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第十六章 愛のカタチ 1

 ――本当に鈍感なんだから。世の中には不可抗力って場合もあるんだよ。


 ――ごめんなさい、北木さん。ボクはこんな形でしか応えられない……。




 閑古鳥がお決まりになっている、午前中の喫茶『Canon』。この頃は辰巳が克美に店を預けて出掛けることが増えて来た。今日も辰巳は克美に頼むのではなく自分で買い忘れを調達しに出掛けていった。

「もしお客が来たらどうしよう」

 嬉しい反面、緊張と不安がまったくないとは言い切れない。なんだかんだ言っても遣り果せているのだから、と辰巳は言ってくれるものの、克美自身が自分の腕前と接客に自信を持てないでいた。

 からん、と響くドアベルの音が、今の克美には戦いのゴングに聞こえて仕方がない。そして、そのゴングがたった今鳴った。強張る笑みをドアへ向けると、緊張の緩むお客が克美の微笑を自然なものに変えた。

「おはよう、克美ちゃん。辰巳さんは?」

「いらっしゃい、北木さん。買い出しに出ちゃったけど、すぐ戻るよ」

 克美はそう言って、特別なお客をカウンター席へ促した。

「そうそう、この間、辰巳さんがホンジュラスを切らしたって言って、ペルーを淹れてくれたんだけど、これも香ばしくて美味しかった。それをお願い出来るかな」

「うぉ、濃い味……美味く淹れられるかな」

「大丈夫だよ。この間克美ちゃんが淹れてくれたホンジュラスは、豆がよく蒸らされていてアメリカンになってなんかいなかったから」

「ホント? 辰巳はちょっと苦味が足りないってぼやいてたけど」

 そう言いながらも、手は早々にペルーの豆を挽いている。

「人の舌ってのは、その日の体調や気分によって変わるからね。あの日の僕には絶品だった」

「えへ、ありがとう。なんか嬉しいかも」

 ダメな時ははっきりとそう言ってくれる北木の言葉だからこそ、素直に彼の高評価を信じられた。


 北木は克美にとって、辰巳や翠とは異なる意味で『特別な存在』だ。彼は克美が信州に移って間もない頃から、辰巳とともに交流して来た数少ない友人。だが気持ちとしては、友達というよりも兄に近い。『Canon』に訪れる若い年代の異性の中で、唯一自分を女性として口説くような真似をしないでくれる、貴重で気楽な心地よい存在だ。

 彼に気を許せるのは、それだけが理由ではない。

 彼は決してルックスがいい訳ではないのだが、それを過剰に卑下しない。時折心ない客達が、常連同士の気やすさからか、「おデブちゃん」と揶揄したり、カウンター席に座ると「マスターの引き立て役になるのが嫌じゃないのか」とからかったりしている。聞いている克美の方が腹立たしくなって、ついトレイを握りしめてしまうが、彼は布袋を思わせる穏やかな笑みで、そっと克美を制するのだ。それらを笑ってやり過ごし、

「親しみやすいと思ってくれている表れだよ。実際にメタボの心配があるし、僕が気をつけなくちゃね」

 と皮肉とは違う色合いの声で、それらを全部スポンジのように受け止めてしまう。かと言って、卑屈になっている訳でもない。過不足なく自分を上手に見せられる人で、なかなかお洒落な青年でもある。克美は彼のセンスを内心高く評価していた。会計事務所に就職してからはカジュアルスーツで来店するようになったが、彼が大学生だった頃のラフなファッションもなかなかどうして恰好いいのに、と思っている。行動も言葉もスマートで、良識があって、大人。それが、克美の中にある北木の印象だった。

(ホントに辰巳より五歳も年下なのかな。でも、学生証を見せてくれた時ってボクが十四の時だし、間違いないんだよなあ)

 経済新聞を読み耽っている北木を盗み見る。そういう落ち着いた部分しか見たことがないから、辰巳の方がガキに見えるのだろうか、などとぼんやり考えながら。

「ん? どうしたの?」

(うぉ、やべ)

 気づけばコーヒーに湯を注ぐ手が止まっていた。取り繕うという訳ではないが、日頃不思議に感じていたことをそれとなく訊いてみた。

「あ、いや。前から思ってたんだけどさ。北木さんって、すんごい人の考えてることをすくい上げて和ませてくれるのが上手じゃん? なんで会計士を仕事に選んだんだろう、って。もったいないな。人と関わるのが好きなんでしょう?」

 北木は克美の言葉を受けて、つぶらな瞳を一瞬一回りも大きくした。小さくぽかんと開いた口が閉じたかと思うと、すぐに面映そうな、優しい満面の笑みに変わった。

「マン・ウォッチングは、趣味みたいなものだからね。好きなことを仕事にしたら、好きなものがなくなってしまう」

 だが彼の答えた次の言葉が、克美の耳には少し寂しそうに聞こえた。

「それに、克美ちゃんが思うほど、僕は善人じゃないんだよ」

 どういう意味か解らなかった。克美がそれを問おうと口を開き掛けた時、ドアベルが辰巳の帰りを「からん」と知らせた。

「お、北木クン、いらっしゃい。いつ帰って来たの?」

「朝一番の電車で。克美ちゃんのコーヒーが懐かしくなって」

「え、それでわざわざ諏訪からここまで帰って来てくれたんだ?」

「いやいや、今日は元々実家に帰るつもりで。ついでですよ、ついで」

 克美は北木に訊き損ねたまま、辰巳に話題を持っていかれてしまった。

「まーたそんなこと言って、素直じゃないな、北木クンは。素直に言ってくれれば、俺もやぶさかじゃないのに」

 と冗談とも本気ともつかない辰巳のからかいの言葉に、克美の方が食って掛かった。

「お前がそうやってからかうから、変な噂が余計に広まるんじゃんか!」

 自分で言ったその無神経に気づき、慌てて口を押さえても遅かった。

 変な噂――店の学生達が面白おかしく勝手に騒ぎ立てている、不愉快且つ、北木に対してとても失礼で陰湿な噂。

『あのおデブちゃんって、克美ちゃんのストーカーらしいよ』

 北木はいつも独りで来る。そして必ずカウンター席に座る。辰巳を「マスター」ではなく「辰巳さん」と名前で呼ぶ唯一の客として知られていた。『Canon』しか知らない学生客達から見ると、『Canon』の店主兄妹との不可思議な関わりを匂わせるその雰囲気が、克美を不快にさせる噂のきっかけになったらしい。そして、見た目だけに囚われ、既成のステレオタイプでしかモノを見ることの出来ない浅はかな連中の一部で、彼はそんな風に揶揄されているそうだ。

 そんな噂があると教えた張本人がそれをネタにして彼をからかうのは、幾らそれが辰巳でも赦せなかった。しかし、コケにされた北木本人が屈託なく笑って言う。

「辰巳さんはほかのお客がいる時にそんなジョークは絶対言わないよ。それに、その噂はちゃんと僕も知っているから、そんな泣きそうな顔をしないで。ね?」

 そんな北木に「喧嘩もダメ」などと言われると、それ以上辰巳に文句を言えなかった。


「あ、それでね、今日は依頼を頼もうと思って来たんだ」

 ずっと湛えていた北木の笑みに、申し訳なさそうな苦笑が混じった。

「また克美ちゃんにお願いなんだけど、例のアレ」

「あ。またアレか」

 呆れた気持ちが相槌に混じる。辰巳も克美と同じらしく、顔を不快げにひそめて北木へ説教を垂れた。

「今度はどこの合コン? 人数合わせに利用されては野郎達に逆ギレされてばかりなのに。相変わらずお人好しだね、北木クンは」

 辰巳が溜息をつく傍らから、克美は淹れたてのペルーをカウンター席へ差し出した。




 今回の依頼人は北木悦司。会計事務所勤務三年の二十六歳。

 依頼内容は、職場にいる北木と同じ大学出身の先輩が主催する合コンを抜け出すお手伝い。克美が北木の彼女として会場に登場することで、幹事の面目を潰さず且つ早々に切り上げる手助けをするのが常だった。

「会計士の資格を取れない内は、そういう気持ちの余裕がないんだよね。だけど、会計士と勘違いした女の子の期待する目を見ちゃうと、どうもはっきりと言えなくて」

 そう零す北木は、決して自分がもてるという自慢をしている訳ではない。女性達が自分の肩書きを目当てに近づくのだと思い込んでいるだけだ。あとになって騙したつもりもないのに責められたことがあるので、またそういう思いを“させたくない”だけだ。自分が傷つきたくないのではなく、勝手な誤解をする相手の方を心配するのが彼らしい。克美がこの依頼を断れないのは、彼のそんな気質にある。北木には自分の温和なその性格が、一部の女性に好感を持たれているという自覚がない。その所為で彼を誘った主催者に「一人で複数をお持ち帰りするんじゃない」と逆ギレをされたことが何度かあり、辰巳に相談をしたらしい。それがきっかけで、度々克美にこんな依頼をするようになった。

 克美は彼の謙虚な人柄に好感を抱く反面、しばしば歯痒く感じてもいる。何度かこの依頼を引き受けて会場へ実際に赴いたが、彼に関心を持つ女性陣の中には、彼の人柄を見抜いて本気で一目惚れしていた女性も実はいた。

『女の子達の中には本気だった人もいたよ』

 何度か彼にそう伝えたこともある。だが北木はまったくそれを信じず、悲しげな眼をして自分を見るので、今では仮にそういう子がいても伝えられなくなってしまった。あんな苦しそうな目をさせるのが悪いことだと思っていた。

(人のことには敏感なのに、どうして自分のこととなると二の次になっちゃうんだろう)

 ぼんやり辰巳と北木のやり取りを聞きながら、そんなことを考える。北木はいつも笑顔でいて欲しい、そして幸せでいて欲しい人の一人だ。彼は克美にとって、平和と平穏の象徴だった。姉と辰巳のような、あんな悲しい想いをして欲しくない、と思う。


「で、その日程なんだけどね」

 北木の言葉で克美は慌てて顔を上げた。依頼を聞いている最中だったことを忘れていた。

「明日、なんだ。急でごめん。しかも克美ちゃんの誕生日だし」

「え……」

 克美の漏らした声のあと、なんでも屋の二人は黙り込んでしまった。

 考えてみれば、一般的に合コンのお題目として妥当な日だ。明日は二月十四日、世間一般ではバレンタイン・デー。だが、なんでも屋兄妹にとっては、それ以上の特別な日。毎年この日だけは、店を閉めた辰巳が一日克美につき合う日。とは言え、大概家でチーズケーキを作ってくれて食べ放題とか、買い物につき合うとか、その程度だが。それでも、克美にとって年に一度だけの、辰巳を独り占め出来る日なのだ。

 裏稼業も店もオフにして、昔あの温泉街で過ごした頃のように、何かに囚われることも追われることもなく過ごせる、最も大切にしている時間だったのだが。

 先に口火を切ったのは辰巳だった。

「ま、ほかならぬ北木クンの頼みだものね。俺の代わりなんて言ったら失礼だけど、この子に振り回されてやってくださいな」

 辰巳は克美の顔も見ず、にこりと営業スマイルを浮かべながら事務所の予定表に『(克)北木案件出』と書き込んだ。

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