第三章 傷だらけの天使 1
――生まれてなんか来なけりゃよかった。兄さんを死なせるくらいなら――。
今日も喫茶『Canon』は閑古鳥。
「ぬぁー、こんなことなら進学しとけばよかった」
そして克也もまた客がいないのをよいことに、相変わらずの後悔と不満を吼えての朝を過ごす。
今思えば、辰巳から提案された高校進学を拒否したのが間違いだった。辰巳がこんなにスパルタ鬼教師に変貌するとは、中学相当の勉強を教わっていた時には思わなかったのだ。
「今更遅い。自分が拒否ったんでしょ」
今日もキッチンから容赦のない声が飛ぶ。特に今修得させられている教科など、克也から見ればまったく実生活に役立たない科目としか思えない内容だ。克也は観念し切れず、足掻きの反論を試みた。
「大体、倫理なんて概念ちっくなものはさ、社会で生きていく中で自然と身につくものだと思うんだ。机上の理論なんて、ナンセンス」
じとりと粘りつく視線で辰巳がこちらを睨む。彼の手にした泡だて器までが凶器に見えた。克也の顔に引き攣った笑みが浮かぶのと、彼が泡だて器を克也に向かってびしりと指したのが同時だった。
「んじゃ、『変容する現代家庭の問題点及びその改善策を理論的に述べよ。』」
事前に暗記したに違いない。辰巳は克也の前にある問題集を見もしないのに、すらすらと問題文を暗読した。
「そんなもん、家庭機能不全育ちのボクに解るかばっきゃろー!」
あまりにも反論の余地がなく、腹立たしさから問題集を投げ出した。
チーズケーキの種を仕込みながら辰巳が笑う。
「だったらちゃんと学びなさい。自分の経験なんて、ほんの一握りなんだから。机上の理論をまずは知らないと、否定さえ出来ないだろう?」
そう言って辰巳は、いつものように少し無理のある笑顔を作る。そんな彼の中に宿る罪悪感が、嫌でもお喋りな克也の口をつぐませた。
(加乃姉さんのこと、考えてるんだろ……)
普通ではない死に方をした姉。辰巳は、口にこそしないが、自分が関わった所為で姉を死に至らしめたと思っている。克也は、辰巳が自分を養っているのはその罪悪感からだと思っていた。
――家族。
その言葉が克也を重い気分にさせた。こんな勉強なんか要らない、と思った。
からん。
心地よいドアベルの音が気まずい沈黙を破った。克也が脊髄反射で立ち上がったのは、この空気を変えてくれたから、というだけではなくて。
「おはようございまーす。もう開いてますか?」
様子をうかがう恰好で顔を覗かせた可愛いお客は、克也の予想していた待ち人だった。
来栖翠。二駅南の町に住んでいる中学三年生の女の子。この春から電車で松本にある予備校へ通い出したらしく、週三回必ず店に寄ってくれる常連客の一人だ。
そして、克也のちょっと気になる子でもあった。ちょっとだけ、辰巳には茶化されたくない意味で。
「いらっしゃい。お好きな席へどうぞ」
時刻はまだ午前九時。予備校の受講時間前後にしてはかなり無理のある時間。辰巳は翠の来店時間を気にする素振りも見せず、いつもどおり席を勧めた。
(大人がそんなんでいいのかよ)
つい先ほどまでの自分を棚に上げ、克也は辰巳の受け答えに心の中で突っ込みを入れた。
「みーどりぃ。またサボリかよ。本格的に浪人するぜ?」
ことんと水をカウンター席へ置きながら、辰巳の代わりとばかりに偉そうな説教を垂れた。
「今日はサボリじゃないもの。模擬試験なのっ」
と、翠は相変わらず克也には冷たい。大きなきつい目を上目遣いにして克也を一瞥すると、束ねた長い栗色の髪を勢いよく振って辰巳へと視線を移してしまった。
「辰巳さん、ウィンナコーヒーとチーズケーキっ」
腹が立つほどの天使の笑みを、翠が辰巳だけに向ける。声も甘ったるいトーンで、辰巳を好きなのが一目瞭然だ。
「試験が午前中だけで終わるかっつの。サボリだってバレバレじゃん」
腹立たしさから険の立った口調になってしまい、途端に自己嫌悪が克也をトーンダウンさせた。
(そんな言い方をしたら、余計に嫌われちゃうのに、ボクのバカ)
克也にとって翠は、初めて出来た『特別な女の子』だった。
恨めしそうに彼女のポニーテールを後ろから見下ろすと、小さな異変に気がついた。
(あれ?)
彼女の首筋と制服の襟との間から、赤く腫れている何かが覗いて見えた。
「翠、首筋のところが赤いよ?」
特に深い意味などなかった。ただ確認しようと腕をそこへ伸ばしただけだ。
「虫にでも刺され」
「こんな時期に虫がいる訳ないでしょ!」
彼女は気配を察すると同時に、思い切り克也の手を払い除けてそう叫んだ。
「痛……何怒ってんだよ……」
問い掛けた声が尻すぼみになっていく。向けられた彼女の瞳が、あまりにも怯えていたから。もうすっかり春めいている今の季節に「虫がいる訳ない」という理屈もおかしい。克也そのものではない『何か』に怯えて、過剰反応しているように見えた。
「克也。男の子として自己紹介をしているんだろう」
疑問を彼女に尋ねていいのか考えあぐねてしどろもどろしていると、辰巳がそんな助け舟を出してくれた。
「それなら、女の子に対してそう迂闊に触れるもんじゃあないよ」
そう投げ掛ける彼の言葉は、翠の立場を立てた克也に対する叱責だったが、声に反応して顔を上げた瞬間、その瞳が彼の本意を克也に覚らせた。伊達眼鏡の向こうの瞳が『裏』の視線で彼女を観察している。彼の凍るような眼差しが、悪い予感を巡らせているのを感じ取った。瞳で辰巳に訴える。
(辰巳……何に気づいたの?)
だが張りつめた空気はほんの一瞬の間だけで、翠自身によってすぐ崩された。
「え? 男の子としてって、何? 本当は女の子ってこと?」
そう言って克也の視線を不思議そうな目でまっすぐ受け止める。その大きな吊り目の視線が、克也に言葉では表せない気分にさせた。
「……身体的には、ね」
口にしながら視線をついと反対へ逸らした。恨み言がお門違いなのは解っている。それに、赤黒い痣のことに今は触れてはいけないことも。
(でも、だからって何も今ばらさなくてもいいじゃん。ズルイや、翠の気持ちを解ってる癖に)
理屈ではなく感覚的に、辰巳が自分よりも翠との距離をぐっと縮めてしまった気がした。
「なーんだ、そっか。だからみんな、克美“ちゃん”って呼んでいたのね」
そう言って見上げ続ける彼女へ渋々視線を戻し、絶句した。
「……か」
(可愛い……)
今まで克也には簡単な返事しかしなかったのに。辰巳との会話を邪魔するなとばかり、横顔しか見せなかった翠なのに。初めて真正面から零れる笑顔を見せてくれた。桜色に頬を染めて、大きな目をもっと見開き、はにかんだような笑みを零す。その表情は、何かの絵本で見た天使によく似た、無垢で綺麗なものだった。
「怒鳴ってごめんね、克美ちゃん」
自分が女だとどうしてそこまで嬉しいのか解らない、けれど。
「そっかぁ。女の子だったんだぁ。よかった」
翠が椅子から立ち上がり、そう言いながら嬉しげに克也の両手を握って上下に大きく揺する。揺らされる度に、克也の中に広がる感情が辰巳への嫉妬から別の思いへとすり変わる。心の中で温かな泡がこぽんと湧き、それが克也の腕に、手に、そして体全部へ伝わっていった。
「ボク、翠のトモダチになれる?」
気づけば我が家の家風を翠に押しつけていた。細い彼女の身体を、思い切り抱きしめていた。
仄かに香るフローラルの甘い匂い。姉を思い出させる、懐かしい『女の子』の匂い。自分にはない匂い――ずっと、翠の傍にいたかった。
「……もうトモダチだよ」
囁く翠の声が、柔らかく克也の耳にこだました。
その日は随分長い時間、辰巳ではなく克也が彼女を独占出来た。辰巳がカウンターへ名刺をついと滑らせウィンクをする。なるほど、と克也にも笑みが咲く。それに自分の携帯電話の番号を書き加えた。
「今度から、松本に来た時には絶対電話するね」
弾んだ声と満面の笑みで、翠は克也を認めてくれた。頬の筋肉が痛くなるほど、馬鹿な話をして笑い合った。
彼女が笑顔のままで店を出るのをビルの下まで見送った。店へ戻る克也の足取りは、重い。扉を引くのもかったるい。清々しく迎えてくれたのは、扉についたドアベルだけだった。客のいない店のキッチンから、辰巳が煙草を燻らせながら無表情で克也に訊いて来た。
「克也、彼女の腫れって、どう見た?」
克也が予測していた通り、やはり辰巳も気付いていた。翠の過剰なまでのあの反応。何かを抱えていそうな、どこか沈んだ暗い瞳。
「ちゃんと確認する前に払い除けられちゃったから、断言は出来ないけど」
煙草の焼き痕じゃないかな、って気がする。
そう告げる声が、自分のものとは思えないほど弱々しかった。
「そっか」
辰巳の答えはそれだけだった。彼は中央テーブルのノートをカウンターに持って来ると、パラパラとめくり始めた。
翠がこの店の常連になったのは、兄、来栖煌輝に連れられて来たのがきっかけだ。乱れのないセーラー服姿で優等生然とした翠と違い、煌輝は素行の悪さを漂わせる高校生だった。よく似た顔立ちなのに雰囲気が違い過ぎたことも、真面目を絵に描いたような翠が明らかに授業時間と思われる時間に来店したことも、印象深かった理由に挙げられる。
その時の煌輝は翠と二人で来店したが、殆どは悪友と思わせる似たような連中とつるんで中央テーブルを占拠しては馬鹿騒ぎをしていくことが多かった。時にはそこに翠が加わっていたこともある。
克也と辰巳にとって、あまりいい客とは言えなかった。だが、克也は心の中で、その第一印象をいろんな理由で握り潰して笑顔での接客に努めていた。見た目で判断されることの辛さを知っている自分がそれを煌輝にするのは、筋が通らないと自分へ言い訳した。
(仲間の中には、真面目そうな奴だっているし)
(学校をサボることなんて、煌輝じゃなくてもいるもんな)
彼を見る度、自分にそんな説得を繰り返していた。
「こら、未成年ども! ここで喫煙するんじゃなーい」
翠と親しくなってから時間の過ぎたとある日のこと。流石に見兼ねた克也が彼らにそんな注意を促した。克也に最も近い席に座っていた煌輝がじろりとこちらを睨み上げた。
「お前はいちいちうっせーんだよ。客だろ、こっちは」
翠と同じ目なのに、敵意に満ちた目。だけど、兄だ。こちらが心を開いて話せば、彼も翠のように解ってくれると願いながら、思うところを口にした。
「鬱憤の吐き出し方が、自分にとってマイナスだとか思わないのか? そんなことしてたって、余計周りの人から怖がられたりウザがられたりするだけじゃん」
――少しは翠を見習えよ。
彼女が繁忙タイムに一人で来た時、店の落書き帳に絵を描いて過ごしていくのを思い出してそう言った。芸術とか、スポーツとか、ゲームや何か、何でもいい。自分の没頭出来る趣味を見つけてそれを周囲に認めてもらえばいいじゃないか。そんな内容を話したつもりなのだが。
「みぃを見習え……だと?」
周りの悪友達の野次がぴたりと止まった。一度は克也から逸らした煌輝の視線がこちらへ戻る。その瞳は、不穏な色に鈍く光っていた。
「もういっぺん言ったら殺すぞ、てめえ」
瞬時に店内の空気が変わり、他の客までが黙り込んで痛い視線をこちらへ刺して来た。
(こいつ――何か……どっか違う?)
普通と、違う。克也自身が最も嫌う言葉なのに、もう抑え切れなくなっていた。
「おま」
「あー、ごめんなさいねえ、来栖君」
煌輝へ掴み掛かろうと伸ばし掛けた腕が、不意に後ろへ引っ張られた。
「辰巳」
「俺からあとでよーく言い聞かせておくから。あ、今日のコーヒーは、俺の奢りっ」
いつの間にか辰巳がキッチンから出て来ていた。彼は中央テーブルに置いた伝票を掴むと、それを丸めて自分のポケットに納めてしまった。
「おま、何やって」
「克也、自分の立場をわきまえろ」
その声がいつもの柔らかなバリトンではない。貫くような冷たい低音が、克也に反論を禁じていた。辰巳は克也の頭をボールのように鷲掴みにし、身体をくの字に曲げさせた。一緒に辰巳も頭を下げる。
「申し訳ございませんでした」
「……ゴメンナサイ」
そう言うよりほかになかった。
垂れた髪の間から煌輝を盗み見る。彼は周囲をぐるりと見回し、自分を怯えた目で見るほかの客達を睨み返すと
「妹の教育がなってねえ、って、何度も言わせんじゃねえよ。ぼんくら店主が」
そう言って立ち上がり、これみよがしに椅子を蹴り上げて出て行った。追うようにほかの面子も彼のあとを追って慌しく店を出て行ってしまった。
かららら……ん……っ。
ドアベルが、痛々しげな悲鳴を上げた。
その日から、来栖兄妹のいびつさが妙に鼻について気になった。
その後来店した翠は、カウンター席へ座ることがなくなった。ただ独りで、一心不乱に落書き帳へ絵を描いている。何色もの色鉛筆を使い、ただ無言で描き殴っていく。普通に話をするのだが、克也が翠の座るテーブル席へ赴かない限り、彼女がカウンターへ来ることはなくなった。
煌輝もあまり訪れることがなくなった。仮に来ても、翠を伴うことがまったくなくなり、ついには顔を見せなくなった。
辰巳も恐らく克也と同じことが気になっているのだろう。時折店を空けるようになり、克也が出先を訊いても
「今はまだナイショ」
と無理に明るく振舞っては克也をごまかして出掛けてしまう。
克也自身は何ひとつ出来ず、歯痒い時間を過ごす日々が続いた。