第十八章 克美の秘密の胸の内
――加乃姉さん、ごめんなさい。ボクは……。
「ほい、手紙」
辰巳が店宛に来た請求書の束からそれを引き抜いて克美に手渡した。
「やらしいねえ、いかにも内緒話、って感じで」
辰巳が心底蔑む目をして、皮肉な一言を零すのだが。
「わぉ、マナからだっ。さんきゅー」
克美はそれを華麗にスルーし、懐かしい丸文字を見たと同時に送り主を一発で言い当てた。
「今どきレトロだね、封書なんて。メールの方が早いのに」
「冗談っ。お前に盗み読みされた挙句に内容を改ざんされたら、全然メールの意味なくなるし」
「どんだけ信用ないんだ、俺って……」
子供のようにしょげる辰巳の背中を軽く二度ほど撫でてやる。
「冗談だよ。事務所で読んでていい?」
「どうぞ。お客が来たらよろしく」
と返して来る、ずり落ちた伊達眼鏡の向こうで細められた涼しげな目と目が合ってしまう。克美は慌てて目を逸らし、小走りで身を引き事務所の扉に手を掛けた。ふと一度だけ振り返ると、そこには請求書を開けて溜息をつく、物憂げな横顔の辰巳がいた。
「……ごめんね」
「何が?」
「赤字になっちゃったんだろ、先月分」
自分が熱を出して寝込んだ所為で、先月は四日も店を閉めた。それゆえの憂い顔ではないかと思い、謝罪の言葉が罪悪感でくぐもった。
「裏より表の経営の方が下手、っていう自分がヤんなっちゃっただけッス」
と作り笑顔を向けられてしまうと、こちらも気にしない振りをするしかなかった。
「下手なら今ごろ潰れてるだろ。午前中は相変わらず閑古鳥なんだから」
「そだな。落ち込んでてもしゃあないか」
「そうそう。んじゃ、何かあったら呼んでね」
「らじゃ」
ぱたんと事務所の扉を閉めると、深い溜息が勝手に漏れた。
辰巳にどんな顔をしたらいいのか、まだ全然わからない。だからまともに目も合わせられない。
愛美の婚礼に出席した夜から始まった悪夢が克美にそう思わせた。
辰巳の淹れたコーヒーの香りで空腹を刺激されて、いつもならすぐ起きられるのに。悪夢が続いて数日経ったその日は、身体に力が入らない状態で朝を迎えた。歯がガチガチと小刻みな音を立て、背筋には氷が張りついているかと思うほどの寒さが居座っていた。
医者に掛かれない立場だから、健康管理には人一倍慎重にしているはずなのに。こんなことは温泉街を出てから初めてのことだった。
『とにかく起きなくちゃ。また辰巳に嫌な思いをさせちまう』
高熱がばれたら、辰巳はきっと藪と連絡を取る。見透かすような目で見る、あの温泉街に住むもぐりの老医師を辰巳は敬遠しているのに。保険が利かないから、ものすごい料金を取られるのに。克美はお荷物になるのが嫌で、無理やりベッドから身を起こした。
『うぉ!?』
上半身を起こしただけで、景色が縦から横になる。傾く方向が最悪だった。床に落ちた瞬間、鈍い音と振動が安アパートのフロアを小さく揺らした。
『どうした!?』
リビングまで響いたらしい。辰巳が叫ぶと同時にノックもせずに扉を開けた。
『寝ぼけたのか? ……って、お前さん、体が熱い』
彼に抱き起こされたことで、隠したかったことすべてが伝わってしまった。
『ね、寝起きだからってだけ』
辰巳が克美の言い訳を無視してコツンと自分の額を克美のそれにくっつけた瞬間、心臓が跳ね上がった。そのせいで克美は言葉途中で息を呑んだ。
『嘘つくな。Tシャツも汗でべたべたじゃんか。着替え出すの、怒るなよ』
辰巳はそう言って不意に身を剥がした。
『旅疲れかな。それとも人酔い、って奴かねえ。それにしちゃ出るのがちと遅いか』
間を持たせるようにブツブツと独り呟く“兄の顔”が苦しくて、克美はぽふんと頭から布団を被った。
『ほら、着替え。喉とか腹とか、どっかほかに痛むところはある?』
布団越しから、辰巳が尚も声を掛ける。顔を見てしまうと、耐えられなくなる。辰巳を困らせてしまうだろうとは思ったけれど。
(今は、傍にいて欲しい)
抑えられないその想いが、克美に甘えた言葉を紡がせた。
『……ない、けど……寒い……』
そう言って目から上だけを覗かせると、辰巳は一瞬声を詰まらせた。
『……なんて顔してんの。息苦しいの?』
ようやく発せられた彼の言葉に黙ってこくりと頷いた。心の中で謝りながらも、やはり彼の困ったその表情が哀しかった。
『藪ちゃん、往診してくれるかな』
そう言いながらこの場を立ち去ろうとする辰巳が、自分から逃げるようで哀しかった。
自分が、怖い。そして……姉が、怖い。
今までそんな風に感じたことなど一度もなかった。自分の中のその変化が何よりも怖い。独りになって、また“あの夢”を見ることも。眠るのが怖くて、咄嗟に辰巳のシャツの裾を握っていた。
『独りにしないで……』
辰巳が驚いた顔で見下ろして言う。
『藪ちゃんを呼ぶだけだよ。大丈夫、店を休みにして、ずっと傍にいるから』
『藪じいもいい。だから、お願い……』
息苦しい。声がかすれる。どこも痛くないはずなのに。
(……違う。胸が、痛い)
わがままな自分が、嫌い。我慢出来ない子供みたいな自分が嫌い。自分でさえ嫌いなのに、辰巳には嫌われたくないなんて。
(勝手が過ぎるとは思うけれど)
縋る瞳を辰巳から隠すことができなかった。
『分かったよ。傍にいるから、もう少し寝なさい』
辰巳はシャツの裾を握る克美の手を取り、そのままベッドの脇であぐらを掻いた。少し呆れた、それでも甘えることを許してくれる、そんなくすぐったくなる笑みを浮かべた顔をして。無理をしているのではなく、許してくれる笑顔だったことが、克美の不安を和らげた。声が、もうかすれて出てくれない。克美が『ありがとう』という代わりに精一杯の笑みを浮かべて伝えると、辰巳は握った右手にきゅっと数回力をこめた。それが『届いている』という心の声に感じられ、ようやく瞳を閉じることが出来た。包まれた手に感じる心地よい冷たさと、ずっと傍にいてくれるという安心から、克美はいつしか眠りに堕ちた。
目の前には、自分とそう年の変わらない姿の姉が自分を睨み据えて佇んでいる。
(また“この夢”……)
夢の中で、自分が夢を見ていると解る。夢だと自分に言い聞かせても、粘りつく感覚が克美に夢だと割り切ることを許さなかった。
――克也……あなたは私から、辰巳まで奪うつもりなの?
(違うよ、加乃姉さん。辰巳はボクの兄貴でしょ?)
――嘘。そんなこと、本当は思ってもいない癖に。
そう責める加乃の口角から、ツ、と鮮血が一筋伝い落ちる。
――ずっとあなたを守って来たのに……こんなことなら、辰巳にあなたを頼まなければよかった。
姉の全身が、みるみる鮮血の深紅に染まっていく。
――私は生きて来た殆どが男達に穢される毎日で。やっと幸せになれると思ったのに、こんな醜い姿になって。なのにあなたは、綺麗なまま平和な日常の中で……そうやって、平気な顔をして私の辰巳と生きていけるのね。
酷い。
姉が低くそう唸った。強い憎悪が見えない棘になって、克美の全身を痺れさせた。痛い。けれど、避けられない。姉の言葉はすべて、本当のことだから。
今日は、ここで夢が終わらなかった。
――“克美”。あなたはもう大人よね? だから独りで生きられるでしょう?
姉がゆがんだ微笑を浮かべる。その口許からは深紅の糸が、あとからあとから零れ出す。勝ち誇るように告げられたのは。
――辰巳は私のアダムなの。だから。
アノ人ハ、私ガ連レテ逝クワ。
『うわぁぁぁ――ッッッ!!』
『克美っ』
自分の叫び声で目が覚めた。気づけば息が上がっていた。肩を上下させる自分が辰巳の懐に納まっていると気づいたのは、自分よりも遥かに冷たい辰巳の体温からだった。その冷たさが思い出させる。遠い昔、紅に染まった姉の亡骸に触れた時の、凍えるような冷たさを。
冷えていく――死んでいく――辰巳が、姉さんに連れて“逝”かれる――。
『ボクは……』
『克美?』
『好きで加乃姉さんを死なせた訳じゃないッ』
堪え切れずに叫んでいた。
『好きで女に生まれた訳じゃないし、好きで姉さんの妹に生まれた訳じゃない! ボクは……好きで生まれて来たんじゃない!』
不意に頬から心地よい冷たさを感じるとともに、甘酸っぱい息苦しさで声を封じられた。ひと月振りの“家族のキス”が、克美を夢の世界から現実へ引き戻した。
『加乃もこうしてくれただろう? 二度とそんなことを言うもんじゃない』
辰巳はそれだけ言うと、もう一度小鳥が餌を啄ばむようなキスをした。少し物足りない、儚くて淡い、そっと触れるだけの優しいキス。
辰巳の胸に顔を埋めて涙を隠した。
『ごめん……』
辰巳は、
『熱が言わせただけだよ。あまり気にせず、ゆっくりお休み』
とだけ言い、ずっと髪を撫で続けていた。繰り返し、繰り返し、
『克美の所為じゃない』
と耳許へ囁き続ける。それが克美には、なぜか辰巳が自分自身を責めているように感じられた。
それでもやはり心の中で、克美は謝罪を繰り返す。辰巳は知らない。鈍感だから、気づかない。自分の『ごめん』という言葉の意味が、彼に対する心配を掛けた詫びではなく、彼の恋人だった姉に向けた『横恋慕に対する謝罪』だということを。
(加乃姉さん、ごめんなさい。ボクは……)
辰巳の“妹”なんかではなく。辰巳の“女”になりたかった。
ずっと気持ち悪かった不可解な想い。悪夢を介してその意味に気づいてしまった。
熱は原因不明のまま、三日ほどでひいていった。辰巳が大事を取ってもう一日休んでくれたが、どことなく漂うぎこちなさに居心地の悪い一日を過ごす破目に遭った。結局お客を介して話すことで、互いのぎこちなさを薄めていく形になってしまった。そんなところへ届いたのが、愛美からのこの手紙だった。
辰巳と過ごす気まずい毎日に耐え兼ねた克美は、あれから胸の内を愛美へしたためた。母になる夢を持つ彼女なら、もしかしたら母同様に自分を育ててくれた姉の気持ちを代弁してくれるかも知れないと考えて。人として、女性として、愛美には軽蔑されるかもという覚悟をしつつ、赤裸々な想いを正直に綴った。多分その返事だろう。
ほんの少し震える手が、ペーパーナイフで封を切る。中には一枚の写真が挟まった数枚の便箋。便箋の間から写真を取り出すと、ぽっこりとお腹の目立ち始めた愛美と人懐っこい笑みを零した彼女の夫が写っていた。式場での緊張した顔とはまったく違う彼女の夫が浮かべた幸せそのものといった表情と、式のときには一言も匂わせなかった新しい命の存在が、克美の瞳をより大きく見開かせた。その一枚は自然と克美の口角が上がるほどに温かい。
克美は羨望に目を細めてしばらく写真を見つめていたが、それからソファに腰を落ち着けて手紙を広げた。
――Dear,克美ちゃん
話してくれてありがとう。克美ちゃんの私に対する信頼を伝えてくれている気がして、とっても嬉しかった。そう簡単に縁がちょなんてしてあげないんだから!
だからもう二度と「友達でいられなくなるかも知れないけど」なんて言わないこと。解ったわね!(笑)
人の心は物じゃないのよ。人は誰かの物なんかじゃない。誰にも「こうあるべき」だなんて、人の心を鎖で縛りつける権利はない、と私は思う。
写真を先に見てくれたかな。若いってだけの理由で反対する親に自分達の覚悟と決意を知って欲しくて、先に既成事実を作っちゃった(爆)。
パパや彼のご両親に心配させたのは悪かったと思うけれど、正直なところ、私の自慢の一枚よ。
ねえ、克美ちゃん。お姉さんは自分の生き方を人の所為にする人だった? そんなに小さな器の人だった?
あなたのお姉さんでしょう? あの辰巳さんが大好きだった人でしょう?
私は克美ちゃんのお姉さんを知らないから断言は出来ないけれどね。そんな人ではない、と思うの。
克美ちゃんの言葉を鵜呑みにしていいのであれば、あなたの為に命を賭けた人でしょう。愛してなければ出来ないことよ。あなたを辰巳さんに委ねたことを悔やむような、小さな人ではないはずよ。
思い出してあげて。一緒に過ごして来た時間を。
克美ちゃんが私にずっと聞かせてくれた言葉でしょう?
『加乃姉さんが、世界で一番好きなんだ』
って。
ずっと羨ましかったの。私は一人っ子だから。
お姉さんをそんなに過小評価してたら、天国のお姉さんが怒るわよ(笑)
それと、お節介ながらもう一言。
辰巳さんはね、絶対亡くなったお姉さんの為じゃなく、克美ちゃんの為に生きてるわ。
私の女の直感、舐めたら承知しないんだから(笑)。
克美ちゃんも、辰巳さんとのツーショット写真を送ってね。彼の本音を鑑定してあげる(笑)。
From 愛美――
「マナ……」
彼女の綴る丸文字が、かすんでぼやけて見えなくなる。心が繰り返し愛美の言葉を噛み締める。
『お姉さんはそんな器の小さな人じゃあない』
『思い出して。一緒に過ごして来た時間を』
忘れ掛けていた遠い日々を、克美は久し振りに思い出した。奏でる穏やかなメゾソプラノは、少しだけ鼻に掛かった甘い声。
『克也、大好き。あなたのお陰で私、前を向いて生きていける』
毎日眠る前に、必ずおまじないのように唱えてくれたその言葉。思い返せば縋るような瞳で自分を見つめて哀しげな微笑を浮かべて告げていた。
『克也のお陰で楽しい未来を想像出来るの』
いつしか哀しげな微笑が、明るい笑顔に変わっていた。辰巳が姉だけでなく、自分も家族だと言ってくれたからと、常に克美を最優先に考えてくれる人だった。
『辰巳が私の願いを叶えてくれるわ。克也を大人になるまで守ってくれる』
だから、辰巳の申し出を受け容れたのだ、と。辰巳と姉の間に、自分の居場所は常にあった。
「“克也はね。私のたった一つの宝物”……。“あなたの為なら、なんでも出来る”……加乃、姉さん……ごめんなさい……っ」
はにかむ笑みを、儚い微笑を、淡いキスを思い出す。あんなに伝えてくれたのに、今の今まで忘れていた。
「姉さん……ごめんなさい……生まれて来なきゃよかったなんて……ごめんなさい……っ」
溢れる涙が止まらない。それは罪の意識ではなく、もう届かない人を恋い慕う幼い心が零す涙。
克美は泣きじゃくりながら、姉の言葉を何度も口にした。
「克美ー」
ようやく目の腫れが退いた頃、来客を告げる辰巳のノックが聞こえた。
「りょうかーい、すぐ行くよ」
返す声は曇っていない。そんな自分にほっとした。手紙をポケットへ忍ばせると、写真を片手に事務所を出た。
「辰巳、見てみてっ。マナがらぶらぶ写真を送ってくれた。赤ちゃんも出来たんだって」
カウンター席には前の店からの常連カップルがいて、
「え、愛美ちゃん、結婚したの? 見せて見せて」
と、写真が辰巳ではなく彼らの手に渡ってしまった。
苦笑しながら辰巳へ視線を移す。出来るだけ後ろめたさを封印する。まだ巧く気持ちの整理が出来ないけれど、それがささやかな辰巳への配慮、と自分へ言い聞かせることにした。
(先を越されちゃったね、お互いに)
苦笑を浮かべた辰巳が無音でかたどる。
(だね)
いつもと変わらぬその笑みが、克美にも自然な笑みを零させた。