第二十九章 懐古の章 3
克美が出て行ってから気づいたこと。
「部屋……あったけ」
愛美が克美に電話をしてから電気ストーブを入れたにしては、随分と温かな倉庫の中だった。モニターに向かって語り掛けていた克美の言葉を思い出す。
『辰巳、芳音が今日で十五歳になったよ』
毎年晦日の夕方まで開けていた店を、今年に限ってクローズにしていた。なのに、今年も開いていると踏んで訪れる常連客がいた気配はない。
(ってことは、今日は始めから夜の部は閉めるつもりでいた、ということか……?)
芳音が挨拶さえしないというストライキを起こした進路相談で揉めたあのころから、克美は辰巳のことを自分に話すつもりでいたのかもしれないと、ここでようやく思い至った。
モニターに何を映していたのだろう。電源を入れたままのそれはデスクトップが表示されたままだ。最新アクセスファイルを調べてみると、外部ディスクになっている。クリックするとエラーが出た。
「ちっ、ッとに手が早いっつーか」
克美はいつの間に取り出したのか、既にディスクを抜いていた。
はやる気持ちを抑えて段ボール箱に視線を投げる。
「どうしてもこれから見ろ、って訳だな」
すすけた段ボール箱からガムテープを剥がす。滲む粘着部分が芳音の手だけではなく、心にまで粘りを感じさせた。ネガティブな想像ばかりが過ぎり、妙な不快感が芳音の手つきを乱暴にさせた。
「なんだ、これ」
背表紙にナンバリングが施された真っ白な分厚いノートの束。まさに「落書き帳」そのもの、といった中身。不特定多数のいろんな文字や絵が、どのページにもびっしりと並んでいた。
「マスター、スペシャルメニューよ。拒否らせないんだから」
書かれた丸い文字を声にして読んでみる。だが気恥ずかしくなってすぐに音読をやめた。内容は、『マスター』宛にしたためられた彼氏に対する愚痴と、彼の浮気を懲らしめるためのなんちゃって彼氏をして欲しい、という依頼だった。数ページめくると、その女子高生と思しきペンネームの子が新たな落書きをしてあった。
『聞いて聞いてっ。あたしの勘違いだったの、スペシャルメニューはキャンセルでOK。杏子と秀ちゃんとで、あたしの誕生日プレゼントを選んでくれていたんだって!』
「秀ちゃんってば、あたしに嫌われたくないから確実なプレゼントを選びたかったんだって。だから内緒で杏子にプレゼント選びを頼んだらしいの……か。昔の女子高生って、羽振りがいいな」
口にするのはどうでもよいことなのに、意識の向かう先は、その文の下に綴られている達筆でいてぎこちない語調の返信部分。
『誕生日を過ぎるまでは様子見、って勘が当たってよかったよ(笑)。今度秀ちゃんと一緒においで。俺からもサプライズなプレゼントをあげる。 by辰巳』
その返信に重ねられた文字をかたどる色鉛筆のピンクが
『マスターのバカっ! 秀ちゃんに入れ知恵したのはマスターだったのね! 嘘つきっ』
と恥ずかしそうに踊っていた。
それとよく似たやりとりが、何ページも、何冊も続いている。依頼内容は勉強の個人授業だったり、兄弟喧嘩や親子喧嘩の仲裁だったり、人探しや捨て犬捨て猫の飼い主探しだったり、といろいろあるけれど。
「お客の全員とこんな感じでやりとりしてて、しかも全部覚えてたのかよ……」
時には父のように厳しい言葉、また別の話には兄のようになだめる口調。それぞれ相手に合わせた異なる語調で、それらすべてに『辰巳』というサインの入った返信がされていた。
ナンバリングは三桁にのぼる。一度に全部は読み切れない。芳音はそれを一旦箱に収め直すと、封をせずに元の位置へ戻した。少しずつこの冬休みの間に読んでみる気になっていた。
そのまま箱に記された文字を眺めて視線を上下左右へと泳がせた。探し物ができたから。見つけたいものがある。初めて辰巳に興味を持った。
試しに日付のみが記されている箱を開けてみる。
「BINGO.やっぱ日付で書かれてるのが例の裏稼業って奴の資料だな」
克美と翠が知り合ったとされる年が記された箱を、片っ端から紐解いた。翠に関する資料を見つけるためだ。勘が外れているかもしれない。それでも探さずにはいられなかった。克美にとって特別な存在だった翠。克美が知らない辰巳に関することまで、彼女はなぜか知っていた。それはきっと、ほかの客とは違う何かが克美や辰巳と共有されているからに違いないと踏んだ。
「……mie?」
最上部の最奥、隠すように収められている、ほかより一回り大きな箱。日付も書かれていないそれを引っ張り出して床へ下ろした。中に入っていたのは古いタイプのノートパソコンに、幾つかのファイルと簡易フォトアルバム。メモリースティックとディスクが数枚。始めに手に取ったのがファイルだった。
「……翠ママ……そんな、繋がりだったのか……」
決して寒くはない。なのに、歯がカチカチと鳴りやまない。芳音には、ディスクやメモリースティックまで見る度胸を持ち合わせてはいなかった。奥深くに封印されていた理由も理解した。自分がこれを見つけたのだと克美に知られてはいけないと感じられた。芳音は注意深くそれらを梱包し直し、ガムテープの片隅に目立たない目印を書いてから元の場所へ箱を戻した。少しずつ、克美の目を盗んで読んでいこう。それらを呑み込めるだけの自分に自身を鍛え上げてから。
自分の存在がなんなのか解らない。だから、望に会いにも行けないでいた。自分に自信を持てないうちは、何もかもが無理だ。そう諦めている自分がいた。
一つ一つ箱に書かれた日付を見ては、それを開封して中を見る。あまりにも古過ぎるディスクはパソコンで見ることができず、芳音は備品の棚からビデオカメラやボイスレコーダー、今では化石となっているオーディオ機器まで取り出し、説明書と格闘する破目に遭った。だが、それに見合うだけの収穫があったと感じていたせいか、時の経つのを忘れていた。
金色の、長い髪。古いビデオカメラの小さなモニターでは、そのくらいしか解らなかった。仮に見えていたとしても、後ろ姿では辰巳がどんな人物なのかまでは解らなかっただろうが。
『で、これが今回の制服』
ほっとさせるようなバリトンの声。少しだけ茶化す笑いが含まれている。
「これが、辰巳?」
誰にともなく問いが零れる。その声は、これまで芳音が抱いていた辰巳とあまりにもイメージが掛け離れていた。
『ちょっと待て! お前馬鹿?! 真性馬鹿?! それってメイドカフェの制服じゃんかよ!』
「メイ……何考えてたんだ? ってか、何しようとしてたんだ?」
反論の声は、明らかに克美だ。今より少し声が甲高いのは叫んでいるからか、若かったからか。
『これ、俺ヴァージョン。どう? どう? 似合いそう?』
『燕尾服で介護が勤まるかーっ! ウキウキしながらフィット確認してんじゃねえっ。いっぺんMRI撮ってもらって脳みその異常発見してもらいやがれっ!』
別の意味で失望する。こんな馬鹿の血を引いているのかと思うと、いっそ知らない方がよかった気さえして来た。それでもつい笑えてしまう。
「母さん、こんな楽しそうな声も出せてたんだな」
母の意外な一面を知ったことが、芳音の心を温めた。資料を読み進めながらその音声を聞いていたが、途中でカセットを取り出し片付けた。
「そっか。わざと、だったのか」
その依頼は要介護の母を持つ娘からの依頼で、その母親自身は介護を拒否していたらしい。そしてその依頼人の母親というのが、克美にとって祖母のような位置づけになっていったようだ。辰巳がそういった詳細も手書きのメモに残していたので知ることができた。介護というよりメンタルケアに近いその依頼内容。少しでも家庭内で孤立してしまった老女を和ませるためのものだと芳音にも理解できる内容、そして。
「母さん、このおばあさんも亡くしちゃってたのか」
独りが嫌いで怖がる克美。辰巳のいるいないに関わらず、昔からそうだったのだと初めて知った。さっき聞いたばかりの生い立ちが思い出される。それ故の辰巳の配慮が、資料のそこかしこから見て取れた。それがほんの少しだけ、芳音の中に燻る辰巳への憎悪を和らげた。
別の案件の資料で、また辰巳のイメージを覆された。
『まさかうちの家宝に手を出す度胸が貴様にあるとは思わなかった。意外と根性があったんだ』
唸るような低い声。再生させたのは映像ディスク。妨害電波が強かったらしく、やはり辰巳の姿をはっきり捉えることはできないが、人物のシルエットの後ろから射す光が、出入り口の輪郭を浮かび上がらせていた。その高低の対比が彼の長身を表し、自分の長身が父譲りだったことを芳音に知らせた。
『おまえさん、いろんな意味で地雷を踏み過ぎた。目障りだ――消えろ』
「何……があったんだ?」
漆黒に近い映像では解らない。ただ、辰巳の怒りだけはスピーカー越しで聴く芳音にも嫌というほど伝わって来た。その声に背筋が凍る。声、というのもためらわれるほど空気の波動だけというのに近い音。さっきの能天気バカと同じ人物の声には感じられず、芳音の頭は混乱した。その映像も、芳音を掻き乱すだけ乱すと途切れてしまった。
もっとはっきりとした映像、声。辰巳が素に近い状態の何かがないだろうか。
気づけば芳音は脚立を取り出し、倉庫中にある箱の日付や保存方法の違いを見比べながら、目を皿にして辰巳に関連しそうな箱を探し回っていた。
「これだけ、多分辰巳の字だ」
克美の文字でないことだけははっきり判る、別の筆跡で記された『Kimiko』という名の小さな箱。東京にいる貴美子のことだろうか。
「母さん、なんでこれだけ開けなかったんだろう」
内容によっては、貴美子に返すべきだろう。そんな建前が瞬時に湧いた。
“それにかこつけて望ともう一度、せめて一言だけでも話せたら”
もう一人の自分が、自己中心的な本音を勝手に言葉に置き換えた。
「って、それじゃ貴美子さんを利用してるようなもんじゃんか」
大袈裟に溜息をついて頭を左右に強く振る。辰巳のことを知りたい。それだけに的を絞り、場合によっては貴美子と連絡を取るだけ、と自分に言い聞かせた。
『Remember Purpose』
厳重に包まれていた包装紙を取り除いた中に入っていた、数枚の書き込みディスク。その一番上のラベルに、ただそれだけが書かれていた。
「目的を、忘れるな? なんだ?」
首を傾げつつもディスクをトレイに収めて再生させる。モニターに見慣れた店の風景が映し出された。
今でも設置されたままになっているカメラから自動録画したものだろう。映し出されたのは、貴美子の若い頃の姿と、小汚い無精ひげを生やした背の高い男がいる店内だった。
『貴美子しか、信頼できる堅気がいないんだ。俺と高木は、恐らく二人を守れないから』
『二人? 誰』
『来栖翠。克也の初めてできた……心友、かな。まだあいつは自分が男だと言い張っているから、初恋の相手と言えばいいのかな』
「克也?」
初めて聞くその名前が、この映像ディスクが自分の知りたいものとは関係ないと思わせた。ストップボタンをクリックしようとした芳音の手を、貴美子の発した次の言葉が引き止めた。
『何から話したらいいのかわからないなら、アタシと別れた十年前から話しなさい』
『十年前……』
『そう、加乃ちゃんが犠牲になった、麻薬と銃の密売事件。あのとき何があったの。あれがなければ、あんたたちはこんなところまで逃げてなんかいなかった』
あんたたち。それはどう考えても克美と辰巳を示しているとしか考えられない。思い直して芳音がマウスから手を離したのと、男の語った一言が重なった。
『加乃を殺したのはね――俺』
「……っ!?」
言葉にならない音が芳音の口から漏れた。
加乃。克美の姉。辰巳の婚約者だった人。
(それを殺したのが、コイツ?)
一気に鼓動が跳ね上がり、芳音の胸が痛みを訴えた。
『……海藤の親父に嵌められたの?』
貴美子の問い掛ける口調が、芳音とは異なる意味の驚きを表していた。彼女は知っている。恐らく克美以上に、真実を。
『BINGO』
口許には笑みさえ浮かべて、淡々とドリッパーに湯を落としながら語るのに。澱む瞳が記憶にある克美の瞳を連想させた。虚空の漆黒。見ているようで何も見てなどいない、遠くて暗い濁った瞳。でかい図体の癖に、今にも消えてしまいそうな生気のない表情で、淡々と絵空事のようなリアリティのない過去を、映像の中の男は語り続けた。
『高木とは、克也の成人まで待つよう契約している。あともう少しだったんだけど、まさかここで躓くとは想定外でね。翠ちゃんを、傷つけた。そのことで、克也まで傷つけた。彼女が立ち直らない限り、克也もあのまま、堕ち続ける。こんな状態のまま克也を置いて行っても、加乃との約束を、守ったことにはならない』
やっと「克也」が誰を示しているのかが判った。そして映像の中で語る男が辰巳であるということも。
「母さん、ホントに男として育って来てたんだ……信じらんねえ」
そして、もう一つ信じられなかったこと。
『翠ちゃんを独りにしたら兄貴から助け出した意味がなくなる。あの子に何かあれば、克也が自分のせいだと思い込んでまた壊れてしまう。だから、貴美子にあの子を頼みたい』
『あんた……死ぬ気なの? 加乃ちゃんと克也だけがあんたのすべてだっていうの?』
貴美子は職場で男性陣にさえ恐れられていると、遠い昔穂高から聞いたことがある。そんな彼女が、髪を振り乱して泣き崩れた。見たこともないその姿に、自然と芳音の口が開いていた。
『今すぐって訳じゃないから、泣くなよ。貴美子』
既に死んでいる婚約者との約束のために、そこまでするかと突っ込みを入れたくなる。貴美子に対する辰巳のそれは、あまりにも酷い仕打ちだと思った。
『ずるいわよ。そんな計画を聞かされて、アタシが断る訳がないのを解ってて話したんでしょう』
なだめるように抱きしめられた貴美子が辰巳の腕の中でもがく。
『……ごめん』
『あんたに拾ってもらった命だから。必ずこの恩に報いるわ。克也も翠ちゃんとやらも、あんたの心配の種は、全部丸ごとアタシに任せなさい』
色恋にあまり関心のない芳音でも、貴美子の本音が見て取れた。
「貴美子さんが独身主義になった理由って、あんたのせいじゃんかよ……」
俺に代わって頼む、だなんて。そんなふうに頭を下げられてしまったら。
「貴美子さんがそういう人だって解っててそれするか。クソ親父……」
克美がこの箱に手を付けなかった理由が解った気がした。きっと貴美子のそういう想いを知っているのだ。そう思うと、このディスクは封印したままのほうがいい気がした。
同時に辰巳の周到さにも苛立ちを感じてしまう。きっと『Kimiko』というサインは克美の開封避けだ。
心の中で、やはり毒づく。大した役者だと眉をひそめる。表向き善人を装いながら巧く人を利用している辺りが、愛美一家を利用して逃げ場にしている自分と重なった。
「やっぱ、俺なんかいないほうがよかったんじゃん」
十五年間の中で、最悪の誕生日。誰かの犠牲の上にある自分という存在が、これほど疎ましく思ったことは今までになかった。