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第二十章 侵蝕 1

 ――この頃の辰巳は何を考えているのか解らない。ボクに隠れて、一体何を企んでるのさ。

 ――頼むから……これ以上、加乃の領域を侵さないで……。




 すっかり冷めて酸化してしまったホンジュラスに、翠が申し訳なさそうに口をつける。

「うーん、やっぱ淹れ直させてよ。冷たい方がいいのなら、アイスで作ってあげるから」

 そう頼む辰巳に、彼女が先に渡した保冷剤を目から外して小さく二、三度首を横に振った。

「ホットが冷めても、いつでも美味しかったもの。辰巳さんが淹れてくれるのは」

 彼女はそう呟くと、こくりと喉を鳴らした。

「ほら、やっぱり、美味しい」

 うっすらと儚い笑みが浮かぶ。気だるげな声なのは、泣き疲れた所為だろう。今の彼女は憑き物が落ちたように、穏やかな声で言葉を紡いでいた。

「本当に、九年も……ごめんなさい。謝って済むことではないけれど。本当に憎んでいたのは、辰巳さんでも自分でもなかったんですね、アタシ」

 花びらのように、また涙が落ちる。辰巳はそんな彼女の首筋に、修理したネックレスのチェーンを両脇から回した。

「謝ることなんかないんだよ。俺は自分が悪いと思ってないし、キミが悪いわけでもない」

 はい、出来た。辰巳が彼女の首の後ろで繋げたフックから手を離し、絡まった髪をそっと外すと、手を引く間際に彼女の方から、懐に飛び込んで来て驚かされた。

「辰巳さん、アタシ、綺麗?」

「は?」

 震える声にうろたえる。彼女の表情が見えなくて、その真意が掴めず答えに窮した。

「アタシ、このまま帰っても、大丈夫かしら。こんな気持ちを持ったまま帰って、人から醜い顔に見えないかしら。人の心は表情に出るっていうから……帰るのが、怖い」

 彼女と自分の間に挟まる握り拳に、きゅっと強い力が入る。彼女の両手が握りしめているのは、今つけてやったネックレスの頂を飾るエメラルド。

 くすり、と思わず苦笑が漏れる。当てられた気分に酔わされる。

「言ったでしょう。憎しみは長続きなんかしやしないって。そこに拘らない限り。今の翠ちゃんは、それにこだわっている暇なんかないんじゃない?」

 彼女の肩を取り、そっとその身を引き剥がす。不安げに見上げる少女の瞳に、悪戯な微笑を返してやった。

「人から醜いと見られるのが、ではなくて、穂高クンにそう見られるのが、ってことでしょ?」

「え」

「なかなかいいセンスしてるよね、彼。エメラルドの言い伝えを知っているかい?」

 古の言い伝えを教えてやった。エメラルドは守護の石。持ち主に災いが起きる時、前兆として色が薄まり凶事を教えてくれるのだと話すと、彼女の表情が明るく輝いた。

「辰巳さんも知っていたのね、その言い伝え。彼もそう言ってこれを持たせてくれたの」

 初めて見せる恋を知った少女の面映い笑みが、何故か克美の笑顔と重なった。

「そっか。知っているのなら、翠ちゃんの心配ももう解決しているんじゃないかな」

 見てごらん、と促すと、彼女は大事そうに抱えたその手を広げ、今度はこちらがドキリとするような笑みを湛えたまま、また一粒はたりと零した。

「うん……大丈夫。アタシ、帰れます」

 ありがとう、と彼女が言う。柔らかなその声が、終幕のゴングとして辰巳の鼓膜と心を揺さぶった。

「もう振り向かないで、前を向いて、穂高クンと幸せにおなり」

 彼女の頬を伝う涙を拭い、そのままそっと顔を上げさせる。心からの祝福を。言葉では言い尽くせないから。

「……辰巳さん、ありがとう。やっとアタシの初恋にエンドマークをつけられたわ」

 そっと口づけた彼女の額を、彼女が照れ臭そうに、撫でる。その大きな瞳に、遠い昔にはよく見せていた切なげな憂いが浮かぶことはなかった。

「早く帰ってあげな。また今度、穂高クンと一緒に店の方へ顔を見せに来てやってよ。ちょっと克美に発破を掛けてくれると助かるんだけどね。あいつ、もうすぐ二十六にもなるのに、まだフリーだから」

 そう言っておどけてみせると、彼女は何故か怪訝な表情を浮かべて辰巳の瞳をじっと見つめた。

「何? 俺、何かヘンなこと、言った?」

 彼女は一度大きく口を開けて話し掛けたが、結局話すことなくため息だけを大袈裟なくらい派手についた。

「何、それ。すっごく気になるんですけど」

「克美ちゃんに直接話すことだって今思い直したから、いいんです。それより、どうして辰巳さんが穂高のことを知っているんですか」

 剣呑に目が細められる。責めるような半目が、克美に負けないくらいの鋭さで言い訳を許さないと訴えていた。

「勝手に調べてなんかいないよ。キミ、覚えてないの?」

 泣きじゃくっている間、何度も彼の名を呼んでは謝ってばかりいたのに、と言った途端、翠の気色ばんだ表情が一転した。すべてのパーツをまんまるにかたどり、肌を首まで紅に染めて頓狂な声を上げた。

「うそっ」

「ホントですー。でなきゃ俺が穂高クンのことなんて知りようがないでしょう」

 不遜な態度で鼻で笑い、平気な顔をして嘘をつく。貴美子や高木に対するリークの疑惑を彼女に持たせ、余計な不信を抱かせるのは良策ではないと判断した。

「うそ……うそぉ……信じらんない、アタシ……っ」

 恥ずかしげに固く目を閉じて肩をすくめる彼女を見て、思った。

(もう、大丈夫だな)

 心の中に、隙間風が吹き抜ける。一つの時間に区切りがついたことを、辰巳は嫌というほど痛感した。

「ゴチソーサマ。これ以上当てられない内に、駅まで送るよ」

 辰巳はそう締め括ってブルゾンを手に取った。思考は苦い想いを織り交ぜながら、既に次の段取りへと動いていた。




 兄と決別する為に墓参りがしたいという翠を、来栖の眠る寺院まで送り届けた。

 車から降り立った彼女が思い出したように振り返り、助手席の窓越しから辰巳を捉えた。

「あ、そうだ。成人の時にね、克美ちゃんがお祝いを送ってくれたの。おめでとう、って」

「……」

 一瞬だけ沈黙が流れた。あんなに翠から拒まれるのを恐れていた克美なのに。なんでも自分には話してくれる子だと思っていたのに。このあとの段取りを考えていた辰巳は、克美の知らない一面を初めて知らされ思考が止まった。

「……知らなかった。何も聞いてなかったから」

 返す言葉の乾いた声が、改めて喉の渇きを認識させた。

「あの頃はアタシ、まだどうしても立ち直れなくて。高木さん宛に送られたのを言い訳にして、ずっと返事をし損ねたままなの」

 彼女の苦笑が異なる色を帯びて、辰巳へ意味ありげな問いを投げ掛けて来た。

「その時から、ずっと気になっていたことがあるの。『大人になれない克美より』って、辰巳さんには意味が解る?」

 翠の成人と言えば、克美が二十二歳の時。とうに成人しているし、それなりの自覚もあったと思う。

「……いや。相変わらず年の割にはお子さまだから、そういう意味、かな」

 翠が辰巳の言葉で黙り込む。小さな吐息を漏らしたかと思うと、どこか覚えのある雰囲気で苦笑した。

「アタシね、初めて克美ちゃんが自分のことを『克美』って書いて来たのを見て、すごく嬉しくてほっとしたの。それに、今日辰巳さんはアタシに対しても、克美ちゃんのことを『克也』じゃなくて『克美』って呼んでいたわよね」

 探るような翠の瞳が、「それがどうした」という言葉を呑み込ませる。何故か一回り以上も年下の彼女の気迫に気圧されている自分が解せなかった。

「辰巳さん、寂しいうさぎさんは放っておくと死んじゃうって、知ってる?」

 今度は唐突に寓話を出され、みたび面食らう。ひそめた眉間は不快を表した訳ではないが、また彼女に怯えられるのは遠慮したい。辰巳は言い訳の代わりに彼女の勘違いを訂正した。

「それは昔の人の勘違いだよ。弱っているところを外敵に知られると襲われるから、気丈に振る舞う、それすらできなくなったら群れから離れる、というのが本当の」

「知ってる」

「……」

 食い入るように見つめて来る瞳に、不本意ながら黙らされた。彼女が何を言いたいのか解らない。妙な負けん気がそれを認めたがらず、それどころではないと思う一方で、彼女の思考をあれこれと模索した。

「独りぼっちにしちゃうと、うさぎさんは寂しくて死んじゃうの」

 どこかで聞いたことのあるそのフレーズを、いつ、どこで、誰から聞いたのかを思い出せない。それに苛ついている自分が歯痒くなり、早々に白旗を揚げることにした。

「翠ちゃん。相変わらず頭がよ過ぎて、何を言いたいのか俺には解らん」

 基本的に辰巳の思考は、次に自分の成すべきことで八割がたが占められている。翠の言葉遊びにつき合うだけの余裕が殆どなかった。

「忘れないでね。寂しいうさぎさんは独りぼっちにされると死んじゃうんだ、ってこと。アタシも出来るだけ早く、克美ちゃんに会いに行くから」

 翠は諦めたようにかぶりを振って立ち去った。辰巳は釈然としない想いを抱きながらも、残り二割もそちらへと思考をシフトさせた。




 克美が店番をしている間に――自分の理性が働いている内に、やっておきたいことがある。

 辰巳は翠と別れたあと、店ではなくアパートへ戻り、高木との連絡を試みた。

 ワンコール……ツーコール……。

(高木……早く出ろ。俺が怯んでしまわない内に)

 未練に負けて通話ボタンを切ろうとした時、通話を受ける気配がした。

『高木だ』

 半分の安堵と、半分の失望。辰巳は瞳を閉じて、深く息を吸い込んだ。

「辰巳です。翠の件、かたが着きました。お待たせしてすみません」

 高木へ告げたその報告は、過剰なまでに淡々としていた。

『……本題の前に少しいいか』

 高木の口調が、珍しく困惑の色を帯びている。いつもの戯言、『別の選択』を示唆する時とも違う気がして、無言で彼の言葉を待った。

『お前にとって、海藤を潰すことが今でも最優先だと思っているか? 克美君をどうする気だ?』

 ――気づいているだろう、彼女の気持ちに。

 そういった方面に鈍い高木が、そこを突くとは思わなかった。その不意打ちが折角押し込めたものを再燃させて、辰巳をしばらく黙らせた。

 どんな荒んだ環境でも、慣れてしまえばそれなりに耐えられる。しかし一度温かな想いを知ってしまうと、戻れば以前に感じた以上の痛みへと倍加する。なまじ夢にまで見た堅気の生活を味わってしまった所為で、戦地へ戻ることに恐怖を覚えていた。

 恐怖、というよりも。

 ――もう二度と、克美と時間をともに出来ない。

 その未練が、何よりも辰巳を揺るがせた。

『この計画が本店の上層に露見しない限り、私の手駒だけでも問題なく遂行出来る。辰巳、お前は手を引け』

 これまでにも何度か似たような打診をされて来た。都度、笑って聞き流していたが、まだ確定しない『その日』だったことが、辰巳に彼の打診を軽く受け止めさせていたに過ぎなかった。返す言葉は決まっているのに、それが喉から出て来ない。彼の言葉を軽んじていたこれまでの自分を思い知らされた。

『辰巳、情報の分析までで充分だ。――加乃君の願いの為にも、それ以降のことにお前は関わるな』

 加乃の、願い――克美に普通の暮らしをという、自分とは無縁の世界を願っていた。

 願い。高木のその一言が、辰巳のつかえていた言葉を紡がせた。

「高木さん。加乃の願いだからこそ、俺がやらなきゃ駄目でしょう? 俺が傍にいる限り、あいつに普通の暮らしはない。親父がしつこいことくらい、あなたも知っているでしょうに」

 言いながら瞳を閉じる。まずは視覚から、離れがたい今を断ち切った。

 瞼の裏に蘇るのは、失って来た大切な人達の縋るような託す瞳。


『逃げなさい』

 最期まで微笑を崩さず母が言う。そうなった諸悪の根源に対する恨みと憎悪が再燃した。

『お前がいずれ継ぐのなら、組の捨て石になるのも悪くない』

 海藤に嵌められた赤木の遺した言葉が、辰巳の表情に翳りを落とした。

『なんでアタシがこんな目に遭わなきゃなんないのよ』

 辰巳に怯まず、正論で糾弾の言葉を吐き出す貴美子の声が迷いを引き裂く。罪の意識が辰巳にこうべを垂れさせた。

『克也に普通の暮らしを、お願いね』

 息絶え絶えに加乃が言う。信じる瞳が閉じていく。かつてその血で染めた手を、血が滲むほど握りしめた。

『よっちゃんは俺にとって唯一の家族だったんだ。あとを、頼んます』

 身代わりとなった市原が、泣きじゃくりながら訴える。自分が「海藤辰巳」の名を捨て、今は死んでいるのだという事実を、その記憶が思い出させた。


 固く閉じた瞳を開く。目の前に平和で平凡な日常を見ても、もう揺らがない辰巳がそこにいた。

「ばれなければ、なんてリスクは要らない。不確定要素があったら意味がない。俺がやらなきゃ、この十六年が無駄になる。それじゃあこれまで犠牲になった仏さん達が浮かばれない。――ぬるいぞ、高木」

 高木に苦言を呈する形で自分をも同時に追い込んだ。

『……解った。今から本店諜報部のセキュリティを解除する。三十分だ』

 長い沈黙のあと、高木がゴーサインを告げた。

了解ラジャー

 さいは、投げられた。

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