第十四章 アダムの混沌 3
派手な音が立て続けに鳴り響く。辰巳の目的は一点のみ、その邪魔をする奴は、片っ端から排除すればいいと思っていた。潤の私室の扉に背を向ける。
「はっ!」
手加減もなく回し蹴りで扉を蹴破ると、薄暗い部屋の中に克也の姿を探した。
「!」
目にした光景は、ほんの一瞬だった。だがそれは、辰巳のグリーンの瞳に嫌というほど焼きつけられた。
克也は半裸に近い服を着させられ、情け程度に身を包んでいたであろうボレロの肩ははだけていた。それが後ろ手にされている彼女から腕の自由を奪っている。その上に圧し掛かっている男の手が、身動きの取れない彼女のフレアスカートの奥へ忍んでいた。その裾は大腿まではだけさせられ、あれだけ気の強い子が他人の前で涙を見せていた。嗚咽が漏れて来ない理由を、目の前で見せつけられ、血の気の引いていく感覚が自分でも判った。
「まさか家の家宝に手を出す度胸が貴様にあるとは思わなかった」
発した言葉が、喉の渇きを辰巳に教えた。一度は懐へ収めた拳銃にもう一仕事を頼もうと右腕を上げた時、違和感を覚えた。ここへ来るまでにささやかな邪魔をした丸いもの、林檎を掴んだままだったことに初めて気がついた。
カシュ、という清涼な音を響かせ、乾いた喉を少しだけ潤す。その林檎も役目は終わったとばかりに床へ力任せに叩きつけた。
(貴様の頭も、この林檎と同じようにしてやろう)
取り出した拳銃を右手に持ち替えながら、辰巳の顔に笑みが浮かぶ。先ほどまで牧瀬良一郎に向けていたトカレフの銃口を、今度はその息子に向けていた。
「お前さん、いろんな意味で地雷を踏み過ぎた」
既に克也から身を剥がし、対する部屋の隅へ逃げ惑う潤を追い詰める。父親と同じ反応をする潤の眉間にトカレフを押し当てた。トリガーに軽く掛けていた指先を折り曲げる。
「もう充分楽しんだだろう?」
腰の砕けた彼の目線に合わせて肩膝を折り、真正面から見据えた。張りついた微笑が取れない。辰巳は潤の中に海藤を見た。他者を己の欲求を満たす道具としか見れない人間が、皆同じに見える。
「母さんも、加乃も、そんな想いをしながら逝ったんだ。お前も、怯えながら死ねばいい」
目の前で狼狽していたのはほかの誰かだった気もしたが、個体が誰であろうと、母や加乃の仇と同類だから大差はない。
(まあ、誰でもいいや)
社会的に抹殺されるべき存在であることに変わりはないのだから。
そんな見解を一言に集約した。
「目障りだ――消えろ」
辰巳は死の宣告を口にすると、トリガーを捉えた人差し指に力をこめた。
「辰巳ダメぇっ!」
あと一歩で引き金を引きそうだった辰巳の動きを止めたのは、克也のその一声だった。
「辰巳やめて! もうあんな思いは、いやだ!!」
悲痛な叫びが、目の前にある光景を移ろわせていく。次第にターゲットの顔が鮮明になる。その顔を見て、今の状況を思い出す。辰巳は潤の眉間からトカレフを外して立ち上がった。
(危ね……。またぶっ放すところだった)
また彼女を不安と恐怖に陥れた。その罪悪感が辰巳に苦笑を浮かばせた。振り返ればすぐ足許に、後ろ手に縛られた恰好の克也が仰向けで力尽きて見上げている。見れば肩が奇妙な形にゆがんでいた。最優先事項が辰巳の中で固まった。
「大丈夫……二度とあんな思いはさせないよ」
乞うように見つめる彼女を見下ろし、どうにかそれだけを口にした。
腹立たしさをすべてぶつける勢いで、潤の腹に蹴りを入れて失神させた。それから克也の拘束を解き、応急処置程度でしかないものの、とにかく外されていた肩関節を入れ直す。
「ちょいと野暮用で遅れた。ごめんね」
といつものように、とんと触れるだけのキスをした。
「……気持ち悪い」
「へ?」
初めて『気持ち悪い』と言われ、辰巳は一瞬身を引いた。ざらりとした感覚が、感情の底を舐めていく。
「ナマコの感触が気持ち悪い!」
「な、ナマコって……?」
「牧瀬はナマコだ! 気持ち悪い、ちくしょうっ、取れない!」
首筋や喉元を掻きむしる、白い指先。彼女の爪先が次第にかすかな赤で染まっていく。
「ボクは女なんかじゃない! 誰かの人形なんかでもない!」
叫ぶ声がくぐもっているのは、血が滲むほど唇を両の腕でこするせい。
「辰巳だってどうせボクを人形だと思ってるんだろうっ。だからなんにも教えてくれないんだ! ボクが加乃姉さんみたいに女らしい女になれないから。加乃姉さんに頼まれたから、しょうがないから傍にいてくれるだけなんだ!」
自傷で流れる鮮血が、克也の唇を艶かしい紅に彩る。この部屋へ押し入った瞬間の映像を、紅が辰巳にリプレイさせる。剥き出しになった彼女の細く震える肩が、『女』をかたどる流線が、濡れ羽色の長い髪が、辰巳には解らない『何か』の封印をこじ開けようとそれらをつぶさに見せつけた。
「……消してやる……」
自身を痛めつける彼女の両手を、片手でまとめて後ろ手に押さえ込む。
「あ……?」
両手と一緒に掴んだ長い髪を後ろへ引けば、下衆に刻まれた赤い烙印が、克也の喉許で存在を主張した。それに舌を這わせ、上書きとばかりに落ちかけた赤をまた鮮明に浮き上がらせた。
どうして自分だけが『克美』と呼べない。ほかのすべての者には許したのに、克也はなぜ自分だけにそれを許さない?
「……克美は、人形なんかじゃない……」
克美と一度だけ呼んだ時、克也は加乃のつけた名前をお前まで忘れるなと、辰巳を激しく批難した。克也がそれを忘れているとつい最近解ってから、妙な苛立ちを覚え始めた。
「ん……」
人形だと思っていたなら、克也の意向など汲んでいない。そんな善人ではないことくらい、自分で解っている。それが克也に理解されていない。繰り返される刹那の映像が、それを余計に煽る。どうしてあいつなんだと無駄な言葉が頭の中で繰り返される。二つの憤りが混沌を生み、融けて、彼女を彩る紅を貪らせた。彼女の切れた傷口から、鉄の味が滲み出る。それが林檎の絶妙な酸味と混じり合った。
逃げ惑う舌を、自分のそれで追い絡め取る。柔らかなそれを味わい、自分の方へといざなう。彼女の歯が小さく震え、辰巳の舌を甘く噛んだ。同時に太腿へ割って入った脚を彼女が強く絞めつけた。辰巳の理性が、それを彼女の拒絶と判断した。
(な、にやってんだ、俺……)
「……ぷは……っ」
克也の酸欠が再び時を動かすと同時に、辰巳を懺悔と後悔が一気に襲った。
――克也 ハ 加乃 ノ 妹 ダ――。
脳裏で言葉をフォント化する。辰巳はそれを脳へ叩き込み、無理やり笑みをかたどった。
「ナマコ、なくなった?」
結局作り笑いに自信がなくて、彼女を懐に収める形でその視界を遮った。
「……林檎臭ぇ……」
そう答える克也の腕が、柔らかく辰巳を拒絶する。身を剥がして俯いた彼女が何を考えているのか、解らなかった。
「早く好きな男を作んなさい」
ふらつく克也を背負いながら、そう告げた。顔を見たら言えなくなる。だから、敢えて目を合わせずにそう言った。
自分は薄汚れた穢い人間――牧瀬や海藤と同じ種類の――克也とは異なる世界に住む種類の者。
それが否定の根拠だった。
それから数ヶ月後。
「林檎って、神様がアダムとイブに食べちゃ駄目って言った、禁断の木の実だってこと、辰巳は知ってた?」
林檎の話から、克也がそんな話をし始めた。
「イブは蛇にそそのかされて、アダムに林檎を一緒に食べようって誘惑したんだってさ。それでアダムとイブは、自分達が男だとか女だとか知っちゃって、身体を隠すようになっちゃったんだって」
そう言って、得意げに清らかな笑みを零してまっすぐ辰巳を見上げて来る。きっとイブがアダムを誘惑した瞳は、こんな潤んだ色だったのだろう。ふとそう思い至ると、思わず苦笑が漏れた。その誘惑に負けるとどうなるのかは、誰もが粗方知っている。
「克也、蛇って何の象徴か知ってる?」
年の割に幼過ぎる義妹に警告をしてやろうと思った。
「……知らん」
辰巳はからかうように、こっそり克也の耳許へ囁いた。
「げっ!」
「だから、蛇には気をつけな。相手が蛇だった場合、その手の話は勝手に誤解をするからね」
辰巳はそう言ってクスクスと笑った。克也の真っ赤な顔を見て、彼女を女の子とも知らずに風呂へ放り込んだ時の幼い顔を思い出した。
――克也は加乃の妹だ。だから、俺の妹だ。
それが自然と心の中へ素直に収まった。
「……辰巳も“克美”で、もういいよ」
絶対的な肉体的構造の差を痛感したから、しょうがないから認めるよ、と克也は言った。
嘘が下手な、解りやすい子だ。認める気になったのは、恐らくそんな理由からではないだろう。だが、彼女の真意までは解らなかった。
「了解“克美”」
逃げるようにカウンターから離れ、ホールの窓から来客を見下ろす彼女へ、視線を向けずにそう答えた。
からん、とドアベルが鳴る。気つけば、もう正午過ぎ。そろそろ喫茶『Canon』の繁忙タイムだ。
「いらっしゃい」
辰巳が客に声を掛ける。
「いらっしゃ~い、お一人?」
と克也――克美も客に声を掛ける。
馴染みの大学生達に相変わらずアプローチを掛けられては、素気なく誘いを断る克美がいた。ここ、喫茶『Canon』という克美の楽園がある限り、ああして幼いまま、自分以外を見ないのだろうかと不安になる。
イブをそそのかした罪で、手足を神からもぎ取られ、地を這いずり回る醜い姿になった悪い蛇。
(本当は俺が、薄汚れて狡賢い、地を這いずり回る蛇、だ)
辰巳は、ふとした時にこの話を思い出してはそう思う。加乃、という自分の手足をもぎ取られた醜い蛇だと自分を嗤う。
――二度と克美をそそのかさないよう、いつか楽園を出なくては。
ポーカーフェイスのその裏で、来たるべきいつかを想いながら、辰巳は変わらぬ笑顔で客を迎えていた。