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第三章 傷だらけの天使 3

 辰巳が閉めた玄関の扉をそっと開ける。昼前にも関わらず、克也の視界に薄暗い廊下が広がった。人の気配が殆どない。玄関に揃えられた靴が、兄妹の在宅を告げていた。

 廊下の突き当たりにあるリビングはガラス扉で透けて見える。無人なのが遠めでも明らかだった。右手にある二つの扉の内、奥の扉が開いていた。そこから微かな呻き声が漏れ聞こえて来る。廊下には雪解け水がかたどった辰巳の靴跡がその扉の向こうに続いていた。

「辰巳!」

 克也も土足のままその部屋へ駆け込んだ。

「!」

 目の前に広がった光景が、遅かったことを克也に見せつける。

 カーテンで締め切られた、すえた臭いの立ちこめる薄暗い個室。拘束された少年が、克也が立つ入口の対角で呆然としていた。彼の手に掛けられた玩具の手錠のもう一方が箪笥の取っ手に掛けられている。その少年は何度か翠や煌輝と一緒に店へ顔を出していたので見覚えがある。煌輝の仲間にしては真面目そう、という好印象を抱いた少年だ。

 その少年と自分の間にあたるベッドサイドのフローリングに、翠がうつ伏せの状態で倒れていた。翠らしくない赤い服だと思ったそれは、衣類ではなく血の衣。袈裟懸けに刻まれた傷からは、まだ鮮血がトロトロと滴っていた。

「辰巳……」

 名を呼んだ人は、ベッドの上で煌輝を馬乗りに組み敷いている。仰向けられた煌輝の口には、辰巳が無理やり咥え込ませたトカレフ。既に四肢は撃ち抜かれており、翠以上の鮮血が噴水のように噴き出していた。

「来るな、と言ったはずだ。もうこんな光景を見るのはたくさんだろう」

 呟いた声は極めて冷静で、低く、そして酷く重い。克也は身体がまったく動かせなかった。膝が笑ってしまって立っているのがやっとの状態だ。頭では判っているのに、視界がどんどんぼやけていく。次第に翠と姉が重なって見えた。

「……あ……姉さ……たつ、み……が?」


 ――辰巳が加乃姉さんを殺したの?


 問い掛けるのに、答えがない。彼は冷たい微笑を浮かべたまま、血まみれの姉を見下ろすだけだ。

「……」

 あの事件の頃のように、白い闇が克也の視界を隅の方から覆い始めた。





 辰巳が冷ややかな目で組したモノを見下ろし、気だるい声で一つだけ質問をした。

「翠ちゃんをったのは、キミ?」

 淡々とした口調は、モノに話し掛けている馬鹿馬鹿しさを露骨に表していた。嫌悪と不快をあらわにしたグリーンアイズが鈍く光る。カーテンの隙間から射し込む一筋の光が、辰巳をより狂人に見せた。

 モノは涙と血に濡れた顔で友人を必死に視線で指し示す。それは飽くまでも自分の無実を主張する態度だった。

「ふん」

 辰巳の鼻から抜ける面白くなさそうな声と同時に、左手が懐に伸ばされる。再び現れた左手には、トカレフよりひと回り小型のコルト・ウッズマンが握られていた。

 ――チュンッ!

「……っ!」

 それの左大腿部に風穴が空くと同時に、ソレがくぐもった悲鳴を上げた。

「調べさせてもらったよ。自分では何一つ抗わなかった癖に、妹に加虐して鬱憤を晴らしていた訳だ。翠ちゃんはそれでもお前さんを守りたがっていたから、どうしたもんかと思っていたんだけど」

 辰巳の話が、巧く克也の中で咀嚼出来ない。ただ思い出したのは、組しているのは加乃でもモノでもなく、煌輝、という人間であるということ。克也の身体を震わせるのは、場にそぐわない柔和な笑みを浮かべる辰巳のグリーンアイズ。目だけが少しも笑っていない、口許だけの笑み。歌うように語る声は、背筋が凍るほど穏やかだった。――それは辰巳の怒りが頂点に達した時の声。澱んだ瞳は、かつて警察に保護された自分を迎えに来てくれた時、見えない誰かに向けて放った憎悪の光と同じ種類に見えた。

「まだ子供だと思って甘く見ていたようだ。依頼を失敗したのは初めてだよ」

 世間話でも話しているような口調で「依頼人を殺られるのは困るんだ」と言う。


 ――死を以てあがなってもらうよ。


「ま、まだ死んでない!」

 眉間に標準を当てるつもりで辰巳が煌輝の口からトカレフを引き抜いた途端、煌輝が命乞いをするようにそう叫んだ。

「し……んで、な、い」

 その意味を理解した瞬間、克也の身体が持ち主の意思に従った。弾かれるように翠の許へ駆け寄り、傷だらけのその身を抱き起こす。

「翠! 返事して!!」

 着ていたブルゾンで半裸の彼女を包んであらん限りの声で呼び掛けると、彼女の瞼がぴくりと動き、うっすらと瞳を覗かせた。

「やめ、て」

 内容はともかく、その声を聞いて克也の緊張がひとときだけ緩んだ。

「兄さんは……ちが、う……依頼は、アタ……」

「や……っ、待って! 翠!」

 再び閉じていく瞼に、失う恐怖でパニックになる。引き止めるように彼女を抱きしめると、克也の髪と耳が微かな呼吸の熱を受け取った。引き攣った頬の筋肉が徐々に緩んでいくのが判る。ブルゾンの下の素肌へ手を伸ばしてそっと傷口に触れ、出欠の度合いを確認する。

(よかった……止まってる)

 その段になって、ようやく克也に冷静な判断力が戻って来た。

(小磯さん達が来るまでに、今のボクが出来ること)

 克也はそっと翠をその場に横たわらせ、ベッドの上で睨み合っている二人を見据えて立ち上がった。





 克也が翠に対応している間にも、辰巳の煌輝に対する糾弾は続いていた。既に右大腿と両腕の銃創からも新たな鮮血が噴き出している。

「……強情だね」

 辰巳はそう吐き捨てると思い出したようにベッドから降り、部屋の隅で震えている少年に歩み寄った。彼の前に長身を屈め、少年の顎の下へトカレフの銃口を突き立てる。

「何があった? 撃ち込まれる前に、俺に解るよう正直に喋ってね」

 空々しい諭しの言葉と冷ややかなアルカイック・スマイルが、克也を辰巳の許へ急がせた。

「撃っちゃダ」

 途中で言葉を呑んでしまった。そこには二人の共通した意識が漂い、タールのような粘る空気が克也の介入を強く拒んでいた。

 少年が辰巳を相手に怯える素振りもなく、吐き出すように告げられた経緯。それは克也にも彼らと同じ感情を少しずつ侵蝕させていった。

「俺はただ、翠を自由にしてやれって煌輝へ頼みに来ただけなんだ」

 思い出した。彼は煌輝の友達の中でただ一人、翠が自分から話し掛けることの出来ていた“隆明先輩”だ。いつだったか、『翠は俺にとっても妹みたいなもんだから』と照れ臭そうに笑いながら、克也に『翠の友達になってくれてありがとう』と言った少年だ。

「俺……翠が好きだったから。でも、煌輝も親友だと思ってたから。あいつだって、親から翠と比較されてゆがんでいった……形が違うだけで、翠とおんなじ、親の飾りでしかない、可哀想な奴だったんだ」

 絞り出す隆明の声が、苦しげにか細くなっていく。どちらも大切だったのに、と、ぽたりと目から雫を零す。命乞いの嘘をついているようには見えなかった。

「そっか。んで、大好きな子と大親友は、来てみたら何をしてたのかな」

 そう問い掛ける辰巳の面から笑みが消えた。同時にトカレフが隆明の顎から外される。隆明の顔が、がくりと垂れた。

「……妹なのに……翠は、妹なんだぞ。なのに……煌輝……っ」

「だから、翠ちゃんを助けようと?」

 彼は辰巳の問いに、小さくこくりと頷いた。

「なのに、なんで……あんなことまでされてたのに、翠は煌輝を庇うんだよ……お前が全部悪いんだろうがっ」

 最後の叫びとともに初めて彼が自力で立ち上がり、呻く煌輝に向かって初めて怒声を上げた。そんな彼を半ば無理矢理座らせ、辰巳が彼のこめかみに銃口を当てた。

「落ち着きな。同じことを二度言わせるな」

 辰巳の意味ありげに彼を諭す微笑が、克也を我に返らせた。

(か、感情に任せちゃダメだ。ボクまで一緒になっちゃ……ダメ、止めなくちゃ)

 そう思うのに、体が動かない。腰の抜けた身体をどうにかしようと、克也は床に手をつき必死で両腕に力を込めた。

 明らかに何か含みをこめた辰巳の口調を受けて、隆明が一層辰巳へシンクロしていく。

「で、間違って翠ちゃんを傷つけてしまいショックを受けた、そういう経緯?」

「そう……いつの間にか、繋がれてた」

「まあ、来栖がやったと考えるのが妥当だな。キミが自分で出来るはずもなければ、翠ちゃんがこんなことをする理由もないし」

 辰巳が深い溜息をつき、疲れたように首をうな垂れた。その奥から、くぐもった声で最後の問いが紡がれた。

「翠ちゃんを“また”ヤったの? そこのバカ兄貴は」

「!」

 流石の克也も、「ヤった」の内訳を覚った。否定して欲しいと訴える視線を隆明に移す。小さく頷く彼の姿が、克也を再び不動にさせた。

 不意に隆明が何かに気づいたように、勢いよく頭を上げた。

「待って、“また”って……どういう意味だ? あんた、何を知ってるんだ!?」

「煌輝のアレは今日が初めてじゃないよ。翠ちゃんは一度堕胎してる。父親名の男を調べて問い詰めたら、煌輝に頼まれて堕胎の署名をしただけで実際には妹の顔も知らない、だとさ」

 そう語る辰巳の視線は、どこか宙を泳いでいる。やり場のない憎悪をどこへどう向けるべきか探しあぐねているようにも見えた。だが次の瞬間、その表情が微かな笑みに変わった。

「キミと取引がしたいんだけど」

 辰巳はそう言って立ち上がり、手にした拳銃を両方とも煌輝へ向けた。

「翠ちゃんからの依頼は、彼女自身を殺して欲しい、という匿名の依頼だったんだ。翠ちゃんの意識がないから確認を取れない。そこで、だ」

 辰巳はあくまでも穏やかな微笑を保ったまま、隆明の答えを冷たい声で求めた。

「キミが翠ちゃんの代理として、最終回答をくれないかな」

 辰巳の出した代案は、あり得ない。責任を隆明に押しつけていた。

「な……んで翠が」

「自分がいる所為で兄さんが辛い思いをしている、ってところじゃないかな。彼女が全部自分で背負い込む子だというのは、キミの方がよく知ってるだろう」

 そう言って隆明を煽る辰巳は、その後の打算を彼に隠していた。辰巳は罪を背負える立場じゃない。だから依頼を遂行したらきっと隆明を――。

「俺は誰を殺ればいいの?」

「だ」

「俺が依頼する。煌輝を殺ってよ」

 克也の止める声は隆明の回答に掻き消され、辰巳に不遜な笑みを浮かばせた。

「契約、成立。いい子だね、キミは」

「辰巳やめろ!」

 身体が、動いた。床を思い切り蹴り飛ばす。辰巳の許へ駆けつける。ベッドでうずくまる煌輝の許へ近づかせまいとして。

 数センチで彼の前に立ちはだかり損ねた。同時にこもった銃弾の音。

「――ッッッ!!」

 煌輝の脳天目掛け、銃弾の雨が降り注ぐ。辰巳の両手が構えた二挺の拳銃にこめられた銃弾の切れるまで。煌輝の頭蓋をただの肉と骨の欠片に変えるまで。辰巳は克也の止める力などお構いなしで、返り血を浴び続けていた。

「辰巳、やめて! もうやめてお願いだから!」

 彼の腕を下げよう足掻いてもびくともしなかった。鍛え方も体格も違う辰巳に、華奢で女の身体でしかない克也が敵うはずがなかった。

「どんな事情があっても、免罪符になんかならないんだよ」

 誰にともなく辰巳が呟く。歌うように、ゆっくりと。

「抵抗も出来ない、こんな弱い存在なのに」


 ――本当は、死んでも贖えないんだよ、クソ親父。


 辰巳の瞳から一筋の糸が頬を伝う。それは姉を事件に巻き込んで死に至らしめたという、辰巳自身の自責の念。そして今、初めて知った。姉を殺した相手が、辰巳の父親だということを。

 浅い息をどうにか整える。姉と父親しか見えてない辰巳に、通用するのはこれしかないと思った。

「辰巳、お願い……。自分を、責めないで」

 高木から聞いた、姉の遺言。

「辰巳、お願い。自分を責めないで……普通の暮らしをボクにって、約束したんでしょう?」

 弾倉が空になっても、まだハンマーを叩かせる辰巳の腕を引きながら繰り返した。溢れる涙が止まらない。ありったけの思いで、姉に願う。

(お願い、加乃姉さん。まだ、辰巳をボクから取り上げないで)

「……か、の?」

 かちかち、というハンマーの音が、やんだ。急に下ろされた腕が、力一杯それを引いていた克也を後ろの方へとよろめかせる。

「うぁ」

 掴んでいた腕が一瞬にして克也の両腕をすり抜け、それが克也の背を受け止めた。そのまま辰巳の方へ抱き起こされる。

「ごめん。間違えた」

 見上げれば、辰巳の焦点が定まっている。本来の辰巳らしい生気が戻って来ていた。

「克也」

 名を、呼んだ。「加乃」ではなく「克也」と。戻って来てくれた。姉の方にではなく自分の方へ。

「……バカ……っ」

 前が見えない。辰巳が見れない。ぐにゃりと曲がった視界が、途端に真っ暗になった。ぽすん、という小さな音と同時に、確かな鼓動が伝わって来る。

「克也、ホントに、ごめん」

 頭上から降る声は、優しいバリトンの声だった。それは小磯達の訪れを知らせるざわめきを耳にするまで、ずっと克也の耳許であやすように繰り返された。

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