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第二十四章 Plastic Soul-云えなかった想い- 2

 部屋に射し込む朝の陽射しが、克美を甘い夢から目覚めさせた。夢うつつのおぼろげな思考のまま、片手がほんの数秒ベッドの上をさまよった。隣に眠っているはずの自分の半身を探すそれが、克美に悪い異変を告げた。

「辰巳!?」

 瞬時に意識が覚醒する。隣にいるべき人は既になく、微かなぬくもりと嗅ぎ慣れた煙草の匂いだけが、昨夜のことを夢ではないと知らせていた。

「一緒に行くって、決めてたのに……」

 彼が自分のすべてだった。二度と離れない、と十五年も前から決めていた。そう約束もしたはずなのに。

『本当に、いいの?』

 彼と一つになる直前、怯えた瞳をした彼は克美にそう訊いた。最初は初めての痛みを与える罪悪感からの言葉だと思っていた。痛んだのは、貫かれた時ではなく、彼がまだ隠しごとをしていると気付いたその瞬間。

 帰って来るつもりがないのかも知れない。そう思ったのは、彼のものになれた悦びから流した涙を見て、彼が『ごめん』と自分こそが泣きそうな顔で言った、その瞬間。

 だから、何度も口にした。その行為にかこつけて、何度も『一緒にいく』と訴えた。彼に何度も『いいよ』と言わせた。忘れたなんて言わせないよう何度もそれを口にさせた。それは、「一緒に行っていいって言った」、そう言って彼の反対を封じる為だったのに。屁理屈だと怒られようと、どうせ同じ待つのなら少しでも近くで待つと決めたから。なのに。

「なんで寝ちゃったんだ、ボクっ!」

 服を身につけるのももどかしく、彼の残り香のするシーツを巻きつけた。部屋を飛び出そうと足を踏み込んだ瞬間、全身に鈍い痛みが走って体が床へ崩れ落ちた。

「い……っ」

 崩れた身をどうにか起こし、壁を伝って精一杯の速さでリビングへ向かう。まだ、ぬくもりがある。まだ出掛けていないかも知れない。まだ、ちゃんと伝えてない。ちゃんと“伝える”ことなんて、言葉などでは全然足りない。

「辰巳、どこっ!?」

 独りぼっちで待つのは、嫌だ。そんな克美の不安が極限に達し、彼を探して呼ぶ声が、ほとんど悲鳴になっていた。

 彼が毎朝立っていたカウンターキッチンに目を遣る。いつも整っているそこに、キッチンにあるものとしては違和感のある二つのアイテムが目に入った。

 近寄りそれを手に取ると、見慣れた手書きのメモが残されていた。まるで散歩に行って来るような軽い語調で

『ちょっと東京に行って来る』

 とだけ書かれた辰巳からの手紙と、真っ白なラベルのディスクが一枚。

 克美は急いで辰巳の部屋へ戻り、パソコンを立ち上げてディスクを再生させた。




 上の倉庫と思われる部屋をバックに、辰巳が映し出された映像。まるで子供のようにはにかむ彼に釣られ、なんとなく克美の口角も微かに上がった。極上の笑顔で、彼は語る。

『克美、泣いてるんじゃないか? もし寂しくなったら、これでも見て、笑って店に出るんだぞ。一つ、大事なことを言い忘れちゃったんだ』

 ――もし俺の子が宿ったら、かのん、と名づけてくれると嬉しい。

「か、のん……」

 きっとその名は、芳音。『Canon』に広がる芳香と、楽園の扉に飾られたベルの音。お客達以上に、二人にとっての楽園であるこの店の象徴。

『俺達の楽園エデンの象徴を名付けてやって欲しい』

 克美の思ったことをそのまま、辰巳が繰り返した。

『よろしくっ。じゃ、今度こそ……行って来るよ』

 見惚れるほどの笑顔のまま、その映像はそこで途切れた。

「芳音……行って……来る……く、る……帰って、来る」

 不安や寂寥が溶けていく。辰巳が、名をつけてくれた。それが何を意味するのかは、誰よりも克美が知っている。

 克也というアイデンティティを尊重し、そして自分を綺麗と言って、辰巳は彼自身の想いをこめて、「克美」という名を自分にくれた。

『俺の、唯一無二の宝物』

 そう言ってはにかんだあの笑顔と、今のこれは同じだった。

 宿るかどうかも解らないのに、それを信じて名をくれた。二人の楽園の象徴を、と。まだ存在さえ曖昧なのに、二人の形ある繋がりの証が宿ると信じて、芳音という名をくれた。

「芳音。うん、芳音だね。解った」

 届くはずもないのに、克美は辰巳を映していたモニターに微笑み掛けた。

 誰よりも家族を渇望していた辰巳。他人だった自分のことさえ、こんなにも慈しんで来てくれた。血を分けた存在を信じて行った彼が、帰らないなんてことは、きっと、ない。

 安堵と、いつもと似たささやかな寂寥感に戻ったことで、一気に全身の力が抜けた。

「……死ぬかと、思った……」

 ――もう少しだけ、このままで。

 徐々に薄れていってしまう彼の感触を少しでも長く留めたくて、すっかり彼の匂いの抜けたシーツにくるまり、冷たいフロアにうずくまった。




 くしゃみを機に、渋々バスタブにお湯を張る。風邪一つ、絶対ひいてなんかやるもんか。もし、もしも芳音がいたならば――。

 そんな自分に、思わず笑った。限りなくわずかな可能性にここまで縋っている自分に、嗤えた。

 洗面台に向かって、長い髪をバレッタで留める。鏡に映る印まみれの裸体が目に入ると、一人馬鹿みたいに赤くなった。思い出す度に、それが夢のようで。まるで自分ではないようで。

 くすぐったい想いの影に、不安が過ぎる。同情されただけなのか、本当に同じ想いを抱いてくれていたのか。男の人の気持ちなど推し測れなくて、不安の方が大きくなる。嫌でも自分は最初から女だったのだと、今更ながら思い知る。

「あ……」

 洗面台の横のダストボックスで、持ち主同様激しく自己主張するものが煌いた。辰巳の背中を長年覆っていた、獅子のたてがみのように豪奢な髪。


『んー、あんま言いたくなかったんだけどな。願掛け』

『はぁ? ガキ臭え、ンなこと考えてたんだ。何願ってるの?』

『……何かね、当時はわかんなかったんだけど……叶っちゃったっぽい、かな。近々切ろうかなあ』

『だから、何さ』

『家族。それと、普通で平凡な、平和って感じられる時間、かな。普通に家族と笑ったり、喧嘩したり、つまんないことで悩んだりとかさ。生きるとか死ぬとか、そういうのがアウトオブ眼中な毎日。それが当たり前な毎日になったらな、ってね。きっと願ってたんじゃないかな、と』

『結構それって温泉宿で暮らした頃の段階で成就してた気がするんだけど?』

『……』

『なんで黙――んむっ!? んーっ! にゃんらおっ!?』

『克美にこういうことが出来なかった、この間まで。だから、やっと大願成就』


 一緒に旅行へ行った時、初めて「髪を切らない理由」を教えてくれた。その髪が克美にそれを思い出させてくれた。

 大願成就――おんなじ想いでいてくれた。同情ではないと、それが教えてくれた。

「姉さんの代わりでも、同情でもない、って、思って……いい、んだ……」

 克美の視界がうねり出す。彼の髪が蜃気楼のようにゆらゆらとたゆたい、視界が水面(みなも)のように揺れる。

「辰巳……辰巳……っ」

 切り捨ててくれた、保護者としての辰巳。決別してくれた、姉の影。克美は目に見える彼の想いを抱きしめ、しゃがみ込んで何度も彼の名を口にした。体中に張りつく彼の髪が、不安を優しく絡め取っていった。




 微かに残った彼の感触に疼きながら克美は思う。

 結局、巧く言葉で伝えることが出来なかった。


 痛みと羞恥に耐え兼ねて、彼の背中に爪を立てて残した「ボクの男」という印。

 彼が自分の敏感な肌に赤く残した「俺の女」という印。

 それはいつか消えてしまうけれど。

 彼の最後の呻きを思い出しながら、克美は腹に手を当てる。


 ――どうか、二人の想いの生きた証が、この身に宿りますように――。


 その想いを、結局言葉では伝えられなかったけれど。

 言葉にするには、あまりにも想いが大きく、溢れ過ぎて。

 その言葉を口にしたら、あまりにも想いを陳腐にさせてしまいそうで。

「言葉なんかじゃ、全然足りない……」

 誰にともなく、そう呟いた。


 でも。彼なら、言わなくても察してくれているはず。

 あんなにも濃密な時間の中で、あんなにも心の声を聞き合った彼ならば。


「辰巳が帰って来るって言うなら、ボク……これからもずっと、生きていける」

 それが、涙を拭う呪文となった。呟く度に、この瞬間の想いを鮮明にさせる。それが克美に笑顔を取り戻させた。――例えそれが仮初の笑みだとしても。


 たった五つの音なのに。

 最後まで、その一言が云えなかった。

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