第十九章 帰って来た天使 2
辰巳は翠を自宅アパートへ案内した。ここなら克美に店を任せている限り、確実に彼女が立ち寄らない。もし彼女が自分の行動を不審に思ったとしても、まずここを思いつくはずのない、盲点とも言える場所だと判断した。
リビングを兼ねたダイニングへ翠を促し、辰巳は彼女の好きだったウィンナコーヒーをキッチンで作り始めた。
「アタシの好きだったメニュー、覚えていてくれたんですね」
コーヒーの芳香に引き寄せられてソファからカウンター越しにこちらを覗き込んでそう語る表情は、昔の面影を残す少女そのものだ。
「チーズケーキをご馳走出来ないのが残念だけど」
辰巳は知らず九年前の心境に戻り、心から残念に思ったことをそのまま翠に伝えた。
「あ、辰巳さんたら。そんなことを言うから思い出しちゃったじゃないですか。食べたくなっちゃった」
「あは、ごめんねえ。克美の試作品でよければアップルパイを食べてみる?」
「うわ、食べるっ。いただきますっ」
「相変わらず新しい物好きだね」
「うふふ。それにしても、すごい。克美ちゃん、辰巳さんがキッチンを安心して任せられるくらい、いろいろ出来るようになっているんですね」
「おっさんはそろそろ隠居です。一日立っていると夕方には腰が痛くって」
「やだ、辰巳さんにはそんな台詞、似合わない」
「そう言ってくれるのは、今じゃあ翠ちゃんくらいしかいないんじゃないかなあ」
「またそんな」
「はい、お待たせ。カウンターでいいの?」
「わ、生クリームがたっぷり。おいしそう。ここでいただきます」
そんな他愛のない世間話をしていると、つい錯覚を起こしてしまう。
「おいしい。やっぱり辰巳さんの淹れるコーヒーが、アタシの原点だわ」
ほんのりと頬を桜色に染めて呟く心からの賛辞を聞けば、既に赦されていると思ってしまう。赦されているというよりも、翠への仕打ちが事実ではなく、過去に犯した自分の罪が見せた悪夢に過ぎなかったのではないかと勘違いしたくなってしまう。
「こんな風に癒してくれるものを作れる優しい手をしているのに」
彼女が不意にその一言を絞り出すように呟いた。はっとして彼女の顔を見れば、あどけなさを残した笑顔が一変していた。
「どうして、同じその手で兄さんを殺したんですか。頼んだのは、兄さんじゃなくてアタシだったはずなのに」
彼女の手にしたコーヒーカップが、ガチャリと大きな音を立てた。
「アタシさえいなければ、家は普通の家族でいられたんです。だからアタシを、と言ったのに……どうして隆明先輩を巻き込んでまで、兄さんのこと、あんな酷い殺し方をしたんですかっ!」
ガタン、とフローリングが悲鳴を上げた。それが辰巳の奥歯を噛み締める音を掻き消した。辰巳は逸らしたくて仕方のない視線を無理やり彼女へ注ぎ続けた。椅子を押し倒して立ち上がった翠が、大粒の涙を零しながらキッチンへ回り込んで来る。
「兄さんは愛し方を知らなかっただけ。アタシさえ我慢すれば、アタシが兄さんの望みを叶え続けていけば、いつかきっと解ってくれたはずなのに……っ。どうしてアタシから家族を奪ったの!」
翠は辰巳の胸倉を掴んでダイニングへ引きずり出した。辰巳はただ黙って翠のするがままに任せ、彼女が吐き出し切るのをひたすらに待った。
「返してっ! 兄さんを、父さんを母さんをアタシの家族を、全部元どおりにして、返してっ! こんな形、望んでなんかいなかった! 綺麗だった頃のアタシを返してっ! でなきゃ克美ちゃんと昔みたいに笑ってなんか会えないじゃないのっ!」
胸が、痛い。それは彼女が手加減もなく何度も拳で叩く所為だからというだけでなく。
「返してよ」
繰り返す言葉が辰巳の眉間に深い皺を寄せさせる。
「克美ちゃんにだけ時を止めさせて、なんて……アタシ、こんな嫌な自分になんかなりたくなかった」
震える声が克美への思いを告げるたびに、己の犯した罪を何度も辰巳に自覚させた。
「知ってた癖に……調べたのなら、兄さんがアタシよりも、父さんや母さんに疎まれていたこと……なのに、どうして……殺したの……?」
その言葉はまた力を失い、呟くような小声になっていた。辰巳の線を辿るように、ずるずると彼女がくずおれていく。
「訊きたかったのに……兄さんに……。辰巳さんの所為よ。もう二度と訊くことも出来ない……」
――でないと、穂高を傷つけたまま、アタシ、どんどん醜くなる。
翠は胸元に光る翠玉のヘッドを縋るように握り締めた。嗚咽に代わって繰り返すのは、彼女の今一番大切な人の名。「ごめんなさい」と彼の名を独り言のように繰り返す彼女の前に、辰巳も膝を折って震える肩に手を添えた。
「煌輝に、何を訊きたかったの」
触れた彼女の肩は、辰巳への恐れを伝えて来なかった。それにそっと安堵の溜息を漏らす。迂闊に吐き出してしまった溜息が強いアクセントとなって、彼女に「何を」という言葉を印象づけた。
「……兄さんの恋は、いつ終わるの……って……」
「どうして?」
彼女のエメラルドを包む両手の指先が、きゅ、と握られ、桜貝色の爪が真っ白に色を変えた。
「兄さんの……『女として好きだった』という言葉が、アタシに、恋を赦して、くれない、の……」
それに聞かせまいとするように、ネックレスのヘッドを握っていた両の拳が彼女の顔を庇うようにすっぽりと素顔を覆って言葉をくぐもらせる。
(死んでもまだ翠ちゃんを縛り続けているのか)
腹の奥底で、ざわりとしたどす黒い炎が生まれたのを久方振りに感じた。煌輝や牧瀬に抱いた感情が、既に故人となっているにも関わらず、あの時と変わらない強さで辰巳の中に渦巻いた。
「キミに一つだけ謝罪しておきたいことがある。あの時、キミの中に加乃を見た……煌輝と、俺の親父が重なった。キミをキミ自身として見れなかったことは、申し訳なかったと思っている。でも、煌輝に対するすべての対応については、俺は一つも間違っていないと今でも思っている」
「どういう、意味ですか」
翠はおずおずと顔を上げて辰巳に語ることを赦す素振りを見せた。彼女の手が再びエメラルドのヘッドに触れ、縋るようにそれをきゅっと握り締めた。
(この子の知りたいと思えるだけの気丈さと、貴美子の言葉を信じよう)
彼女には話してももう大丈夫、そして話しておくべきことだと思った。後々克美を支えてもらう為に。
「加乃が事故死したというのは、嘘。本当は、俺の親父に嵌められて、克美の目の前で、死んだ」
彼女の顔が能面のような白さに変わる。今まで見せたことのない色を浮かべ出す。
「親なのに、息子の大事な人を、という、こと、ですか」
「血の繋がりなんて、その程度のものだ。信頼や愛情がなければ――血だけでは家族だなんて言えない、とは思わないか」
死を持って贖ってもらう。それは煌輝と同時に、海藤周一郎へ向けた言葉でもある、と彼女に告げた。
「煌輝は親父と同じ種類の生き物だった。奴らは中身が人間じゃない。だから俺は、今でもそれについてはキミにまったく謝罪する気が、ない」
「アタシから答えを奪っただけじゃ、なかったのね」
消えそうな声が、次第に力を増していく。震えているのは、彼女の中で新たに芽生えた感情からだと痛感させる。
「克美ちゃんのお姉さんまで、あなたなんかに関わった所為で……」
――あなたが、憎いわ。
常に自分へ向けていたその感情を、彼女が初めて他者に向けた。自分に向けられたその一言に、辰巳は心の闇を照らす一筋の光に宿る温もりを感じた。
「憎んだらいい。そしてその分、キミはもっと自分自身を愛してやるべきだと思う。本当は、誰のことも憎めない、優しい子だから、キミは。でも、その前に」
辰巳は彼女から離れ、リビングテーブルの下に隠しておいたファイルを取り出した。
「今のキミの目で、事実を確認してみる気力は残ってる?」
手にしたのは、『× mie』と表紙に記されたファイルだった。
克美の好きなホンジュラスを、二杯目のコーヒーに選んで淹れた。
「そんな……でも」
翠の目に、辰巳は見えていない。ソファに埋もれるように深く腰掛け、何度も繰っては戻るを繰り返しながら、穴が開くのではないかと思うほどファイルの資料をつぶさに読み漁っていた。
「自分の記憶として、思い出せた?」
彼女の前に淹れたてのコーヒーを置き、テーブルを挟んだ向かいへ自分も腰掛ける。
「子供の頃はキミの方が成長が早くて、煌輝と双子の兄弟みたいに言われていたこと」
保阪隆明を始めとした、煌輝に関わったすべての人間から洗い出した情報を、そのファイルにすべて綴り足してあった。
「……兄さんに、殴られた。『お前、髪伸ばせよ』って。そしたら父さんや母さんは、自分とアタシをちゃんと区別して見てくれるから、って。そうしたら比べられなくて済むって。隆明先輩が、アタシを殴る兄さんを止めてくれたんだけど」
ファイルを握る手が震えていた。告白の声は上ずっていた。
「そしたら今度はそれを知った父さんが兄さんをぶって……『兄さんの癖にお前は』って……どうして? 兄さんだって、父さんや母さんには優しかったのに」
一緒に登山をすれば、自分は一人勝手に山を駆け登ってしまっていた。兄はそんな自分と違って、息を上げる母の背を押してあげる人だったのにと彼女は言う。
「それは、本当に煌輝だった?」
辰巳はそう問いながら、次のページをめくった。そこに写っているのは、保阪一家と来栖一家とで燕岳に登った時の記念写真。双方の両親の前に並ぶ三人の、誰が誰なのかを翠に問い掛けた。
「隆明クンは当然一目で彼だと判るよね。じゃあ、真ん中の笑顔で写っている子と、右端のつまらなそうに顔を背けている子、どっちが翠ちゃんで、煌輝だと思う?」
彼女の顔が、くしゃりと崩れていく。ファイルを握る指先が資料に食い込み、そのページの端をわずかに引き千切った。
「嘘よ……兄さんは、アタシにも昔は、やさし、かっ……」
「キミ達は、煌輝がご両親に叱られる度に隆明クンの家の庭へ忍び込んでいたそうだね。隆明クンが気づいた時には止めてくれて、その度に煌輝と喧嘩をしていたらしいね。何をされていたのか、覚えてる?」
彼女は震える手をファイルから放し、自分の右掌を恐る恐る見つめた。
「怪我をして、血を流して……痛いだろうって……舐めて、くれた。ツバって消毒になるんだ、って」
彼女の左手がネックレスを更に強く握った。力一杯握り締められたその強さに耐え切れず、チェーンがプツリと小さな音を立てて千切れた。
「その怪我は、どうして出来たんだい?」
彼女は、答えない。広げた右手が、エメラルドを握る左手を潰す勢いで握り締める。それを口許に寄せて固く目を閉じた。そして何かを呟いた途端、彼女の瞳から幾筋もの涙が零れ出た。
「嘘よ……兄さんは……本当は優しくて、アタシを守ってくれてて……」
「煌輝しか常に傍にいてくれなかったからね。煌輝に憎まれてしまったら、キミの傍にいてくれる家族がいなくなってしまう」
一メートルはあろうこの距離からでも、彼女の短く浅い、荒れた息遣いが辰巳の鼓膜を痛く揺さぶる。
「嘘よ、違うわ……兄さんはそんな人じゃ……ないっ」
憤りに満ちた瞳で翠がまっすぐ見据えて叫んだ。辰巳はそれを受け流し、テーブルに放り出されたファイルに貼り付けた茶封筒から、必要な資料を抜き取って彼女の前に置いた。
「これ、松本市内にある違法のアダルトビデオ販売店の売買商品一覧。一部を抜き取ってコピーしたものだけど、改ざんはしていない。日付と名前を見てごらん」
蛍光ペンで目立たせている日付とその名を見て、彼女が更に苦悶の表情をかたどった。
「ま、きせ……」
「そう。煌輝の年齢ではショップも警戒して買い取ってくれないからね。それは牧瀬の親父さんの名だけれど、恐らく潤を通じて煌輝自身が売っていたんだろう。全部回収したよ。顔は映っていなかったけれど、背中に入れられていた煙草の焼き跡の文字が特徴を示していた。あの日倒れていたキミの背を見た瞬間、映像に映っていた子がキミだと初めて判った」
ぐらりと彼女の身が傾いた。咄嗟に彼女の傍らへ近づき、辰巳は華奢な彼女の身を支えて名を呼んだ。
「翠ちゃん」
彼女が握り締めたままのエメラルドをぐっと掴む。その硬い感触が、彼女の遠のき掛けた意識を取り戻させたのか、閉じかけた瞼がしっかりと開いた。
「あ……」
「もう、やめておく?」
彼女が怯える前に、距離を置く。蒼ざめた顔は変わらないものの、何かが彼女の中で切り替わったらしく、憎悪とも恐怖とも異なる視線が物怖じすることもなく辰巳に注がれた。
「大丈夫。そう約束したもの」
それは辰巳に対して語っているというよりも、自分を通した誰かに対して告げているような遠い目をして告げられた。
「最後の買い取り日が二月、ということは」
「そう。牧瀬との件を隠し撮りしていただけじゃなくて、それ以降も、ってこと」
「……う、そ……だったんだ……」
丸く光る珠が、彼女の瞳からはたはたと落ちる。苦しげに眉根を寄せるのに、口許が笑っている。
「……なんだ……兄さんは、アタシを……」
「どんな病の持ち主も、受診して診断を受けていなければ、世間はその人物を健常者と見做す。例え煌輝のようなサイコな奴であったとしてもね」
知り合いのもぐりの精神科医師に資料を見せたことも彼女に伝えた。カウンセリングをしていない上に故人なので断言は出来ないものの、環境や生い立ちとは無関係に、来栖煌輝は何らかの人格障害を患っていたであろうという診断が出たことも言い添えた。彼に近しい人間が、彼から受ける言動の影響から心を病んでいる可能性があると知らされたことも。
「その藪医者が言っていた。憎悪というのは、自分で意図しさえしなければ、せいぜいもって一ヶ月だそうだ。憎しみを感じるのは悪いことではない、それを維持することが悪いのだ、と。それを悪と見做す人に限って、自分を自滅へ追い込んでいく、そういうものらしいね。翠ちゃん」
少しだけ、ためらう。本当に彼女は壊れてしまわないだろうか、という不安が辰巳を一瞬だけ黙らせた。だが、もう選択肢はこの手にない。
「キミが本当に憎んでいるのは、キミ自身でもなく、俺でもなく、本当は」
辰巳はそこで、言葉を切った。きっと彼女はもう、答えが見えている。彼女の浮かべるゆがんだ微笑が、辰巳にそう思わせた。
「キミの欲しかった煌輝からの答えは、見つかったかな」
お守りのように小さな緑を握り締めて丸まった彼女の背中を、そっと言葉で前へと押した。縋る想いで握り続けるそれは、安西穂高から贈られたものだろう。すべての膿をここで吐き出させ、素直な笑みを浮かべることの出来る彼女にしてから彼の許へ返してやりたかった。
「……ふふ……ばっかみたい……アタシ……バカじゃないの、アタシ……」
声を上げて、狂ったように笑う。がさつな声で、きゃははと笑う。克美の零す明るい笑いと違う、暗く澱んだ嘲る笑いがリビングに響く。
「……最低」
笑いがピタリとやんだかと思うと、彼女は虚ろな瞳でポツリと呟いた。
「最低。最低サイテイ、最低っ!!」
資料を仇とばかりに真っ二つに裂き、ビリビリと引き千切る。乱れた髪は、辰巳の目にある種の狂気を感じさせた。
「なんだったの、アタシの二十四年! 大ッ嫌いっ! 大ッ嫌い!! あんたなんか、大ッ嫌いっっっ! アタシの中から消えちゃってよっ!」
床に落ちた写真を踏みつける彼女は、それでも飽き足らず、可能な限り破り千切った。
「うああああああああっっっ!!」
頭を抱えてうずくまる。身内の裏切りにのた打ち回る彼女を、もうそれ以上黙って見ていることが出来なかった。自分の長い髪を掻きむしる彼女の両手を、半ば無理やり引き剥がした。ブツリと鈍い音が立ち、彼女の手に大量の髪が絡まり、床に落ちた。
「……ごめんね」
全身を強張らせる彼女を懐に収め、辰巳は口惜しげに呟いた。
「こればっかりは、代わって受け止めてあげることが出来ないから」
天使に心からの懺悔をする。長い時間悔やんで来た罪を言の葉にのせた。
「どうキミを守ればいいのか、解らなかったんだ。煌輝のほかにキミが支えにしている存在を見つけらなくて」
翠が壊れたら、克美までが一緒に壊れてしまう。それを恐れて、事実を克美にも隠した。
「あの頃、キミの気持ちを解っていたのに、応えることが出来なくて……キミに対して最後まで支える覚悟を持てなくて、本当に……すまなかった」
奥歯を噛み締めて感情を押し殺せば、鉄の味が口の中いっぱいに広がっていく。
「穂高……ごめんなさい、あんな人なんかの為に……いっぱい、いっぱい傷つけ……ごめ、ん……ほた……」
うわ言のように想い人へ謝罪する。シャツ越しに立てられた爪が、辰巳の背に傷を残して痛みをいや増させた。彼女が決してその手から放さない、鎖がちぎれたネックレスのヘッドが辰巳の背中に食い込んだ。