第二十章 侵蝕 2
本庁のデータを二十八分でクラックし、高木に完了の連絡を入れた。それらを保存したディスクを小型のジュラルミンケースに収め、幾つかの書類も持ってアパートを出た。
役所に向かい、不動産登記の移管に必要な書類の発行を申請する。次に偽装した“守谷加乃”の死亡届を提出した。
「あ、高木の奴。余計な細工をしてやがった」
守谷加乃を世帯主とした戸籍。そこには克美だけをと頼んでいたはずなのに。加乃の夫として自分の名も記されていた――勿論入籍直後に『死亡による除籍』と併記もされて、克美の隠蔽を保障する形になってはいたが。
十六年前、高木との取引を成立させたあの日から、克美を守るべく少しずつ計画を進めて来た。
高木との取引条件。克美に安住の地を与えられるその日まで、戸籍上加乃を生かし続けること。加乃の養子として克美の戸籍を取得し、彼女の隠蔽を図ること。
克美が学校へ行きたがらないように仕向けたのも、あたかも辰巳の養子として海藤を名乗らせ続けたのも、辰巳と克美との関係の抹消を示すその事実に克美の関心を向けさせない為だった。知れば勘の鋭い克美のことだ、確実に不穏な動きに気づき、ともにある道を選ぶだろう。それは海藤に目をつけられる危険を孕むことになる。それだけはなんとしても避けたかった。加乃との約束を守る為に。
続いて発行された書類を法務局に提出し、『Canon』の所有者を克美へ移行させる手続きを取った。
「問題は、こいつだな」
警視庁の機密データ。考えた末、『Canon』の事務所へ隠すことにした。
からん、といつもと変わらない、涼やかなドアベルの音が響く。考えてみたらこの音に関心を寄せたのは久し振りだ。この数年は克美に店を任せ切りで、辰巳は殆どの時間と意識を裏の仕事に費やしていた。
制服を着ていた連中が、いつの間にかスーツに身を固めて来店していた。妙な懐かしさに混じって、月日の流れを寂寥とともに実感した。
「マスター! うわ、久し振りじゃんっ」
「全然顔を出さないから、てっきり克美ちゃんに代替わりしちゃったかのかと思ってたよ」
懐かしい子供達がスーツの馴染んだ社会人になっている。それでも自分の姿を見とめると、学生の頃と変わらない、慕う気持ちをあらわにした言葉で声を掛けてくれた。手にしたジュラルミンケースの重さがなければ、そのままキッチンへ入りコーヒーを淹れたくなるほどの平凡さだった。
見慣れぬ新たな客の何人かが、克美を掴まえコソコソと「誰?」と訊いている。克美もまた、いつの間にか客に対して不躾な対応をすることがなくなっていた。
「あれでも一応、ここのマスター」
と今朝の自分を責めることもなく、客への応対に専念していた。
「そうそう。俺ももういいおじさんだからね。そろそろ若いもんに任せようと思ってさ」
――克美ももう、大丈夫。
お客達がいる。彼女自身が強くなった。ここはもう、自分の居場所じゃない。
「じゃ、これでも一応副業遂行中ってことで。みんな、ごゆっくりね」
辰巳はいつものポーカーフェイスで皆に手を振りながら、奥の事務所へ逃げるように消えた。
ディスク入りのケースを金庫へ保管し、すぐ店を出てアパートへ戻った。『Canon』に足を踏み入れる度に必ず目を通した落書き帳をめくりもせずに、逃げるように店を出た。
見れば、依頼を引き受けたくなる。
捨て犬の飼い主を一緒に探して欲しい。親子喧嘩の仲裁を頼みたい。夫とのぎこちない関係をどうにか修復したい。まだ彼氏もいないと馬鹿にされて悔しいから、一日代理彼氏をして欲しい――。
普通で平和な、微笑ましい依頼。自分もそこに属せると夢を見させる、愛に溢れた依頼達。見れば、きっと後悔する。ここから抜け出せなくなってしまう。だから、敢えて見ずに店を出たのに。
無言で帰って来た克美が、乱暴にそのノートを辰巳の前へ投げて寄越した。
「なんで来た時くらい見ていかないんだよ。ボク、この頃ちっとも裏の仕事をしてないよ」
開いたノートから溢れる文字が、視線を外せないほど辰巳を捉えた。
『マスターが来てるって聞いて急いで来たのに、いないじゃん! 頼みたいことがあったのにっ』
『残念、タイミングが合わなかった。今度会ったら、受験で上がらない秘訣を教えてくれーっ』
『マスターの林檎パイ、今度はいつ食べれるの?』
辰巳の中で、使命という名の蓋が、カタリと音を立ててずれ出した。
「……裏、の……ちょっと、克美には……」
そんな乱暴な態度の克美に、日頃なら皮肉や説教で幾らでもごまかせて来たのに。今日に限って燻るモノが、辰巳に言葉を出させなかった。
「この頃の辰巳、おかしいよ。何考えてるのか解らない。ボクに隠れて、一体何を企んでるのさ」
ノートから目を逸らせない。今克美と目を合わせたら、何もかも見抜かれそうな気がして、顔を上げることが出来なかった。
業を煮やした克美が胸倉を掴み、無理やり目を合わそうと覗き込んで来る。彼女の糾弾の瞳から逃げようと身を退いた途端その勢いに負け、二人して床にくずれ落ちた。
「ねえ、高木さんからの依頼って、何」
「……ナイショ」
「そっち関係ならヤバい仕事なんだろう? 最近東京にばっかり行ってるよね」
「……」
克美が、気づき始めている。心臓が、痛いくらいに脈を打つ。
「ボクにちゃんと説明してよっ」
思い切り胸を叩かれ、反射的に言葉が出た。まるでつかえていた異物が零れたかのように。
「……大丈夫だから、心配しないで」
答えた声は、情けないほどにか細くて。踏み堪えるだけの精神力が、今の辰巳には残っていなかった。耳障りなほど警鐘が鳴っているのに、自分をまったくコントロール出来ない。「今はまだ覚らせるな」と、理性が叫ぶ。なのに感情がいうことを利いてくれない。今までこんなことはなかったのに――克美の顔を、見ることが、出来ない。
「ねえ、辰巳じゃないと、ダメなんだ。幾ら練習しても、ボクじゃ巧く林檎パイが焼けないんだ……『Canon』へ、一緒に帰ろうよ」
辰巳の胸倉を掴んだまま、うな垂れている克美が呟いた。
「……林檎、食べれるようになったのか」
黒い蛇が克美を絡め取る。忌々しい過去が脳裏を過ぎった。
「誰の所為で食えなくなったと思ってんだよ……」
克美が力なく答えた声は、上ずった鼻声になっていた。大粒の涙が、彼女の膝のジーンズを鮮やかな蒼に変えていく。
「お前、どこかに行くつもりだろ。どこへ行く気なんだよ……」
克美が、何かに勘づいた。襟を掴む彼女の手から、辰巳に震えが伝わって来る。
「ずっとボクの傍にいる、って……守るって約束したじゃんか」
焦りが思考を侵蝕していく。冷静な判断なのか自信がない。だが、この場を凌がなければ、確実に克美が気づいてしまう――自分がここから消えること。
「克美……」
計画の隠蔽の為、本当にそれだけか? 自分で自分に問い掛ける。
「頼むから……これ以上、加乃の領域を侵さないで」
仄かに克美から漂う、パイ生地のバターと混じった、甘酸っぱい林檎の芳香。克美の恋愛ごっこを利用して、我欲を満たそうとはしてないか? 責める自分が辰巳の動きを鈍くさせる。
「……そこは加乃の場所なのに……」
襟を掴む克美の両手を強く掴んで引き剥がす。その手を彼女の方へ押し戻せず、逆に彼女の肩を乱暴に抱き寄せた。
「……お前がいるから……」
「ボクは……辰巳の……」
呟く彼女の顎を上げさせながら、まだ自分に問い掛けている。七年も前に密かに封じた、その欲を満たそうとしているだけではないか――?
「……妹として、見れなくなる」
「妹なんかじゃ、ない」
同時に言葉を紡いだ二人は、神が禁じた“禁断の木の実”を口にした。