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第十六章 愛のカタチ 2

 店だと辰巳はすぐ客へ逃げる。だから克美はその場では黙っていた。その代わりアパートへ帰るなり辰巳の胸倉を掴まえ、不満をあらわに怒鳴り声を上げた。

「なーんで引き受けたんだよっ」

「なんで今回に限ってそんなに怒るの?」

 威勢よくそう詰問したまではよかったが、辰巳の能天気なリアクションに怒気が一気に削がれてしまう。窓に映る自分達の姿が克美の視界に留まると、完全に怒る気が萎えた。窓には、三十センチ近い上からきょとんと自分を見下ろす辰巳と、威勢よく胸倉を掴んだつもりがしがみついているようにしか見えない自分が映っていた。

「なんで、って……ボクに一言くらい意見を聞いてくれたって、いいじゃんか……」

 怒りの代わりに滑り込んで来た気持ちが克美の声を上ずらせた。

「北木クンがあんなに強引なのは初めてだろう? 何か考えがあるんじゃないかと思って。克美なら解ってくれると思ったんだけどな」

 そうやってまた困った笑みを浮かべて見下ろして来る。最近の辰巳は、そんな表情を見せることが多くなった。

「そりゃそうだけど。でも、その日は」

 続く言葉を紡ぐ前に、辰巳の右手が克美の頬に触れた。咄嗟に固く瞳を閉じる。肩に無駄な力が入ってしまう。

(またそうやって口封じでごまかす気だ、こいつ)

 断固拒否して辰巳の本心を問い質そうと思っていたのに。

 とん、と触れた感触を受け取ったのは、唇ではなく額だった。思わず目を見開いた先には、克美に有無を言わせない憂いを漂わせる瞳が自分を見下ろしていた。

「お前さんももう成人なんだから、いい加減に兄貴から卒業しなさい」

 辰巳はそれだけ言うと、自室へ着替えに入ってしまった。

「……なんだよ、それ」

 克美は辰巳が触れた額に手を当てながら、しばらく呆然と立ち尽くしていた。


 辰巳は克美が「克美と呼んでいい」と言った日以来、ほとんど“家族のキス”をしなくなった。そして加乃の名を口にすることが増えていった。鼻につくほど兄貴面をすることも頻繁になっていた。

 辰巳が何を考えているのか、克美には最近解らない。克美もまた、以前ならそれを伝えることが出来たのに、今ではそれさえも言いづらい。そんなぎこちない雰囲気が克美の口をつぐませる毎日を送っていた。

「こんな風になっちゃうんだったら、女だなんて認めなきゃよかった」

 二人でいるのに、独りぼっち。克美の中で、そんな言葉が浮かんでは消えるこの頃だった。




 翌日、午前中を不貞寝で過ごした。何度か扉の向こうから辰巳の呼ぶ声が聞こえたものの、寝ている振りをして無視を決め込んだ。その内本当に二度寝をしてしまい、次に時計を見たのは、午後の二時を回る頃だった。

「やば。四時に上諏訪の駅で待ち合わせなのに」

 昨夜の寝不足がネガティブにさせていたのかも知れない。少しはすっきりした気がしないでもない。

「辰巳にチェックしてもらおっかな」

 デート用に渋々スカートを履く。鏡の前でくるりと回って確認すると、少しだけ素直な気分に戻れた。

「辰巳ー、これでいいか……な? あれ?」

 リビングを見ても誰もいない。テーブルにメモが一枚置かれただけだ。

“帰りは北木クンに送ってもらってね。ちょいと野暮用に出掛けて来る。辰巳”

「なんだよそれ!」

 メモを掴んだ手が握り拳になる。メモがくしゃ、と耳障りな音を立てた。脱力し切ってへたり込むと、一気に堪えていたものが溢れ出た。

「今日はボクの誕生日なんだぞ! 二十歳なんだぞ! 節目の誕生日だって自分で言った癖にっ!」

 今まで一度もこんなことはなかった。少しずつ溶けて消えていったはずの『邪魔な自分』という立ち位置が、克美の中でまた形を成していく。

「なんでそんな大切な日だっていうのに……」

 いつの頃からか聞けなくなっていた。「克也は俺の宝物」という辰巳の言葉。

「ボクは辰巳以外の人といて……どうして辰巳は、どこにも……いないんだ、よ……っ」

 克美の嗚咽が虚しく響いては消えていく。

 楽しみにしていたのに。いつも子供扱いばかりだったけれど、今日からはちゃんと一人前扱いしてくれると思ったのに。何をして一緒に過ごそうか、何をさせてくれるだろうか。そんなことばかり考えて楽しみにしていたのに。辰巳が教えてくれた『冠婚葬祭』という家族のしきたりを初めて体験出来る、特別な日だったのに。

「……家族って、なんなんだよ……」

 独りぼっちになっていく。辰巳がどんどん遠い人になっていく。

「こんなくらいなら、……大人にも、女にも……なりたくなんか、なかったよ……」

 握りしめていた書置きの文字が、湿ってぐにゃりとゆがんでいった。




 待ち合わせた時間に二十分ほど遅れてしまった。改札口へ向かって急ぎ足で駆け下りる。

「ご、ごめんなさいっ。ちゃんと辰巳に言って、報酬からミス分を値引くように伝えるから」

 上がる息を殺しながら、いつもと変わらぬ態度でそう告げたつもりだった。

「そんなことはいいんだけど……こっちこそ、やっぱりごめんね」

 目尻を下げた北木が、小さな声でそう言った。ふっくらとした丸い彼の指が、克美の目許にそっと触れた。

「泣いてたんでしょう。まだちょっと、腫れてるよ」

 情けなくなるくらい、北木には全部お見通しだった。

「ち、違うっ。っていうか、二度寝しちゃって、そういう自分が悔しくって」

 いつも自分を後回しにしてしまう優しいこの人に、変な罪悪感を持たせたくない一心だった。

「ね、それより、今日は早めに乱入しちゃってもいい? そのあと、メシ食ってから帰ろうよ」

 繁華街へ向かう道中で、そんな提案と称したわがままを言って甘えた。

 ろくなことを考えなさそうな気がして、独りでいるのがどうしても耐えられない。お詫びを兼ねて、たまには北木にご馳走しようと思ったこともある。

「そうだね。今日はまた冷え込んでるしねえ。あんまり待たせたら風邪引いちゃうね」

 北木にいつもの笑顔が戻り、やっと克美も自然な笑みを返せるようになった。

「じゃ、三十分を目安に電話をよろしく」

「らじゃっす! その間、ガンバだぜ!」

 親指を立ててコツンと拳を重ね合う。互いの仕事にエールを送り合うと、北木は寒そうに肩をすくめてコートの襟を握りしめた。くるりと背を向けた後ろ姿を、克美は作り笑いで見送った。

「……お茶するほどの時間でもないな。ウィンドウショッピングでもしてよう」

 呟いた声が乾いているのは、冬の空っ風の所為だと思うことにした。


 ほどよい時間を迎えると、慣れた手つきで北木の番号をプッシュする。

『も、もしもし。克美、あの、ゴメン』

 賑やかな外野の声に紛れた北木の声が、いつも通りの下手な芝居で克美の通話を受けた。

「いつまで遊んでんのさっ、いい加減にしろよっ。今からそっちへ行くからなっ」

 わざとらしいくらいの大きな声で、向こうの受話器から漏れる音量を計算して怒鳴りつける。

『あ、ちょっと待っ』

 ブツンと切ってしまうのも予定どおり。

「……多分、バレバレだと思うんだけどな」

 克美は携帯電話をバッグへしまうと、会場になっている居酒屋に向かってのんびりと歩き出した。


 北木が克美を彼女に仕立て上げる理由。六つも年下の未成年が彼女と解れば、大人の女性達が北木のことを「ロリコンなんてこっちが願い下げ」と呆れた顔をして大人しく引き下がることが多いからだ。

 なぜ北木はそんな上っ面しか見ない奴の為に、自分を悪役ヒールにしてまで人を大切に思い遣ることが出来るのだろう、といつも思う。

「今のボクとは正反対だ、北木さんって」

 アスファルトの地面がぐにゃりとゆがんだことに驚き、克美は慌てて目許を拭った。


 十分ほどで会場の前に辿り着いた。目許もこっそり路地裏で確認した。笑顔の練習もちょっとだけした。引き受けたからには完璧でなくては。辿り着くまでに元のモチベーションに戻せた自分を無理やり自分で誉めちぎる。辰巳抜きで自分だけに依頼してくれる北木の信頼に応えたい。今、一人前扱いしてくれるのは北木だけだから。

「うしっ、行くか!」

 胸の前でクロスした両腕を勢いよく両脇へ引いて、気合のポーズを決める。自分でやったそれに、「仮面ライダーの変身シーンか」と思わず噴き出してしまった。

(うん、大丈夫。ちゃんと笑えてる)

 ヒールがカツンとアスファルトを蹴ったその瞬間。

「なーにやってんの、お前さんは。今から怪獣退治にでも行くつもりか?」

「あだっ!」

 不意に頭上から声がしたと同時に頭のてっぺんに軽い痛みが走った。

「辰巳……っ、なんでお前がここに」

 言い掛けた言葉が、辰巳の出で立ちを見て途中でつかえた。

 九年ぶりに見る純白のスーツ。背中まである長い髪を、昔と同じナチュラルブラウンに染め直して括っている。そんな辰巳の風貌は、克美に一瞬タイムスリップしたのかと思わせた。だがグリーンアイズが克美をどうにか今に留めていた。黒のシャツにワインレッドのネクタイという組み合わせを、辰巳のセンスにしては及第点だと認めてやってもいいけれど。

「何、そのホストルック。キショ」

「ま、いいからいいから。ほいさ。これ渡しておくから、北木クンと一緒に遊んでらっしゃいな」

 そう言って取られた手に握らされたのは、我が家の愛車、ランドクルーザーのキーだった。


 辰巳は克美を伴って店内へ乱入するなり、北木をガシっと掴まえた。

「どもー、北木の代理で押し掛けましたー。クラブ『Eden』の元ホスト、龍一って言いまーすっ」

 開口一番のたまったのが、そんなふざけた自己紹介だった。一方の北木は辰巳を見上げて目を白黒させている。百パーセント、辰巳の独断だ。

(なんだよソレ……何考えてんだよ、バカ辰)

 克美の呆れた心の声が辰巳に届くことはなかった。

「家の妹がえらい勢いで怒ってたんで、事情を聞いたらこーんなオイシイ話じゃないっすか。今日は妹の誕生日なんで、北木は返してもらうっす。その代わり俺が会費やら賑やか担当を受け持つんで、代理だけど勘弁してねっ」

 吹けば飛ぶほどの軽い口調。砂を吐きたくなるほどの媚びるウィンク。克美を完全にのけぞらせたのは、時代錯誤としか思えないその決めポーズ。

(き、キメェ!!)

 テンションが、異常に高い。辰巳の顔をした別人にしか見えなかった。そもそもホストとか龍一とか、意味不明もいいところだ。辰巳がそういうキャラではないことくらい、十一年の付き合いでよく知っている。辰巳が何を考えているのか解らなくて、完全に言葉を失った。

 呆然と立ち尽くしたまま混乱する克美の耳に、数名の女性陣達の交わす会話が飛び込んで来た。

「嘘、マジ? あの龍一?」

「うっそ、全然変わらないじゃない」

 克美はその中の一人の腕を取り、つい強い口調で問い質してしまった。

「あいつってホストなんかやってんの?」

 時折夜出掛けるのは、そんな副業をしていたからなのかと思って聞いたのだが、それはどうやら外れたようだ。

「やだ、知らないの? もう九年も前の話よ。だからビックリしたんじゃないの」

 怪訝な顔で克美を見た彼女は、棘のある言い方ながらも教えてくれた。

 九年前に彼女は松本でホステスをしていたらしい。その頃仕事のあとで行きつけていたホストクラブ『Eden』で龍一――辰巳を指名していたと言う。辰巳はそこでトップを張っていたらしいが、突然辞めてしまって行方不明だった、というのが彼女の知る辰巳だった。

「妹ちゃんにも教えてなかったのね。そりゃそっか。あの頃彼は未成年だって言ってたし、親に喋られたらマズかったのかな」

 ノリコと名乗ったその女性は、勝手にこちらの事情を自己完結させていた。

(九年前……ボクが小磯さんのところで辰巳を待っていた頃だ)

 あの頃小磯から言い含められて来た言葉を思い出す。

『自分で確かめないと克也ちゃんを安心してここへ留まらせてはおけないからって、勝手に飛び出して行っちまいやがった。けど、そんだけ克也ちゃんが大事だ、ってことだ。絶対帰って来るから、信じて一緒に帰りを待とう』

 裏社会があれだけ嫌いな辰巳なのに。海藤組長に見つかる危険もあっただろうに。

「知らなかった……そんな危ないこと、してたんだ、あいつ」

 凍っていた心が、ほんの少しだけ温かな感触を受け取った。

 だがその感触も、ほんの一瞬で冷えてしまった。

て」

 ぼおっとしていたので、ノリコ達に突き飛ばされた。慣れないパンプスの所為で、あっさりバランスを崩してしまった。

「うぉ」

「おっと。大丈夫?」

 転倒を防いでくれたのは、人ごみから解放された北木だった。

「う、うん。ありがと」

 答えながらも克美の視線は辰巳の方へ向いてしまう。

「龍一、あたしよ、あたし。ノリコ。覚えてる?」

 と頬を染めて声を掛けて来た彼女に、辰巳は克美が初めて見る種類の笑みを投げ掛けた。

「覚えてるに決まってるじゃん。ユニオンの当時ナンバーワンだった、あのノリコちゃんだろ? 色っぽいお姉さんになっ」

 辰巳は最後まで言い終われなかった。元ホステスのその女に抱きつかれ、その唇を塞がれた所為で。

 周囲に黄色い声が飛び交い、店内が異様な雰囲気に変わっていく。そして辰巳は不快な顔一つせず、相変わらず克美の大嫌いな種類の笑みを浮かべてへらへらとしたままだ。

「克美ちゃん、今の内に出てしまおう」

 北木が克美の視界を遮るように、辰巳との間に割って入った。

「あ……」

 依頼のことを忘れていた。北木の表情を見て、自分がどんな顔をしていたのかを知った。

「うん、行こ行こっ。ほっとけ、あいつは北木さんを口実にしてるだけなんだから」

 克美はわざと頬を膨らませて北木の腕を取り、率先して辰巳へ踵を返した。

 暖簾をくぐる前に、一度だけ辰巳の方を振り返った。彼は女達に囲まれたままで、そっとこちらへウィンクを返して来た。

(楽しんでおいで)

 唇がそうかたどっている。

(ざけんな、ばーかっ!)

 克美は音なき声でそう答えると、思い切りあっかんべえをしてから店を出た。

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