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第二十二章 束の間の平穏

 ずっと『Canon』のマスターで。

 過去も、しがらみも、全部捨てて。

 普通の、平和で平凡な……加乃がお前に一番残したかった暮らしを、二人で一緒に過ごしていこう。


 ――それが、克美についた、最後の嘘。




 喫茶『Canon』が入った雑居ビルの三階から上は、倉庫の並ぶフロアになっている。その一角を借り上げ事務所の荷物を押し込んだ。改装中の一月半は、『Canon』にとって初めての長期休業となった。

「客足、減らないかな……」

 克美のそれは経営の心配というより、そこに集う客と会えない寂しさを物語っていた。

「大丈夫っしょ。家には、魅惑の性別不詳ウェイトレスさんがいるらしいから」

 荷物で両手の塞がった彼女を、やはり荷物を持ったまま掠めるようなキスで慰める。

「がーっ! 荷物が邪魔っ!」

「はぅっ! お、落ちたっ。足っ、足! 荷も、んっ!?」

 砂糖をたっぷり入れてホイップした生クリームが熱でとろけていくような生活だった。




 克美の二十六歳の誕生日には、『初めての旅行』という経験をプレゼントした。

「札幌? 雪まつり?」

「うん。飛行機に乗ったことがないでしょ。ちょっと誕生日より早いけど、開催期間が十三日までだから。克美は雪が好き、って、昔加乃が言っていたのを思い出したんだ」

 少しだけ克美の顔が曇る。寂しげな笑みを浮かべて「うん、好き。ありがとう」と答え、彼女は甘えた声で新しいコートを辰巳にねだった。

 克美は離陸のGに硬直し、初めて見る俯瞰の地上にはしゃぎ、そして一面の銀世界に大きな瞳を煌かせた。遠い昔によく見せていた、心からの無邪気な笑みを惜しみなく辰巳に零して見せた。


 タクシーで移動する途中、一面が純白になっている一角を視界に捉えた克美が、突然叫んでタクシーを停めさせた。

「うわ、すっげ! 停めて、降りるっ」

 その言葉に驚いたドライバーが

「でもお客さん、もうすぐ吹雪きますよ」

 と辰巳の方を振り返った。言い出したら利かないのは今に始まったことではない。

「すぐに戻るので、少しだけ待ってもらえます?」

 苦笑と詫びを運転手に向け、数枚の紙幣を握らせた。


 霞み始めた視界に、一面の銀世界。純白で覆われた空間は幻想的で、かなたに見えるおぼろげな木立が童話の挿絵のようだった。泥汚れどころか足跡一つない雪原。克美が微かな音を立てて、ぼふっとそこへ突っ伏した。

「くはー、一番乗りっ。松本じゃあ、車が全部雪を真っ黒にしちゃうもんねっ」

 とはしゃいで転げ回る。

「子供か、お前さんは」

 そう言った声には、明らかに呆れが含まれていた。

「辰巳もやってみなよっ、気持ちいい、よっ」

 脚を払い蹴られる形で、辰巳まで彼女に巻き込まれた。

「のぁっ、あ……ぶなっ! ぎっくり腰になったらどうすんの」

 とは言うものの、つい口許の緩んでしまう。高らかに笑う彼女に釣られ、辰巳も自然と笑みを零した。

「こっちはいいおっさんなんだから、手加減ってもんをしなさいっつの」

 顔に被った雪を払い除け、ふと克美を見ると、彼女まで霞んで消えそうに見えた。咄嗟に彼女の白い肌を確かめる。その確かな感触と人肌の温度にほっとする。

「辰巳? どうかした?」

 そう言って近づいた克美の頬が、白ではなく寒さで薄紅に染まっているのを確認した。生を感じさせるその柔らかな色が、辰巳の鼓動を落ち着かせた。

「いや……。寒くないかな、と。幾ら防水してても、流石に濡れるよ」

「もうちょっとだけ。白、辰巳も一番好きな色でしょう? ここまでの純白って、そう滅多に見れないよ」

 加乃姉さんみたいだね、と克美は言った。白くて、綺麗で、どんな色でも包んでしまうような色、と。

「辰巳は赤系の方が似合うのに。必ず白を選ぶんだね。スーツもその色ばっかだしさ」

「……赤は、好きじゃないんだ。白は無垢な色だからね。綺麗だから、好き」

 赤は、鮮血を連想させる。それが似合うことを知っている。だからこそ、白に憧れた。穢れを知らないものだから、それを自分の手で穢してはならないと思っていた。

「克美、光の三原色って知ってるか? 最高値を合わせると白になるんだ。克美の言う、どんな色でも包み込むってのは、理論的にも正解なんだよ」

「へぇ。色の三原色と、どう違うの?」

「光は加法混色、足していくことで明るさが増していくのに対して、色料は減法混色、足せば足すほど明るさが減っていく色の原理なんだよ。行き着く先は、黒。だからクレヨンとかで三色を混ぜると、最終的には真っ黒になるでしょ」

「うん」

 風が和らぎ、彼女がはっきりと見て取れる。どこまでも白くて綺麗な心。子供の頃から変わらない、大きく澄んだ明るい瞳が、綺羅星のように瞬いた。

「克美は、光。どんどん自分の経験を足していって、もっとずっと、綺麗におなり。加乃の妹なんだから、克美もきっともっと綺麗になるよ」

 自分は、足せば足すほど黒くなる――住んでいる世界が元から違う。

「……どうしたの? 何か、変だよ、辰巳」

 それには答えず、窺うように見上げる彼女をタクシーへ戻ろうと促した。


「辰巳ぃ。……そっち行って、いい?」

 枕を抱えて克美が問う。その目はかつて温泉宿で過ごした頃の、心細そうな色を浮かべていた。少しだけ戸惑ったものの、結局布団を上げて許してしまう。

「らっきっ。北海道ってメチャクチャ寒いっ。松本の方が盆地だから寒いと思ってたのにな」

 彼女は枕を抱えたまま滑り込み、無邪気に身をすり寄せて来た。彼女と自分を隔てる枕が、神よりもありがたい存在だった。


 早く、自分の傍らをとおり過ぎて欲しい。ゆっくりとした成長過程の一つ、女性の自覚を持って間もない時期特有の、“恋に恋していただけ”なのだと早く克美に気づいて欲しい。穢さずに、傷つけないまま、克美の恋愛ごっこを終わらせる。彼女の心を守るには、それが必要不可欠だった。




 店の改装期間中、安西穂高が何度か現場確認に訪れた。克美には、まだ翠と会いたいなんて駄々をこねないよう言い含めた。

「翠ちゃんから彼に話すのが、きっと一番いいんだよ。でないと、彼に詳しいことを訊かれた翠ちゃんが悩むでしょ」

 そうだね、と呟く克美の翳りが、辰巳の瞳にも翳りを落とさせた。彼女の訪れを待ちわびる一方で、その日が来ないことを祈る自分がいる。克美の恋愛ごっこにつき合うことで、墓穴を掘ったのは自分の方だったと今頃になって悔やんでいた。


『辰巳、だいすき』

『うん、俺も、お前が大好きだよ』


 少女の自覚がない頃の克美と交わした、他愛のないその言葉。答えた自分の言葉の重さに、辰巳自身が気づいていなかった。それに内包された想いがなんだったのかなど、深く考えたことさえ今までなかった。今になって気づいたところで、まるで意味のないものだった。


「ボクが翠と友達だって知ってたんなら、なんでこの間来た時に教えてくれなかったんだよっ」

「前回来た時は、そんなんまだ知らんかったんや。たまたま翠とコーヒーの話をしてた時に、『Canon』の名前が出たさかい、ちょっと確認しただけやんか」

「その場で電話くらいして来いよ!」

「アホか。お前かて何も言わへんかったやろうが。なんで俺がそこまでせなアカンねん」

「あ、てめ、客に対してアホとか言った! かーっ、こんな奴のどこがいいんだっ。ぜんっぜん翠の趣味ってわかんないっ」

「客は兄貴や。何遍も言わすな。兄貴の店に寄生してる無職が偉そうに客ヅラなんかしてんなや」

「家庭内労働って言え! っていうか、お前要らないっ。翠に来させろよ!」

「ここの担当は俺や。私情で企業の秩序を乱せるか、アホ」

「あっ、またアホっつった!」

 辰巳は苦笑を浮かべて子供じみた口喧嘩をする二人を見てはいたが、彼らのやり取りとはまったく別の、そんなことを考えていた。




 それでも、そんな日々に日夜感謝と幸福の感を禁じ得ない。馬鹿みたいに平和な悩み。しょうもないほどくだらない葛藤。ありがちな普通の会話や、犬も食わなそうな痴話喧嘩。――そのすべてが、平和で、普通で、平凡で。

 四半世紀近く夢に見て来た、『普通の暮らし』がここにはあった。

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