STAGE6.君が好き
せっかく休みなんだから二人きりで過ごしてきたら、と田村は言った。
ディルクは意外にも渋い顔をしたが、結局頷いた。
「アンは言葉は解るか?」
「ああ、観光に支障ない程度なら」
「では、ナオを頼む」
「わかった」
ふたりでゆっくりと海岸を歩いた。
おれは青い海を見て、ガイドブックで見た写真を思い出す。
「あのさ。せっかくだし、青の洞窟に行かない?」
「青の洞窟か。午前の方が美しいという話なんだが」
「午前はもうおれスケジュール空いてないよ」
「では、ちょっと先に寄りたいところがあるがいいか?」
何かと思ったら、薬局に寄ってアンは乗り物酔い止めの薬を買って飲んだ。
船に弱いのだそうだ。
「そこまでするのなら、無理して行かなくても……」
「行きたいのだろう? ナオと一緒になら行ってみたいしな」
「……あのさ。ここならおれや君のこと知ってる人ってほとんどいないと思うんだ。一応変装もしてるし」
「ん? まあ、そうだな」
「少なくとも、事務所の人はいないよ」
「ディルク以外はそうだな」
「あの……手をつないでも、いい?」
「……ナオは女友達と手をつなぐのか?」
「つながないよ……!」
「では、それは困る」
「嘘だろ?」
「ナオ?」
「君は嫌だって思ってない。おれのこと特別だって思ってる。これはおれの自惚れじゃないよ」
おれはそっとアンの手を握った。
そのまま、歩き続ける。
指が長い形のいい手だが、体に見合っていて大きい。
「ナオ……」
おれは囁いた。
「ほら、振りほどこうとはしないだろ。なあ、どうしてなんだ?」
「何が」
「どうして、おれと恋人になろうとしないんだ? 事務所やレオンが反対するからだけじゃないだろ」
「……」
アンは黙り込んでしまって、そうしているうちにカプリ港に着いた。
ここから青の洞窟へ小さい船で行く。
他の観光客に混ざりながら青い青い海の上を船に揺られていく。
ふとアンを見ると、下を向いて青白い顔をしていた。
「アン、大丈夫か?」
すぐ隣に行って声をかける。
「ん……」
「気分が悪いのか」
「平気だ、薬も飲んだし……いつもはあれを飲んだら何ともないんだ」
「下向いて考え事してたら、船に揺られなくても気分悪くなるよ、さあ、顔を上げて」
「しかし」
「さっき言ったことで考え込んじゃうんだったら悪かった。せっかく来てるんだから、忘れてさ、楽しんで。ほらすっごく青い海。空も綺麗だ。君によく似合ってる」
「誰によく似合ってるって? 変な奴」
アンはクスッと笑った。
風がアンの金の髪を撫でてふわっとなびき、きらめく。
無意識にその髪に、肩に、手を伸ばしそうになった。
もう、ただ二人でいるだけでは気持ちが抑えきれなくなってきたかもしれない。
絶景と名高い景色もそっちのけで、風景に感心する表情のアンばかりを見ていた。
夕食もレストランに入ってふたりでとった。
話題は今回のPVの曲と、カプリ島のアンの母親の別荘のこと。
「結構爽やかな曲調かな。明るいバラードだ」
「バラードか。具体的にどんな曲なんだ?」
アンのエメラルドの瞳をまっすぐに見つめながらおれは話した。
「『君が好き』っていうタイトルだよ」
「……ストレートだな」
「こういうことはストレートに言いたいって思うんだ。ま、歌うのはGEIKAだけど」
「そうだな」
アンの母親は世界中に別荘を持っているという話だった。
「すごいんだね……」
「ナオもそのうちこれくらいになるさ」
「いや……さすがにそれは。ははははは」
「しかし、日本が一番好きだな」
「治安がいいから?」
「いや、そう言う理由ではないが、しかし確かに治安はいいかもしれないな」
「あ、今日はどう? 送らせてもらえないかな」
「え……」
「事務所の人もレオンもいないし、さ。もう真っ暗になっちゃったから心配だ」
「そんなに遅い時間ではないから大丈夫だと思うが」
「それに、少しでも長い時間一緒にいられる……」
「ナオ」
「お願い」
「……わかった。だれにも内緒だぞ」
レストランを出てふと上を見ると、広がる星空が見事だった。
アンは持っていた青い上着を羽織っている。
また、手をつないだ。
肩を並べて歩く。
両想いだって自信がある。
特別だって思ってるだろって言ってもアンは黙りはしたけど否定はしなかった。
つないだ手だって、口では拒否したけど振りほどかない。
手の中の温かさをきゅっと握りなおした。
まさかほかに男が、もう好きじゃないけど切れない男がいるなんてことないよな?
そいつにばれるから携帯もメアドもNGとかなんて。
いや、アンが嘘をついてるなんてないと信じよう。
……ただアンは何かを隠してる。
もう、何か隠してても、その隠してることごとおれのものにしたい。
「ここだ」
「ここ……うわあ、立派なお宅だね……」
「そうか? 送ってくれてありがとう」
「あっ、待って」
「どうした? タクシーを呼ぶか?」
「い、いや。あ、あと10分……一緒にいたい」
「……ああ」
「ごめん、もう遅いのに」
「いや。ナオ、今日は楽しかった」
アンはそう言って微笑んだ。
おれもつられて笑った。
「少し船酔いしちゃって残念だったね」
「あんなもの、酔った内に入らない」
「そうなんだ。ははは。だったらいいけど」
「綺麗だったな」
綺麗な人が、景色を思い出して綺麗だったと言う。
君の方がずっと綺麗だったというのに。
でもそれを君に言うのは無粋かな。
「そうだね。とても綺麗だった」
君がね。
「今見えている星空も綺麗だな。日本じゃこんなには見えない」
「うん。東京じゃ星は無理だな」
アンがくしゃみをした。
「寒い?」
「平気だ。ナオ」
「ん?」
「あと5分ここにいる時間を伸ばすから、新曲の『君が好き』を歌ってくれないか」
「おれの声でいいのか?」
「ナオの声がいいんだ」
おれは朗々とした声で、君が好き、と歌い上げた。
アンは家の門の壁に身をもたせ掛けて、目を細めて聴いていた。
歌い終えておれはしばらく何も言葉が出なかった。
どうしてもどうしても『好きだ』とアンに言ってしまいたくなったんだ。
「ナオ? どうした?」
会ってると幸せで告白すること忘れちゃうんだ、と言っていたかつての自分。
それに対してディルクは、もう少し忘れたままでいるのがいいでしょう、と言った。
もう少しってどれくらいだよ、ディルク!?
もうおれ待てないよ。
この幸せをもっと確固たるものにしたいんだ。
でも、決しておれと恋仲になろうとしないアンがいい反応を示すとはあまり思えなかった。
性に合わないが駆け引きめいた言い方を選ぶ。
「アン、もしおれが君を好きだって言ったらどうする?」
「……聞かなかったことにする」
「どうして!?」
「今一番ナオに言われるのが怖い言葉だ」
アンに一歩近付いて囁き声で訊ねた。
「君が好きと歌うのを心地よさそうに聞いていても……?」
「……だからだ」
「わからない……胸が痛いよ、アン」
ほとんど無意識にアンに口付けていた。
青い上着に包まれた両肩を掴んで、目を閉じる瞬間に驚いて大きく見開いたエメラルドの瞳が見えた。
心臓が恐ろしいほどの勢いで拍動してるのを鎖骨の下あたりで感じた。
しばらくたってからだと思う、ドン、と胸を突飛ばされておれはアンから離れた。
思いっきり突き飛ばしたのか、突かれた胸がけっこう痛かった。
アンは驚きと戸惑いを顔に浮かべて、瞳の翠緑がいつもより深い色合いを見せていた。
「……嫌だった?」
アンは首を横に振って、困った表情を見せた。
「嫌ではなくて、ただ……」
「嫌じゃないなら、受けとめてよ……!」
おれは今度ははっきりと自分の意志を持ってアンに唇を合わせた。
歯は食いしばってしまっているアンの唇を柔らかく食んで、舐める。
髪をさらりと撫でては指に絡める。
唇を離して、今度は頬にキスをした。
透けそうなほど白くて、つるつるの滑らかな頬。
何度もそうして、頬から手も離す。
そして抱きしめようとした。
その時、アンが声を出した。
その声は震えていた。
「ナオ」
おれはアンが泣いているのかと思って、顔を覗きこんだ。
アンは少し険しい顔をしていたが、泣きそうな顔もしていないし瞳から涙もこぼれていなかった。
「どうしてナオと恋人になろうとしないんだと、訊いたな」
「あ、ああ、うん」
アンはうつむいたまま、答える。
「不可能だからだ。できない理由を話してしまうと、もうナオとも会えなくなってしまうからだ」
「不可能……?」
「ナオに好きだと言われたら、断らなくてはならない。そうしたら、もう会えなくなってしまう」
アンの声は震えたままだ。
「アン、泣いてるのか?」
「だから、好きだなんて言わないでほしい」
「アン……」
「今ナオがしたことは、なかったことにしておく。いいか?」
「うん……」
そう言ったら、アンは顔を上げて明るい笑顔をニコッと見せた。
「また、会いに行ってもいいか?」
声はやっぱりまだ震えていた。
「待ってるよ」
「ありがとう。今日は本当に楽しかった、ナオ」
「おれのほうこそ、アン」
アンが白い大きな邸宅内の中に入って行くまでおれは見守っていた。
星空がキラキラとおれたちをずっと見ていた。