第十六章 愛のカタチ 3
高速道路を使わず、のんびり塩尻峠を越えていく。この道を選んだのは北木だった。彼は車窓から見える夜景を黙って見続ける克美に一言も声を掛けなかった。ただステアリングを握り続け、克美からの言葉を待っていると思わせるほどの寡黙を貫いていた。
流れる市街地の夜景がピンボケになって来る。頬杖をつく掌に湿ったモノがまとわりついた。もう、限界だと思った。
「停めて」
峠の頂点を過ぎた下り坂からランドクルーザーの加速が進むと、克美は北木に車を停めさせた。
「なんにもないよ、ここ。どうしたの?」
「う……ん、ちょっと、車に酔ったかも」
適当にお茶を濁して助手席を降りる。顔に出やすいとよく彼から言われているので暗がりの外へ逃げた。そしてやっぱり慣れないパンプスの所為でまた転びそうになる。
「おっと。もう、すぐ下は崖なんだから、あんまり近づいたら危ないよ」
背後から腕を取られて助けられ、そうやってなだめるように諌められる。そんな自分はまるで子供だ。だけど、自分は今日で二十歳。大人にならなくちゃいけない日。
「北木さん……大人になる、って、どういうこと?」
北木に背を向けたまま、顔を見せずに問い掛ける。
「独りぼっちでも平気でいられるようになるってこと? 辰巳に切り捨てられても平気でいられる自分にならなくちゃいけないってこと?」
「さっきの、やっぱり気にしてるんだ?」
問い返す声は、あくまでも優しい。
濡れた目許を見せたくなくて、振り返っても俯いたままでしか話せなかった。
「変なヤツ、って笑わないでね。あのさ、ボクの姉さんがそうしてくれて来てたんだけど」
翠にしか話したことのない“家族のキス”という我が家の変わった風習とその意味を、初めて北木にも打ち明けた。
「加乃姉さんの言ってたこと、やっぱり嘘だったんだ。好きじゃなくても、家族じゃなくても、大事じゃなくても平気でキス出来ちゃうもんなんだね。辰巳もそうだったんだ、って思ったら、もう家族じゃない、っていうか……やっぱりボクってお荷物だったんだなあ、って」
吐き出す声が震え出す。言葉にしたことで、改めて事実として認識させられた。
「前にも一度消えちゃったんだ、あいつ。でもあの時のボクはまだ十歳で、保護者が必要だったから。だから辰巳は帰って来てくれたけど、でも今のボクは子供じゃないんだ。もう辰巳を自由にしてやらないといけないんだって解ってるのに……」
大人になれば一人前扱いしてくれると思っていた。もっと近づけると思っていたのに。そんな繰り言が次から次へと零れ出す。北木を思い遣る余裕がなくて、見せまいとしていた涙が、また勝手に溢れ出した。彼の腕が少しのためらいを見せたあと、そっと克美を引き寄せた。
「北木さん、どうしたら北木さんみたいに人を思い遣れるような大人になれる? どうしたら独りでも平気な自分になれる?」
独りは怖いと彼の懐で泣けば、彼は答える代わりに長い髪を撫でて逆に問い返して来る。
「どうして辰巳さんが離れていくとか、独りぼっちだなんて思ってしまうんだい?」
降り注ぐ声が、いつもより戸惑いの色を濃くして問う。困らせていると解っているのに、吐き出す口を止められない。
「巧く、言えない。けど、ボクを独りにする時間が増えてってる気がするんだ」
「傍にいて、べったりくっついているだけが愛情表現ではないと思うよ」
「独りは怖いんだ。また誰かに襲われそうで」
「いろいろ、あったらしいね。昔『Always』のマスターから辰巳さんと君のことを少しだけ教えてもらった」
「辰巳がボクと加乃姉さんを助けてくれたんだ。きっと辰巳は加乃姉さんとの約束だったから今まで仕方なく一緒にいてくれたけど、ここは安全だからもういいんだ、って、思ってるんだ。だから」
「克美ちゃん」
初めて北木に言葉を遮られた。
「そういう意味じゃないんだよ、辰巳さんは。きっと」
不意に頬へ触れた手の冷たさに驚き、北木の顔を見上げた。一番させたくない表情が、ゼロの距離でそこにあった。頬に触れた手の冷たさと真逆のぬくもりが唇に宿る。大きく見開いた克美の目尻から、辰巳を思って流した涙が最後の一筋を伝わせ、消えた。
――素直じゃないな、北木クンは。
――北木クンならやぶさかじゃないのに。
不本意に重ねられた唇への熱は、克美の腹と心を底までひんやりと凍らせた。
「僕のこういう気持ちを知っているから、君を縛るつもりはないと伝えてくれているだけだと思うんだ、僕は」
姉の声がリフレインする。辰巳から伝えられた言葉が切なく響く。
――最期のお願い。克也に普通の暮らしをさせてあげて。
普通の暮らし。その中に、辰巳はいない、ということなのだろうか。そんなことは、誰かに決められてしまうものじゃない、と思う。そんなのは辰巳の勝手が過ぎる。
ゆっくりと北木の胸を押し戻す。彼は少しも克美を引き戻そうとはしなかった。それが余計に鋭い刃となって克美の胸に突き刺さった。
「だから言ったでしょう? 僕は克美ちゃんが思うほど善人じゃない、って」
震える北木の声が、どんな表情で述べているのかを物語っている。目隠しをしてくれる長い髪に初めて感謝した。
「北木さん、あのボク」
伝えるべき言葉を探すのに、巧い言葉が見つからない。それをも包むように、北木がくすりと苦しげな笑い声を漏らして途切れた言葉のあとを続けた。
「本当に鈍感なんだから、君も辰巳さんも。今のは、僕に道化をさせたお代だよ。だから明日には忘れてね」
北木はそう言って、克美の警戒心をほぐすように適切な距離を取った。
「世の中には不可抗力って場合もあるんだよ。さっきの辰巳さんも不意打ちだったでしょう?」
彼はまた自分を悪役に仕立て上げ、辰巳の弁護を優先した。
自分の鈍感さを今日ほど呪ったことはない。勝手に北木を兄と決めつけ、一方的に甘えていた。彼を無意識に追い詰めていたことに気づきもしないで、特別扱いをし続けて来た。
「ごめんなさい、北木さん。本当にゴメンナサイ」
一歩ずつ後ずさり、少しずつ北木と距離を置く。車道のアスファルトが視界に入ると、ようやく顔を上げて北木を見た。
「ボクはこんな形でしか応えられない……」
曲げられるだけ体を曲げて謝罪する。頭を上げるとパンプスを脱いで両手に持ち、踵を返して一気に下り坂を駆け下りた。
「克美ちゃん! ちゃんと自分の気持ちを見るんだよ!」
背を向けた方から、その声だけが追いついて来た。
北木は逃げる克美を追うこともなく、ただそれだけを送って来た。どこまでも人を思える、自己犠牲に近い優しさ。
視界がぼやける。足の裏が痛い。でも、走るのを止めなかった。
北木の痛みはこんなものではない。彼を好きになれたらいいのにと心の中で繰り返す。どうして彼の前でさえ女性でいたいと思えないのか、そんな自分を責めながら走った。
『ちゃんと自分の気持ちを見るんだよ』
その言葉が伝えていた。敢えてあんなことをしたのも、すべて克美が自分の気持ちと向き合うようにと考えた上での、彼流の優しいはかりごと。
「ひ……くっ、え……っぐ……ぅ……」
克美は迷子のように泣きながら、二時間強かけて塩尻駅へ辿り着いた。そこから電車で松本まで帰る間、伝線したストッキングを恥らうこともせず、ただひたすらに泣き続けた。周囲が刺して来る奇異の目も、血と泥にまみれた足も、すべての痛みを堪えたところで北木への償いにはならない。それでも、甘んじてそれらを受け入れることで赦されたいと願いながら、ただ泣きじゃくってその時間を耐えていた。
結局朝方まで眠れなかった。東の空が白んで来た頃に辰巳が帰って来たのは知っていたが、顔を出す勇気がなくて布団に潜ったままいつの間にか眠っていた。
コーヒーの香りが漂って来る。その香りが克美を起こしたのだと気がついた。
「昨日休みにしたのに、また店を開けないつもりなのか?」
時計を見て感じた現実的なその問題に、少しばかり気持ちがしゃきりとさせられた。
「またボクの所為で休ませることになるじゃん」
慌てて飛び起き、リビングへ顔を出した。
「おはようさん。すんごい顔してるな、お前さん」
辰巳はそう言って噴き出した。いつもと何も変わらない。
「着替えくらいしろよ。……店は? もう九時だよ」
「今日も休みにする。二日酔いで俺死にそう。これだけ飲んだら風呂に入ってから着替えるっす」
そう答えた辰巳の横を通り抜けてリビングのソファに腰を下ろす。キッチンでコーヒーを淹れている辰巳へ背を向けたまま問い掛けた。
「早かったね。ノリコとお楽しみだったんじゃないの?」
「俺が逃げるの巧いって知ってるでしょ」
北木と飲んでいたという言葉が槍のように突き刺さった。
「……何か言ってた?」
「泣かせてごめん、って」
辰巳はそれ以上何も訊かず、いつもより薄めのホンジュラスを克美の手許へ差し出した。
「あんまり悩むと胃に穴が開くぞ」
そう言って彼も隣へ腰掛けた。何も言葉が浮かばない。手にしたコーヒーに視線を落としたまま固まってしまった。不意にコーヒーカップが手から消え去る。それがテーブルに置かれる様子を見ていた視界が、辰巳に引き寄せられて彼の懐に収められたせいで遮られた。
「お節介が過ぎたみたいだな。ごめんね」
煙草とコロンとコーヒーの匂い。それに混じって仄かに香る、北木から漂っていたコロンの香り。匂いが移るほど長い時間、二人は自分の為に話をし、辰巳は自分がいつ起きても対応出来るようにと、着替えもせずに寝ないで待っていてくれた。抱えられたその胸を包むシャツには、真新しい染みが一つ。きっとそれは北木の流した本当の気持ち。
「大好きなのに、そういう風に見れないんだ」
染みを握りしめて小さな声で報告をした。
「ボクにとっては、兄貴みたいな意味で大切な人だったんだ。なのに……自分から、切り捨てちゃっ……」
最後まで言葉にすら出来ない。駄々っ子のように泣いている自分が、どうしようもないくらい嫌になった。
「もっと俺よりタフになったら、また克美を口説きに店へ寄るから、ってさ。その時はこれまでどおり笑って迎えて欲しいって伝言を預かって来たよ」
俺が基準というのがおかしいよね、という辰巳の声は苦しげだった。
いつの間にか眠ってしまったらしい。窓からの西陽がリビングを照らし、克美はその光で目が覚めた。ソファに寝転がったまま、辰巳を下敷きにして眠り呆けていたようだ。
「寒……」
ストーブの灯油が切れて、部屋の中が極寒だった。灯油を入れて、辰巳に毛布を掛けてあげないと。風邪などひいたら、明日も店を開けられなくなってしまう。
そう思って起き上がろうとしたが、結局それを実行出来なかった。
「ダメ……」
辰巳がそう呟いて、克美を羽交い絞めにしてしまった所為だ。そのままソファの奥の方へと押し込まれてしまった。
「ちょ、こら、辰巳。風邪ひくってば。毛布持って来るだけだから。離せってば」
日本語が通じてないのかと突っ込みたくなる。足まで辰巳の絡めた脚で封じられ、完全に動きが取れなくなった。
「せめてストーんーっ!」
文句まで封じられた。
「まだ、早い……」
「早いって、もう夕方」
「結婚は……いくら北木クンでも、まだ……ぐぅ……」
「……」
完全に、寝ぼけている。そういう時の辰巳が、一番素の辰巳だと知っている。
「辰巳もホントは、寂しかったんだ?」
「……ぐぅ」
その問いに返事はなかった。
辰巳の寝顔を見ながら、北木の言葉を反すうする。
『傍にいて、べったりくっついているだけが愛情表現ではないと思うよ』
『ちゃんと自分の気持ちを見るんだよ』
まだ、昨日の今日ではよく解らない。ただ知ったのは、いろんな形の愛がある、ということ。辰巳のお節介も、北木の道化も、全部、自分にくれた、無償の愛。一つだけはっきりと解ったのは、「独りぼっちじゃない」ということだった。
いつかまた北木が店に来たら、今までどおりに振舞おう。彼が好きだと言ってくれた、ありのままの自分で迎えよう。自分が笑って過ごすことで、人を思って心を痛める優しい『自称・悪人』さんへのささやかな償いになるのなら。それが自分なりの彼への、『愛のカタチ』。
心の中で、言葉にする。自分勝手だと思いつつ、胸の痛みを堪えて反すうする。彼の望む答えを持てない自分が出来るのは、最低な奴と思われてもいいから北木に妙な罪悪感を持たせないこと。
ありのままの自分とか、自分の気持ちとかはまだはっきりとは解らないけれど。ただ、まだ今は、辰巳の傍から巣立てない。怖くて、寂しくて、苦しくて。辰巳以上の存在を、まだ見つけられない。
「ぬぅ~ん、さぶいっ」
克美は親鳥の翼の下へ潜る雛鳥ように、辰巳の胸にすり寄った。