STAGE9.もう会わない
ナオの家から乗ったタクシーの中で、腕時計を忘れてきてしまったことに気付いた。
すごく気に入って大切にしていたのに、もう取りには行けない。
そう思った途端、涙が一粒だけ、膝に落ちた。
泣けてきそうで、泣かないようにずっと表情を硬くしていたのに、こんな思いもよらないところで泣けてしまったなんて無様だ。
そもそもぼくが泣く理由なんてどこにもないんだ。
ナオと一緒に過ごして、今までたくさんの楽しい時間を過ごしたじゃないか。
あんな何でもないこと、どうでもないことを幸福だと思えたのはナオがいたからだ。
ありがとうと言い損ねたな、ナオ。
そして、本当に悪かった、ナオ。
ぼくの優柔不断のせいで、ぼくはお前をとても傷付けただろう。
その傷は時が経てばちゃんと癒えるだろうか。
その痛みをぼくが代わってやる術はどこかにないのだろうか。
……おそらく、お互い早く忘れてしまうことが一番ナオのためになることだろう。
マンションへ帰ってすぐ、借りたナオの服を洗った。
できるだけ早くナオに返したい。
洗濯機が回っている間にシャワーを済ませ、洗濯が終わって干すと、ベッドに倒れこんだ。
時計は、忘れてきて正解なのかもしれない。
また会いたくなってしまうから。
思い出すものが身の回りになかったら、いつか、忘れられるかもしれない。
兄上もディルクも心配そうにぼくを見た。
「大丈夫です。ナオは口外しないでしょう」
兄上が苛々と言った。
「そんなことを心配しているのではない」
ディルクが言葉を続けた。
「アンゼルム。しばらくは俺の部屋に泊まるんだ。食欲がなくても食事はちゃんととらないとだめだ」
「ディルク、ぼくの部屋を覗いていたのか?」
「覗かなくても、お前がここのところちゃんと食事をとっていないことくらい顔色でわかるさ。そんなことしていると肌も荒れるぞ」
「アンゼルム。ディルクの言うとおりにするんだ」
「はい……」
ディルクは料理が上手いから、確かに食欲がなくても食べられるものを作るかもしれない。
でも何も隣のマンションの部屋なのに泊り込まなくても。
しかし兄上がこうおっしゃっているのでぼくは渋々頷いた。
食事の間、ディルクはいつも真面目な話はあまりしない。
しかし、食事の後にぽつぽつと重要と思われる話をしてくる。
「ナオは何と言ってた?」
ぼくは腕組みをして答える。
「ナオがぼくに夢中になっているのを見るのは面白かったかと、訊かれた」
「アンゼルム……」
「キスまでして悪かったと、気持ち悪かっただろうと、言われた」
ガタッとディルクは座っていた椅子から腰を浮かせた。
恐る恐ると言った様子で訊いてくる。
「キス、したのか……?」
「ああ」
はあ、とディルクがため息をついた。
「アンゼルム、泣いてもいいんだぞ」
「泣く? どうしてぼくが」
「切なくて涙がこぼれそうじゃないのかい」
「ぼくが泣いて、それでナオの苦しみがなくなるのならば、いくらでも泣く。でも何の役にも立たないからな」
「それでも泣いてお前がスッキリすればそれでいい」
ぼくは微笑んで答えた。
「ナオに逢わなければあんな些細なことを幸せだと思うこともなかったんだ」
「そんなに好きなのかい、ナオが」
ぼくは顔を逸らすようにしてボソボソと言った。
「……アイスクリームが食べたい」
「……どうぞご自由に」
勝手知ったる兄の家、ぼくは冷凍庫を開けてカップアイスクリームを取り出して来て食べ始めた。
「いつも思うがよく太らないな」
「成長期の男子をなめるな」
ぼくが食べている間しばらくディルクは黙っていた。
ピンポーン、とインターホンが鳴った。
ディルクは直接玄関へ出ていった。
アイスクリームを食べ終えてぼくは暇をもて余した。
あまり客のないディルクのところに誰が訪ねてきたのか知らないが、顔を出すだけなら今の格好でも大丈夫だろう。
「ディルク! ディルク、アイスクリームをもう一つ食べてもいいか?」
玄関に顔だけ出した。
「アンゼルム」
「!」
ディルクと向かい合わせてこちらを向いて話をしていたのは、焦がれて止まない愛しい姿だった。
思わず、足が2、3歩動いた。
「ナオ……!」
「アンゼルム」
ナオの声がぼくを呼んだ。
ずっとずっと、その声でぼくの名前を呼んでくれるのを夢見てた。
しかし、ナオは険しい声で厳しい声を出した。
「待てよ。どうしてディルクのマンションに、こんな遅い時間にアンゼルムがいるんだよ? あんたたち、どういう関係だよ!?」
ナオはぼくとディルクが兄弟だということを知らない。
昔、ぼくや兄上は身分の低かったディルクの父と縁続きなのを嫌がって隠していた。
今はもうぼくも兄上もそんな馬鹿なことは気にしていない。
ただ、いまさら周りに異父兄の話をするのも気がひけて何となく隠したままでいた。
「ナオ、これは、その……」
ナオは言葉を続けた。
「家まで送らせないって、アンゼルム、こういう理由かよ。ディルク、おれがアンゼルムに近付くのよく嫌な顔してたの、こんな事情だったのか」
「ナオ、違う!」
意外な内容だった。
もしかしてずっとナオは、かたくなにナオを受け入れようとしないぼくに他に誰かがいることを疑っていたのだろうか。
しかし、今、ナオはぼくが男だということをもう知っているのに?
混乱しているのか、ナオ。
落ち着いてほしいと思って何とかしようと、ナオに近付いた。
「おれには女装しか見せてくれなかったのに、こうやってディルクにはいつも自然な格好で接してるのか!」
「あ……」
ナオの声が泣きそうに聞こえた。
もう何を言っても今のナオには届かないのかもしれない。
ディルクがナオ、と呼んだ。
ナオはくるっと背を向けて走って出て行ってしまった。
「ナオ!」
ぼくが呼んだ声はマンションの冷たいコンクリートに響き渡った。
ナオが階段を駆け下りていく音が聞こえていた。
ぼくは靴を履いたところで我に返って足を止めた。
追いかけてどうするというんだ。
誤解を解いたって、しかたない。
もう会わないと決めたんだ。
ディルクがしばらく立ち尽くしていたぼくの肩に手を置いた。
「ナオは、お前に会いたいといっていたよ」
「……え?」
「お前の方はもう会えないと思っているようだけど、ナオは会いたいと思っていると、そう伝えてくれと」
「……」
「会ってみたらどうだい」
「もう会わないと決めた。それに、今の誤解でそれどころじゃないだろう。どうするんだ、ディルク」
「ナオがどう出るかだな。ずっと付いてたマネージャーと好きだった相手が深い仲だったと誤解してるんだ」
「気色悪い」
「ははは。とにかく、ナオはそう誤解してる。多分明日あたりまた俺は激しく罵られるんだろうな。でも、そうしたら、落ち着かせて話をするよ。兄弟だということは話してもいいのかい」
「もちろんだ」
「こんな日が来るとはな。もっと穏やかな理由で話したかったけど。ところで」
「なんだ」
「ナオは明らかに嫉妬していたね」
「それは……しかし……」
ディルクはぼくの頭に手を置いた。
「頭を撫でるな!」
「いい方に捉えてもいいんじゃないのかな」
「そうだな、しかしきっともう終わりだ。もし誤解が解けたらナオに伝えてくれないか」
「なんだい」
「ありがとう、と」
「ああ」
「それから……」
ぼくは、まるで目の前にナオがいるかのように自然に微笑んで言葉を紡いだ。
ディルクがぼくの言った言葉をかみしめるように黙り込んだ。
ぼくはまた背筋を伸ばして口を開いた。しっかりとゆるぎない声を出した。
「決めた」
「何を?」
「今のスケジュールが消化出来たら、女装モデルは止める」
「アンゼルム?」
「もう、欺くようなことはしたくない。今までしてきたことが非難されて芸能界にはいられなくなるとしても、もうこれ以上みんなを騙すのも、協力してくれるみんなに苦労を掛けるのも終わりにするんだ」
「……応援するよ。俺とレオンはいつでもお前の味方だ」
「では、今日はぼくは自分の部屋で寝るからな!」
「え、おい」
「ナオに誤解されてこのままこの部屋に泊まるのは嫌だろう?」
「それはお前が嫌なんじゃないのか、まったく」
「あ、アイスクリーム一個もらっていくぞ!」
「はいはい、どうぞ」
「じゃあな」
「眠れなかったら、またおいで。ホットミルクを淹れてあげるから」
「大丈夫だ」
自分の部屋に戻って、アイスクリームを食べて、歯を磨いてすぐに眠った。
『アンゼルム』
あんなことがあったのに、ナオがぼくを呼ぶ声が甘く頭の中に響いた。
最後に名前を呼んでもらえてよかった。
どこまでぼくは幸せ者なんだろう。
ただ一つ、今お前が苦しいのがなくなってしまえばもっといいのだが。
ナオ。泣かないでくれ。