第二章 辰巳と克也の出逢いのきっかけ 3
あの時の辰巳は、何はさておき克也の不衛生から来る臭いをどうにかしたい一心だった。慣れない子供の扱いに疲れていたのも辰巳の判断力を鈍らせていた。
『どこ行くの? 置いていかないでよ』
克也は辰巳を信頼した途端、辰巳に加乃の代わりを求めた。辰巳が立ち上がると同時に脚へ腕を絡めて引きとめる。克也が咄嗟に見せたその反応にくすぐったさから苦笑が漏れたが、さすがに鼻が限界の悲鳴を上げていた。
『風呂を沸かしに行くだけだから。加乃が寝ている間にすっきりさせちゃおう。随分長いこと入ってないだろう』
『お、風呂……あの、あのね、ちょっと待って』
『バスルームはっさっき通った通路の途中に扉があっただろう? 何かあったら呼びに来てくれればいいから。ここはオートロックだから心配しなくても大丈夫。誰も来ないから、そこで待ってな』
そのあと克也が何か言っていたような気もしたが、辰巳は聞こえない振りをして風呂場へと逃げ込んだ。
(なんでそんな顔するんだよ……)
別に外へ出るという訳でもないのに。加乃が克也と同じ部屋にいるのに。
今にも泣き出しそうな彼の瞳を見続けることに耐え兼ねて逃げてしまった。そのまま自分の部屋へ戻って自分の子供時代に着ていた服を引っ張り出し、克也が着れそうな物を見繕う。辰巳がスウェットに着替えた頃には、すっかり風呂も沸いていた。
『克也、おいで。ひとりが怖いなら、俺が横にいてやるから……って、あれ?』
リビングを見ても、克也がいない。一瞬にして腹の底が冷えてきりりと痛んだ。
『克也っ』
叫んでから慌てて口を押さえる。加乃を起こしてしまったら最悪だ。
(克也、隠れてないで出て来いって。外へ探しに出ちゃうぞっ)
ぎりぎりまで声を絞ってそっと探し回る。あれだけ怯えていたから外に出ることはないと思いつつ、自分に怯えてない振りをしながら、実は怖くて逃げ出した可能性もあるのではないか、という不安を拭い切れないでいた。
(克也、頼む、出て来てくれよ。でないとまた加乃が心配する)
今にも泣きそうな自分の声を耳にしたら、自分で自分が情けなくなって来る。子供を相手に、なぜ自分がこんな下手に出て懇願などしているのだろう、という妙な理不尽さが湧き出すと、次第に心配が怒りに変わって来た。
(いるのは判ってるんだぞ、臭うんだっつの。早く出て来いっ)
段々口調が荒くなって来たのが自分でも解る。苛々しながらリビングに戻ると、彼の警戒を帯びた強い視線が加乃の眠るソファの向こうからこちらの方を見据えていた。
『何してんだ。風呂場へ来いって』
半分の疑問と半分の安心感で、少し声が大きくなる。
『……ヤダ』
『なんで』
『ボク、お風呂に入りたいなんて言ってない』
辰巳の中で、何かがブチンと音を立てて切れた。
『臭うんだっつうの。駄々ってないでさっさと入る!』
『ヤダったらヤダ! 加乃姉さんじゃないと入んない!』
『このガキ……っ』
さっきまでの殊勝な犬っころだった、素直な克也はどこへいった。妙な裏切られ感が辰巳に強引な手段を取らせた。
『うゎ、下ろせ! バカ』
荷物のように担ぎ上げた身体は、九歳の男の子にしては軽過ぎた。ろくに食事も摂れなかったのだろう。チーズだけじゃなく、まともな物も食わせてやらなくては。買い出しはほかにも色々ありそうだ。そんな次の段取りにばかり気が行った。
『わ……っぷ!』
克也を着衣のままバスタブへ放り込む。彼が湯船から頭を出すと同時に、シャンプーを大量にぶっ掛けた。
『全然泡立たないし』
『やめ』
克也のクレームがうるさいので、彼の顔に向かってシャワーを掛けてその口を塞いでやった。ずぶ濡れついでに、辰巳も濡れたバスタブの縁へ服のままで腰掛けた。もう一度克也の頭を湯船に押し込み、有無を言わせず二度目の洗髪を試みた。今度はもっと丁寧に、ゆっくりと。無理矢理押さえ込んでいた克也の肩から、飛び出そうとする力が抜けていく。人に洗髪してもらうのは気持ちがいい。きっとせわしない中での入浴しか知らないのだろう。片手を外して両手で頭を洗っても、もう克也は逃げようとしなかった。ただ、普通に過ごせるんだ、と安心して欲しいだけだった。それをやっと解ってくれた気がして、辰巳から鼻歌が零れ出した。
だが、すぐその考えが甘かったことを思い知らされる。そして加乃の嘘の巧さにも。
『やめろーっ!』
『あだっ!』
目に沁みるシャンプーを完全に洗い流した直後、いきなり克也から頭突きを食らった。
『ちょ、待てこら! 床が濡れるっつの!』
洗い場への転倒を間一髪で防ぎ、バスタブの縁を強く握って上半身を捻る。もう一方の手で克也の服を掴み、どうにか水浸しの後始末を免れた。ビリ、と裾の破れる音が浴室内でエコーする。
『逃げんなこのクソ坊主。まだ身体を洗ってないだろう』
ものすごく、不愉快だった。ものすごく、むかついていた。ものすごく……胸が、痛かった。
『なんで信じてくれないんだよ』
ブツブツとそんな文句を言いながら、克也の衣類をビリビリと素手で破いた。
『どうせボロボロだし、新しいのを買ってやるから。逃げなきゃ普通に脱げるのに、ばーか』
くたくたに疲れていて観察眼がいつもより鈍っていた上に、面倒くさい気持ちがそうさせた。
『やめ……ろ……』
その声と、辰巳の全身がフリーズしたのとが、同時だった。
男なら在るべきモノが、ソコにない……。
『お前さん……女の、子……だったの?』
間抜けな声が、エコーする。出しっ放したシャワーの水音が、嘲笑うようにさわさわと辰巳の鼓膜を揺すぶった。
『わーわーわーっ! 出てけーっ!』
克也はそう叫んで辰巳の腕を振り払ったかと思うと、勢いよく湯が噴き出すシャワーを向けて来た。もう片方の空いた手は、手当たり次第に物を投げるので忙しい。
『ちょ、待』
『出てけ変態ー!!』
その場を退散せざるを得なかった。
「あ~……まぁその、七年越しでなんですけど……すみませんでした」
あまりにもあの時の克也と同じ今の彼女の顔色が同じ過ぎて、辰巳にばつの悪さを蘇らせた。いつの間にか最後の一切れになっていたケーキが、また克也にぐさぐさと虐げられている。
「……いつまでも覚えてんなよな」
「そういうお前さんこそ」
そのあとが続かない。ぎこちない沈黙が、一層居心地を悪くさせた。辰巳は妙に渇き始めた喉をアイスコーヒーで潤した。あっという間に空になる。
「すいませーん。同じのもうひとつ」
癪に障るが、ウェイトレスに追加をオーダーする。一杯では全然足りなかった。
「あのあと、加乃の方が大変だったんだ。誤解されてワインボトルでフルボッコにされるしさ」
笑い話に変えてしまおうと、その後の顛末を話した。
「うん。その時、加乃姉さんはボクを連れて逃げるつもりでいたもんね。でも、そのあと加乃姉さんと話したんだろ?」
克也の頬から薄紅が引いたかと思うと、また性質の悪い意地悪な笑みが宿り始めた。
「なんで知ってるの?」
「辰巳がボクの服を買い出しに行ってる間に、加乃姉さんが教えてくれた。辰巳が言ったこと、全部」
思わずぎくりとしてしまう。立てていた肘をテーブルから離し、克也と間合いを取ってしまう。
「全部って……」
「辰巳って、基本順番が何かと逆だよな」
可愛いと言えば可愛いと思った、克也の頬を染める薄紅がもう恋しくなった。嫌な意味で心臓が次第に早まっていくのを自覚する。
「えーと、なんだっけ。あ、そだ。『生きるの死ぬのってことを、じじばばになるまで考えなくて済む世界に、三人で暮らそう』、だっけ」
「!」
――目が覚めても、しばらく寝ぼけていられる世界。
普通の仕事と少ない金で、ありふれた幸せを得られる世界。
生きるの死ぬのっていうことを、じじばばになるまで考えなくて済む世界。
海藤なんて名前は要らない。克也と俺を、加乃の戸籍に入れてよ。
普通で平凡な、それでいて穏やかな、そんな世界で三人一緒に暮らそうよ、加乃――。
「すごい照れ臭そうに言ってたよ。『俺は養子って意味じゃないからね』って、わざわざ言うのよ、って。加乃姉さん、すごく幸せそうに笑ってた。だからボクも、辰巳が悪い奴じゃないんだって解ったんだ」
頬杖をついて、まっすぐ見つめる大きな吊り目から目を逸らす。
「すいませーん。アイスコーヒー、まだっすかー」
大きな声でそう問い掛ける辰巳のこめかみに、嫌な汗が一筋伝っていった。
「普通、先にコクってから一緒に住むとかなんじゃない?」
「う……」
(まだその話にしがみつくか)
辰巳の必死な話題転換も虚しく、克也はまた話をそこへ帰結させた。
「加乃姉さんは本当に買われただけだと思ってたから、辰巳がボクにまで手を出すつもりだったんだと思って、騙されたのと勘違いしたんだって。半べそでプロポーズとか、そこまで芝居が巧い人ではなさそうだし、って。あれからあとも、ずっと辰巳に変態って言ったのをすっごく気にしてたんだ」
「いやだからそれは、ですね。自分でもちょっと自覚がなかったっつうか、色々何かと、ですね」
「ノリでプロポーズ?」
「断じて違う!」
「……ゴチ」
「ぐ……」
拷問のような沈黙に、からんと心地よい涼の音が響く。
「お待たせしました。アイスコーヒーでございます」
辰巳は縋るように手を伸ばし、一気にそれを飲み干した。
助け舟の音が、克也のバックから流れて来た。翠からの着信を告げる、携帯電話のメロディだ。
「翠、どしたの? ――うん、会える! もちろん!!」
一気に克也の顔が華やいだ表情に変わる。同時に関心事もそちらへ変わったようだ。
「え。もう松本にいるの?」
そう言った克也の戸惑う視線が、辰巳に答えを求めていた。
「行っておいで」
唇でそうかたどって、笑顔と一緒に手を振った。克也は片手で「ごめん」という仕草をしながら、翠との会話を続けたまま席を立って店を出た。
いきなり静寂が訪れたテーブル席で、辰巳は静かに目を閉じる。瞼の裏に浮かぶ最愛の人へ、あの頃の自分に戻って問い掛ける。克也を長年育てて来た彼女に、辰巳は相談を持ち掛けた。
「加乃、来栖翠をどう思う?」
隣のテーブルにも聞こえないほどの小さな声で、そっと辰巳は呟いた。確かな声で答えが欲しくて。言葉にすることで加乃が答えてくれそうな気がして。現実主義の自分らしくない、妙に感傷的なことをした。
来栖翠。克也が初めて心を開いた少女。出来ることなら、このまま心友として自分がいなくなったあとも、克也を支えていって欲しいと思っている。
だが、腑に落ちない点が幾つかある。翠の中に、何か後ろ暗い『闇』を感じる。あの子の自分への好意を感じることで、克也に対する罪悪感がそんな勘違いをさせているだけなのだろうか。
「――にしては、あのサイコな煌輝おにーさままできな臭い、というのが引っ掛かるんだな、これが」
自分と加乃とで克也の教育について語り合った、過去の風景を思い返す。
加乃だったらどうするだろう。克也から翠を遠ざけるだろうか。それとも克也に判断を委ねるか?
結局今日も、思い出の中の加乃は辰巳の問いに答えなかった。ただ、閉じた目の向こうで儚げな笑みを浮かべるだけだ。
「そうだな。まずは俺が調べてみればいいか」
翠と克也が一緒なら、こちらもその方が好都合だ。克也に根掘り葉掘り訊かれることなく調査を進めることが出来る。
徐々に遠のいていく加乃の存在が、辰巳に不可解な不安を抱かせる。このところそんなことが多くなり、無理矢理思考を切り替えることが増えていた。
辰巳は一応の方針を定めたのだから、と、それらをケーキの最後の一口と一緒に流し込んだ。会計を済ませる時、ふと理不尽な気分が過ぎり、複雑な思いで店をあとにした。
店を出てから思い出す。
「確か俺の誕生日プレゼントだったはずじゃあなかったっけ?」
そんな六月十八日の昼下がり。外気の粘りつく蒸し暑さが妙に辰巳の身体に堪えていた。