ゆびさきに星
月のない夜だった。リゼはひとり、島の中心に広がるガジュマルの森を訪れていた。無数のガジュマルの気根は触手のように伸びてからまり合い、回廊をつくっている。そっと触れるとひんやり冷たい。
むせ返るほどの緑のにおい、木々の息遣い。
明度の高い、美しい海に浮かぶ、珊瑚礁に囲まれた小さな島。
太陽は島を照らし、いのちをはぐくむ神。
月は、いのちをつかさどる光。
海の底には、たましいが還る国がある。
そして星は、運命を動かす。
ひとびとは、そう信じている。
リゼは、星に選ばれた娘だ。運命を視るちからを与えられた娘だ。
回廊をくぐり、深い闇のなかへ進むがごとく森の奥へとわけ入ると、やがて古い石段があらわれた。リゼは裸足でふみしめてのぼっていく。しゃらりしゃらりと、足首に巻きつけた貝の飾りが揺れる。
迷いはない。はじめて来る場所だけど、知っている。これは、いにしえよりこの島にそびえる石造りの塔だ。いつだれが造ったものなのか、だれも知らない。星読み――星に選ばれた娘――が祈りをささげるための場所で、ガジュマルの触手がからみつき、外からはまるで森と一体化しているように見える。森にわけ入り、塔へのぼることができるのは星読みだけだ。
数えで五つになる年、リゼはおばば様に言われた。おまえは星の子だと。
集落の長でもあったやさしいおばば様にリゼはよくなついていた。リゼだけではない、子どもたちは皆、おばば様の大きな手によって守り導かれていた。
遊び疲れて芭蕉の木の影でうとうとしているときだった。突然、リゼはおばば様の最期のときを視た。それは一瞬にも満たないようなみじかい時間で、まるで星が流れるように、しゅるりとリゼの体内をその情景が駆け抜けたのだ。
――目を閉じて伏せっているおばば様のまわりを集落の者が取り囲み、ある者は涙を流し、ある者は祈りをささげている。おばば様のなきがらは小舟に乗せられ、ぐるりには花が敷き詰められた。そして、海へと流される。
早回しの映画のように、リゼはその情景を視たのだった。
まだ死の意味もわからないほど幼かったリゼはおばば様本人にそのことを告げた。
「おばば様、あのね、おばば様が眠ったまま起きなくなっちゃって、舟にのって海のむこうへ行っちゃう夢を見たよ。みんな泣いてたの。リゼも、なぜかわからないけど、涙が出たよ。ねえ、おばば様、だいじょうぶだよね? どこにも行かないよね?」
不安だったのだ。体内を星が流れ、早回しで物語を視る感覚をリゼはうまく表現できず、夢をみた、という言い方をした。だけど夢とは違う。あまりに生々しくて、リゼはまるで、それが近いうちに本当に起こることのような気がしてしまったのだ。
おばば様は静かにほほえんだ。
「そうかい。わしもそろそろ、海の底の国からお迎えが来るようじゃの。リゼ、悲しむことはない。死して肉体は朽ちても、たましいは海の底の国へ行く。皆、そうじゃ。わしも、リゼも。しばしの別れだ」
「おばば様。まさか、本当に……」
しわだらけの、大きな、かさついた手のひらで、おばば様はリゼの小さなほっぺを包み込んだ。
「本当だ。おまえが見たのは、本当のことだ。まだ起こっていないが、近いうちにいずれ起こることだ。リゼ、おまえは」
不安に濡れるリゼの澄んだ瞳を、おばば様は愛おしげに見つめる。
「おまえは星の子だ。星に選ばれた娘だ」
おばば様は言った。これからもリゼは不意に未来の情景や人の運命を視てしまうことがあるだろう、それは自分で視ようと思っても視えるものではない、星が視せるのだ。みちびきなのだ。視たい運命は視えないのに、知りたくなかった運命をはからずも知ることもあるだろう、と。
星に選ばれた娘は、視たものを軽々しく人に告げてはいけない。たとえ大きな嵐がきてこの島ごと飲みこんでしまうような未来が視えたとしても。告げてはいけない。告げるか否かの選択は自分でしてはいけない。それも星が教えてくれるだろう。
リゼは懸命に聞いていた。おばば様の話は難しかったが、胸にひびいた。
「島のみんなのしあわせのために、その力を使うのだ、リゼ」
おばば様の声はしわがれていたけど、包み込むようなやさしさがあった。
それから一週間後、おばば様は息を引き取った。眠るような最期で、リゼが視た光景そのままに、皆は泣き、なきがらを小舟にのせて流したのだった。
リゼは恐ろしくなった。知りたくなかった運命を知ること。それを自分の胸のうちに秘めて生きてゆかねばならないこと。
明るく天真爛漫だったリゼは、この時から、無口でおとなしく、いつも人の集団からはずれてひとり物陰でじっとしているような子どもになった。十六の誕生日をむかえて、あたらしい星読みとして塔へのぼることが決まっても。リゼはそっと口の端をもちあげてほほえんで見せるだけで、ひとことも言葉は述べなかった。
石積みの塔の壁にはところどころ明かりとりの窓が開いているが、ガジュマルの気根に覆われて、わずかに空気が流れ込むのを感じるだけ。まるで深い井戸のなかを地上へむかって登っているかのよう。素足にじかに伝わる、つめたく固い石の感触だけが頼りだが、それは思いのほかすべすべとしていて、気をつけないと足を踏み外してしまいそうだ。だが、もしここから落ちても、ガジュマルの気根や枝葉が意志をもった生きもののように隙間からすべりこんで受け止めてくれるような、そんな気がしてもいた。
先代の星読みが亡くなり、海の底の国に還ったのはつい先日のこと。つぎの星読みをリゼに指名して、逝った。奇しくもそれはリゼが十六になった日で、これもまた星のめぐりあわせというか、のがれられない運命の鎖なのだろう。
動揺はなかった。わかっていた。もうずいぶん前に、この森を訪れて塔へのぼる自分のすがたを視ていた。
新月の晩、塔にのぼり星に祈りをささげるのが星読みのつとめのひとつだ。今夜はリゼが星読みになってからはじめての、月のない夜。陽が昇り、空が晴れるまで眠ってはならない。島のだれひとりとして星読みの祈りのすがたを見るものはいないが、ほかならぬ満天の星たちが見ている。
死が訪れるまで。生涯だれとも契らず、島の平穏を祈りつづける。それが星に選ばれた娘のさだめ。星読みは代々、どこの集落にも属さず、森のはずれにひとりで居をかまえる。そこには運命を占ってほしいという悩めるひとびとが訪れ、お礼として作物や魚を置いていく。そうやって暮らしをたてていくのだ。
もちろん、運命が視えないこともあるし、視えたからといってそれを本人に伝えるのが良いことだとも限らない。おばば様の言う通り、すべては星のみちびきのままに。
集落の、同じ年頃の娘たちは皆、恋のうたをうたいながら機を織り、芭蕉の葉でむしろを編み、貝を採り、ときには若い男衆と逢引きをしていた。これからのリゼにはそんなささやかな日常さえも許されない。ふるさとを離れ、育ててくれた親とも姉たちとも別れた。だけど、悲しみもむなしさもない。人にはあらかじめ決められた道がある。たまたま自分の道が星読みだったというだけのこと。
だけど。
リゼはため息をつく。まとわりつくような常夏の夜にすぐに溶け込んで消えてしまうはずのその思いはしかし、塔を包み込むガジュマルの葉たちを揺らし、さざ波となった。
せめてさよならだけは告げたかった。あのひとに。
リゼの華奢な足首で揺れる、貝の飾りをつくってくれたのはあのひとだ。灯台守のシュウキの息子、トキ。ふしぎな色の瞳をした少年で、リゼより半年先に十六の齢をむかえた。トキはシュウキの本当の息子ではなく、赤子のころ、浜に捨てられて泣いていたのを拾われたのだという噂だ。シュウキに妻がないことと、トキの肌の色や瞳の色がこの島の人間とはどこか違っていることから、皆がそのような噂をたてたのだろう。シュウキが人嫌いで集落の者とは必要最低限の接触しかしないこともあり、大人も子どもも、亡くなったおばば様以外は、シュウキ親子のことをなんとなく避けていた。
リゼがはじめてトキと言葉を交わしたのは、浜で貝殻を拾っていたときのことだ。十になったばかりのころだろうか。それまでトキの存在は知っていたが避けていた。噂のせいではない。トキにかぎらずリゼは、ほかの子どもたちのことも、大人と会話することも極力避けていた。ふいに星が駆け抜け、そのひとの未来を垣間見てしまうことを恐れたからだ。おばば様の言ったように、自分では制御できない力なのだった。現にその頃にはもうすでに、知らなくていいはずのことまで視えていた。
魚を採りに行ったまま帰らなくなった父が、波に飲まれたのではなく、本当はほかの集落の女と島の外へ逃げたのだということも。
いちばん上の姉のはじめての子どもが、生まれてすぐに亡くなってしまうことも。
もう何も視たくなかった。気が触れてしまいそうだった。幼いリゼの小さな胸のうちにはとても抱えきれない運命の重さ。
澄んだ青い波の打ち寄せる浜辺で、リゼはよくもの思いにふけっていた。集落のはずれに、大人たちに出入りを禁じられている小さな洞窟がある。ある時、こっそりもぐりこんで中を進むと小さな入り江に出た。そうして見つけたリゼだけの海だ。
島のどこよりも水は澄み、砂は白く粒子がこまかく、吹き渡る風は優しい。波にもまれて打ち寄せられた貝や珊瑚のかけらを拾っていると無心になれた。ここにはだれも来ない、はずだった。はずだったのに。
トキがいた。彼の栗色のみじかい髪は潮風にそよぎ、海と同じ色をした瞳でまっすぐにリゼを見た。そして、何も言わず、貝をくれた。陶器のようにつるりと白く、ひかえめな光沢のある小さな巻貝。はじめて見る貝。あまりに美しくて、リゼは思わず、「くれるの?」と聞き返していた。トキははにかんだように笑むと、リゼの手の中に貝を落としたのだった。
それからふたりは、しばしばこの入り江で一緒に遊んだ。遊ぶといっても、ひたすら無言で貝や珊瑚を拾うだけだ。
おそろしく口数の少ないトキだが、そのうち、秘密の入り江にいるときだけ、灯台の仕事のこと、父シュウキのことなど、ぽつりぽつりと話してくれるようになった。リゼもしかり。それ以外の場所ではふたりは言葉を交わさず、そのかわり、目を合わせてひそやかに笑むのだった。
約束はしなくとも、入り江に行くとトキはいつも先に来て波を見つめている。そのすがたはどこか寂しげだったが、リゼを見つけると、とたんに照れたようにほほ笑むのだ。
また、手先の器用なトキは、しばしば拾った貝や珊瑚で首飾りや腕輪をつくり、リゼにくれた。彼の手が遠慮がちにリゼにのびて、そっと首飾りを巻きつけてくれた時。リゼの心臓がことりと音をたてた。十四のときだった。
はじめて会ったころはリゼと同じだったトキの背丈はいつの間にかリゼを追い越し、その肩も広くたくましく、少年から大人へと変わろうとしていた。リゼもまた、やわらかく丸く自分のからだが変化していくのを感じていた。心も。たがいのゆびさきがぶつかり合うと、とたんにリゼのからだは甘く痺れ、風になびくリゼの長い髪に触れようか迷っているトキの手を、みずから引き寄せたい衝動にかられる。ふたりでいるトキゼの瞳は濡れて、鼓動は速く激しく、頬は熱かった。おたがい、痛いほどに相手を意識して、触れそうで触れない、微妙な距離感を保っていた。
均衡が崩れたのは、十五の時。
いちどだけ。いちどだけ、トキがリゼの頬に口づけをしたのだ。プルメリアの花をリゼの髪に挿し、そのまま長い指先を髪にすべらせ、顔を寄せたのだった。その瞬間にリゼの胸は焦がれ、つま先からからだじゅうに熱が駆け昇り、そして。星が落ちた。リゼのなかに。一瞬の光がはじけ、消えた。
トキの運命だけは、視たくなかったのに。
いずれは別れの時がくることはわかっていた。自分には星読みのさだめがあるのだから、トキと結ばれることはどのみちかなわない。だから、ひとときの淡い思いだけを一生胸に仕舞って生きていければそれでよかった。
星はそれを許してはくれない。
いつの間にかリゼは塔をのぼりきり、てっぺんまで来ていた。もうガジュマルの気根も追ってきてはいない。塔の先端、石段が途切れた先の壁に、ぽっかりと穴が開いている。腰をかがめてその穴をくぐれば、ぱっと視界が開け、暗闇に慣れていたリゼのからだは星明りのもとにさらされた。わずかな足場とふるびた柵があるだけ。眼下には海のようにひろがるガジュマルの森、その果てには集落のあかりが寄り添いあうようにひかえめな光を放ち、小さな岬の先端には灯台の光がある。石造りの灯台で、中に入ったことはないが、きっとこの塔と似たようなつくりになっているのでは、とリゼは思う。シュウキとトキの守る灯台。灯台守は夜じゅう油を燃やし、航海する船のために海を照らすのだ。いまも。胸が、すん、と痛くなる。リゼはひとり、下くちびるを噛む。
岬の向こうにはどこまでも暗い海が広がって、闇に溶けている。その果ては見えない。
海の底には、死んだものの魂の還る場所があるという。では、空には何があるのか。
めぐる運命だ。
あまたのかがやきが、数千億の星のまたたきがリゼをつつむ。いまにもこぼれ落ちてしまいそうに近い。リゼの頬を涙がつたった。
トキはほかの娘と結ばれる。あのとき視たのは、ひとまわり大きく精悍になったトキが、美しい娘と抱き合っているすがただった。満月の夜、あの、リゼとひそかに会っていた小さな入り江で。
その娘はユウナという名で、リゼたちとは別の集落に住んでいる。海にもぐって貝や魚を採ることが得意な、活発な娘だ。夜に濡れたような美しい黒髪を耳の横でばっさりと切っている。珊瑚礁の海を泳ぐさまはまるで人魚だ。夢中で泳いでいるうちに潮に流され、ユウナはあの秘密の入り江にたどり着いたのだった。
星がリゼのなかを駆け抜けるその一瞬で、リゼはトキとユウナが惹かれあっていく過程を視た。早回しの映像のように。走馬灯のように。
ユウナはトキと一緒に、よく夜の海で泳いだ。トキは笑っていた。快活なユウナにつられるように、自然に。ひとかかえもあるユウナの花を、娘と同じ名をもつ花を摘んで彼女に渡し、そのまま抱きしめるのだ。
リゼと一緒にいるときには見せたことのない、トキの明るい笑顔。たがいを求めてやまない、情熱的な抱擁。長い口づけ。
なぜこんなものを視てしまったのか。はじめて好きになった少年が、はじめて自分の頬に口づけを落とした、その瞬間に。べつの娘の名を呼んで、べつの娘に甘い愛をささやくさまを。まるですぐそばで見聞きしているように、じかにその場面に立ち会っているかのように、生々しく感じねばならないのか。ふたりが口づけを交わした深い夜の潮のかおりも、トキの摘んだユウナの花のかおりも、リゼはくっきりと感じたのだ。
星が見せるまぼろしが消えたあと。反射的に、リゼはトキを突き飛ばしていた。トキは青い瞳をぱちりとしばたいて、リゼをまっすぐに見た。なぜ自分が拒絶されたのかわかっていないのだ。当然だ。まさかリゼが、本人もまだ知らないはずのトキの未来を視てしまっただなんて、トキには絶対に思いもよらないことだ。
「リゼ?」トキはリゼの腕をひいた。「どうしたの」
目のふちに涙がたまって、はらりとこぼれ落ちる。
「もうわたし、ここへは来ないわ」
リゼは告げた。戸惑っているトキを浜に残してリゼは去った。そうして本当に、二度とふたりの入り江を訪れることはしなかった。集落でトキと出くわすことがあっても、視線を感じても。もう、リゼは見つめ返すことはしなかった。
しかし。
集落の、祭りの夜だった。木陰から、ふいにリゼの手を引くものがあった。トキだ。
「リゼが好きだ」
まっすぐにトキはそう言った。燃え盛る、いくつものたいまつの灯が揺れるなかで、リゼの胸はかつてないほど高鳴る。わたしもよ、と思わず言ってしまいそうになるほど。
だけどリゼは彼の未来を知っている。二年後か、三年後か。それはわからないが、彼はさきほどリゼに思いを告げたのと同じ口で、別の娘に「好きだ」と告げるのだ。
リゼは首を振った。
「母さまにも姉さまにも、もう逢うなと言われているの」
「どうして。僕が拾われた子だから? 島で生まれた人間じゃないから?」
泣かないようにくちびるをかみしめる。そして、ゆっくりと大きく、うなずいた。
「……そうか。でも、きみは」
リゼは首を横にふる。
「わたしも母さまたちと同じ気持ち。よそ者とは、一緒に、なれない」
足もとに目を落としたまま、トキのほうは見なかった。顔を見たら、声がふるえてしまう。涙がこぼれてしまう。
トキは何も言わず、リゼの手を放した。そしてそれが、最後の逢瀬となった。リゼは十六になり、星読みに選ばれた。傷ついたトキはリゼのことを憎むだろう。ふたりの日々は淡い美しい思い出にすらならないだろう。それでいい。
だけど、せめてひとこと、さよならを。告げたかったと思うのは、甘えだろうか。それともこれが、恋の未練というものなのだろうか。
しゃらり、足首で白い巻貝がゆれる。星読みになることが決まったときに、トキからもらった贈り物は海に流してしまったけれど、これだけは捨てられなかった。はじめて会ったときにもらった美しい貝。トキが、珊瑚といっしょに紐に通して、身に着けられるようにしてくれたのだ。集落の娘たちに「すてきね」と声をかけられるたびに胸のなかが熱くなったものだった。世界にひとつしかない、いとしいあのひとからの、はじめての贈り物。
いまにも朽ち果てそうな塔の柵に寄りかかり、漆黒の夜空をながれる星の川を見上げながら、リゼは祈った。
――トキが。幸せでありますように。あの娘とふたりで、幸せな生涯を送れますように。そしていつか、海の底の国へ還る日。わたしのたましいが星読みのさだめから自由になる瞬間。まっすぐに、トキのもとへ行きたい。ほんとうの気持ちを告げたい。
星の川から光がこぼれ落ちる。ひとつ、またひとつ。流れ星の数をリゼは数えた。みっつ、よっつ、いつつ……。
九つ目の流星が、リゼのもとへ落ちてくる。空にまっすぐに伸ばして星を数える、そのゆびさきに光が灯る。光はふわりとふくらんで、リゼを包んで消えた。一瞬だった。
放心して、その場にくずおれる。
「……もう、いや」
リゼは泣いた。また、視えてしまった。
トキの運命。あの入り江で視た未来のつづきなのだろうか。
海に潜ったユウナが渦に巻き込まれて引きずられていく姿が視える。彼女は帰ってこない。島の人間があらゆる場所を捜索している。しかし見つからない。泣き喚く女性と、彼女の肩を抱きとめる男性の姿が視える。ユウナの父母だろう。彼女を飲みこんだ渦は深く激しく、なきがらさえも上がってこないのだ。
トキは。トキは泳いでいる。海の果てへ、果てへと。ユウナを探しに、ひとりで海に出たのだ。そしてやがて、みずからも、恐ろしい、巨大な渦へと飲みこまれていく――。
「いや、いや」
リゼは長い髪を振り乱して泣き叫んだ。風ひとつ吹かない、月のない夜。星たちはまたたきつづけ、ただ静かにリゼを見下ろしている。
これが未来? こんなものが、あのひとの運命?
リゼは立ち上がった。
「おしえて」
満天の星を、夜空を包むように、その両手を高くかかげ、広げる。
「おしえて。これは運命? それとも」
ユウナを引きこんだ暗い濁流。リゼには覚えがあった。知っている気がした。ずっとずっと気づかないふりをしていたけど、たしかに、自分のすぐそばにあったもの。いや、今も自分のなかで暗く深く渦を巻いている。
――あの娘が憎い。
星読みのさだめが憎い。
熱い抱擁も口づけも。彼の愛をその身に受けるのは、ほんとうはわたしだったのに。
こんな気持ちで神聖な塔にのぼったから、島の、みんなのしあわせを祈るべき星読みが、自分の恋する少年のしあわせを、まっさきに願ってしまったから。だから、これは罰なの? 罰として、わたしにこんなものを視せたの?
星は何も答えない。
星読みが生涯だれとも契ってはならぬ、その理由がわかった気がした。このままでは自分自身が、だれかを引きずりこむ黒い渦に、まがまがしい毒に、わざわいになってしまう。祈ることができなくなる。呪うことしかできなくなる。本当の運命を、視ることができなくなる。
リゼは流れ落ちる涙をぬぐうこともせず、ただ、満天の星空を見上げていた。そうしていると、だんだん、自分自身が空に溶けていくような気がした。
時が止まってしまったかのような静寂。
いくつもの星が流れては消える。たったひと晩のうちに、ほんとうにたくさんの星が消えていくのだ。
今しがた視たものが、本当の未来なのかはわからない。しかし、さだめというものは確かにある。人はみな海へ還る。いや、そもそもたましいの還る場所なんてものが存在するのかどうか、それすらもリゼはわからなくなる。気休めだ。流れ星のようにはかない命、せめて死して還る場所があるとでも信じていなければ、どうして耐えて生きることができよう。
トキはいつか、愛するひとを失うのだろうか。そして、自分も。
星読みがいくら祈りをささげたところで、さだめは変えられぬ。人々に啓示をあたえることもかなわぬ。いや、あたえたところで意味がない。変えられぬのだから。ただいたずらに怖れを呼ぶだけ。
ならば、ならばなぜ自分はここにいる。
やがて、空の端がうっすらと白みはじめ、すみれ色、あかるい桃色と、刻々とその色を変えた。まぶしい太陽のひかりが星のきらめきをかき消し、はるか遠くにある海を、ひとびとの眠る集落を照らす。
ガジュマルの森がざわめく。朝日をあびてよろこぶ、ひとつの大きないのちそのものだ。
答えが見つからずとも、星はめぐり朝は来るのだ。リゼは祈った。それならせめて、もういちど、澄んだこころを。わたしに。
それから幾度もの朝が訪れ、去り、夜が来てまた陽がのぼり。リゼは十八になった。もう、星読みとしての暮らしにもすっかり慣れていた。寂しくないわけではないが、集落にいるころから人と積極的にかかわるのを避けていたから、そのような気遣いのいらない今の生活が、かえって気楽だと思えないこともなかった。
たくさんの人々が、ひそやかにリゼのもとへ訪れた。たいていの者が、ただ胸のうちをリゼに打ち明けるだけで、すっきりした表情になって帰っていく。森のはずれでひっそりと暮らす星読みにだけ吐きだせる、暗い澱。不安。罪。迷い。皆が渦をかかえて生きている、リゼはそんな思いをもつようになった。
よく晴れた日の午後。リゼは森のそばの泉水へ水を汲みに行っていた。外は暑く、額には汗がにじんだ。
「……こんにちは」
遠慮がちな声がして振り返る。戸口に、若い娘のすがたがあった。黒い、夜露に濡れたような美しい髪が、耳の横でそよいでいる。意志の強そうな大きなひとみが、不安げに揺れてリゼを見ている。左手には土産のはいった籠、右手には、プルメリアの花。
――ああ、あの娘が来たのだわ。
トキの恋人となる娘、ユウナは、リゼに、プルメリアの花房を、そっと差し出した。受け取って、鼻先をうずめる。そのかぐわしい香りをいっぱいに吸い込む。
「ありがとう。このお花、だいすきよ」
昔、トキにもらった花。星の形をした、愛らしい花。
リゼはその娘を部屋へ招き入れた。
「あなたの話をしましょう、ユウナさん」
そう言ってほほえみかけると、娘は目を見開いた。
「どうして、わたしの名前を」
ふふ、とリゼは笑みだけを返す。
「あなたのことは、ずいぶん前から知っているの」
ユウナは、ただただ驚いている。驚いているというか、あっけにとられているというか。
リゼの長い髪がふわりと揺れた。
よく冷えた汲みたての清水を注ぎ、島みかんの果汁を落とす。リゼの足首で、白い巻貝が揺れ、すずしい音をたてる。
「それ、すてきね。足首の」
ユウナの声がする。昔、まだ集落にいた頃のように、リゼの胸は熱くなり、だけどそれは一瞬で、やがてその熱は、じんわりとあたたかいともしびとなって全身をめぐった。
「それより」リゼはユウナを振り返る。
「心配しなくてもいいわ。ご両親のすすめる相手とは、あなたは一緒にならない。あなたの運命のひとは、ほかにいる」
片目をつぶってみせる。視えたのだ。ユウナがいま、望まない結婚を強いられていること。しかしこの後すぐに、トキと出会うことも。
驚きであっけにとられていたユウナが、笑った。人懐こい、一緒にいるものの心をときほぐす、明るい笑顔。
――トキを、幸せにして。ふたりで、かならず幸せになって。
わたしはあなたたちを、けっして、けっして呪わないわ。あんな暗い渕になんか、引きずりこんだりしないわ。あの時塔で視た未来はきっと、まがいものの、わたしのゆがんだ願望だったのよ。
リゼは信じた。きっとちがう運命があるはずだと。信じるよりほか、なかった。目の前にいる、実際にこの目で見るトキの恋人は、星が視せた彼女よりずっと美しく凛として、真珠のようにきよらかな光をまとっている。
リゼはユウナの手に、自分の手のひらをかさねた。
「ありがとう、星読みのリゼさん」
ユウナの声がわずかにはずんでいる。
「わたしの思いも迷いも、ぜんぶ。あなたになら話せそう。みんながこっそりここへ通う気持ち、わたし、今、わかったわ」
ユウナはリゼの注いだ清水を、ゆっくりと、味わいながら大事に飲んだ。
「わたしもよ」
リゼの答えに、ユウナが首をかしげる。
――わたしも、トキがあなたに惹かれる気持ちが、わかったわ。
日が暮れる前にユウナは帰っていった。
ひとりになったリゼのもとに夜のざわめきが訪れ、細いしろがねの月がかがやく。星がひかりを放ち始める。明日は新月ね、とリゼは思った。
――わたしは祈る。たましいが海に還る、その日まで。
星が落ちる。しわがれた、やせ細った足が石段をふみしめて歩く情景を、リゼは視た。年老いたその足首には、白い貝が揺れていた。