第二十八章 Canon
カノン【canon】
――キリスト教の教理典範。教会法。また、聖書の正典。創世記からマラキ書まで。
――ある声部の旋律を他の音部がそのまま模倣しながら追いかけていく楽曲形式。追復曲。
駅前通から少し外れた小路のビルの一角で、隠れるように営まれているレトロな雰囲気の喫茶店。フラクトゥーアの白文字で『Canon』という店名が記された木目調の看板には、『お子様連れも大歓迎!』と書かれた即席作りのプレートがぶら下がっている。
一人の女性が二人の娘を連れて、その看板の前で足を止めた。小学生らしい姉娘が、母を見上げて問い掛ける。
「今日もいっぱい来てるかな。お世話するチビちゃんの人数、増えたよねえ」
負けじと妹娘も口を挟んだ。
「綾華が赤ちゃんのお世話をするのっ。お姉ちゃんは、ダメ!」
そんな二人に母親が微笑を浮かべ、優しく姉妹の頭を撫でた。
「愛華も綾華も、ありがとう。克美ママ、きっと今日も林檎パイのお礼を弾んでくれるわね。とっても助かってる、ってあなた達を頼りにしてるもの。今日も仲良く、よろしくね」
母親になった愛美はそう言って娘達に先を促した。自分の父が営んでいた喫茶店を去ってから十四年が過ぎた今、再びこの店へ日参することになるとは思ってもみなかった。店の名が『Canon』に変わっても、変わらぬ優しい雰囲気が当時の想いを蘇らせる。一つ年下の妹のような友を支える為に、愛美は今日もこの店にやって来た。
からん、と変わらぬ涼やかなドアベルの音とともに、今日も克美の「いらっしゃーい」という元気な声が店内に響く。店では既に赤ん坊や幼児を連れたママ達やお腹の大きなプレママ達が、お喋りサロン化した店内を賑わせていた。
「克美ちゃん、お待たせ。ココア淹れるの手伝うわ」
愛美はそう言ってキッチンに入った。
辰巳が消えてからのこの二年、克美は多くの人に支えられて生きて来た。
初めての妊娠にどうしていいのか解らず、恥を忍んで愛美に話した。
愛美は克美を軽蔑するどころか、
『どうしてもっと早く言わないの』
と克美を叱り、父親夫妻と夫を説得して信州へ戻って来てくれた。
また、故郷に身寄りのない翠が克美を頼って里帰りをして来た。彼女もまた、克美と時を同じくして母になろうとしていた。
そんな事情も重なって、愛美の夫がこれまでのいきさつに理解を示し職場へ異動願を出してくれた。ほどなくそれが受理された愛美の夫も長野へ移り住み、一家総出で翠を含めて克美を献身的に支えてくれた。
目まぐるしい諸々の変化が、克美に余計なことを思いあぐねる暇を与えなかった。それが克美の不安や寂しさを和らげ、日々を無事過ごすことに専念させていた。
愛美は相変わらずの性格で、克美を人の中へと誘った。ちょっと変わった克美を見て最初は敬遠する人達も、いつしか克美を受け容れて、今では午前中の『Canon』がママ達の憩いの場になっている。
『辰巳は子供が出来たのを機に企業へ就職し、現在海外赴任中』という克美の方便を信じる新たな店の常連達は、代わる代わるに克美の愛息を世話してくれた。
愛美は克美に今日も言う。
「克美ちゃん、辰巳さんが働いてるんだからお店をたたんでもいいのに。パパとの約束の為にずっと続けてくれてありがとね。でも、無理しちゃ駄目よ?」
克美は、どんな顔で伝えたら愛美に真意を伝えられるのか困ってしまう。見た目、苦労しているように見えるのだろうか。複雑な想いを抱きながら、取り敢えず無理に笑顔を作ってみる。そんな笑顔で愛美の懸念をはっきりとした口調で否定する。
「別に晃さんの為じゃないってば。ボクと辰巳の、願いの象徴なんだ。晃さんやマナに教えてもらったことを真似て、あったかい人達の中で生きていきたい、って」
考えてみたら、話したことがなかった。ふとそのことを思い出し、克美は店名『Canon』の由来を愛美に話した。
「店の名前は辰巳がつけたんだ。カノンってさ、聖典って意味なんだって。ボク達、ずっと晃さんとマナをお手本に店をやってたんだ。もう一つのカノンの意味は追いかけっこの音楽形式からだ、って。晃さんが営んでいた時の形を追いかけるみたいに、誰もが立ち寄りたくなるような居心地のよい店にしたいよね、って」
それと、もう一つはボクの姉の名前からなんだ、という言葉が、ついくぐもった声になってしまった。
「克美ちゃん、まだ気にしてるの?」
人数分のココアを作る愛美の手が一旦止まった。
「ん……。加乃姉さんは辰巳のこと、どう思っていたんだろう、って……」
妹の心配ばかりして自分のことを後回しにして来た姉の気持ちを考えたこともないと気付いて以来、それは常に克美の中で影を落とし続けていた。
そんな克美の額を、愛美がぴん、と指で弾いた。
「大好きな辰巳さんと大切な克美ちゃんだったのよ? その二人が幸せになることを、きっと誰よりも願うのはお姉さんだと私は思うわ」
だって、家の子達がそうだもの。愛美はそう言って、自分の娘達を愛しげに見つめた。
克美も林檎パイを作る手を止め、その視線の先を追ってフロアの二人に目を遣った。巧くあやせなくて半べそを掻く幼児の綾華。そんな妹のフォローをしようと、小学生の愛華が苦笑を浮かべて手を添える。姉に負けたくないという気持ちが、妹に姉の手を冷たく払い除けさせる。溜息をつく愛華の表情は憤りではなく、「しょうがないなぁ」と言いたげな、妹の苛立ちさえ包む温かな笑顔だった。
「姉貴って、寛大っていうか……すごいね」
克美の呟いたその一言は、少しだけ上ずっていた。
「あーっ、克美ちゃん。芳音君、おむつ替えないと、“くしゃいくしゃい”になってるよー」
常連客の一人がそう言っている間にも歩き始めたばかりの克美の息子を掴まえた。
「やっ!」
「やっ、じゃないのっ。めっ!」
彼女が我が子と同じように、大袈裟なしかめっ面を芳音に見せて叱るが、堪え切れずに結局くすりと笑い声を漏らす。
「マ、マッ!」
「マーマは今、お、し、ご、と」
克美が答えて芳音の額にキスをする。
「お、ごとっ! ちゅっ!」
「そ。だから、由美ママに、抱っこ、きゅっ」
「きゅっ!」
芳音が大人しく彼女にしがみつくと、彼女はそのままおむつ交換の為に奥の居室へ芳音を連れて行ってくれた。
「いつもごめんねー。ありがとー」
克美は奥に向かって礼を言い、林檎パイの用意の続きに戻った。口許には、感謝の笑みが宿っていた。
駅前通から少し外れた小路のビルの一角で、隠れるように営まれているレトロな雰囲気の喫茶店。木目調の看板に、フラクトゥーアの白文字で記されたその店の名前は、喫茶『Canon』。
かつて『摩訶不思議な魅力の性別不詳ウェイトレスと、ぼさぼさ頭に無精ひげ、似合わない伊達眼鏡で始終煙草を燻らしながら、極上のコーヒーとチーズケーキを堪能させてくれるイケメンマスターがいるお店』と噂されたその店は、今では午前中はママ達のサロンに、午後からは相変わらず学生や社会人の憩いの場になっている。
『子連れで口の悪い美人ママが、極上の林檎パイを出してくれるお店』と、変わらぬ人気を誇っている。
難点は、男性客が美人ママを口説く度に夫ののろけ話を聞かされることらしい。
「早く帰って来ないかな、辰巳」
と遠い目をし始めたら、もう心は“辰巳”の方へ行っている。そうなれば男はカウンター席から立ち去るほかにないという。
誰もがふと立ち寄りたくなる場所。一度入ったらなかなか腰を上げられないほど温かい場所。
スピード社会の中にぽっかり浮かぶ、レトロでアンティークなそれは、まるで現代の――楽園。