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第二十三章 ボクらの楽園 1

 ――これが最後の仕事だから。……信じて。克美。

 ――待ってるから。信じてる。辰巳が『Canon』に――ボクらの楽園(エデン)に帰って来る、って。




 克美がキッチンで林檎パイを作っている。

『マスターのレシピなら、チーズケーキがイチオシだよね』

 客がそんな風によく言うから、自分にもそういう一品が欲しいと言う。オリジナルの味を試行錯誤する時間は、克美自身だけでなく辰巳にもくつろぎを与えた。二人のその内訳はまったく異なるのだが。

 テーブルに置かれた辰巳の携帯電話が着信を告げると同時に、その穏やかな時間が一瞬にして消えた。カウンターの向こうから覗く顔が不安げに上がる。辰巳はためらうことなくその着信を受けた。

「高木さん、何度説得しても変わりませんよ」

 彼女の前で高木を示す着信音が流れても、もう辰巳には彼女に隠れて話す必要がなくなっていた。不安げに見つめる彼女の瞳を苦笑でやり過ごしながら、打ち合わせ済みの定形文を口にした。

「もう新規依頼は請けない、堅気の道を行くって言ったでしょう」

『克美君が傍にいるんだな』

 高木には、こちらの応答に構わず用件を話してくれればいいと事前に伝えてある。一方の克美に対しては、高木にそういった形も含めて心理的距離を図ると伝えていた。

『では、用件のみを伝えておく』

「そんな条件、呑めないっすよ」

『藤澤会長に余命が宣告されたらしい。水城組が海藤組の傘下にある龍紅会へ抗争を仕掛けた。部下の情報によると、お前の生存が噂されているとのことだ。お前が帰らない内に海藤を引き引きずり下ろし、次期会長の座とともに、繰り上がりで空席になる藤澤会の若頭席も水城で押さえるつもりだろう。――海藤が、動くぞ』

 水城組、自分が海藤に属していた当時は、ただのつまらないチンピラどもの集まりだった。時の流れを嫌な意味で実感する。一刻も早く組へ戻り、現状を把握する緊急性が感じられた。

 そう考える一方で、二の足を踏む自分がいる。依頼の拒否という演目を演じ切れず、つい顔を伏せてしまった。克美に今の顔を見られたら、まずい。

『海藤組へ潜入し次第、詳細を打ち合わせる。連絡を待つ、以上だ』

 賽を振ってからおよそ二ヶ月。踏み出す賽の目がついに出た。それは今更振り出しに戻れない出目だと自分自身へ言い聞かせ、固く閉じた瞼を無理やりこじ開けた。精一杯の虚勢で口角を上げると、辰巳は垂れた頭を勢いよく振り上げた。

「それさえこなせばいいんですね? ぶち込んでから反故とかなしですよ。信じていいんですよね?」

『……そこを発つ時には連絡が欲しい。克美君と翠君への事後のフォローについて、お前が組へ戻る前に今一度確認をしておきたい』

 高木は少し間を開けてからそれだけ言うと、辰巳の返事を待たずに通話を切った。

 キッチンで聞き耳を立てていた克美が林檎パイを作る手を止め、辰巳の予想したとおり、その場ですぐに詰め寄って来た。

「それさえこなせば、って何? どんな仕事を請けるんだよ。ぶち込むって?」

 辰巳は笑みを保ったまま、不安げに問う彼女を懐へ押し込んだ。

「あは、やったねっ。高木がとうとう根負けしたよ。まだ時効を迎えていない犯罪の出頭を条件にされたけど、それは端から妥協してたことだしね」

「犯罪の時効って」

 克美が辰巳の懐でもがき、不安げな顔を上げて突き詰めて来た。

「十六年も前のがまだ生きてるっつったら、(ころ)

「違う違う。俺は海外に雲隠れした設定になってるから、時間が止まっちゃってるんだ」

 嘘に真実を織り交ぜる。克美には、実際に犯した罪の中から密売と警視庁のクラッキングのことだけ正直に伝えた。

「大丈夫。少しだけ待たせるけれど、高木が定年するまでには出て来れるさ」

「でも」

 追及を緩めない克美の唇を、甘酸っぱい林檎の味を堪能しながら封じ込んだ。

「林檎ジャム、随分美味く作れるようになったじゃないか」

 あれからも、辰巳は基本的に自分から克美にこういうことを仕掛けない。ただ克美が甘えて来た時に以前ほど拒絶しないだけだ。だから。

「ふ、フツーに食えよっ」

「あだっ」

 辰巳のほうからこうすると、動揺した克美から渾身の頭突きを食らう破目に遭う。辰巳から甘えると彼女は真っ赤な顔でうろたえる。辰巳の顔を見ていられなくなる。見ないから、幾らでも彼女をごまかすことが出来てしまう――。

「ホントは嬉しい癖に」

「う、うるさいっ」

 そんな憎まれ口さえ、この上なく愛おしい。同時に、言い難いほどの痛みに襲われた。




 巷に袴姿の卒業生がしばしば目に留まる頃。いつもなら稼ぎ時なので、『Canon』は三月にクローズの札を見せることなどないのだが、今日は特別な日だった。辰巳は一度オープンにした札を裏返すと、焦らすような底意地の悪い物言いで、克美宛の客人が来ることを伝えた。

「今日はステキなお客さんが来るんだ。克美を訪ねて来るんだよ。誰だと思う?」

 辰巳はキッチンで四人分のケーキを取り分けながら意地の悪い笑みを浮かべ、克美の反応を楽しんだ。二人に共通する知人など、ほんのわずかしかいない。

「なんか楽しそうだなあ。じゃあ、まず高木さんじゃないのは確かだね。……あ、判った! マナと晃さん!」

 カウンター席で肘をついていた克美が、自信ありげに頭をもたげて言い放つ。

「ぶっぶー。彼のお店も卒業生が集まる時期だから店を休めないでしょ」

「あ、そか。ん~、じゃあ、貴美子さん?」

「年度末は興研設計って異動前で忙しいんだよ」

「そうなんだ。ん~……じゃあ……え?」

 思い当たるその人に行き着いた途端、克美の瞳が潤み始めた。

「まさか……」

 確認するように、彼女の潤んだ瞳が辰巳に答えを催促する。焦らす意地悪もそれが限界になり、結局客人の正体を先に知らせてしまうことになった。

「そのまさか。穂高クンから、翠ちゃんと一緒に改築設計料の回収に来るって連絡が来たんだ」

 意外な仲介者の名を聞いて、克美の瞳が大きく見開く。彼女の堪えていた一滴が、とうとう耐え兼ねてぽたりと落ちた。

「嘘……。だってあいつ、私情なんか挟めないって言ってたじゃん」

 そう言いながらも、克美の口角が次第に上向いてほころんでゆく。

「あのカップルは揃いも揃ってぶきっちょさんみたいだねえ。穂高くんも翠ちゃんと同じで、素直に思っていることを言葉に出来ないタイプなんじゃないかな」

 そして、克美、お前さんも。そう言ってカウンター席へ腕を伸ばし、くしゃりと頭を掻き混ぜた。彼女の涙が堰を切ったように溢れ出し、何度も誓いの言葉を口にした。

「ひ……っく、あり、がと……ちゃんと、言う……穂高に……っ。ありがと、って……あり、が、と……」

 辰巳はキッチンを出て克美の隣へ佇み、そっと頭を抱き寄せた。

「よかったね。やっと俺達、赦される」

「うん……うん……っ」

 長い長い九年間。一つの節目が訪れようとしていた。


 からん、と心地よくドアベルが鳴る。

(来た……っ!)

 克美が小声で呟いた。音の方へ振り向けずにいる自分を持て余し、縋る視線を辰巳に向けて来る。辰巳が顎で軽く入り口をしゃくって促してやると、ようやく彼女が恐る恐る振り返った。

「お世話になっております。安西です。お時間、ちょっと早いんですけどよろしいですか」

 はにかみながら振り返った克美の表情は、穂高に向いていて辰巳には見えない。だが、脱力し切った肩が彼女の心情をあからさまに表していた。それがあまりにもおかしくて、席を勧める声が笑いで上ずった。

「いらっしゃい。まずはお先にコーヒーでもいかが?」

 向き直った克美の不貞腐れた顔を見ると、笑いを噛み殺すことさえ出来ない。

(笑いごとじゃないじゃんか。ぬか喜びさせやがって、悪趣味。穂高の奴、サイテー)

 克美がじとりと睨み上げ、辰巳へ小声で「何が翠と一緒に、だよ」と愚痴零しながら一人分の水を用意し始めた。

 克美は、きっと知らない。自分の罪悪感と戦うことに精一杯で、翠が克美以上に罪の意識でなかなか克美に連絡さえ取れずに九年も過ごして来たことを。仮に知っても理解するのは難しいだろう。

 辰巳だけが知っていること。穂高の本当の気性と翠への執心。彼が振り込みという形を取らず、敢えて回収を提案して来た理由など、翠の同伴以外に存在するはずがない。

「って、あのクソ女っ! 先に行けとか言ってまだ下か!」

 穂高が初めて後ろにいるべき同伴者の不在に気付き、ばつの悪そうな顔で断りを入れると一度扉を閉めた。すぐにドアベルの音さえ掻き消すような大声が店内にまで轟いて来る。

「ウダってないで早よ来んかぁ! 仕事やろうが、このボケッ!」

 克美の肩がびくりと揺れる。こちらも内心どきりとする。思わず合った互いの目が、次第に緩やかな弧を描き出した。

「なんつう言いたい放題」

「あの調子で翠を引っ張り上げてくれたのかな、あいつ」

 ドキドキする。克美はそう言って、そっと自分の胸に手を当てた。

「ボク、変な顔してない? 前より変に変わってないかな。翠はボクがボクだって、ちゃんと判ってくれるかな」

 あの頃に比べて、克美は随分変わった。面差しは長く大人の表情になり、化粧も施すようになった。傷ついたり傷つけたり、そんな人間関係で得た経験が、あの頃よりも人の心の声を聴けるだけの成長を感じさせる。

「大丈夫。翠ちゃんが克美だと判る形で、いい意味で変わったよ、お前さんは」

 辰巳がそう答えると、やっと克美の顔に自然な笑みが浮かび上がった。


 二人分のチーズケーキを用意していると、ようやくドアベルが客人の再来を告げてくれた。

「こら、翠。いい加減に観念せえ」

 穂高がドアを開けたまま、そう言ってまた振り返る。

「だって、ちょっと待って。なんて言えば」

 克美にとっては初めて聞く大人びたアルトの声が、扉の向こうから微かに漏れる。その声と同時に克美が扉の方へ振り返った。辰巳もそれに釣られて扉へ目を遣った。彼に引き寄せられた腕が最初に現れた。次に特徴的な大きな吊り目が俯きがちで垂れた髪の隙間からわずかに覗く。そしてようやく克美にとっては懐かしい、変わらぬきつめの大きな瞳に戸惑いの色を浮かべた彼女が、はにかんだ様子で穂高に背を押されて店に足を踏み入れた。

「……興研設計の来栖です」

 紋切り型の営業トークが彼女の第一声だった。

「……何、それ」

 あれだけ待ち焦がれていた癖に、克美の尖った声が鋭く響く。店に流れるバロック音楽が、辰巳の耳には妙に大きな音だと感られた。それほどの静寂が数秒ほど漂った。

「せっかくおそろだったのに」

 ガタンとカウンターチェアの倒れる音がする。穂高がその音に弾かれ、翠の前に立ちはだかった。

「おま、何怒ってんねん」

「お前邪魔っ! どいてっ」

 あれだけ辰巳が禁じ、そして克美もそれを守って来たのに、彼女は極真の一手で素人である穂高の手首を捻り、そのまま関節に技を掛けて組み倒した。

「あだっ。正気かっ、この男女っ」

「うっさいっ」

 克美はフレアスカートから太腿が露になっているのにも気付いていない。なんのためらいも見せずに馬乗りで組した穂高から身を剥がすと、ツカツカと翠の前に立ちはだかった。

「なーにが『興研設計の来栖です~』だよっ」

 肩で切り揃えられた翠の栗毛を、乱暴にぐいと掴んで尚がなる。

「自分一人だけ立派になっちゃって、綺麗になっちゃって」

「いい加減にしろやコラ」

 克美を止めようと身を起こした穂高が二人の間に割って入ろうと一歩を踏み出す。辰巳はそんな彼に手を差し出す恰好で彼の介入を止めた。

(まあまあ、見てごらん。翠ちゃんの顔)

 辰巳は手を払い除けようとする彼に、そっと耳打ちをして促した。穂高や辰巳の位置から克美の顔は見えないが、翠の表情はよく見える。

「あ……」

(ね? 大丈夫)

 翠は唇を硬く噛みしめ、必死で涙を堪えていた。それは決してネガティブな感情から来る涙ではなく。

「こっちがほっとするくらい幸せそうな顔しちゃってさっ。めちゃくちゃ垢抜けて、昔よりずっともっとオシャレになって。ボク、バカみたいじゃん。何度も何度もお帰りって練習してたり、今度翠にボクを描いてもらう時は、ちゃんと女のカッコして描いてもらおうとか、必死こいて自分に言い聞かせて、たり……ひっく……っ、けど……いっぱいいっぱい、どうして、も……ぃっく、ごめんねばっかり……」


 ――なんで「ただいま」って言ってくれないんだよ……。


 克美の零すそんな言葉を、バロック音楽が優しく包んでいく。言葉を失くした翠から、ようやく待ち焦がれていた一言が紡がれた。

「……ただいま、克美ちゃん。待っててくれて、ありが、と……」

 春の淡雪を思わせる、透きとおった雫がはらはらと零れ落ちる。後ろ姿しか見えない克美の顔は、眉を寄せて顔をくしゃりとゆがめる翠ときっと同じだろう。

「も……ごめんね、は……なし……ね?」


 ――アタシも、克美ちゃんも。


 くしゃくしゃの顔が見えなくなったかと思うと、翠は海藤家だけに通じる『家族の挨拶』を克美の額にそっと施した。

「克美ちゃん……お帰りって、言って?」

 くしゃくしゃになっている翠の顔が、克美の長い黒髪の隙間から覗く。しがみついた彼女を克美が力いっぱい抱き返す

「お帰り……っ、お帰り、翠……っ」

 克美がずっと伝えたがっていた一言を彼女はようやく紡ぐことが出来た。

 そんな二人の様子を辰巳はキッチンから、穂高はカウンター席から、ただ黙って見守っていた。

「あいつら、昔からあんなんやったんっすか」

 穂高が抱き合ったまま声を上げて泣きじゃくる二人から視線を外し、辰巳に向き直って問い掛けて来た。

「そうだね。喧嘩しながら大好きアピ、みたいな」

 自分で言って、苦笑する。穂高もそんな辰巳に釣られ、苦々しい顔を複雑にゆがめた。

「解っちゃいるけど、なんだかな」

 そんな穂高に自分も咥えた一本と同じ銘柄の煙草を差し出してみる。

「妬ける?」

「別に」

 そう言いながら好意を受ける穂高の解りやすさにまた苦笑した。

「なんすか」

 怪訝に思う彼の瞳が剣呑に細められる。一つ一つに対して思いあぐねる彼の、諦めを知らない足掻く青さや若さそのものを。自分にはもうないその立ち位置――これからもずっと彼女達の笑顔を見守ることが許されている、『家族』でいられる穂高を。

「妬んでるんだよ、きっと」

「は?」

 吐き出した紫煙とともに、主語を省いた辰巳の本音が零れ落ちた。

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