第二十四章 Plastic Soul-云えなかった想い- 1
彼女の白い肌のいたるところに、我欲の印が刻まれている。背に刻まれた掻き傷の疼きが、痛みでゆがんだ彼女の顔を思い出させた。それらが辰巳を罪の意識へ誘ってゆく。のちに彼女が悔やむことはないと、本当に言い切れるだろうか。彼女も望んだはずの存在が、疎むものへと変わりはしないか。そんな不確定な未来への不安が、辰巳の罪悪感を増幅させた。
幾度となく求め、乞われ、互いに失くしてしまう日常を思い、壊れた涙腺もそのままに貪り合った。克美は果ててはまたしがみつき、決して眠ろうとしなかった。
ようやく寝息を立て始めた彼女の首から腕を引き抜こうと頭をもたげる。途端彼女が辰巳の首に腕を回し、引き留めるように動きを封じた。
「一緒……に、いく……」
眠る彼女の口から、ついさっきまで何度も口にしていた睦言が零れ落ちた。
喉を掻きむしりたくなるほどのむず痒さに耐え兼ねて、もう一度だけ彼女を抱き返す。
不意に彼女の腕から力が抜けて、ぱた、と小さな音をベッドに落とした。安心し切った笑みを浮かべるそのまなじりから、透きとおる一雫が零れ落ちる。辰巳はそれを口づけで拭うと、そっとベッドから抜け出した。
熱いシャワーに身を委ね、火照る想いを未練とともに洗い流す。辰巳は長い時間、皮膚を赤らめる温度の湯にその身を浸した。
もう一般人を装って黒く染める必要のない髪を荒っぽく一つに束ねた時、ふと思った。
「……もう、いっか」
願いは、叶ったのだ。二人で過ごす、平和で平凡な普通の暮らし。傍らには、常にあった彼女の笑顔。心からの笑い声。愛しげに呼んでくれた自分の名を、初めて愛おしく感じていた。既にそれは、死者の名になっている。そのことが少しだけ口惜しかった。
一思いに、束ねた髪へ鋏を入れる。背の半分以上を隠していた髪が、それを束ねたゴムの先で慎ましやかに残るのみとなった。黄金に輝く未練の象徴は、そのままダストボックスへ放り込んだ。
辰巳は革のつなぎに着替えると、リビングへ持ち出しておいたバックパックを肩に、そっと部屋をあとにした。次に彼女の顔を見たら、きっと二度とここから出られなくなる。そう考えた末の段取りが功を奏したと自嘲した。
ビルの一階上にある倉庫へ向かい、鉄の扉をくぐって探す。
克美が最も気に入っていたアーティストのアルバムの中から一枚を選び、それをバックパックへ押し込んだ。一つだけでいい、彼女を感じられる何かを『戦地』へ持って行きたかった。
彼女がメロディとアーティストの声が好きだ、と言っていたそれを、辰巳は今まで嫌っていた。
――いくら綺麗な約束も ウソになるなら 口づけで いまわしいカルマをとめて――
自分の胸の内を見透かすようなそのフレーズに、いつもどこかで怯えていた。それに反応してしまう自分を見て、彼女に気づかれることを何よりも恐れて来た。
もう、そんな風に恐れる必要はない。彼の作品は本来、辰巳にとっても好みの作風ばかりだった。
「Plastic Soul――偽りの心、か……」
今更口にしたところで、本当の願いが叶うはずもない。先ほどまでの痛みと甘さに満ちた時間を思い出し、そのタイトルに対してまた自嘲が零れ落ちた。
バックパックを背負うと同時に、ふと大事なことを思い立つ。辰巳は奥からビデオカメラを取り出した。空のディスクをセットし、それを安定した場所に置く。辰巳はカメラのRECボタンを押して語り掛けた。目覚めたあとの彼女を思い浮かべながら、そこに彼女がいることを思い描きながら、心からの願いと想いを彼女に贈る。
「克美、泣いてるんじゃないか?」
ゆっくりと、万感の想いをこめ、目の前に壊れそうな彼女を見る想いで、カメラに向かって語り掛けた。
「もし寂しくなったら、これでも見て、笑って店に出るんだぞ。一つ、大事なことを言い忘れちゃったんだ」
――もし俺の子が宿ったら、芳音、と名づけてくれると嬉しい。
巡ってはまた消えていく、常連客達の親しみをこめたたくさんの笑顔。日毎健やかに成長していく克也――克美。初めて他人に弱味を見せることが出来た場所――『Canon』。そこに広がる芳香と、ベルの音を表すように。
「俺達の楽園の象徴を名づけてやって欲しい」
喫茶『Canon』。そこはお客達以上に、辰巳自身にとっての楽園だった。やはり自分はアダムではなく、蛇でしかいられない。克美に危険をもたらす存在でしかいられない。
「よろしくっ。じゃ、今度こそ……行って来るよ」
ビデオカメラのSTOPボタンを押すと同時に、辰巳の笑みも霧消した。無音のフロアに微かな嗚咽がしばらくの間響いていた。
倉庫を出て、もう一度だけ居室に戻る。
これ以上何か伝えていこうとすると、使命が未練に負けそうだった。
『ちょっと東京に行って来る』
とだけメモ書きをして、ディスクと一緒にカウンターへ置く。今度こそ、二度と再び開けることのないドアをくぐり、心の中で彼女に永遠の別れを告げた。
喫茶『Canon』の店内を、朝焼けがうっすらと照らし出す。
誰も居ないそこに、辰巳は多くの学生やスーツ姿の客を見た。
「……克美を、よろしく頼みます」
辰巳は深々とフロアに向かって一礼すると、格子扉に手を掛けた。
喫茶『Canon』の象徴とも言えるドアベルが、辰巳を慕うすべての人を代表して、からんと彼を見送った。
薄明るい朝焼けの空の下、無心にバイクを走らせる。背に疼く甘い痛みを感じて辰巳は思う。
結局、巧く言葉で伝えることが出来なかった。
彼女が痛みと羞恥に耐えるように、爪を立てて背中に残した「ボクの男」という印。
彼女の敏感な肌に、せめて感触だけでも永遠に、と願いながら残した「俺の女」という印。
それはいつか消えてしまうけれど。
彼女の最後の喘ぎを思い出しながら、彼女の笑顔を保つ為のそれを、辰巳はただひたすらに祈り続けた。
――どうか、二人の想いの生きた証が、彼女の身に宿りますように――。
その想いを、結局言葉では伝えられなかったけれど。
言葉にするには、あまりにも想いが大きく、溢れ過ぎて。
その言葉を口にしたら、あまりにも想いを陳腐にさせそうで。
「巧い言葉って、なかなか見つかんないな」
誰にともなく、そう呟いた。
でも。あいつなら、言わなくても解ってくれるだろう。
あんなにも濃密な時間の中で、あんなにも心の声を聞き合ったあいつなら。
「克美……お前の為に死ぬなら本望だ」
彼女の名を口にしたその言葉は、バイクのエキゾースト音に掻き消された。
たった五つの音なのに。
最後まで、その一言が云えなかった。
『Plastic Soul』 worded by Masayoshi Yamazaki
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