第二十一章 最後の依頼 2
辰巳が最も懸念しているのは、穂高の過去から窺い知れる、その場の感情で動いてしまうという彼の衝動性にあった。翠が克美の起爆剤であるように、彼が翠の起爆剤になっている。彼が今回動いた原動力が、恋などという一過性の熱病であればのちの結果は目に見えていた。
彼の翠に対する拘りが一過性のものなのか、翠や貴美子の言うように信頼していい類のものなのかを測る必要があると考えていた。
まず第一段階。こちらが裏の顔を覗かせることで怯むような奴なら、テストはこの段階で終了だ。六年前の傷害事件を起こした頃に、ほんの触り程度でも裏社会を覗いた彼ならこちらの程度を把握出来るだろう。そんな辰巳の予測どおり、彼の表情が途端に一変し、口をつぐんだかと思うと蛇に睨まれた蛙のように微動だもしなくなった。
(……翠ちゃんには悪いけど)
さっさと東京へ送り返し、改めてこちらから東京に出向いてやろう――永遠に彼女を想う安西穂高が“翠の中だけで”生き続ける形を取る為に。
「……海藤さん、あんた何か勘違いしてませんか」
辰巳が出した結論を覆すとばかりに、目の前で固まった男が低い声で呟いた。
「俺はあんたにお願いをしに来た訳じゃない。被害者の身内として当然の権利を主張しに来ただけや」
彼の口調が熱を持ち、地元の言葉になり出した。身を乗り出したかと思うと、辰巳の襟を掴んで顔を至近距離まで近づけた。その瞳に宿るのは、恐怖どころか激しい怒り。その意外性を好ましく驚く辰巳がいた。
「翠があんな状態になるほどの何があったのか、俺には知る権利も義務もある。どういう状況の中であいつの兄貴を見捨てたんや、あんたは。九年前とそれ以前のこと、あんたの知ってる情報をすべてこっちに渡せ。でなきゃあいつは一生、本当の意味で笑うことなんか出来ひんねん」
諦めたものがまた燻り始めた。それが辰巳の下した結論をもう一度だけ翻させた。
「……そうカッカしなさんな」
襟を掴んだ穂高の手首を素早く掴んで捻り上げる。
「痛……っ」
「言いたかないけど、こっちはお前さんの家族ごっこにつき合えるほど暇じゃない。時間がないのはお互いさまだ。無傷でさっさと帰りたいなら、そっちが妥協すべきだろう?」
問う理由の主体が翠にあると言うなら、知らないまま生かして返す賭けに出た。
「隠すことが必ずしも信じていないということではないよ。例えば翠ちゃんが克美に隠しごとをしていたように」
そして穂高にも隠し続けているのは、決して彼の愛情を彼女が信じていないからというのではなく。自分が貴美子を犯した時に彼女の見せた傷の深さと、翠のそれとが重なった。翠が彼に知られたくないのは当然だ。
「傷つけたくないからこそ、隠してしまうこともある。出逢ったことを悔やんで欲しくないというエゴが隠させる時もある」
辰巳の発した言葉で何を拾ったのかは解らない。だが、明らかに穂高の激した怒りが鎮まり始めたのを見て、辰巳は彼の手首を解放した。ソファに身を沈めた彼から視線を逸らし、テーブルの煙草に手を伸ばした。
「それでも本当に知りたいの?」
問い掛けながら、彼にも一本を促してみる。彼は体勢を整えたものの、それを手に取ることはなかった。
不意に冷たい風が足許をひやりと撫でた。風の源、後ろにある廊下へ続く扉の方を振り返ると、克美が少しだけ開けた扉の隙間からそっと穂高へ視線を送っていた。
「克美?」
一気に緊張感が緩む。彼女の平和な悩みで潤んだ瞳が、濁り切った冷たい空気を温めた。
「辰巳、ちょっとちょっと」
穂高との初見の既視感を、自分と容貌が似ているからだと思っていた。だが、それだけではないと彼女の瞳が教えてくれた。彼は、自分にはない純度の高い輝きを持つ瞳で翠のことを語る。それが克美とよく似ているのだ。それが既視感を抱かせたもう一つの理由だと気がついた。
「はぁん……。穂高クン、ちょっとだけ、ごめんね」
彼はとんだ邪魔が入ったと思うだろうが、いい緩和剤になってくれた。辰巳は表情を和らげて彼にそう断りを入れると、一度リビングから席を外した。
ぱたんと扉を閉めたと同時に、克美が背伸びをして首にしがみついて来た。
(どうしよう。ボクが先に喧嘩腰な言い方しちゃった癖に。初めて会った人なのに、嫌いとか、普通怒るよね? ごめんねとかそんな子供じみたことなんかしたら、余計に怒らせちゃうよね、やっぱ)
思ったとおりの耳打ちを聞くと、どうしようもない気分になる。
(お詫び代わりに、マッターホルンでケーキを買って来てよ。あとは普通に話し掛けてごらん)
克美の悩み相談の解決と、彼女を遠ざけるという実用を兼ねてそんな提案を囁き、大丈夫という代わりにきゅ、とその身を抱き返した。
「ん、解った。行って来る。元旦ヴァージョンだよね、やっぱ」
にわかに明るい笑顔が灯る。それに釣られて辰巳の頬も緩い笑みをかたどった。
「寒い中並ばせて悪いけど」
「ヘーキっ、かっ飛ばして来るっ」
辰巳は子供の頃と変わらない元気なうしろ姿を見送ると、そっと小さな溜息を漏らした。
リビングへ戻ると、廊下から流れ込んだ冷たい風が穂高の頭を冷やしたのか、彼は部屋を出る前よりも随分と落ち着いた表情で辰巳の戻りを待っていた。雑談を交えて克美の不在を告げると
「あなたが俺の何を疑っているのか今いち解らないんですけど。信用を得たいならまず自分が相手を信用すべきですね」
という皮肉めいた余裕の物言いで本題へと促された。
穂高から語られる翠の近況が、藪の懸念した可能性を確定事項へと変えていく。一つだけ想定の範囲外だったことは、藪の言っていた「なんらかのPTSDを持っている可能性」として挙げた症状のどれにも当てはまらないものだったこと。
「未発見の人格障害……翠ちゃんに危害を加える別人格が彼女の中に存在している、ってこと?」
「ええ。解離性同一性障害と非常に似ているんですが、それであれば主人格を守る保護人格という存在や、ほか複数の人格が存在するはずなんです。翠には、それがない。来栖煌輝を連想させる、男言葉で喋る思春期くらいの少女の人格だけ。家族の虐待が原因であれば、上京してから発症するというのは時期的なズレを感じます。原因はほかにあるんじゃないか、と。だから、翠の過去を知る必要があるんです。翠には記憶の欠落や差し替えがある。あいつの中にある別人格は、翠というフィルターをとおした世界しか知らない。事実を知らないことには、対処のしようがないんです」
穂高はそれに付随し、辰巳が貴美子を激怒させる原因になった、来栖の墓参についても簡潔に説明した。
「あなた方は翠の父親が亡くなっていたことを彼女に伏せていたそうですね。自分が父親を見捨てて東京へ逃げた所為で自殺に追い込んだと自分を責めてました。でも、本当はあいつも解ってる。父親が父親であることから逃げたということを」
そう言って差し出されたのは一枚の便箋。びっしりと文字を綴られたそれは、翠に宛てた来栖勇輝の遺書だった。
「『私達のことは忘れ、お前が好きなように今後の人生を歩いたらいい。私にはもう何も残っていないが、この命を以て償おうと思う』、か。……綺麗ごとだな」
辰巳の脳裏に亡き母が過ぎる。自分をこの世に産み落としたことを我欲からの罪と感じた彼女は、あの男から自分とともに逃れるという選択をしてくれた。息子を愛して生きるという形で償い続け、命を懸けて守ってくれた。加乃もまた、親でさえないのに克美の為に生きていた。自分ではなく克美を採るほどの、恋を上回る強い愛情と慈しみ――それが親心ではないかと思う。
「翠は父親の死を受け容れられずに意識をなくし、アンダーと呼ばれる別人格がその場で動きました。住職が預かっていたというそれを読んで、自分を消そうと考えたらしいんですが」
「今、翠ちゃん……いや、そのいアンダーと言う別人格が表面に出ている、ということかな。その子は今どうしているの? 翠ちゃんの怪我の容態は?」
「幸いアンダーが自分に懐き始めていたので、自分を思い出して自死は思い留まってくれたようです。が、まだ手首の傷は完治してません。今は翠の意識が戻っているんですが、背中の傷を隠したくて伸ばして来た髪もバッサリやられてしまったので外に出るのを怖がっている状態です」
貴美子が自分に翠の障害を隠していた理由が、なんとなく察せられた。自分がそれを聞いてどう受け留めるか先回りしてのことだろう。
目を閉じて、穂高の視線を遮断する。今更悔やんだところでどうしようもないと自分自身に教え諭す。
(依頼のままに、翠を消しておけばよかったなんてはずがない。彼女は被害者であって加害者じゃない)
自分が最終的に彼女を追い込んだ。真っ先に浮かんだそのセンテンスを、そんな自己弁護で上書きした。
「やっぱり、そうか。そういう形で表れることもあるんだね」
気だるげな声で、そう吐き出した。貴美子と同じような哀れみなどを、こんな若造から施されるのは御免だった。
「解っていたなら、なんでわざわざ訊くんですか。そもそもあなたが翠に墓参なんかさせなければこんな事態にはならなかった。もしアンダーが俺を信用していなければ、今頃翠は生きちゃいない。もうたくさんなんですよ、こういうのは。何を企んで寺まで連れて行ったんですか」
糾弾の言葉で目を開く。再び感情的になった彼を本題へ戻してやらないと、彼はあまりにもデータからプロファイリングした人物像から掛け離れていた。すべての負の感情をこの場で引き受ける形で捨てさせないと、辰巳の予測したものとは別の「最悪のシナリオ」が実行されてしまう危険性がある。辰巳は安西穂高という人物を、衝動と思い入れの強さが諸刃の剣になるタイプの人間だと人物像を改めた。
「寺へ送ったのは、完全に俺のミス。この件は解決したと気が緩んだのか、別件に気が行っていた。ゴメンで済む話じゃないんだろうけど、でも穂高クンのいう“隠すことが翠の為になるとは限らない”っていう理論からは外れてないでしょう? 相殺にしてくれると助かるんだけど」
悪びれもせずに小さな一件をそう受け流す。尚も食い下がろうと開かれた口から言葉が漏れ始める前に、辰巳は少しだけ掻い摘んで自分達と翠とのこれまでを話した。
「確かに隠せばいいものではないんだろうけど。それでも、当時はそうするしかなかったんだよ。克美でさえ、来栖勇輝の訃報を知った瞬間、相当取り乱したから。俺も貴美子も高木も、翠ちゃん本人がそれを知ったらどうなるのか目に見えていた」
テーブルの下からファイルを取り出しながら、あくまでも淡々と当時を語る。克美と翠の出逢いの話。まだ女性である自分を拒んでいた克美にとって、彼女が初恋の相手であったこと。克美が何故女性であることを拒んでいたのかというその経緯。翠の男性恐怖を察したが為に、あくまでも女性として翠の傍で守ろうと幼い決意をしていたこと。結果的に翠を守ることが出来なかったと、未だに泣きながら懺悔し続ける毎日を送っていることなど。それほどの出来事だから、知らない方がいい、と遠回しに最後の警告を彼に告げた。
「最後にもう一度だけ訊く。何を知っても、本当に後悔しないって言い切れる?」
貴美子に頼る殊勝さを持っていないと解るのに、それでもその選択を切に願う。克美と同じ綺麗な瞳を持つ穂高までが、自分と同じ穢れた手になることをなんとしても避けたかった。翠の為に、そして克美の為に。
「何を知っても、本当に後悔しないって言い切れる?」
問い掛けながら、まだ迷う。人の口に戸は立てられない。遅かれ早かれ知ることになるなら、リスクを最小限に留める為にも、今彼にすべてを知らせて自分がそれに対処すればいいのではないか。そう思う一方で、彼に宿る純度を信じてみたい自分もいる。即決出来るのが自分の自負だったのに、それが出来ない今の自分に苛立ちを感じた。
「当然」
辰巳の逡巡を知って知らずか、穂高は不遜な笑みまで浮かべて即答する。
「きっとキミも傷つくことになるだろうけど、それでも翠ちゃんを見捨てないって自信ある?」
無知から来る彼の自信に歯痒さが増す。知った直後に彼を覆う憎悪で、彼の瞳の濁る姿が鮮明に浮かんでしまう。その時は、消えてもらう――そんな思惑を面に出すまいとする足掻きが、必要以上に辰巳の声を冷ややかにさせた。
「何を知っても、そう簡単には変わりませんよ。これは翠にもらった命だから」
穂高の笑みが、それを口にした途端、不遜なものからまったく別の類のものへと変わった。どこか見覚えのあるその表情に、何故かむず痒い居心地の悪さを感じ、辰巳は言葉を失った。
「今度は俺が返す番ってだけのことです。笑って生きてて欲しいから。
――今の俺には、傷ついてる暇も、後悔している暇もありませんよ。
「……」
見覚えのあるその表情を、どこで見たのか、解った。彼の言葉すべてにシンクロしていく自分がいる。上っ面の詭弁ではなく、本当の胸の内。言葉に宿る「心の声」が、緩やかに上がっていく彼の口角の柔らかな動きが、彼の動いた理由がそこにあると告げていた。
穂高の微笑に釣られるのように、辰巳にも複雑な微笑が宿る。
「笑って生きてて欲しい、か」
克美と出逢ってから十七年抱き続けて来た願い。加乃を失くしたあの時、自分は一度死んだ。彼にとって、昨年の失踪が一度死んだ時なのだろう。翠が突然消えて彼を迎えに行った理由も、今になってようやく覚った。
(……この子達の声を信じよう)
辰巳の中で、方針は固まった。
「すべてを知ったあとに、キミからもう一度その言葉が聞けることを祈っておくよ」
辰巳はスマートフォンから手を離し、掌を広げて穂高に閲覧を促した。穂高が目の前に並べた過去の翠に手を伸ばす。辰巳は記された数々に目をとおす彼を、だた黙って見つめていた。彼が様々な表情を浮かべ次第に青ざめていく様子を、冷ややかな目で観察し続けた。