第二十六章 Final Mission 2
総司が日本帝都ホテルへ辿り着くより二時間ほど前から、その会合は始まった。
午後六時半から始まる宴席と称した秘密裏の会合は、その場を設けると考えられた当初は三階の大ホールを予定されていた。いかにも成り上がり者の水城が考えそうな、無駄に派手な経費を使い且つ警戒心皆無の選択だと哂えた。辰巳は海藤周一郎を介して藤澤会長に会場の変更を打診した。
『入口が小さければ、仮にネズミが入り込んでも出口を一ヶ所押さえるだけで漏らさずに駆除出来るでしょう』
辰巳の失踪以降、高木を陣頭とした警視庁の捜査本部に先手を打たれることの多かった実情を踏まえ、藤澤会長が辰巳の意見を受け入れたというのが海藤からの返答だった。
『藤澤のじいさんも、今となってはただの飾りみたいなものだがな』
当時海藤がそう言って鼻で哂った理由を、辰巳もこの席へ赴き直接彼を目にすることで得心した。虚ろな瞳、かろうじて身を起こしているに近い状態。とりあえず正装はしているものの、黄疸を推測させる不健康な肌色と頭の下半分を覆う白髪の傷み具合は、彼の余命があまり残されていないことを物語っていた。
(よく来ましたね、あの状態で)
隣席の海藤へ耳打ちをする。
(一番お気に入りの女に泣きつかせたからな)
海藤がその言葉とともに一瞬下卑た笑みをくぐもらせた。それが藤澤会長の女と海藤との関係を嗅ぎ取らせ、辰巳の眉をわずかにひそめさせた。
「相変わらずおゲンキですね」
海藤との距離を戻し、正面へ視線を戻す。
「英雄、色を好むと言うだろう」
悪びれもなく笑いを混えて答えた父に対し、どろりと粘つくものが心の奥底で蠢いた。
「本日は当ホテルをご利用いただき、誠にありがとうございます。本日エクゼクティブ・リレーション・マネージメントを務めさせていただききます、阿南靖子と申します。お客様に快適なお時間をご提供させていただきたく存じます。何なりとお気軽にお申しつけくださいませ」
担当責任者の述べ口上が終わるとともに、冷えた白ワインと調理したての料理が運ばれて来る。扉の前を固めている用心棒達が、カートで順次運ばれて来るそれらを逐一引きとめ確認する為、会合がなかなか始まらない。辰巳はそんな彼らに対して溜息をつくと、冷やかし混じりの野次を飛ばした。
「ねえねえ。その人達も仕事なんだからさ。いちいち邪魔したら悪いんじゃない?」
凍りついた沈黙が場内を包む。
「何かあるの? まさか、素人さんと玄人の見分けもつかない訳じゃないよね?」
蔑みをこめた笑みを浮かべ、彼らではなく水城を一瞥してから空を捉えて誰にともなく問い掛けた。
「そんなんじゃ、警護なんか勤まらないもんね」
そう言って喉を鳴らす辰巳を制したのは、海藤周一郎だった。
「場をわきまえろと言っておいたはずだ。遊ぶな」
海藤のその声に呼応するとばかりに、ほかの幹部がボディーガードに検閲の中止を命じ、凍ったその場を取り繕った。
「はーい」
ようやく時間が動いてくれた。辰巳はふざけた口調に似合わない溜息をそっと漏らした。
「海藤はん、相変わらずですな、お宅の息子さんは」
水城が皮肉の笑みを浮かべて言う。
「ええ、なかなか爪を隠す癖が治らないようで」
(よく言うよ、クソ親父が)
不敵な笑みを零す海藤の隣で、辰巳は大袈裟に肩をすくませた。
ホテル従業員が下がると、議事を進める仁和会の高原がマイクを握った。
「まあ、この数ヶ月、何やごちゃごちゃありましたが、藤澤会長の鶴の一声もありましたよってに、互いにこれまでのことは水に流し、今後を考え手打ちも済んだ訳であります」
既に出来上がっている答弁を読み上げているだけと感じさせる口上の下手くそさが、辰巳に笑いを噛み殺す苦心を強いた。
「改めて、本会の若頭席の票決を取らしてもらい、東龍会に牙城をいじられんよう、協力し合うていこうということで、よろしいか」
海藤が真っ先に手を打ち鳴らす。それに続き、場内のそこかしこから徐々に同意の拍手が湧いていった。
白々しい拍手。棒読みで推す者の名を告げる老獪どもの無機質な声。表情と言葉が一致していないにも関わらず、さまざまな音で繰り返される、海藤組と辰巳の名。
(子供の学芸会以下だな、こりゃ)
辰巳は満場一致の拍手の中で深く頭を垂れながら、腹の中で冷たく嗤っていた。
どこか重苦しい空気が漂う宴席を、辰巳は一度だけ抜け出した。扉の前まで来ると、脇に控えていた件のボディーガードがむき出しの敵意をこめて辰巳の腕を掴んだ。
「若頭、どちらへ?」
「トイレー」
人を食ったトーンでそう答え、幾分か自分より背の低い彼の首に腕を回して抱き込んでみた。
「一緒に、いく?」
問い掛けながら小首を傾げて顔を近づけてみると、男は面白いほどの動揺を見せた。
「お、俺にその気はない! 行くならさっさと行ってください!!」
「早っ。もうその噂、広まっちゃってるんだ」
ふらつく足取りで立ち去る辰巳の背後から漏れて来た彼の「クソガキが」という雑言には、聞こえていない振りをした。
部下に指示を出している阿南靖子がおもむろに辰巳の目に留まる。
「そろそろハイヤーの手配をしてちょうだい。それから佐久間君、厨房にデザートの準備を伝えて来て」
彼女が指示を出し終えた頃合いを見計らい、トイレの前から呼び掛けた。
「やーすこさん、追加、追加」
彼女が見事な営業スマイルを浮かべ、辰巳の立つ男子トイレの前まで近づいた。
「はい、お伺い致します」
「あともう五本くらい赤ワインの追加と、デザートはチーズケーキがいいな。それと、こっちの男子トイレ。ペーパータオルが切れてるよ」
たかがペーパータオル切れなのに、彼女は顔面蒼白になった。
「た、大変申し訳ございません。すぐに補充させていただきます」
その様子を、件のボディーガードの男が思い切り睨みつけて窺っている。
「早くしてねー。俺、まだ手ぇ洗ってなーい」
おどけた口調でそう言いながら、半ば押し込む形で彼女を男子トイレに連れ込んだ。
「ごめん、“保険”掛けさせて」
言うが早いか、彼女を個室へ無理やり押しこめ、個室の鍵をかちゃりと掛ける。
「ちょ……っ」
(まだ、大声出さないで)
彼女の身体を壁に押しつけ、叫び出しそうなその唇を自分のそれで封じ込む。同時に素早く彼女のシャツの裾をたくし上げると、ブラの間に挟まれた物を手早く懐のホルスターに納めた。ガーターベルトで固定された補充の銃弾を内ポケットへ納めると同時に“保険”が効果を発揮した。荒っぽい足音がトイレに響き渡る。
(もう声を出してもいいよ)
辰巳は彼女の耳許に囁きながら、そのまま行為を続行した。
「あ……ん」
予定と異なる声を出した彼女へ小声で告げた「相手が違うでしょ」という苦言を、荒っぽいドアノックの音が掻き消した。
「若頭っ、あんた一体何やってんだ!」
既に敬語も忘れている先ほどの男が、業を煮やして個室の鍵を蹴り壊した。
「何、って……余興前の、個人的ストレス解消」
「ストレ……っ、この席の意味を判っているんですか!?」
辰巳が彼の説教を食らっている隙に、手早く乱れた衣服を整えた靖子が二人の隙間を抜けて逃げ去った。
「あ~ぁ、逃げられちゃった」
「あんた何考え」
「人生最期のつまみ食いだったかも知れないのに」
尚も苦情を言おうとする彼の言葉を、その一言で遮った。
「は?」
「余興に失敗したら、俺が高木に命を奪られるわけだし。高木から逃げられたとしても、海藤の親父さんが赦すはずないしさあ」
「言っている意味が、わからんのですが」
困惑と不快に満ちた表情の男へ、初めてまともに視線を投げた。
「高木をメインディッシュの材料に、そろそろサバイバルクッキングのスタートだ。藤澤会長からゴーサインが出ている。異論はないだろう?」
辰巳からゆるい笑みが霧消すると同時に、男の生唾を呑むごくりという音が微かに響いた。
「全員に安全装置の解除を伝えろ」
二人しかいないトイレに、辰巳の声が冷たく低くいき渡る。
「……押忍」
男の辰巳を見る表情が、それまでのものから一変した。
宴席にデザートではなく、赤ワインと新たなグラスが運ばれる。辰巳は怪訝な表情を浮かべ出す面々に、
「ここのチーズケーキは赤ワインとよく合うので、お勧めしたくて自分が勝手にオーダーを変えたんですよ」
とさりげなくギャルソンを部屋から退室させながら辺りを見回してそう告げた。辰巳が自身でカートを押して、テーブルへ近づく。ケーキナイフを手に取った瞬間、用心棒達が一斉に拳銃を辰巳に向けて構え出した。
「ケーキナイフで人が殺れるかどうかも解らないのか?」
いちいち反応する水城のそろえた用心棒勢を鼻で嗤ってそう制した。ボディーガードの内の一人が、辰巳の押すカートを確認する。武器の隠蔽がないことを確認すると、ようやく動くことを許された。
「靖子さん、何かあったらコールするから。ここからは、内輪だけの内緒話だから遠慮して」
阿南靖子に、そんなふざけた口調で従業員全員の退室を打診した。そうすることで、遠回しに『余興』の開始を海藤へ知らせた。
「潜伏中に色々していたんですけど、一番好評だったのがサ店の店主でしてね。これでもね、チーズケーキが絶品の店って言われてたんです」
独擅場を演じながら、切り分けたチーズケーキを配ってゆく。怪訝な顔で自分を見る面々一人一人と、真っ向から視線を合わせた。
「“色好きのぼんぼん”も今日で廃業ですから。これからは、どうぞご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願い致します」
一人一人にそう述べながら頭を下げ、二十名近いすべての席を一人で回った。
場内の空気が微妙に変わってゆく。
「海藤に似ていない軟弱な息子」「仁侠の世界を疎み、二言目には一般人が羨ましいと、一般人の女にばかり手を出す“色好きのぼんぼん”」。一度もこの世界の席で頭を下げたことのない海藤辰巳が、父の指示もなく頭を垂れる。儀礼的なそれでなく、一人一人に足を運んで深々と身を低くしながら鞭撻を乞うその姿は、彼らにある種の優越感をもたらした。
最後に、海藤周一郎の席の前で立ち止まる。
「長い間、気長に待っていただきありがとうございました。藤澤会時期会長の補佐として、これまでの分をお返しさせていただきます」
深く長い辰巳の礼に、初めて海藤の表情がほころんだ。
「その手始めが、高木の始末か」
場内がどよめく。好意的な意味合いで。幹部の者達も、それぞれに懐へ手を差し入れた。
「はい。そろそろフロントから連絡が入るかと」
下げた頭を上げて姿勢を正し、周知させるとばかりに大きな声でそう答えた。
「丸腰でフロントまで出迎える方が、高木を油断させるのではないか?」
行け、と海藤が辰巳に指示を出すのと同時に、ホールの扉が乱暴に開かれた。
「動くな! 海藤周一郎及び藤澤会幹部一同。殺人及び殺人示唆、ほか令状の容疑で逮捕する」
声の方を振り返る。これは辰巳が予定していたとおりの演出だった。ただ一つ、その声の主という存在を除いては。彼は本庁で総括本部長として、この場にいないはずなのに。
(高木……どうして貴様がここに)
踏み込んで来たSITの陣頭指揮を執る戦友を見て、辰巳の双眸がほんの一瞬見開いた。