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第十七章 光る君

 ――自分を光源氏と例えるならば。

 克美を紫の上と例えるならば。

 加乃が藤壺宮であるべきだろう――?




 数日遅れての成人祝い。

「ほい、おめでとうさん。来月は愛美ちゃんの結婚式に呼ばれているでしょう?」

 そんな克美への祝いの品は。

「メイクセット……メイクのしかたなんか知らないぞ。どうやってするんだよ」

 包装を外してそれを見た克美は、怪訝な表情を辰巳に向けた。

「春物のコートの方がよかったな」

 あまり喜んでもらえなかったようだ。

「ま、でもほら。必需品でしょ、これからは」

 そんな言い訳をしながら、不満げな表情を崩さない彼女にメイクを施してやった。

「昔はなんでもしてみたくってさ。これも加乃に教わったんだ」

 敢えて加乃の名を口にする。克美が浮かべる瞳の色に気づかない振りをして、加乃との思い出を語りながら加乃の好んだメイクを克美の面に描いていく。

「克美も加乃に負けないくらい美人だからな。姉さんの一部を分けてあげる」

 わざとはしゃいでそう言った。彼女が自分の立場を思い出して、勘違いに気づいてくれるようにと願いながら。


 高木から連絡があった。

 暴力団員による不当な行為の防止等に関する法律――暴対法――浸透の影響で、辰巳を狙い続けていた籐仁会が解体に追い込まれた。それは即ち海藤組による辰巳の隠蔽が不要になったということでもある。いつ探し出されて帰還命令を下されてもおかしくないと高木は暗に示唆していた。

 同時に、辰巳の影武者となっていた市原雄三の死も知らされた。

『まだこちらは海藤が手配した戸籍でお前を追っているが、今のところ、特に海藤組の動きに変化はない。カモフラージュが成功していると思っていい。奴が市原の戸籍に気づくまで幾らかは時間の余裕があるだろう』

 続いてまたいつものように打診された。

暴力団マルボウは残念ながら既に必要悪だ。中に入って変えていく、という選択肢はやはり無理なのか』

 それを変わらぬ口調で拒否して彼との通話を終えたのが、半年ほど前のことだった。


 早く克美を手放さなくては。自分がいなくても、『Canon』さえあれば独りでも生きていけるように。

 そんな想いも手伝い、一人で依頼をこなすことが急増した。

『なんの仕事だよ。ボクも手伝う。一緒に行く』

 そう食い下がる彼女に店の責任を押しつけ、辰巳は独りその手を赤く染めていた。

 暴対法の影響がこんな田舎にまで波及していた。依頼の大半が高木のそれで占められている今、彼女を連れて行けるような仕事など殆どない。

 克美の縋る瞳を見る度に、いろんな想いを呑み込んだ。


「よし、出来た。どう? 瞳が違うから、加乃を思い出せるところまではいかないけれど」

 無理やり作った克美の笑顔が、辰巳の胸を軋ませた。

「野郎のメイクにしてはまあまあじゃん? さんきゅ。もう覚えたから、今度からは自分でやるよ」

 その後克美が、辰巳の教えた加乃流メイクを施すことは一度もなかった。克美の特徴を示す、大きなきつめの瞳を強調したメイクが彼女の定番メイクとなった。




 辰巳も愛美まなみの披露宴に招待されてはいたが、店を理由に辞退した。ひかるに会えないことや愛美の花嫁姿を見れないのは残念だが、そろそろ潮時だ。下手に関わって彼らまで裏社会に巻き込むことは絶対に避けたかった。

「愛美ちゃんと晃さんによろしく」

「うん。……行って来ます」

 心細そうな顔をして電車に乗り込む克美の元気のなさが気になった。

「どうした?」

「別に。二次会にも呼ばれてるから、先に寝てていいからな」

「了解。でも、一応帰る前に電話を寄越しなさいね」

「へーい」

 北木との一件以来、どうも克美の様子が変だ。愛美に会うことで気分転換になれば、と思いながら辰巳は彼女を見送った。


 思い返してみると、一人で店を開けるのは初めてだ。むしろ克美の方が一人で切り盛りすることに慣れているのかも知れない。ふとした瞬間克美にヘルプを出そうと振り返る自分に気づき、思わず苦笑が漏れる一日だった。

「俺がいない時の克美って、ちゃんと巧くやってるの?」

 カウンター席の客に訊いてみると

「却ってマスターのフォローを当てに出来ない分、随分しっかりして来たよ。その内克美ちゃんに店を乗っ取られちゃうんじゃない?」

 という、なんとも頼もしい答えが返って来た。

「裏稼業、最近そんなに忙しいの? みんな寂しがってるよ」

 落書き帳への返事が溜まっていることも指摘され、曖昧に謝罪することでごまかした。

 頼もしい、けれど寂しいものだ。時は流れ、人も変わる。久し振りに店で過ごすと、そんなことを実感する。いつの間にか見知らぬ顔の客も増えていた。克美と店に立っていた時には気づいていないことだった。




 日付が変わり、待ちくたびれて風呂をもらったところで玄関の鍵がカチャリと音を立てた。慌ててスウェットの上を被る。

(セーフ……)

 以前はそれほど気にならなかったのに、この頃彼女に背中を見られるのが、怖い。正確には、海藤に無理やり施された背の昇り龍に怯えられることを恐れていた。子供の頃と違い、今の克美はこれの意味が解っている。彼女に残す思い出は、すべて笑みを伴うものだけで彩っておきたい。辰巳自身は、その想いから来る後ろめたさが背を隠させていると思っていた。

「お帰り、電話をくれれば迎えに行ったのに。先に風呂もらったぞ」

 克美は返事もせず、ただぼんやりと疲れた顔でこちらを見たまま立ち尽くしていた。タオルで髪を拭きながら、もう一度声を掛けてみる。

「どした?」

 克美ははっとした顔をして、瞳に生気を蘇らせた。

「あ……いや、なんでもない。ただいま」

 ようやくそう言ってパンプスを脱いだ。あまり気分転換にはならなかったのだろうか。それとも知らない人ばかりの会場で、何か嫌なことでもあったのだろうか。辰巳の脳裏にあれこれと想像が駈け巡る。自室の扉をくぐる彼女に取り敢えず

「克美もさっさと入ってしまえよ」

 とだけ声を掛けた。扉の向こうから

「うぃ~っす」

 と気の抜けた声から推察するに、不機嫌という訳ではないらしい。

「ふん……。愚痴でも聞いてやるか」

 つまみと口当たりのよいカクテルでも作ってやろう。少量のアルコールならよい睡眠導入剤になるだろうし。

 そんなことを考えながら、辰巳は棚からブランデーとオレンジ・ビターズを取り出した。




「どうだった?」

「うん、マナ、綺麗だったよ」

 そのあとが続かない。克美にはあり得ないほどのだんまりが、あまり辰巳を酔わせない。無駄にビールの空き缶が増えるのに耐え兼ね、単刀直入に訊いてみた。

「どしたの? ほかの人と喋れなくてつまんなかった、とか」

 克美がそれを聞いた途端、なぜか深い皺を眉間に寄せた。手にしたバレンシアを一気に飲み干す。テーブルに勢いよく音を立ててグラスを置くと、いきなり辰巳を睨みつけて来た。

「別に。ボクもビールもらうよっ」

 吐き捨てるような口調でそれだけ言うと、彼女はグラスを手にキッチンへ行ってしまった。

 辰巳には、彼女が怒り出した理由に皆目見当がつけられない。

「バレンシア、冷蔵庫におかわり作ってあるよ」

 そんな形で彼女の機嫌を取り繕うと

「ビールもらうのっ。こんなのオレンジジュースみたいなもんじゃんかっ」

 と返って来た。

(なるほど。お子さま扱いと解釈したわけか)

 辰巳は克美にばれないように、そっと苦笑を噛み殺した。


 ふと昼に客と交わした会話を思い出す。

『却ってマスターのフォローを当てに出来ない分、随分しっかりして来たよ』

(二十歳、か……)

 潮時、なのだろう。解っているのに動けないのは、翠が克美の許へ戻って来ないから。

 克美は今でも時折うなされる。夢の中で「ごめん」と謝罪を繰り返す。それを解決しない限り、彼女を独りにして行くことは出来ない。

「ただ、それが心配なだけだ」

 呟いた言葉がキッチンで冷蔵庫を漁っている克美に届くことはなかった。




「あ、そうだ。ねえ辰巳。“光る君”って、何さ?」

 リビングに戻った克美からの、唐突なその質問に面食らう。

「光る君?」

 彼女なりに自分の子どもっぽい態度が気恥ずかしくなり、話題を変えようとしたのだろう。少々無理を感じる弾んだ声。彼女の気持ちを汲み取ろうと、敢えてその話に便乗した。

「何、いきなり」

「今日さ、マナに言われたんだよ。『辰巳さんはさしずめ“光る君”ってところね』って。意味不明って言ったら辰巳に訊け、の一点張りでさ」

 克美は少しオーバーな表現で、愛美の口真似をしながらそう答えた。

(光る君……源氏物語の光源氏のことかな)

 言われてみれば克美に古典を詳しく教えたことがなかった。克美の好奇心をそそる丁度よいネタかも知れない。興味を持てば、自分で資料を探して続きの勉強をするだろうと思い、辰巳はさわり程度の説明をした。

「源氏物語という平安時代に書かれた古典文学があってね、その前半四十帖の主人公を指して言っているんじゃないかな。天皇の子として生まれながら、母親の後ろ盾が弱いという理由で源氏という臣民に落とされた光源氏の生涯を綴った物語なんだ。もし興味があるなら、本を買って読んだ方が克美なりの解釈が出来て面白いかも」

「すげ……やっぱ知ってるんだ。なんで“光る君”なの?」

 克美の瞳が明るく瞬き、幼い頃と変わらない好奇心に満ちた表情に変わる。それがなんとも言えない気持ちにさせて、辰巳を饒舌にした。

「光り輝くように美しい源氏、という意味で、そういう呼び名もあったから」

「んじゃさ、“紫の上”っては?」

「紫の上は、光源氏が最も寵愛した奥さんだね。幼い若紫と出逢った光源氏が、彼女の中に彼の恋い慕っている藤壺宮の面影を見て、不遇な彼女を半ば無理やり実父から奪う形で引き取ってしまうんだ。自分の理想の女性に育てる為にね」

「藤壺宮って?」

「源氏の父親の後妻さん。源氏の実母と瓜二つで、若紫の叔母に当たる人でもあったんだ」

「ふーん……」

 古い記憶を呼び起こして説明したから、間違ってる部分があるかも、と言い訳しつつ。話の経緯は解らないが、このところ浮き沈みの激しい克美がこんな顔をしたのは久し振りだ。そのきっかけをくれた愛美に、心の中で礼を述べた。

「なんでまたそんな話になったの?」

 ほかにこれといった他意もなく、ただ楽しげな顔を保ちたくてそう尋ねた。

「なんでだろ? ちょっと近況を話したあと、突然マナが言ったんだ。辰巳は“光る君”で、ボクは“紫の上”みたいなもんなんだ、って。あんまりにも上目線で何度も言うから、なんだかちょっと気になってさ」

「若紫、って?」

「ううん。紫の上、って」

 克美の話にどこか違和感を覚える。愛美の言葉を伝えているにしては、どこか馴染みがない克美による愛美の口真似。

(あ……あの子、俺のことを名前で呼んだことなんか、ない)

 彼女はいつも「かっちゃんのお兄さん」と呼んでいた。上目線の口調、克美にいつもそんな口調で話す時は、大抵あの子の大好きな恋愛話をしている時。

 ――余計なことを。

 愛美の意図したことに気づきもせず、迂闊に突っ込んだ自分に対し心の中で舌打ちをする。気づくな、という願いも虚しく、克美の頬がみるみる薄紅色に染まっていった。

『光源氏が自ら育てた、不遇の少女にして、彼が最も寵愛した聡明な妻』

 辰巳の中で、封じたものがざわつき始める。理性がこの場を凌げと警告する。

「俺の頭の中では中学生の愛美ちゃんのままなのにな。随分おませさんになったんだね」

 そんな言い方をして、わざとそれを笑い飛ばす。辰巳は源氏物語の続きを克美に聞かせた。

「当世一の美男子に例えてくれたのはありがたいけど、俺は光源氏が嫌いなんだよね。彼は結局、藤壺宮の身代わりとして若紫を手篭めにしてしまうんだ。それでも光源氏が求めるのは藤壺宮でしかないから、最後まで紫の上を悩ませたまま、彼女を病で先に死なせてしまう。先立たれてから紫の上への仕打ちを悔いてももう遅いんだ、って俺は思うんだけどね」

 克美の抱いているそれは、自分を女性と認めたことでようやっと訪れた、恋に恋する思春期特有の勘違いなのだと遠回しに告げる。次第に俯く彼女を見るのに耐えかね、ビールをあおって紛らせた。

「ま、それは俺の解釈だから、克美が自分で読んで自分なりの解釈をしたらいいよ」

 この話は、これでしまい、と言う代わりに

「家の若紫は、若紫のままでちゃんとここから嫁に出してあげるから安心しな」

 と、彼女の頭を乱暴にかき混ぜた。

「……ボク、もう寝る。どうせまた明日からボクが一人で店番だろう。おやすみっ」

 克美はそう言って残ったビールを手にしたまま立ち上がり、飲み干しながらキッチンへと立ち去った。そこから聞こえる、彼女がシンクへ乱暴に投げ込んだ空き缶の立てた鈍い音。辰巳には、それが自分を責める悲鳴のように聞こえた。彼女が何を想っているのかを考えると、いつの間にか息が浅くなる。深く息を吸って、大きく吐く。息を整えわざとらしいくらいのとぼけた声で

「お前さん、何怒ってるんだ?」

 と自室へ向かう背中に問い掛けた。彼女はその声を無視し、自室の扉を力いっぱいバタンと閉めた。




 賢い子だ。自分の言わんとするところを察してくれたのだと思う。

『光源氏は紫の上を手に入れて尚、それでも本当に求めるのは藤壺宮』

 自分を光源氏と例えるならば。

 克美を紫の上と例えるならば。

「加乃が藤壺宮であるべきだろう?」


 光源氏は好きじゃない。そう思ったのは、克美から話を聞いたその瞬間。光源氏という架空の男に対し、同属嫌悪を禁じ得なかった。一年前のあの時以来、克美は決して林檎を食べない。それを認識する度に、激しい後悔に囚われる。

 心の中で、幾度となく繰り返す呪文の言葉。

『克美 ハ 加乃 ノ 妹 ダ』

 だから自分にとっても妹なのだと、夜毎自分に繰り返す。添い寝が当たり前だったあの頃を懐かしむ自分を哂い、そして叱咤する。自分が関わることで、加乃ばかりか克美まで不幸にすることになる。だから、もう二度と悪しき蛇には変貌するな、と。


 克美がシンクに投げた空き缶を洗いながら、辰巳は自分の手も洗い流し続けた。明日にはまたすぐに穢れるその手を、刹那でもいいから清めたいとでも思っているのか。それとも、今抱いている想いそのものを洗い流してしまいたいのか。

 自分の中に渦巻いているものが何かさえ解らないまま、辰巳は見えない穢れにまみれた自分の手を延々と洗い続けていた。

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