STAGE7.突然の雨
カプリ島から帰ってナオたちは仕事に追われているようだった。
ぼくは戸惑いはあったが、また差し入れを持って彼らを訪ねた。
ナオは変わりない笑顔でぼくを出迎えることが多かった。
時々、ぼくの唇をぼんやりと眺めていることがあったが。
あの時キスしたのが男の唇だと知ったらナオはどれほど幻滅するだろうか。
ナオがぼくは独身かと訊ねてきたと、兄上に聞かされた。
『アン』が既婚である可能性を考えたらしい。
他にもまだいろいろナオは探っている。
どんなに考えたってナオとアンが結ばれない現実は変えられないというのに。
ほら、今もぼくを見てぼんやりしてる。
「どうした、ナオ。チーズケーキは好きじゃなかったのか?」
ナオは気が付いたように笑顔を見せた。
「あ、いや。そんなことないよ」
「じゃあ、食べろ。美味しいと評判の店のものだ」
「ありがとう」
それは眉間にしわを寄せて食べるような味のものではない。
ナオが悩んでいる。
ぼくのせいで。
ぼくがナオに想いを寄せていることはすっかり伝わってしまっている。
それなのにナオの申し出にYESと言えないぼくに、さぞ理解が出来ずに悩んでいることだろう。
ナオが苦しむ前にどうしてぼくは会うのをやめることができなかったのか。
どうして今すぐ会うのをやめられないのか。
きっともういまさら友達になんてなれないだろう。
これ以上一緒にいたって傷つけるだけだということはわかりきっている。
太陽の光がなくても種は発芽するように、ナオがいなくたってきっとぼくは生きていける。
今がナオから離れるべき大きな潮時だ。
でも、ナオがぼくに向ける笑みを目にすると、『アン』と呼ぶ声を耳にすると、駄目なんだ。
どうしてもどうしても。
もっとその降り注ぐような笑顔が見たくて。
隠しているぼくの本当の名で呼んでほしくて。
ナオの苦しみの方がさぞ大きいだろうというのにぼくはなんていう甘いことを考えているのだろう。
明日は8月の30日、仕事は休みだった。
ディルクのマンションで明日のラムズの予定を尋ねた。
ディルクは苦い顔をしながら、ラムズは明日明後日は休暇だと告げた。
「ああ、夏休みの課題」
「そうなんだ。GEIKAはちゃんとやってたんだけど、ナオの方は溜めちゃっててね。今頃家でGEIKAと一緒に課題漬けでひいひい言ってるよ」
「はははは、見てみたいな、必死な顔」
「アンゼルム」
「はいはい」
「そんなに首を突っ込んでどうするつもりなんだ。ナオはすっかりお前に夢中じゃないか」
「どうするも夢中も何も、ぼくが男じゃ何も起きないだろ」
「男だってばれたらどうする」
「どうしようか。世間にばれたらモデルは引退だろうか。アメリカかドイツにでも引っ越すか」
「ナオは人に言ったりしないさ」
「ぼくが男だと知ったらナオはやはりぼくのことを諦めるだろうか」
「アンゼルム……」
「怒るだろうな。裏切ったとののしるか。もう顔も向けてくれなくなるか……傷付くんだろうな、ナオ……」
「……あるいは」
「なんだ?」
「いや。会いたいか? ナオに」
「訊くな」
「明日、ナオの家へ送っていってあげるよ」
「ディルク」
「菓子を持っていくんだろう?」
「部屋に戻って服を選ぶ! 明日な、ディルク!」
ディルクの部屋を後にして、翌日の予定を立てた。
服はロングTシャツにコットンシャツ、デニムレギンスを選んだ。
少しだけボーイッシュを意識しているのかもしれない。
ここがナオの家だと言われ、車を降りた。
本当に小さい一軒家だ。
インターホンを押すと、そこから聞き覚えのある声が聞こえた。
「はいー、中川です?」
「こんにちは」
「えっ」
がちゃっ、ばたばたばたと家の中から物音が響いてきた。
バン、と玄関のドアが開いた。
「アン!?」
「ナオ。堂島ロール食べないか?」
「君は本当にびっくり箱だな! あがってよ。家の人は誰もいないけどGEIKAがいるよ」
案内されて二階へ上がると、GEIKAが手を振った。
「やあ、君も課題手伝ってくれるのかい?」
「……英語しか手伝えないと思うが」
ナオが言った。
「英語は手伝いいらないんだよ。もうやってあるし。問題は社会や理科や古典なんだ」
「そうか」
「もう少ししたら休憩にするからそれまで好きにくつろいでてよ」
「ナオ、何か音楽でもかけてあげたら?」
「アン、なにがいい?」
「まだデビューする前に作って、眠ってるラムズの曲とかないのか?」
「うわあ、目の付け所が違うねえ」
ナオがスピーカーをつなぎ、パソコンのキィを叩いて音を出した。
「下手なんだよなあ、あははは」
「それだけ短期間に洗練されたということだ」
ベッドにもたれて膝を抱えて床に座り、ナオの後姿を見つめた。
「デビュー曲だ」
「いろいろ混ざってるけどご愛嬌」
何曲かかかった後に『君が好き』の曲がかかる。
ナオを見ていられなくなって、抱えた膝の上に頭を乗せて目を閉じた。
胸が痛い。
ナオはこの曲を仕事で演奏しなくてはならない。
そのたびに胸の痛みをこらえるのだろう。
ぼくが女としてナオと出会ってしまったせいで。
こんなに後悔する日が来るなんて思いもしなかった。
「あれ、アンちゃん、眠っちゃってないかい?」
「え?」
「疲れてるのかな」
「休憩にするか。田村、冷蔵庫にアンが持ってきてくれたお土産あるから取ってきてくれないか。箱に入ってる」
「僕が?」
「いいから。ゆっくり行ってきて」
「襲ったりしないでよー」
「するか!」
「さてねー」
「……アン。アン、男の前で眠ったりするなよ」
髪を突然かきあげられて、驚いて目を開けた。
「ナ、ナオ」
「ほんとに寝てたのか。おれ、男だぞ。無防備にもほどがないか?」
少し眠気で頭がぼんやりしていた。
「あ、そうか……その、悪かった……」
「なあ、おれとアンが恋人になれない理由って何?」
頭を振った。少しくらくらする。
「ナオは、もう会えなくなってもいいのか? それを話すともう会えなくなる。話したくない」
「……わかったよ。おれも会えなくなるのは嫌だし……アンがおれに会いたいって思ってくれてるのは嬉しい」
ナオは少し微笑みを浮かべてそんなことを言った。
「たとえ正体が何であっても?」
「え?」
頭を軽く降って否定する。
「いや、なんでもない。何者であってもナオが好きなことにかわりはないぞ」
「……アン?」
口を塞いでみたって、出してしまった言葉は取り返せなかった。
「!」
「今、なんて言った!?」
「なんでもない! 何も言わなかった! 忘れてくれ! 頼む!」
なんてことを言ってしまったんだろう!
これ以上ナオを惑わせて、苦しめることになるのは解りきっているのに。
突然部屋のドアがガチャ、と開いた。
「おっ待たせー!!」
「GEIKA」
「なんか、取り込み中だった? 僕もう一回キッチン行って今度は漬物でも持ってこようか?」
「いいんだ、漬物は苦手だ」
「アン!」
「忘れてくれ……」
ナオの吸い込まれそうな黒い瞳を見つめた。
今は感情的になっているせいか、いつもより輝きが増してキラキラしている。
「食べようか。な? ナオ」
「うんうん、ナオ、落ち着いてさ」
「いいよ。いつかまた言わせてやる」
悪いがナオ。そんないつかは来ない。
GEIKAがロールケーキにナイフを入れながら感激した声を上げた。
「堂島ロール! よく買えたねー!」
「朝から行って並んだ。噂の堂島ロールをぜひ食べてみたいと思っていたのだ」
「お、大きいな……」
「大丈夫、アンちゃんがいるから。あはははは」
さっきの雰囲気はどこへやら、三人でワイワイと話しながらケーキを口にした。
休憩が終わるとまたナオとGEIKAは課題に取り掛かりはじめた。
ぼんやりとナオの後姿を眺めて時間が過ぎた。
ピピピピピ、と電子音が鳴った。
「僕の携帯だ」
GEIKAが電話を取る。
何か短く話して電話を切った。
「珍しく母親が早く帰ってこいってさ。僕はこれで失礼するよ」
「じゃあ、アンも駅まで送っていくから」
「GEIKAに送ってもらえばいいのでは」
「僕、自転車なんだ。ナオに送ってもらいなよ」
GEIKAは一足先に帰って行った。
「ごめん、うち駅までけっこう距離があってさ」
「いや別に……うちも駅から15分ほど歩く」
「そっか。家の方、気をつけてね……もうすっかり暗くなっちゃったから」
「ああ、平気だ」
「あの、休憩の前に言ってたこと……」
「悪かった! 本当に失言だった! 忘れてくれ!」
「いや、あのさ。すごく、嬉しかったんだ」
「……でも、忘れてくれ」
「アン」
その時、何か頭に冷たいものが当たった。
と、思ったら、突然バケツをひっくり返したような雨が降り出した。
「え……」
「雨宿り……!」
「いや、もう今から雨宿りしてもすでにずぶ濡れだ」
「でもこのまま帰るのはちょっと。まだ駅までかなり距離があるし」
「仕方ないだろう」
「家へ戻ろう。着替えと傘を貸すから、拭いて着替えて傘をさして帰りなよ」
「しかし……」
「いいから。いくら夏でもそのままじゃ風邪ひく。そしたら仕事にも支障出ちゃうだろ」
説得に負けて、ナオの家へ戻った。
「身長は一緒くらいだから多分サイズはいいと思うんだよな。ダサいけど我慢して」
ジーンズとTシャツと綿シャツを手渡された。
手に取ると、ふわっとかすかにナオの匂いがしてドキッとした。
「脱衣所はこっちね」
バスルームに続いた洗面室に押し込められる。
狭くて、本当にここで着替えられるのか? というほどだ。
とりあえず、濡れた服を洗面台で絞りながら脱ぐ。
全部脱いで、体をタオルで拭いた。
背中を拭き終えたタオルが洗面台の棚に置いてあった化粧水の瓶に当たってしまった。
ガシャン、と音を立てて瓶が落ち、割れる。
「アン!? 大丈夫か!?」
「すまない、化粧品を落として割ってしまった」
「ああ、いいよ。危ないからよけて。おれ片付けるから」
「よけてってどこに」
「風呂場に入って。ガラス散ってるだろ、その辺触らなくていいから」
「あ、ああ」
ナオがやってくる音が聞こえて慌てて風呂場に入った。
タオルが一枚あるだけで、今は全裸なんだ。
「服は無事だね。乾燥機で乾かそうか」
「い、いい! そのまま持って帰る!」
しまった。脱いだ服を全部脱衣場の洗面台に置いてきてしまった。
下半身の下着は男物だ。
胸の詰め物もある。
見られたらアウトだ。
「でも……」
角度によっては触らなくても見える位置に下着を置いてしまった。
見てしまっただろうか。
「アン」
「な、なんだ?」
「君、もしかして、男……だったり、しないよね?」