第二十三章 ボクらの楽園 2
長いようで短い一日が終わろうとしていた。
「何か幸せそうだったね、ふたりとも」
克美は寝る前のカフェオレを飲み干すと、思い出し笑いとともにそう言った。夫婦漫才のように突っ込み合っては頬を染める穂高と翠の表情を思い出し、辰巳も「そうだね」とやはり小さく笑った。
「ボクが翠と店で話してる間、ずっと穂高と話してたんだろう? 随分長かったね」
そんな遠回しな言い方で不安を伝える克美に、話してよいことなのかどうかを一瞬迷った。
穂高に頼まれていた素行調査の件は、翠の主治医が二重カルテを作成していたことしか判らなかった。その意図はハッキングしたデータのコピーをパソコンで確認する穂高の方が明確に把握したようだった。
『助かりました。来月には直接国立総合センターの方へ転院させるつもりでいましたから。先日ファックスしてくれたこの資料のコピーをセンターの教授に渡したら、協力の快諾をもらえました。あとはこれを彼に預ければ、余裕で対応出来るでしょう。ご協力、ありがとうございました』
その病院の上層部と取引するにあたり、このデータが有益な材料になると言う。
『これまで翠を支援していただいたことにも、彼女に代わってお礼申し上げます。本当にありがとうございました』
最後の依頼主からの言葉が謝辞であったこと。それが完璧主義の辰巳から唯一の黒星を消し去った。
「穂高クンは四月には入籍はするつもりなんだけど、式のこととか彼の実家のこととか、翠ちゃんがいろいろ気にして首を縦に振ってくれないんだって。なんかそんな愚痴を聞かされまくってた」
翠が克美にどこまで話しているのか解らない。伏せておく方が得策と考え、穂高から聞いた雑談の方を苦笑しながら口にした。
「なんだ、じゃあもう解決のことだね」
彼らを駅へ送る前に、来栖の墓がある寺へ所有者の移行手続きをしに行きたいと穂高から頼まれていた。穂高は翠の父が遺した墓の負債や父親が翠を見捨てたことを伝え、改めてプロポーズしたらしい。代わりに書類を提出しに行った辰巳が克美と二人で墓地へ戻ると、彼らは来栖の墓に背を向けこちらへ向かって歩いて来るところだった。その時の二人は、何か吹っ切れたような笑みを互いに浮かべていた。それを見た克美は、辰巳の腕を抱いてそっと涙を拭っていた。
その時克美が漏らした「よかった」という呟きは、辰巳の思ったことそのままだった。
その言葉が、今克美の発した「ならよかった」という音色と微妙に違う。
「何かほかに、気になることでもあるの?」
深刻そうではないものの、克美の表情が曇ったままだ。こんな風に濁すのも珍しい。
「ん……やっぱなんでもない」
「実は翠ちゃん、穂高クンに飽きちゃったけど言うに言えないでいる、とか?」
「バカだろお前。半日以上あの二人のどこ見てたんだよ」
「……ですよね」
その手の話はどうも苦手だ。辰巳は心の中でそうぼやくと、克美から疑問の内訳が語られるのを待った。
「ホントに大したことじゃないんだ」
意外にも、彼女はそれ以上何も言わずに困った顔をして微笑んだ。それは何か大事なことを隠しているというよりも、辰巳に呆れていると言いたげな笑みだった。
「なら、いいんだけど」
「んじゃ、ボク先に寝るね。おやすみ」
「え、嘘。もう寝ちゃうの?」
「年度末の集計が残ってるって言ってたろ。邪魔しないでおくよ。辰巳もほどほどにして寝ろよ」
克美は逃げるように部屋へ行ってしまった。
既に閉じられた扉をぼんやりと見つめる。いつもと変わらないやり取り。普通の会話。また同じ朝がやって来そうな、ありふれた日常のほんのひとこま。――だが、間違いなく終幕の日。
視線を携帯電話へ移す。辰巳はそれを手に取り、端的に用件だけを打ち込んだ。
『今夜向かいます。着く前にまた連絡します。オフよろしく。辰巳』
宛先は、高木個人が所有する携帯電話のアドレスだった。
克美の部屋の扉をそっと開けると、静まり返った部屋から彼女の寝息が微かに聞こえた。辰巳は彼女には近付かず、そのまま再び扉を閉めた。
デスクの下からバックパックを取り出し、簡単な荷物を詰め込んだ。底には、金庫へ保管してあったジュラルミンケースを隠し入れた。
悩んだ末、トカレフとコルト・ウッズマンは置いていくことにした。可能性は限りなく低いが、克美に万が一のことがあった場合、護身に使えると考えた為だ。また、自分がそれらを持って組に戻れば、自分のこれまでの行いから海藤に『計画』が露見する危険性も高くなると予測した。
「やっぱり、今夜行くんだ」
不意に問われたその声に、辰巳の肩が大きく揺れた。
「……うん。さっさと片付けてしまえば、少しでも早く落ち着けるかな、と」
一度は振り返った視線を荷物へ戻し、わざと軽い口調でそう語る。嘘ではないが、事実も決して語らない。
「黙って行く気だったのかよ」
責めると言うより縋るようなその声に、キリ、と奥歯を噛みしめた。
「見送られるのは、どうも苦手でね」
長い黄金の髪が苦笑混じりに呟く横顔を覆い、克美からその表情を巧みに隠した。
「高木さんからの最後の依頼って、何?」
「人員削減という名の大掃除。リストラ対象を絞る為の情報収集、だってさ」
藤澤会を企業に見立て、いつものように嘘と事実を織り交ぜる。その方が舌の滑りがよくなるだけでなく「嘘ではない」と自分のことも騙し果せる。それは辰巳がこの数ヶ月で実感したことの一つだった。
克美はそれ以上問うこともなく、小さな声で「そか」とだけ呟いた。
荷物をまとめ終えてふと扉の方へ目を遣ると、まだ弥生も初旬の肌寒い気温だというのに。
「風邪ひくぞ」
克美は寝間着代わりのTシャツに七部丈のスパッツ姿で、素足のまま廊下で佇んでいた。
「う……ん」
歯切れの悪いその反応が、辰巳に不穏を感じさせ、彼女を見つめる目を細めさせた。
「どうした? 翠ちゃんの件?」
気掛かりを残したまま行けば、きっと任務に専念出来なくなる。そう考えた辰巳はすぐの出立を諦め、彼女を部屋へ促した。
「ごめん。やっぱ独りじゃあ巧く消化出来なくて。なんか、多過ぎ、頭ン中がわやくちゃで」
彼女は肩を落としてそう零すと、膝を抱える恰好でベッドに腰掛け辰巳の枕を抱きしめた。
「ねえ、辰巳。穂高は、翠のどこまで解ってて辰巳にそんな話をしたのかな」
彼女の翳りの原因が『計画』に関することではないと解ると、ようやく辰巳の中に余裕が生まれた。
「どこまで、ってのは?」
苦笑を浮かべながら、辰巳も彼女の隣へ腰掛けた。
「翠ね、プロポーズに返事が出来ない理由を話してくれた。自分が自分じゃない時があるんだって。今まで症例がない心の病って奴で、それの所為で穂高に辛い思いをさせてるから、穂高はそれも込みで一緒になろうって言ってくれてるけど、いつかきっと重荷になるだろうから、どう答えていいのか解らない、って」
とつとつと語りながら、体を落ち着きなく前後へ揺らす。次第に克美の顔がゆがんでいった。
「それに、子供が出来にくいって診断されているから、自分の家族が欲しい穂高に隠したまま、穂高の家族になんかなれないって……ボク、出来ないって断言された訳じゃないだろって笑い飛ばしたんだけど、本当にそれでよかったのかな」
抱えた枕に顔を埋め、次第に声がくぐもっていく。多分、同じことを思っている。何故もっと早く気付いてやれなかったのだという、今更無意味でしかない後悔と懺悔が辰巳の中にも廻る。
「翠ね、自分も変わらなくっちゃ、って。辰巳は自分と似てる、って翠が言ってた。その辰巳がすごく変わってて、だから、自分だって変われるだろう、って。……でも……穂高は何をどこまで知ってるのかな。もしボクがあの時」
「克美」
敢えて言葉を途中で遮る。滅多にしなかったことを、明るい口調で敢えてする。辰巳は克美の頭をくしゃりと乱暴に掻き混ぜ、下らないという意見をあからさまに示した。彼女が口にすることで、それ以上彼女まで沈ませる訳にはいかなかった。
「大丈夫。彼は、全部知ってる」
「全部、って?」
驚いて顔を上げた克美の目尻から、堪えていた涙が零れ落ちた。辰巳は指先でそれを拭うと、ありったけの笑みをかたどった。
「穂高クンが家のリフォームを担当した理由はね、その病気の根治に必要だからって、彼女の過去を知りたくて俺と話をする為だったんだ」
翠が克美に告げたのならば、話してもいいと判断した。彼らそれぞれの覚悟を見れば、乗り越えていけると思われる。それは、辰巳の中で確信に近いものがあった。
「――だから、彼からの依頼は成功という形で完了。克美が心配するようなことはないから、大丈夫」
「そっか。ちゃんとあいつ、解ってたんだ。……いいな、解り合えるなんて」
「そうだね。でも、克美だって翠ちゃんのことを解ってるじゃないか」
まだどこか翳りを残す克美の頭を抱え込む。原因を幾ら取り除いてみても、どれも彼女の沈んだ表情を元の笑顔に戻してはくれない。
「克美が翠ちゃんに伝えたことは間違ってない、と俺は思うよ。諦めたら、本当にそこで終わってしまう」
辰巳は常連客の中から似たような話を幾つか挙げた。肩にもたれる克美の頭を撫でながら、穂高に翠を取られた訳じゃない、という話を繰り返した。何かと対抗意識を燃やしては子供のような喧嘩をする穂高という存在が、克美の落ち込んでいる理由だと考え至ったからだ。ほかの原因が思いつけないほど、出尽くした感があった。
「……って、ない」
呟いた声がか細くて、聴き取ることが出来なかった。
「ん?」
彼女の抱えていた枕が、床へ落ちた。長い髪が辰巳の鼻先を掠め、しがみつく刹那に触れた頬が辰巳の頬をも湿らせた。
「……克美?」
「ボクは辰巳の――何?」
「な、に、って……」
そう問われて答えに詰まる。戸籍上は父娘で、互いの認識では兄妹で。そして、克美の心の中ではままごとの相手であり、自分の中では――彼女に知られてはいけない意味合いの存在になっていた。
「翠は結婚して、子供を産んで、そうやって自分の家族を作ってくんだ。でも、ボクと辰巳の間には家族なんだって証明する形あるものなんか、なんにもない……」
辰巳は彼女のその言葉から、自分がとんでもない勘違いをしていたことに気付き、反射的に抱き留めた彼女を引き剥がした。
「どうした? 克美、なんか今日は変だぞ」
あくまでしらを切ろうとするが、顔が引き攣って巧く笑えない。
「ねえ、辰巳。ボク、もう二十六なんだよ。辰巳を待っていたら、あっという間におばさんになっちゃうよ」
彼女の肩を強く掴み、“あるべき距離”を無理やり作った。
「おばさんになる前に、新しい恋が来る。……克美に俺を待つ義務なんか、ない」
無機質な声で答える辰巳の顔が、次第に下へと伏せられていった。小さく微かに震え出す、彼女の冷えた細い肩。掴んだ手を通して辰巳にまでそれが伝染する。
「……全然、解ってないお前が、そんなこと……言う、な……よ」
「……」
返す言葉が浮かばない。自分までが勘違いをするな。それは克美の思い違いで、いつか忘れることが出来るもの。そう心の中で繰り返す。辰巳は奥底に沈めたモノからずれてしまった蓋を封じ直すことで精一杯になっていた。
「加乃姉さんがなんで辰巳にボクを託したのか……まだわかんないの?」
「!」
――辰巳、克也と同じくらい、愛してる。
辰巳の中で繰り返される、加乃の声。克美に対するものと同じ、弟のように愛しているという意味だと受け留めていた。
――あの子はうさぎと一緒なの。独りにしないであげて。普通の暮らしをさせてあげて。
最期まで辰巳に訴え続けていた加乃の願い。聞いていたつもりでいながら、こめられた意味を取り零していた。女の考えなど解らない。『寂しいうさぎ』『普通の暮らし』そんな曖昧な言葉遊びに興じる余裕などずっとなかった。
『忘れないでね。寂しいうさぎさんは独りぼっちにされると死んじゃうんだ、ってこと』
あの時翠の言っていた意味を、辰巳はようやく理解した。
克美のそれは、一時の幼い真似ごとの恋などではなくて。
「まさか……」
呟く声が裏返る。自分を抑える根拠が崩れていく。加乃はすべて解っていたから、撃たれる為に姿を見せたのか? 解っていたから克美を託して逝ったということなのか? 自分でさえあの頃は解っていなかったのに、「選べない」なんて嘘をついてまで、その選択を自分に与えてくれていたということなのか――?
「加乃姉さんはきっと、ボクよりもボクのことを解ってた」
拒む力が緩んでいく。今更痛恨の判断ミスに気づいても、もう遅い。
「だって、子供だった。……男だって言い続けてた……」
後悔の浪が、押し寄せる。加乃の願いは叶えてやれない。克美の願いももう叶えられない。例え辰巳自身の願いであったとしても。
「ボクね……辰巳は加乃姉さんのものだから、そう思っていないと辰巳の傍にいられなくなる、って。ずっとそう思ってたんだ」
震える声が、甘酸っぱく鼓膜を揺らす。こんなに情が移る前に、情を移される前に。もっと早く手放すべきだった。克美から憎むことさえ奪った、姉の仇でしかない自分の立場を自分の中から無理やり掘り起こすのに。
「そんな自分が、嫌いだった。弱くて守られてばっかりで……でもね」
白く細い指が、彼女の肩を掴んだ辰巳の手に触れる。難なくその手から解放された彼女は、再び二人の距離を縮めた。
「辰巳と本当の家族になれたら、きっとボク、今度こそ強くなれるから」
逃げ暮らすのは、性に合わない。それが本当の幸せだとも思えない。だから、自分はあの場所へ戻る。克美に本当の幸せを与える為に。その考えが間違っているとは思わない――でも。
「こんなこと言ったら、辰巳をまた困らせちゃうのかな……」
――ボクね……辰巳の子の、お母さんになりたいんだ……。
「そしたらボク、独りじゃない……ボクにも守るものが出来るから、絶対に、強く、なれる」
心の奥底でひび割れた蓋が、音を立てて崩れていく。自分でも驚くほどの浪が溢れ出し、それが罪の意識も後悔も、何もかもを呑み込んでいく。
「独りで待つのは、辛い……?」
見たら自分に負けると解っていたのに、顔を上げて克美を見てしまった。彼女が小さくこくりと頷く。
「でも、待ちたいんだ、ボク……」
忘れて通り過ぎてもらうには、あまりにも長い時間をともにし過ぎた。
「……これが最後の仕事だから」
心の中で、加乃に詫びる。克美を穢さずに、傷つけずに普通の暮らしを――そう誓ったのに。もしかしたら傷つけることになるかも知れない。
「きっと独りには、しないから……」
彼女に触れるのを禁じた腕が、ゆっくりと彼女を包んでいった。
彼女の未来に自分の欠片を遺してしまうかも知れない。それが解っていても、十七年の歳月を抑えられるだけの、変わる何かを見い出せなくなっていた。一つの想いが溺れそうなほどに溢れていて。
「辰巳……ボク、ずっと、待ってるから。信じてる。辰巳が『Canon』に――ボクらの楽園に帰って来る、って」
甘さを帯びた切なげな音色が、辰巳に初めて聞く声と感じさせた。それが辰巳の耳許で、吐息と一緒に鼓膜を揺らす。
「だから、お願い。辰巳が嫌じゃなければ、ボクを」
切なげに囁かれた彼女の願いが、辰巳に踏み止まって来た一線を越えさせた。
「……信じて。克美」
壁に映った二つの影が、重なったまま静かにくずおれていった。