の紙片は、どうにもアランの前に姿を現さない。以前と比べてアランの心の中が闇に染まっているのが原因だろうか?
「なあ、どうして姿を見せないんだ?」
『ーーーー』
「以前来た時よりも、闇に染まっているみたいだが……それが原因か?」
『ーーーー』
「……何か言ったらどうだよ」
どれだけ尋ねても、声が返ってくる気配はない。無反応に耐えかねたアランは、少し腹立たしげに言い放った。すると不意に、背後に何者かの気配を感じた。
『どうやら、本気でヤバいみたいだな』
アランの背後に現れた心の紙片は、何かを察したように薄ら笑いを浮かべながらアランに囁く。
しかし体の身動きがきかないアランは、苦虫を噛み潰したような表情を浮かべながら、背後に現れた心の紙片に意識を傾ける。
『封印が解けかけてやがる。この空間そのものが不安定なせいで、調整がやり辛いったらありゃしねぇぜ』
「空間が不安定? それが安定してないと、不味いのかよ?」
『まあ、そうだな……。このまま不安定だと、死ぬよりも面倒なことになりそうだ』
「面倒な、こと……?」
『ま、それについては今度話すさ』
ケッケッケと、アランの気になる疑問をあえてはぐらかしながら、心の紙片は楽しそうに笑いながら語りかける。
『それにしてもお前は馬鹿だなぁ。あんな奴に二度も殺られるなんてさ。お前もしかして、あいつと深い縁でもあるんじゃないのか?』
「あいつ? あいつって、誰だよ?」
『ーーーーディエト』
「…っ」
その名を聞いた瞬間、アランの頭を謎の痛みが過った。針で刺したような鋭い痛みが、雷のように瞬く間もなく通り過ぎる。
ディエト。大罪教の幹部にして、憤怒を司る異端の存在。その実力は圧倒的で、リカルドの全力ですら彼には歯が立たない。まさしく奴は、人間という枠組みを超越した者だ。
故に、アランが敗れたのは必然とも言えるだろう。彼は決して英雄などではなく、ましてや超人などでもない。そこら辺にありふれた、ただの凡庸な人間でしかないのだから。
本当は最初から理解していた。いくらアランが全力を振り絞ろうとも、ディエトにとっては芥の一つでしかないのだと。
ただそれでも、ほんの少しでも、この力が奴に通用するかもしれないと信じていた。勝てないと確信した生物的直感を、勝てるかもしれないという希望的観測で包み隠していたのだ。
「…………」
思い返すと、自分はあの二年前から何が成長したのだろうか。変わったのは見て呉れだけで、内側の何が変わったのだろうか。
否、何も変わっていないではないか。
知っている。変わることのない退屈な平和に身を浸し過ぎたことで、剣の腕も魔術の構築も、二年前よりも格段に下がっている。
戦況の把握力も。
相手戦力の推察も。
戦場の空間認識力も。
巧妙な詐術の魅せ方も。
次手の精巧な読み合いも。
そして、それらを総じた「戦術」が、笑えてしまうほどに衰えている。ディエトに【大地を穿つ神の雷槌】を受け止められたのが良い証拠だ。
「ざまぁねぇ……」
哀れすぎて、むしろ笑えてしまう。相変わらず体は微動だにしないが、赤面であろうその顔を、今すぐ手のひらで隠したい。
『まったくだ。今更気付いたのかよ』
羞恥心。アランの気持ちを感じ取った心の紙片は、呆れるようにため息を漏らしたあと、さらに言葉を続けた。
『お前はあれ以来、何も変わってねぇ。……いや、変わったといえば変わったのか。弱くなったという方面でな』
その言葉はアランの心に突き刺さる。
『お前の心はあの日以来、何色にも変わってねぇ。鮮やかだったこの世界も、もはや闇でしかねぇ。お前をお前として繋ぎ止めるその鎖も、もはや見えねぇ』
そう、なにも見えない。鮮やかだったアランの世界は、もはや見る影もなく消失し、愛する彼女が残した唯一の証ですら、その双眸には映らない。
『本物の帝国騎士を教える、だぁ? 愛した女の一人すら護れねぇ人間が、どうやって本物を語るっていうんだよ!』
ああ、本当に。本当にこいつはよく知っている。アラン=フロラストの強さも弱さも、表も裏も、白も黒も知っている。
「本物」になれなかった自分が、「本物」を語れるはずがないのに。「偽物」がどうして「本物」を語れるというのだろうか。
自分の中には、なに一つ「本物」なんて存在しない「偽物」だというのに。
「……クソ」
言い返す言葉が見つからない。そんなアランの想いの末に溢れ出た言葉が、とても単調な罵倒だった。
ただそれが、誰に向けられたものかは、その言葉を発したアランですら分からなかった。
ーー。
ーーーー。
ーーーーーー。
ーーーーーーーー。
ーーーーーーーーーー。
しばらくの間、暗闇の世界に沈黙が続いた。先ほどまで饒舌を振るっていた心の紙片も、夜の水面のようにしんと静まり返る。
しかし突如、心の紙片が何かを感知したように、「お?」という声を上げた。
『どうやら向こうでは、役者が揃ったみたいだな』
「役者、だと……?」
『特別だ。五感を繋いでやるから、自分で確かめるといい』
そう心の紙片が言うや否や、体が何かに引っ張られる感じを覚えた。
それが意識の覚醒だと理解するのに、それほど時間は掛からなかった。
◆
眩しい。
太陽光が網膜を貫かんばかりの刺激を与え、痛みのあまりにアランは思わず瞳を細くすぼめた。
どうやら戻ってきたようだが、状況はなにも変わっていない。アランは心臓を貫かれて、あと数十秒の命である。
……ここから起死回生は、無理だなぁ。
魔力は底をつき、もはや起き上がる力すら残っていない。ここから挽回することは、絶対と確信できるほどに不可能だ。
しかしその時だった。
仕方なく死を受け入れようと、目を閉じようとしたアランの耳に、どこからか小さな声が届いた。まるで虫の羽音のように微々たる音だったが、確かにアランの耳には聞こえた。
そして数秒後、その人物は現れた。
まるでその髪は純金を溶かしたかのような、鮮やかで艶やかで美しき黄金色の長髪。団栗のような大きな双眸は蒼色に輝き、見る者を等しく甘美へと誘う。
肩を揺らすほどに息を荒げ、シミひとつない彼女の綺麗な頬は、珠のような汗と薄っすらとした紅色で染まっていた。
彼女ーーセレナ=フローラ・オーディオルムは、そうしてここに現れた。帝都という戦場において最も死の危険性があるこの場所に、彼女は帰還した。
「アラン!」
血だらけで地に伏せるアランを見たセレナは、声を荒げて名を呼びながらアランの元へと駆け寄った。
酷い有様だ。胴体の中心が貫かれて、そこから湧き水のように血が溢れ出ている。呼吸は浅く、瞳孔も定まっていない。今にも絶えそうなその生命は、風前の灯火といったところか。
「……ぉ、……ぇ」
どうして、と尋ねたかった。だが唇が上手く動かず、さらに喉から出る空気の少なさゆえに、声がとても弱々しい。
どうして戻ってきたのか。
大罪教の目的が何であれ、奴らがセレナを欲していることは確固たる事実だ。だからこそ、セレナを遠ざけようと試みていたのに。
全てが水の泡だ。未だ帝都で大罪教と剣を交える帝国騎士の奮闘も、訳もわからず殺された市民たちも。その全てが「意味あるもの」から「意味なきこと」に変わってしまう。
アラン=フロラストの失命もまた、同様に。
だがアランを見つめる彼女の瞳に、敗者から感じる諦めや焦りを一切感じない。それどころか、自分が勝つことを信じた眼差しをしていた。
「心配しないで。すぐに終わらせるから」
そう言った彼女の言葉には、ディエトという怪物に対する何らかの秘策があるように感じた。だがそれでも、勝利は不可能だとアランは知っていた。
勝負事に絶対という理論は存在しない。それはアランが彼女に伝えた言葉の一つだ。
だが、それと対峙する場合は論外だ。その存在に人間の理論は通用せず、人間が歯向かえば必敗するだろう。
必敗。すなわちーーーー死。
齢十五の少女が、自分を守るために命を賭して戦おうとしている。彼女が殺されると知っていながら、自分は何も動けないまま見ているだけ。
このままでは駄目だ。彼女はのちに、必ず世界に必要とされる人物だ。英雄の肩書きを持てるほどの強者になるだろう。それほど未来に可能性のある人材を、殺されるわけにはいかない。
なによりもアランが失いたくなかった。新しく見つけた自分が護るべき存在を。危なげで感情的なところもあるけど、誰よりも優しい心の持ち主を。
セレナは剣を鞘から引き抜き、ディエトに目掛けて中段に構えた。奴に敵対心を向けた以上、この十数秒後に彼女の命は儚く散ることになる。
駄目だこのままでは殺されてしまう!
これでは二年前に逆戻りではないか!
動け、動いてくれ、俺の体!
必死になって起き上がろうとする心とは対照的に、体は微塵も動く気配がない。それどころか、段々と意識が遠のく。命が尽きようとしている証拠だ。
そしてディエトがセレナに狙いを定めた。噴火のような憤怒の感情と膨大な魔力を、大荒れ時の大海のように激しく迸らせる。
こんな死に際でも悟ってしまう。こんな理解を超えた化け物に人類が敵うはずがない。
……動け、動けよ……っ。
体に残った魔力と体力を搾り尽くして、起き上がろうと必死になる。だが、やはりと言うべきか、指先すら動く気配がない。
セレナを助けられるなら、たとえ自分が地獄に落ちたって構わない。この体が、心が、魂が粉々に砕け散ったって構わない!
だから、ーーーーーーーーだからっ。
その時だった。
どくん、と心臓が鼓動を打った。
いや、それはおかしい。今のアランに心臓は存在しない。だからこの場合、アランの内にある「何か」が脈を打ったということか。
ただの残響かと思ったが、再び鼓動がアランの鼓膜に鳴り響いた時、それが幻聴ではないことに肯定を与えた。
『そんなに力が欲しいか?』
声がした。これは外部からの声ではない。アランの内部、心の紙片から投げかけられた心の声だ。
だが変だ。心の紙片は外部に意識があるときこちら側に向けて語りかけることはできない。それが心の紙片としてのルールだ。
だというのに、心の紙片は外側にいるアランの意識に語りかけてきた。その行為は心の紙片としての概念を逸脱している。
だがアランの疑問を解決する前に、心の紙片は追い討ちを仕掛けるように語りかける。
『何を捨てても彼女を護りたいというのに、偽りは無いな?』
ああ、無いとも。あんな苦しい想いは、もう二度としたくないんだ! 心の中でアランは必死に訴えかける。
二年前、アランは彼女を失うと同時に、自分の心も失ってしまった。自分を構成していたあらゆる物が消失してしまった。
それを二年かけて直した。未だ足りないピースはあるけれど、それでも取り戻したもので無理やり形にして、歪な思いを作り出した。
それでいいと思っていた。もう二度と正しい形には戻らないのだから、自分の心などどうでも良いと諦めていた。
だからこそ、セレナは眩しかった。
ボロボロになりながら、ズタズタに心を引き裂かれながら。それでも彼女は前へと進んでいた。たった十五の少女がだ。
正直なところ、惹かれた。いや実際は憧れたというべきだろう。彼女の精神を、それでもと言って立ち上がれる心の強さを。
だから、護ると誓ったのだ。
この魂が朽ち果てようとも、戦場に身を投じれば残り少ない寿命が縮まることを知りながら。それでも彼女のために命を賭して戦い、そして死ぬことを、アランは既に覚悟していた。
『なるほど。覚悟はとうの昔に終わっていたか。……なら、いいだろう。』
そして再び、アランの内部の「何か」が鼓動を打った。それだけでは終わらず鼓動は二度三度と繰り返し、波状となって全身へと響き渡る。
『お前が望むだけの力を与えてやろう。お前が想うだけの力を沸かせてやろう』
鼓動の波が全身へと浸透するたびに、空っぽになっていたはずの体に、理屈ではあり得ないほどの力が湧いてくる。
無限大なのではと錯覚してしまいそうなほどに膨大な力の譲渡は、瞬く間にアランが負った致命傷を癒すまでに至り、魔力の源である生命力を復活させた。
それだけで良かった。アランが再起するにはそれだけで十分であったのに、哀れなことにアランはそれ以上を望んでしまった。
……まだディエトには勝てない。もっとだ、もっと膨大な力が必要だ!
望めば望むだけの力を与えようとする心の紙片は、その思いを汲み取り、よりいっそうに膨大な力をアランへと譲渡した。
思えば思うほど、譲渡される力はいっそうに増し続ける。セレナを護り、ディエトを倒すと決意したアランは、感情の抑制など出来るはずもなかった。
だからこそ、それは必然と言えた。
パキンと、何かが砕ける音がした。
それは外部からの音ではなかった。アランの内側、心の中での出来事だった。
アランの心には封印魔術が施されていた。それはかつて、アランがとある事故を起こした時に、再発しないために彼女が命を賭して施してくれた言葉通り最後の魔術だ。
封印は二年を経て、少しずつ効力が弱くなっていた。封印をかけ直そうにも、その構造を知る者は彼女しかいない。つまり、その封印が壊れればアランは再びあの姿に戻るというわけだ。
そして今、アランに施されていた封印魔術は、アランが望んだ膨大な力の奔流によって破壊されてしまった。
破壊されたことによって、アランの心の中に潜む封印されていたそれは、ゆっくりと目を覚ました。
それが目覚め◼️ことに◼️◼️て、ア◼️ンの心は、一◼️にし◼️、そ◼️◼️支◼️され◼️てし◼️◼️。
ど◼️黒◼️ヘド◼️のよ◼️な魔力◼️◼️◼️ンの心◼️◼️かし、◼️◼️て最◼️は体◼️◼️配す◼️。
そし◼️◼️狂◼️た。
あああ◼️あ◼️ああああ◼️◼️◼️◼️◼️◼️ああ◼️ああ◼️ああああああ◼️◼️◼️◼️ああああああ◼️ああああああ◼️◼️◼️ああああああああああ◼️◼️あああああ◼️◼️◼️◼️あああああああああ◼️◼️◼️◼️◼️◼️◼️◼️◼️あああああああ◼️◼️◼️◼️◼️ああああ◼️◼️◼️◼️◼️あああああああああ◼️◼️◼️◼️◼️◼️◼️◼️◼️◼️ああああああ◼️◼️◼️◼️◼️あああああああああああああああ◼️◼️◼️◼️◼️◼️◼️◼️◼️◼️◼️◼️ああ◼️◼️◼️◼️◼️◼️◼️◼️◼️◼️◼️◼️◼️◼️◼️◼️◼️◼️◼️◼️◼️◼️◼️◼️◼️◼️◼️◼️◼️◼️◼️◼️◼️◼️◼️◼️◼️◼️◼️◼️◼️◼️◼️◼️◼️◼️◼️◼️◼️◼️◼️◼️◼️◼️◼️◼️◼️◼️◼️◼️◼️◼️◼️◼️◼️◼️◼️◼️◼️
そして、そんな彼を見て、心は呟く。
『さあ、逆転劇を始めよう』
その顔は、とても楽しそうに笑っていた。
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