第三章 傷だらけの天使 2
巷が春休みで賑わう時期になり、街は休日を満喫している学生達で溢れ返っていた。その日は店の定休日だった為、克也は翠の高校合格祝を兼ねて映画を見に行く約束をしていた。
グレーのニットキャップにやっとのことで長い髪を入れ込む。
「もうちょっとタッパがあれば、翠と釣り合うのに」
鏡の前でくるんと一周すると、そんな愚痴めいた感想が漏れた。まだ肌寒いので、ワインレッドのタートルネックのセーターと、下はストーンウォッシュの黒系ジーンズ。あとは黒のダウンジャケットを羽織って、トレッキングシューズは黒とグレーのどっちがいいだろう。
克也は姿見と睨めっこをしながらして思い悩んでいたが、扉をノックする音で迷い事を一時中断させた。
「どぞー」
その返事を受けて扉が開く。ぼぉっとした寝起きのひげ面がそこからのそりと現れた。
「なぁんだ。この間のスーツ、着て行かないのか」
折角買ってあげたのに、と朝から辰巳がうっとうしい。
「あったりまえだろ。パンツ見えてしょうがないよ、あんなもん」
「それは克也が踵落としなんかするごぁ!」
嫌なことを思い出させた元凶を、踵落としで黙らせた。
「目ぇ覚めたか」
「あい……。あ、じゃあさ。せめて髪は下ろしていこうよ」
何となく何を言いたいのか察しがついた。
「別に髪を上げててもそこまで寒くはないだろ」
ここは適当に聞き流してさっさと出掛けてしまうに限る。克也はそう判断すると、服装に悩むのを止めてそそくさとダウンジャケットを羽織った。辰巳の『女の子を頑張ろう』論はメチャクチャめんどくさくて鬱陶しい。ここは逃げるが勝ちだ。
「っていうかさ、ほら。その方が女の子っぽく見えるから」
「てめ、まだ寝ぼけてるのか!」
克也はその言葉にカチンと来て振り返ったが、目にした光景を見た途端に固まった。
辰巳がまだ寝ぼけている。スウェット姿というだらけモード全開のまま、さっきまでの会話を綺麗さっぱり聞き流し、四つんばいで勝手に人の部屋を漁り始めていた。
「あのスーツならカットソーの方がいいよねぇ」
と辰巳が手に掛けた引き出しに入っているのは、ランジェリーの入っている引き出しだ。
「ちょ、おま、何勝手に人の引き出し開けてんだよ!」
「だって出してあげないとそのまま行っちゃうだろうし」
辰巳がそれを引く寸前、克也の右足が華麗な弧を描いて振り下ろされた。
「るっさい! だったら辰巳が着てろっ」
「ぐぉぅ!」
変な悲鳴と、ご、という鈍い音が克也の部屋に轟いた。
「うぷ……」
自分で言った直後に辰巳のその恰好が脳裏を過ぎり、そのシュールさに気持ちが悪くなった。
「……今、想像しただろう」
寝起きの掠れた辰巳の声がバリトンの声に戻っていく。やっと目が覚めたらしい。彼は恨めしそうな視線を克也に向けて、後頭部を涙目でさすっていた。
克也の携帯から流れる翠指定のメール着信音が、二人のつまらない漫才を止めた。
《熱が出てしまって今日の約束は行けません。みぃ》
「みぃ……?」
背筋に冷たいものが走った。克也の中で、警鐘がけたたましく鳴り響く。何かが、おかしい。
「克也?」
訝る辰巳の声と同時に、手にした携帯電話がフローリングの床を小さく叩いた。
「辰巳……翠のこと、調べてたんだよな」
問われた彼の顔がゆがむ。深い眉間の皺は、回答拒否の印。だが今回は引き下がれなかった。
「教えろよ。翠は何を抱えてるんだ?」
「んー、まだ、ナイショ」
そう言っていつものように抱き寄せることでごまかそうとする辰巳を、体全部で拒絶した。
「ボクに出来ることって何にもないのかよっ」
「急にどうしたんだ? 落ち着け克也。隠している訳じゃない。まだ」
「翠は自分のこと“みぃ”なんて言わないんだよ!」
思い切り辰巳を突き飛ばす。気づけばキャップが外れてぐしゃぐしゃになった髪が、濡れた頬に張りついていた。
「……見るぞ。いいな」
辰巳はそう言いながらも、克也の返事も待たずに携帯電話を拾ってディスプレイを開いた。
「……克也。俺が知る限り、あの子のことを“みぃ”と呼ぶのは一人しか思い浮かばない。俺の留守中は、どうだ」
凍ったフラットの声が静かに問う。嫌な予想が確信に変わっていく。最悪の予想を拭えない。
「……ボクも……どうしよ……う……」
来栖煌輝――兄貴だけ。他の人は皆『妹ちゃん』、または名前を呼び捨てで呼んでいた。
「どうしよう、ボクの所為だ」
あんなに縋るような瞳をして笑っていたのに。
「どう助けたらいいんだ、ってずっと考えていたのに」
吐き出す声が、震えている。喉と心が、ひりりと痛い。
「家族のことなんてボクには分かんな過ぎて、どうしていいのか分かんなかったんだ!」
「克也、落ち着け。お前の所為じゃ」
「どっかで辰巳に甘えてた。辰巳がなんとかしてくれるだろうって。ぐずぐずとしていたボクの所為だっ」
押さえ込む辰巳の腕の中でもがく。全部、みんな、自分の所為だ。辰巳が秘密にしているのを大義名分に、心のどこかで甘えていたから深く追求しなかった。
「ずっと何かおかしいって思ってたのに!」
「克也、頼むから。またお前声が」
辰巳の声が遠くなる。泣きそうな顔で笑う翠が鮮明に浮かんで来る。
不可解な赤い腫れ。ぎこちなく仲の良い振りをする兄妹。妹を誉めると激昂する兄。独りで来た時、一心不乱でノートを描き続ける妹。そして。
Special menu――kill mie――
「どうしよう。ボクの所為だっ。どうし――ん……っ」
辰巳が髪を強く後ろへ引く。痛くて顎が上に向く。でもその痛みはすぐに消えて、なだめるような『家族のキス』が、克也の止まらない言葉を無理やり止めた。
「……頼む。お前まで失くしたく、ない」
溜息混じりで切なげに漏れた言葉が、克也の髪と鼓膜を力なく揺らした。
「……ごめん」
強張った身体が自然と緩む。また、心配を掛けてしまった。
「いや。俺の気づくのが遅すぎた。meのスペルミスでもなく、“みえ”という名前でもなかったんだ、あの落書きは」
辰巳は口惜しげにそう吐き出し、克也を解放するとドアノブに手を掛けた。
「タンデムで行くぞ。俺もすぐ出る準備をする」
背を向けたまま、そう言った。
再び翠が相手だと知らせる着信音が響いた。
「もしもし?! 翠?」
間髪入れずに克也が出ると、聞こえて来たのは
『――たすけて』
というか細いひと言。そして電話は一方的に切れた。
Special menu――kill mie――
白い落書き帳に記されていた、依頼主不明の謎のメッセージ。その正体は翠だった。
心のどこかで解っていたのに。縋るような潤んだ瞳。怯えるような震える目。零れそうな大きな吊り目は、いつも「助けて」と訴えていたのに。
兄の前では語れない。店で過ごす時間は楽しいひとときでありたい。愚痴零して疎まれるより、笑顔でずっと傍にいたい――翠のそれはまるで、辰巳に対する克也のそれと同じだった。
「ごめんね、翠」
辰巳の背中に頬をすり寄せ、誰にともなくそう呟く。
「どんな翠でもだいすきだ、って、ちゃんと口にしてればよかった」
バイクに乗ってタンデムで翠の家に向かう間、克也はずっとそんなことばかり考えていた。翠への罪悪感と懺悔が、克也の思考と感情を占拠した――ほかのことに、気が回らなかった。
辰巳がずっと無言であることの違和感にも。
辰巳の出で立ちが、『Canon』のマスターでも『裏』でもない、彼らしからぬ不完全振りだったことにも、ゴーグルの向こうにあるグリーンアイズが鈍く澱んでいたことにも気づけなかった。
「ごめんね、翠」
ただそれだけを繰り返しながら、辰巳の腰へ回した腕に縋る想いで力を込める。克也は翠の自宅への到着の遅さに、ただ何も出来ずに焦れていた。
辰巳の様子がいつもと違うと気がついたのは、翠が家族と住むマンションに着いてからだった。
カラーコンタクトだけは仕込んでいるが、遺留品を残さぬようにと必ず結わくはず髪を風が煽ったことで初めて違和感を覚えた。髪を解いたまま、ゴーグルも外して素顔を晒したままだった。
「辰巳……その恰好でいけるのか?」
「翠ちゃんの部屋は、何階?」
一瞬嫌な予感はしたが、自分の勘に対する自信が今はない。
「五〇二四号室。ボクが呼び出す方が自然だよね」
「よろ」
辰巳の無表情と言葉少なな態度が気になりながらも、言われるまま彼を翠の住む部屋へ案内した。
「翠。ボク、克美だよ。見舞いに来たぜ」
平静を装い、翠の家のドアホンを鳴らすが応答がない。
「克也、面倒だ。どけ」
乱暴なその言葉遣いで、初めて辰巳がキレていることに気がついた。姉を亡くして間もない七年前と同じ声を耳にして背筋が凍る。辰巳から喜怒哀楽の表情が消える時。それは集中して思考を巡らせているか、今のようにリミッターが切れた時しかない。彼の無表情の内訳を、てっきり前者だと勘違いしていた。今、彼を人前に出すのは、絶対にまずい。
右手を懐に忍ばせた彼のそれに手を掛ける。
「た、辰巳っ。まず高木さんに連絡しようよ。お前がまずいって」
辰巳を踏み止まらせる為に彼の旧友の名を口にした。高木は辰巳の友人であると同時に、姉が殺された『あの事件』の担当刑事だった男だ。現在は東京警視庁に在籍し、警視正のポストにおさまっている。姉の殺害事件以降、辰巳がこの手の仕事をする時、必ず綿密な連絡を取って万が一に備える。
今回は高木に連絡を入れた素振りがない。下手に発砲して騒ぎでも起こしたら、辰巳や自分を探している追跡者に自分達の居場所が判明してしまう。
「克也、連絡を頼む」
彼が冷たくそう言い放ち、克也の手を左手でそっと除く。ひんやりと冷たい手。素手のままでいるのも彼らしくなかった。
「ね、待ってよ。とにかく今回はボクが行くから辰巳は」
――チュンッ!
克也が言い終わらない内に辰巳は懐からトカレフを取り出し、ドアノブを撃ち壊した。
「いいな。絶対に、来るな」
辰巳はそれだけ言うと、翠の自宅へ土足で踏み込んでいってしまった。
「辰巳! ダメだってば、証拠が残っちゃうよっ」
――またボクの傍から消える気なのかよ。
七年も時が過ぎたのに。思い出に出来ず、またあの頃の辰巳に戻っていく。紅に染まった姉の姿。憎悪で充血した辰巳の瞳、置き去りにされた時の、真っ白い闇――。
「もうあんな想いなんか……嫌だよ……」
震えている場合じゃ、ない。
克也は急いでスキングローブを外し、高木の直通番号に電話を掛けた。
『高木だ』
懐かしい低いトーンの声が受話器から流れた。決して甘い声ではないのに克也を落ち着かせる、厳かでありながらも穏やかな声。口がやっと滑らかになってくれた。
「高木さん、ボク、克也! 辰巳がまた」
高木は克也のその一言だけで即座に反応してくれた。
『何があった。海藤関連か』
「違う。詳しい話をしている余裕がないんだ。今、ボクの友達のマンションにいるんだけど、辰巳が拳銃使って踏み込んじゃって」
所番地と翠の苗字を告げると、彼は既にその案件を知っているようだった。
『小磯をすぐに送る。大丈夫だ、克也君。とにかく小磯が来るまで辰巳から目を離すな。出来るな?』
小磯――小磯刑事。高木の部下で、克也達が信州へ逃亡して来るのに合わせて県警へ出向し、密かに自分達を守ってくれている刑事。一時期克也が身を寄せていた、数少ない信頼の出来る存在。高木のその言葉に落ち着きを取り戻し、大きく息を吸い込んだ。
「うん、大丈夫。ありがとう、高木さん」
克也は残りの必要事項を高木へ伝え添えて電話を切ると、すぐに辰巳のあとを追った。