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第十五章 マスターの『言えない事情』

 ――なんで訊いちゃいけないの? で、辰巳は一体どうしてるの?


 ――そんなことを訊くのは、ボクとセックスしてください、って誘っているのと一緒。

 だから「気をつけな」って、この間も注意をしたでしょう――。




 北木の今日の目当ては、コーヒーではなく裏稼業の依頼だ。時計を見れば午後の三時を回っている。午前中はどうしても都合がつかず、こんな時間になってしまった。

「もしかしたら、学生達がいっぱいで依頼を聞くどころではないかな」

 それなら、いつものように『本日のお勧め』を飲んで帰ればいいか、と諦め半分で『Canon』へ赴いた。

「あれ?」

 入り口のランプは灯っている。ビルの入り口にもいつもどおり、フラクトゥーアの看板が出ていたのに。ドアに掛けられているプレートがクローズになっている。しかし、中からは人の気配が感じられた。

 北木は身の丈の割にかなり幅のある巨体を可能な限り壁に張りつけ、頭だけを動かして入り口の格子硝子からそっと中を覗いてみた。キッチンに辰巳の姿はなく、高校生達が中央テーブルに集まって克美を取り囲んでいる。それも全員男子勢。微かに聞こえる彼らの話し声から「バレンタイン」という単語を拾った。

(はは……ん、なるほど)

 北木のつぶらな瞳が幾分か細くなる。ふくよかな頬が上がって一層つぶらな瞳にする。

 いつの間にか辰巳は克美のことを、『克也』という昔からの呼び名を止め、皆と同じように『克美』と呼ぶようになっていた。そして、もうすぐ巷で騒がれているバレンタインデーがやって来る。先日『Canon』に立ち寄った時、女子高生達がヒソヒソと話していた噂を思い起こした。どうやら学生達の間で、最近彼が彼女を『克美』と呼ぶようになったのは、二人が禁じられた兄妹愛に走ってしまった所為、とまことしやかに囁かれているらしい。今度は男子学生の方がソワソワし出したのではないか。

 そんな考察が、北木の表情をにやけさせていた。面白そうなので、そのまま中の様子を窺うことにした。




「克美ちゃん、真面目な話、ホントのところ、どうなのよ。克美ちゃんの答え次第で、今年のバレンタインが決まる訳よ、俺達はっ!」

 北木の予想通りらしい。思えば自分にとってあの年頃と言えば、十年近く前。まだ克美と出逢っていなかったので、やはり女子の挙動に右往左往していた気がする。ゆえに彼らの気持ちが解らないではないが、克美にはまるで伝わっていないようだ。彼女は呆れた顔でぽかんと大口を開け、問い掛ける学生をしげしげと眺めている。きっと初耳だったのだろう。さすがと言おうか、相変わらず周囲の噂に鈍感な子だ。彼らはそんな彼女を相手に、必死で二つの究極の選択に迫られている切実さを訴えていた。その無意味な必死さがまた可笑しい。北木は思わず噴き出しそうになる口を慌てて押さえ、どうにか笑いを噛み殺した。


 彼らが言うところの『究極の二択』。

 事実であれば、泣く泣く克美を諦めるとして、辰巳をタゲる女子も激減するから、レベルは落ちても彼女ゲットのチャンス到来。そこを狙ってのチョコゲット作戦を練るのが一つ。

 ガセであれば、今年も彼女ゲットの夢が消えるも、克美のフリーに期待大ということでひたすら『Canon』に通う作戦が一つ、らしい。かなり笑える。かつての自分を懐かしむという意味で。

(あの年頃って、藁をも掴む気分なんだよなあ)

 そう思うだけに、北木は真顔で問うている学生達の方に哀れみを感じた。

「なんでボク達次第なんだよ、馬鹿くせえ」

 克美は呆れた顔をし、非情なまでに乾いた言葉で学生達にとどめを刺した。彼女は前半とともに後半の『フリーに期待大』も否定し、キッチンへ戻ろうとトレイを手にして椅子から立った。

「まったくぅ。辰巳がいないと、すーぐボクをサボりに巻き込むんだから。事務所で打ち合わせをしているだけなんだから、サボらせたなんてバレたらお前達が辰巳にどつかれるぞっ」

 皆が一瞬静まり返った。その気持ちは、北木にも解る。男性客達は無意識に防御本能が働き、辰巳の目が黒い内から克美に手を出すなどという愚行に走ると、我が身に危険が及ぶと熟知しているからだ。その心得は北木の中にも勿論あった。

(ご愁傷さま……)

 同病相哀れむといった心境になり、北木は密かに男子学生達へ合掌をかたどった。

 年頃な高校生達は、

「えー、どこまでが本当?」

 と訝りながらも、それ以上の追及は諦めたようだ。

 代わりに、ふとした疑問が若い盛りの彼らの言の葉にのる。口にしてしまう辺りが、まだ大人になり切れない高校生。

「じゃあさ、マスターって……どうしてるんだろう」

 と迂闊にも克美の前で呟いてしまった。

(おいおいおいおい!)

 北木は影ながら思わず突っ込みを入れた。無論彼らは克美への質問として口にした訳ではない。しかし、辰巳に関することを話していると判れば、克美の耳が通常の百倍近く敏感にそれを感知する。彼らもいい加減その辺を学習しないものなのか、と北木はその後の展開を予測し、顔を覆った。予想通り、克美は折角彼らから解放されたというのに、その一言で呼び寄せられるように自らまた檻の中に飛び込んだ。

「どうしてる、って、何が?」

「何が、って……」

「ナニ、っていうか……」

(あ~、どっちも墓穴を掘り合ってるよ……)

 扉の脇に張りついていたはずの身体が、いつしか堂々と覗き込む姿勢になっていた。うっかり扉にぶつかりドアベルを揺らしてしまいそうになる。慌てて定位置に身を潜め、恐る恐る中を窺い直した。白黒はっきりしないと気が済まない克美のことだ。今日は誰が犠牲になるのか。止めに入ろうかとも思ったが。

(一度これに懲りてみるのも彼らにとってはいい学習の機会になるか)

 歴代の男子学生客達を見て来た北木は、半分以上、副店主の心境に近い心持ちでそう思い直した。

 途端に学生諸子が、寡黙になる。それと同時に、互いに目を合わせては、にたりと意味ありげな笑みを交わし合った。北木の目には、それが克美を一層煽っているようにしか見えない。みるみる克美の眉間に皺が寄る。次の行動パターンが予測出来た北木は、再び扉の影から同情の合掌を送った。

「さくっとはっきり教えんかーっ!」

 予想的中。一番手近にいた学生が、克美にスチールのトレイでごぃんごぃんと頭を叩かれ、泣く泣く白状させられた。

「四六時中克美ちゃんと一緒で、いつ性欲処理ってしてるんだろうって……」

(うはっ、何てストレートな)

 聞いているこちらの方が赤面してしまう。しかし、言われてみれば確かに不思議だ。二人は朝から晩まで一緒にいる。彼女達と五年前から親しくしている北木から見ても、その辺について気にならないと言えば嘘になる。昔より随分ましになったとは言え、やはり通常ならば自分の世界を持っていてもいい十九歳の女の子が、常に義兄に張りついているというのも辰巳には気苦労があるだろう。彼も三十路を過ぎたいい男なのだから。

 いや、それは男の都合の話であって、彼女に直接それを言うのは、あまりにも紳士的ではないと思う。潮時かと思い店に入ろうと決めた時、克美がとんでもない返答をした。

「さぁ? どうしてるんだろう。考えたこともなかった。訊いてやろうか」

 北木はこれで何度店に入り損ねたのだろう、と数える気力もなくなった。

「訊くな訊くな訊くな」

「あり得ないし!」

「ってか、恥らえって、そこは!」

「えー、なんで? 訊けば一発で疑問解決じゃん」

 と頭上にクエスチョンマークを浮かべる克美へ、客達が『なぜ訊いてはいけないのか』を説明する前に、事務所から辰巳がフロアに顔を出した。その後ろには、以前一度だけ見掛けたことのある高木とかいう彼らの旧知の人も伴っていた。

(ふぅ、ようやく保護者陣のお出ましか)

 北木も扉の影で、そっと胸を撫で下ろした。これでやっと店に入れる。

「あ。みんな、また克美をサボりに誘惑してたな。ダメでしょ」

 何も知らない辰巳のその一言に、後ろめたさから全員が硬直する。それを尻目に、別の意味で何も知らない克美が呆けた声で辰巳に言った。

「ねえ、辰巳。みんながね、辰巳は性欲処理をどーしてるんだろう、ってさ」

「!」

 店内の空気が、凍った。その冷気がドア越しに覗く北木の腹の底までも凍らせる。辰巳のオーラも勿論だが、その後ろに控えた客人が半端なく怒り狂っていた。鬼のような形相と鋭い眼光を、学生達ではなく辰巳に対して向けている。

「……辰巳……っ! 貴様は克美君にどういう教育をしているんだっ!」

 克美の保護者の胸ぐらを掴み、鬼気迫る表情で辰巳をねめつける客人。

「俺じゃないっすよ!」

 客人の形相を恐怖ではなく理不尽とばかりに憤る表情で負けじと睨み返す辰巳の伊達眼鏡がわずかにずり落ちた。

「うぁ……やばい」

 高木の手を軽くねじ上げて払う辰巳を見てガタガタと椅子から立ち上がり始めた学生たち。

(あの子と付き合うのは、並みの精神ではもたないな……)

 北木は店内の修羅場を見ながら、ごくりと生唾を呑み込んだ。

「――さて」

 辰巳が伊達眼鏡を外し、冷ややかな目で学生達をねめつけた。

「本日のコーヒーは、一杯千円ですから、そのつもりでよろしく」

 そう呟いて学生たちを見下ろす半目の視線が、ここから見ててもメチャクチャ怖い。

 辰巳は彼らの伝票を紙吹雪にも使えないほどに破り捨て、新たに伝票を書き出した。それを思い切り中央テーブルに叩きつけると、背筋の凍るような笑みを零しながら

「六名様で二万円」

 と、高校生相手にガチ切れをしていた。

(辰巳さん、六人で二万円じゃ割り切れてないよ……)

 計算が、間違っている。そんな北木の職業病も、呆れる高木も、怯える学生客達も、克美に理解されることはなかった。そんな面々の見守る中、ただ一人彼女だけが

「何怒ってんの?」

 と空気の読めていない一言を放っていた。




 学生達がテーブルに次々とコーヒー代を置いて帰り支度をし始めると、北木は急いで上階へ繋がる階段へ身を隠した。逃げるように店を出て行く学生達に続き、高木も声を荒げて

「専門分野外だ、私も帰る!」

 と、縋る辰巳を振り捨て出て行った。だが、彼は学生達とは違い北木の姿にいち早く気づいてしまった。

「君は確か」

「お久し振りです。あ、あの、決して覗いていたとかいう訳じゃ」

 しどろもどろに高木の声掛けを受ける。前回会った時とはあまりにも異なる高木のオーラに本能的に慄き、悪事を働いたわけでもないのに萎縮している自分がいた。

「それも私の管轄外だ。失礼する」

 語尾に震えが残るのは、やはり克美の爆弾発言の余波が原因なのだろうか。高木はそのあと一度も振り返ることなく、足早に階段を降りて行ってしまった。


 しばし呆然と立ち尽くす。

「今日はどうもタイミングが悪いな。出直そうかな」

 ――それとも、却って店に入った方が辰巳さんの助けになるだろうか?

 お節介と思いつつ、どこか放っておけないこの義兄妹に、つい気持ちを寄せてしまう自分が不思議だった。


 店内では、居心地悪そうな顔をした辰巳が、無人の店で克美と対峙していた。

「んで、なんで訊いちゃいけないの?」

 屈託なく、且つしつこくなんでも知りたがる克美の問いに、彼は

「世間一般では『秘めごと』って言い方をするくらい、その手の話は人前でするものじゃないのっ」

 としどろもどろに答えていた。

「でもみんなは話していたじゃん。だからああいう話になったんだよ?」

「でもね、一般論とか、敢えて『他人事』としてみんな話してる訳。自分がいつどうやって誰ととかなんて、誰も言ってなかったでしょ?」

(いやいや、辰巳さん、あんた何言ってんですか。その事務所で閉店後にマスターと三人でよく飲んでいた頃、あんたが一番酔っ払ってテンション高く武勇伝に花を咲かせてたでしょうが!)

 北木は思わず心の中で突っ込みを入れた。

「あぁ、そう言われてみれば、そうだったなぁ」

 辰巳の言葉を鵜呑みにし、克美がそんな納得の声を漏らす。

(……狡いな、辰巳さん。いっつもそうやって、克美ちゃんの前ではいいお兄さんを演じちゃうんだから)

 そこから先は、自分の中にあるただの憶測。それも、自分にとってはかなり認めたくない、でも結構当たっていそうな憶測。それが妙な嫉妬心を抱かせるだけだ。北木はそんな自己分析の言葉で感情を慰めた。

「例えばお前さんが前に『男だ』ってムキになって主張していた頃、『適当に聞き流さないと、その内皆にひん剥かれて確認されるぞ』って言ったら聞き流すようにしただろう? それは、本当にそうなったら嫌だから、とか恥ずかしいから、とかいう気持ちからじゃなかったのか?」

 ようやく克美にピンと来るものがあったようだ。

「あぁ……裸見られるくらい怖いってことか」

(怖い? 恥ずかしいというのではなく?)

 一瞬、北木に疑問符が浮かんだ。だが、すぐにその理由を思い出す。初めて彼女と逢った時、北木も随分怯えられた。その時、辰巳から彼らの東京での暮らしを聞いたことがある。確か、辰巳の婚約者だった女性は売春宿で暮らし、克美を匿っていたのだとか。そこはあまりにもよくない環境で、当時金に余裕のあった辰巳が克美ごとその女性を引き取ったと。やはり幼少期の暮らしが彼女をゆがませ、一般人としての概念と今一つ違ってしまうのだろうか。そう考えると、あそこまで人と関われる彼女に育てた辰巳に対し、尊敬の念を禁じ得なかった。

 きっと彼女のその弁を軽く「そうそう」と受け流しているのも、彼女の成長を気長に待っているのだ、と肯定的な解釈をした。克美もそんな義兄の気持ちを汲んでやればいいのに、と思いつつ。

「んで、辰巳は一体どーしてるの?」

(って、なんで食い下がって訊くかなぁ……。もう)

 もう限界だ、あまりにも辰巳が気の毒過ぎる。彼女でもない女性、いや、彼女に訊かれてもそんなことは答えにくい。辰巳も困っているに違いない。その証拠に辰巳が拭いていた皿を落としそうになった。

 北木が自分へ実況中継をしながら、意を決してドアノブに手を掛けた時。

「あのね」

 ギリギリで皿を受け止めた辰巳が、不意に克美の耳許へ顔を近づけた。

「――ってこの間も注意をしたでしょう?」

 彼が彼女に何を言ったか、北木の位置からは当然聞こえない。だがそれを聞いた彼女は

「ち、違うもんっ!」

 と顔を真っ赤にして反論した。あからさまなその反応は、北木にも彼の口にしたおよその内容を覚らせた。彼は彼女から顔を離すと

「自分にそういう自覚がなくても、そういうことになるんです。はい、解ったらその話は、おしまい」

 と笑ってその話を締め括った。その時の彼はもう普段の彼と変わりなく。克美もしばらく無言で頬を薄紅に染めていたが、やがていつもの快活な笑顔に戻り、その話の言及をやめてしまった。

「それにしても、客が来ないねぇ」

「そろそろ大学生の子らも来る時間帯なのにね」

 二人は、高校生達がこっそり表の札を『クローズ』に替えたまま戻すのを忘れて逃げ帰ったことに気づいていない。

(……今日は止めておこう)

 北木は『クローズ』の札をそっと元に戻し、その日は『Canon』のコーヒーも依頼も諦めて帰ることにした。

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