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第十九章 帰って来た天使 1

 ――あなたが、憎いわ。

 ――憎んだらいい。そしてその分、キミはもっと自分自身を愛してやるべきだと思う。本当は、誰のことも憎めない、優しい子だから、キミは――。




 クリスマス・イブの昼下がり。ようやく繁忙タイムがピークから下降線を辿り始めた頃、滅多に鳴らない喫茶『Canon』の電話がコールを告げた。克美はホールの接客で手一杯だ。

「あ、ちょっとゴメンね。電話」

「克美、いいよ。俺が出る」

 以前からこの日はこんな中途半端な時間に電話が鳴る。テイクアウトがメインのライバル店、マッターホルンがケーキ不足に困ってこちらへチーズケーキを分けて欲しいと泣きついて来るからだ。今年もそれだとばかり思い、辰巳はなんの心の準備もないまま電話を取った。

「はーい、Canon」

『ご無沙汰、アタシ。今話せるかしら』

「!」

 電話の主は、九年振りに聞く懐かしい声でそれだけ言った。辰巳は予定外の相手に言葉を失い、慌てて子機を携えたまま事務所へ逃げた。

「貴美子? どうした、店へ掛けるなんて初めてじゃん」

『確実に今すぐあんたを掴まえたかったの。高木さんからこっちの案件を今は抱えていないと確認したから店にいるだろうと思って』

 目の前には、あの来栖翠がいるという。

『くぅがあんたに会いたいそうよ。仕事が終わり次第、向かわせて構わないわね?』

 有無を言わせぬ強い口調と裏腹に、声が幾らか震えていた。辰巳はわずかなその差から、彼女の揺らぎを垣間見た。「くぅ」と親しげに呼ぶ貴美子の声は、翠に対する契約以上の情を感じさせた。

 この九年間、高木からの報告でおよそのことは聞いている。今の翠は独り暮らしをしているが、頼もしい反面寂しいものだと彼は零していた。そんな報告から翠の再起を感じてはいたものの、この打診を想定できるほどの予兆は感じたことがなかった。

「……そっか」

 考えてみれば、克美がもうすぐ二十六になるのだから、翠ももう二十四歳の大人に成長していて当然だ。あの事件で受けた傷を癒すのに、充分な時間が過ぎたと言ってもいいだろう。

『即レスちょうだい。この子の決心が鈍らない内に』

 たたみ掛ける貴美子の言葉が、辰巳の動揺を言外に諌めた。

「随分急だな。年末だけど、足は確保出来てるの?」

『夜行バスのキャンセルが最終までに一席くらい出るでしょ。そっちの都合はどうよ』

「携帯へ連絡をくれれば、いつでも迎えに行ける。彼女に今の番号を伝えておいて」

 それだけ言って、こちらから通話を切った。途端吐き出された呼気の多さで、自分が浅い息遣いになっていたのを初めて知った。

「……とうとう、来たか」

 克美に動揺を覚られてはまずい。咥えた煙草に火をともす。気持ちを手早く切り替えようと、深く長く吸い込んだ。

 その一本を吸い終えない内に、店ではなく辰巳の携帯電話が着信を告げた。ディスプレイに「貴美子」の文字を見とめると、通話ボタンを押すのに少しだけ勇気が要った。

「どうした?」

 少しでも彼女に本音が漏れれば、『計画』を知る彼女のことだだから、止める為ならなりふり構わず動いてしまうに違いない。彼女にも気取られるなと自分へ諭す。用件が予測出来ないが為に過剰なくらいに無機質な声で電話を取った。

『ん、大したことじゃないけど、あの子の前では話しづらかったから』

 あの子はもう大丈夫よ、と彼女が言う。その声がどことなく面映い雰囲気を漂わせていた。

「何、歯切れ悪いなんて、貴美子らしくないじゃん」

 その奇妙な、それでもやんわりとした雰囲気に、少しだけ警戒心が溶かされる。問い掛けた言葉は辰巳の意図とは関係なく、少し茶化した軽い口振りに戻っていた。

『渡部穂高、覚えてる?』

 どこか聞き覚えのあるその名前を、自分の記憶からソートした。

「渡部、穂高、ほたか……って!」

 うっかり大きな声を出してしまい、慌てて口をつぐむ。店へ繋がる扉を恐る恐る窺ったが、幸い克美に気取られることはなかったようだ。辰巳は店との間を仕切る扉から最も離れた場所へ移動し、携帯電話を更に口許へ寄せて小声で貴美子に吐き出した。

「二、三年前に翠ちゃんが行方不明になった時の元凶だったっていうはた迷惑なクソガキ!」

『えらい言われようね。まあ、正解』

 かなりマイナスな人物像が辰巳の中で蘇る。当時、いきなり高木から彼女を何らかの形で確保しろ、という無茶を言われた。立場上、翠と鉢合わせをしない配慮が必須だった。その上で確保とは矛盾もいいところだと思ったのは当時も今も変わらない。結局その件は、辰巳が上高地まで無駄足を食らって終わった。元凶だったとあとで聞かされた渡部穂高に対し、辰巳はその後調べた彼の素性も合わせ考えても、いい印象をまったく持てなかった。

 渡部穂高。翠の同僚とかいう、渡部薬品の御曹司。あの時は渡部薬品の相続問題がマスコミを騒がせ、渡部穂高の過去についても面白おかしく書かれていた。

「その子って、傷害事件も起こしたことのある子だろう? キレたら何するか解らない、っていう話じゃん」

『あんたがそれを批判がましく言っちゃう訳?』

「う……」

 大丈夫、と苦笑混じりで貴美子が言う。その声には、彼に対する信頼が色濃く滲んでいた。

『くぅが穂高を変えちゃった。くぅを変えてくれたのもね、穂高なの』

 また彼女の声が苦笑混じりでくぐもってしまう。滑舌悪く、妙に言葉を区切りながら。

「えーっと、それってつまり」

『あの子ね、あんたとのけじめをつけてから穂高のプロポーズに応えたい、って言ってた。克美が時間を止めたままなのに、自分だけ先になんて進めない、って』

「そ……う、なんだ……」

 二つの矛盾した想いで混乱する。彼女が今でも克美を見放さずにいてくれたことに喜びを感じる反面、スイッチの稼動を確信したことで、暗闇が足許でぽっかりと穴を空けて自分を待ち受けている感覚に襲われた。

『あんたもくぅも克美も、みんな揃って不器用ね。穂高もそれが歯痒いみたいだけど、あの子の気持ちを汲み取って、じっと我慢をしているわ。そりゃもう可哀想なくらいに』

『何それ』

『くぅの本音は解ってるから、あの子。渡部のゴタゴタに巻き込ませたくなくて、祖母方の里の親族と養子縁組したの。今では安西穂高として独立してこっちで暮らしてる。くぅと一緒にね。くぅが籍を入れさせないって苛々してるのよ。どっちが男で女なんだか』

 最初に渡部――安西穂高の話を貴美子から聞いた当時は、不安定で頼りなさげな男という印象だった。だが今の彼は、精神面でも職場の同期としても、献身的に翠を支えているらしい。

『だから、くぅのことはもう大丈夫。それより』

 くすくすと笑い声を交えていた声のトーンが、落ちた。重さを感じる長い間が、必然的に辰巳をも黙らせた。

『このケリがついたらやっぱり、行くの?』

 やはりそう問うて来る。声のトーンは九年前と変わらず引き止める音色で、それが鈍りがちな辰巳の決意に刃を立てた。

「……そうだな」

 どちらとも受け取れる曖昧な返事で答えを濁す。

『あんた、アタシの借り分をふっかけ過ぎよ。事が済んだら逆請求に行くから、必ず生きて帰りなさい』

 語気を荒げた彼女の声が、却って辰巳の迷いを拭ってくれた。貴美子が自分と関わる限り、彼女は傷つき続けるだろう。自分という存在自体が彼女を傷つける凶器になる。それは自分の本意ではない。

「ま、もし無理だった場合は克美に請求しておいて」

 紡ぐ自分の声がいつもどおりの軽い口調であれたことに、心の奥底でほっとする。

『ちょ、辰巳待ちなさ』

「ごめんね、貴美子。クリスマスプレゼントをありがとうさん」

 彼女の言葉は最後まで聞かず、携帯電話をぱたりと閉じた。これで彼女を解放出来る。少なくても危険の元凶である自分からは。

 辰巳は再び携帯電話を開き、アドレス帳のシークレットから一つの番号を引き出した。それをコールし、数秒後。

『高木だ』

「ども。辰巳っす」

 彼にしては長い間のあと、簡潔明瞭な応答が返って来た。

『午前中に、貴美子君から翠君の近況を聞いた。その件であれば話を聞こう』

 残りわずかだった煙草が灰と化し、辰巳の咥えていたフィルターからぽとりと落ちた。

「計画再始動です。明日の午後には動けると思いますけど」

 燻らせた紫煙が慰めるように、辰巳の周囲を漂った。




 翌朝、幸いなことにホワイト・クリスマスにはならなかった。

 忍び足で廊下を歩き、物音を立てずに靴を履く。まずはそっと玄関の扉を開ける。あとは一声掛けさえすれば、速攻でここを出て行ける。克美が理由を問い質すべく自室から顔を出す前に、辰巳は逃げ道の確保を整えた。

「克美、悪い。ちょいと野暮用が出来た。店の方、よろしくっ」

 辰巳は玄関口からそれだけ叫ぶと、猛ダッシュでアパートを飛び出した。

「何ぃ!? ふざけん」

 バタン。玄関の扉は辰巳の味方をしたようだ。辰巳に代わって彼女へそんな返事をしてくれた。


 駅前通の脇にランドクルーザーを停車させ、車を降りて煙草を燻らす。昨夜未明に携帯電話へ届いたメールをなんとなく読み返した。

『松本に着きましたが、体調と気力を整える時間をください。夜は辰巳さんも困るでしょう? あなたときちんと向き合える自分になれたと確信出来るまでは、克美ちゃんと会えません。明日七時ごろには駅へ着くようにしますので、宜しくお願いします』

 辰巳の立場を配慮する余裕が垣間見られる文面だった。そして、ケリをつけるという強い意思表示を告げる言葉。彼女がこれをどんな想いで打ち込んだのかが、自筆ではないただのフォントにも関わらず棘のように辰巳の胸を刺す。克美とよく似たきつい目に憤りをこめて睨む、制服姿の幼い翠が鮮明に浮かんだ。

 画面が強制的に切り替えられ、着信の知らせを表示した。そこには未登録の番号が表示されていた。

「はい、海藤です」

 ほんの少しの間を空けて、毅然とした声が名を告げた。

『ご無沙汰してます。来栖翠です』

 あの頃よりも少し低くて張りのある、アルトの声。大人の女性を思わせるその声が、彼女の成長を示していた。

「駅前通で車から降りて待っているから、すぐ見つけられると思うよ」

 そう告げるのに、少しだけ時間が掛かった。

「覚えてる?」

『忘れたくても忘れられません』

 剣呑な彼女の表情が鮮明に辰巳の脳裏に浮かぶ。顔を上げて、特に意味もなく横断歩道に視線を遣ると、脳内に浮かんだそれが視覚の捉えたそれと重なった。

「辰巳さん、どうしてそんな」

 赤くともる横断歩道の向こう側で、そう声を荒げる彼女がいた。もう、携帯電話は不要になった。彼女が一瞬視線を上げる。その視線から逃げたつもりはない、と、思う。辰巳は自分へそんな言い訳をしながら彼女から視線を外し、手にしていた携帯電話をブルゾンのポケットへしまい込んだ。

 辰巳の心の準備を待ちかねていたかのように、信号が青に変わった。ダークグリーンのスーツをまとった女性がカツンと靴音を響かせる。それが近づいて来るのを、目を閉じ、紫煙を燻らせたまま静かに待った。

「忘れられません、か。……当然だな」

 九年前の映像が蘇る。あの時自分が犯したことを、決して覚えていないわけではない。心身膠着ではなかったのだから。悔やんでも悔やみ切れないことに対する自嘲が、苦笑となって零れ出た。

 カツン、カツン、と響く音が、次第にカツカツと軽快なリズムになって近づいて来る。閉じた瞳を再び開くその一瞬だけ、自然と眉根をひそめてしまう自分がいた。

「お待たせしました」

 その声に顔を上げた途端、息を呑んだ。一瞬貴美子と見間違うほど垢抜けた彼女が目の前に立っていた。

「驚いたね。美人になったじゃん」

 間近で見る翠の瞳に、当時の絶望的な澱みはない。凛と佇む彼女は、精悍な顔つきで怯むことなく辰巳を直視した。

「今日は無精ひげに伊達眼鏡じゃあないんですね」

 そう言ってぎこちなく微笑む彼女に苦笑を返す。

「用があるのは“こっち”の俺なんでしょう?」

 辰巳はそう答えながら、彼女を助手席へ促した。

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