第二十五章 Count Down 2
悪戯に日々は過ぎ、空気が辰巳の心の中と同じく、じめりとした湿度を感じさせる季節になっていた。
ちょっとしたけじめのつもりで、旧友のマンションへふらりと立ち寄る。
「クラブ『Paranoia』のオーナー代行になったのか、あの子」
訪ねて開口一番の知らせを耳にすると、辰巳は軽い驚きの声を漏らした。
「誰かさんのお陰でね」
銀座のクラブ『姫』のオーナー兼ママの顔を持つ旧友、姫木カヲル子は、辰巳からジャケットを脱がせると、艶を帯びた視線を流してそう言った。
「予定より早く解決しちゃった、かな。なんかかったるい」
辰巳はそうごちながら、通されたソファへごろりと子供のように突っ伏した。
「あら、解決処理なの? 悠貴の中では未解決なんだけど。いつまで逃げ回るつもりなのかしら、あなたは」
彼女はあやすような苦笑を交え、そんな皮肉を辰巳に零した。
「あの子がホンモノだとは思わなかったんだよ」
「それならそれで、ちゃんと悠貴に直接伝えるのが誠意というものではないかしら、似非任侠さん?」
「……これ以上誰かを傷つけたくはないんだ」
そう呟く辰巳の言葉がくぐもった。
海藤組に接触して来る数多の人物の中に、一人気になる存在を見つけた。ホストクラブを経営する刈谷キヌ子という女が海藤をバックボーンにしようと画策を巡らせたらしく、店のメニューと金を持ってやって来た。メニューにあったキヌ子の甥だというホストが妙に気になり、個人的にキヌ子と接触して悠貴の詳細を尋ねてみた。辰巳が自分にとって都合の良い意味合いで興味を持ったと解釈したのだろう、彼女は辰巳の同情を誘う口振りで彼の生い立ちをまくし立てた。
刈谷悠貴。アメリカ人とキヌ子の妹との間に生まれたハーフの青年。金目当てに結婚した悠貴の母は、夫の母親にそれがばれて家を追い出されるとき、稼ぎ道具として使うつもりで悠貴を連れて出たらしい。悠貴は当時十歳にも満たない子供だった。その生い立ちが加乃や克美と重なって見えた。
その後も続いた彼の不遇を知った瞬間、辰巳の中で燻る節介虫が、繋がりを少しずつ断とうとする自制を踏み潰した。母親の愛人によるレイプ。続けられた性的虐待に耐え兼ねた悠貴は、養父を意識不明の重態になるまで殴打して抗い、暴行罪で訴えられるのを恐れて逃げるためにやむなくキヌ子を頼って来日した。その段階でまだ十四歳。二十歳になった現在も伯母から養父や実母と似たような待遇を受けているのが現状だった。
悠貴がカヲル子のお気に入りのホストで面識があった偶然に感謝した。目が死んでいる彼に、あと半年で自由になれると伝えることができたから。計画の仔細は当然漏らさなかったが、当てにしていた海藤組という後ろ盾がなくなれば、キヌ子の独裁も緩むと踏んだ。ホストがいなければホストクラブは成り立たない。悠貴が実力であのクラブのナンバーワンである限り、キヌ子は彼に強引なことなどできないはずだ。悠貴のその後はカヲル子が支援するとあらかじめ聞いていたので、彼が生きた死人から生者に戻り、明るい未来を信じてくれればそれで解決だったはずなのに。
誤算は、刈谷悠貴というキャラクターが辰巳の想定外だったこと。覇気のない人形だと思っていたのに、予想以上に負けん気の強い青年だった。汚い世界を見続けて来たのに、それに穢されることのない綺麗なブルーグレーの瞳をまっすぐ辰巳に向けて来た。克美とあまりにもよく似ている澄んだ瞳が、余計に彼女と『Canon』での日々を思い出させた。辰巳は彼の店でしたたかに飲んで店に泊まり込んでしまったその日、酔いと彼しかいなかった気の緩みも手伝って余計なことを口走った。
――帰りたい。行って、“来る”なんて、言わなきゃよかった。
そのとき自分の人生を投げている彼に説教をしていたのは、「恋なんて熱病でしかない、なんてことはない」という話。自分で諭しておきながら、その言葉で自分の本音を自覚させられた。辰巳の泣き言に近いその言葉を聞いた彼の口にした答えがとどめを刺した。
『俺らと違って、女は結構図太いさ。きっと次の男を見つけるさ、若いんだから』
言葉と真逆な本音を伝える悠貴の瞳が、辰巳の後悔をいや増させた。
『口止め料、もらっとくぜ』
彼がそう言って、克美の代わりでいいと触れた唇で伝えて来た。誤算だらけの自分に自己嫌悪し、らしくもなく彼が眠った隙を突いてその店から逃げ出した。あれから一週間ほどになる。
「悠貴、ずっとあなたを探し回ってるわよ。私のお気に入りの子だったのに、見事に開花させちゃったわね」
カヲル子が笑って文句を言いながら、ワイングラスを差し出して来た。
「初恋が実ることなんて稀なことよ。きっとあの子だってそれくらい解ってるわ。逃げてないできちんと向き合ってあげたら?」
そう打診するカヲル子からグラスを受け取ると、辰巳は一気に飲み干した。
「関わった分だけ情が増しちゃうのが人情ってものでしょ? 会わない方が悠貴クンにとっても得策だと思わないか?」
グラスをカヲル子に返し、辰巳はジャケットを手に取った。
「彼もここを知ってるんだったよね。ここは居心地よかったんだけど、彼に譲ってあげるとしましょうか」
そんな言い方で彼女に別れを切り出した。
「ありがとね、カヲル子。十六年も待っててくれたのに、ごめんね」
心からの謝辞をこめて、彼女の額へ口付ける。
「やっと初恋の失恋旅行から帰って来たと思ったのに、また私は振られてしまう訳ね」
心配げに眉をひそめた彼女に、「年上のお姉さんは卒業したんだ」とジョークを飛ばしてやり過ごした。
カヲル子のマンションを出てから、ふと空を見上げた。高層マンション街の隙間からわずかに見える、今にも降り出して来そうな濁った空が自分の心情と重なった。
「あと一週間、か」
あと一週間。短いと言えば短いと言える、残りわずかな“その日”までの日数。自分の傍らに、彼女がいない。いつか忘れられるものだと思ったのに、そういうものではなかったと自覚してしまった今の自分。自分のしでかすことに巻き込まないため繋がりを次々と断っている今、紛らす術が仕事以外に見い出せない。
あと、一週間。
その時間は今の辰巳にとって、耐え難い苦痛を味わわされる長い時間としか思えなかった。
六月十八日。辰巳が生まれて三十八年目の日。
そんな風に思えないほど、いつもと変わらぬありふれた朝。いつものように寝ぼけ眼でベッドから降りてリビングへ続くドアノブに手を掛けた瞬間、警戒心が一気に辰巳を覚醒させた。人の気配が扉の向こうから漏れて来る。このマンションの鍵を持っているのは自分しかいない。枕の下に忍ばせてあるコルト・ウッズマンを手に取ると、辰巳は勢いよく扉を開けるなり気配に向かって拳銃を構えた。
「わーっと、タンマ辰!」
叫び声と同時に不法侵入者が顔の前にフライパンを構えて銃弾を防ぐ所作をした。場馴れしていないと一目で判る対応のまずさと自分への呼び方で、不法侵入者の正体が判った。
「総司……なんでいるの?」
だらりと構えた両腕を下ろす。今日は来るなと言っておいたにも関わらず、総司が軽い朝食を整えていた。
「管理人に鍵貸してもらっちった。普段から挨拶かましといてよかったっすよ。ヨユーでフリーパスっ」
辰巳は露骨に不機嫌な顔をして苦言を呈した。
「お前さんね、人の言うこと聞きなさいって。彼女んところに帰ったんなさい」
「んな訳に行くかよ。大丈夫、あいつも、全部承知で俺の女になったんだから」
そう言いながらも暗い影を落としている辺りが、あまりにも総司らしい。
「あ、そ。んじゃ、一個頼みごと。届けて欲しいものがあるんだ」
辰巳はそう言って一度寝室へ戻り、投函する予定だった書類サイズの封書を総司に手渡した。
「時間厳守、十八時以降。でないと受取人が不在だから」
総司はは届け先住所を見るなり、憤りをあらわにして辰巳の依頼を拒絶した。
「渋谷区って、これを届けてからじゃ例の計画に間に合わないじゃないか! 嫌だよ、ほかに頼めよっ」
彼のその気持ちだけで充分だった。それが自然な笑みとなって零れ出た。
「誰にも頼めないから総ちゃんに頼んでるの。必ず、受付じゃなく久我貴美子に直接渡してね」
待てよ、と留まろうとして踏ん張る総司の腕を掴み、無理やり部屋から追い出した。
彼女が好きだったCDを流す。いつもより濃い目に淹れる、今日のコーヒーはホンジュラス。彼女が一番好きな品種だった。
――明日に向かう風が街を通り過ぎて 少しずつ変わっていけばいい――
「いつの日かぁ、この痛みがぁ、眠りにつければぁいぃ~……か」
この三ヶ月強、いつしか歌詞を空で口ずさめるほど聴いていた。
限りなく黒に近いグレーのシャツと、昇龍の刺繍が入った臙脂のネクタイ。純白のスーツに身を包み、鏡に向かって独語する。
「んー。確かに、センスがない、かも」
晴れ舞台くらいはきっちりキメたい気もするのだが。見立ててくれる彼女はもう、いない。
「ま、いっか。どうせ全部……紅になる」
呟く声は、無機質だった。
ドアホンが来客を知らせる。約束していた“依頼主”だ。彼女を部屋に招き入れ、コルト・ウッズマンと予備の弾倉を手渡した。
「これを運んでくれるのが今回の依頼の報酬ってことで」
彼女はそれを見た瞬間、辰巳の鼓膜を揺らすほどの大きさで、ごくりと生唾を呑み込んだ。
「報酬、高くない? まさかあなたが例のVIPの一人だなんて思わなかった。何が興信所のなんでも屋よ。嘘つき」
気の強そうなこの依頼主は、日本帝都ホテルに勤めるVIP専門のマネージャーという肩書きを持つ従業員だった。過日ホテルの下見に訪れた際、たまたま職場恋愛中の恋人と揉めていたところを目撃し、話を持ち掛けてみたのだった。無論、報酬の内容は隠したままで。浮気性な彼の嫉妬心を煽ってよりを戻すという、少し懐かしい“他愛のない依頼”。二つ返事で依頼して来た彼女の希望どおり、簡単にそれは成功した。
「まあ、そこはほら。彼と仲直りできたってことで、奮発してやってちょうだいよ」
蒼ざめながらもそれを受け取る気丈な彼女に、「お幸せにね」と祝辞を告げて送り出した。
事務所を訪れ父の私室へ入ると、彼が露骨に嫌な顔をして辰巳を睨みつけた。
「そのチンピラ紛いの風貌をどうにかしておけ、と言ったはずだ。今日がどういう日か、解っているのか」
一見、堅気の企業を営む社長に見える、父と同じ恰好などは御免だった。白髪混じりになったとは言え、衰えを感じさせない眼光を放つ彼は、まだらな髪をオールバックでまとめ、シックなブラウンのダブルスーツで威厳を誇示している。その隣に佇む自分を想像するとあまりにも滑稽なツーショットで思わず笑いが漏れた。
相変わらずのグリーンの瞳に、早くも肩甲骨辺りまで伸びた黄金色の髪。昔気質の父には、その風貌がどうにも軽く見えるらしい。今日集まる面々も同様の老獪ばかりなのだろう。
「ルックスと中身のギャップが、奴らにこっちの程度を測らせないのに好都合かと思ったんですけどね」
「……何を企んでいる」
「余興を用意しましたよ」
辰巳は警戒の目を向ける彼に、高木とコンタクトを取ったと報告した。
「取引をしたいので秘密裏に会いたい、と餌を撒いておきました。向こうは俺がまだ青臭い似非ヤクザのままだと思っているみたいでしたから、あっさり乗ってくれましたよ。今回の会合では幹部選り抜きの腕っ節が結構な数でつくんでしょう? 皆で歓迎してあげようか、と」
そう言って、場内への銃刀所持を願い出た。
「ふ……む。あの無骨者なら、確証を得るまでは数人で偵察、といった形で来るだろうな」
彼はそう言ってデスクの引き出しから自らのトカレフを懐に納め――案の定、辰巳への所持を許さなかった。
「お前は大事な若頭だ。私が責任を以てして守ってやるから心配することはない」
「……どうも」
まあいい。迎えるのは高木ではなく、SITの面々だ。たかだか二十人前後の幹部、彼らの突入のどさくさに紛れて綺麗に駆除が出来るだろう。自分が場を乱しさえすれば、上から高木が射撃命令を下す手はずになっている。
「時間だ」
父――海藤が、動いた。
「よろしくお願いします」
深々と頭を下げる辰巳の横を通り過ぎる彼のあとを追い、辰巳もまた身を翻して海藤組の事務所をあとにした。
十六年越しの『計画』が、カウントダウンをし始めた。
『明日の風』 worded by Masayoshi Yamazaki
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