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第十四章 アダムの混沌 2

 高木の案件、仕上げの日。高木から言われたのは、潤の依頼を続行すること。万が一また父親、牧瀬良一郎が一枚噛んでいた場合、突然の打ち切りは彼にまで不審を抱かせる危険を生む可能性があるから、というのが高木の推論だった。決行の今夜、潤だけがフリーだったので仕方なくその指示を飲んだ。

 辰巳が克也に頼んだ仕事は、自分が牧瀬邸での仕事を終えるまでの間、潤を引きとめて時間を稼いでもらうことだった。


 牧瀬医院の一階と連結させたもう一棟が牧瀬の自宅となっている。病院の方へバイクを停めると、辰巳はバックパックを肩に掛け、自宅の二階から侵入した。住人がしばらく立ち入っていない様子から、そこが潤の部屋だと推察された。

(親父に言われて拉致って来る可能性もある……かな)

 懸念の言葉に溜息が混じる。辰巳は無駄な後悔を振り切るように強く左右へ頭を振ると、万が一に備えて潤の部屋にカメラを設置した。

 階下へ降りて、扉の隙間から廊下の床面に零れる光の筋へ向かって歩く。扉のロックは至極簡単な作りではあるが、引っ掛けた針金が施錠を解除した瞬間、カチャ、という音で辰巳に冷や汗を掻かせた。だがその後も気配が変わらぬことから、良一郎が何かに没頭していることが推察された。そっと扉を開けてみると、入口に面した書斎の最奥、デスクに据えられたパソコンへ夢中で何かをタイプしている彼の背中が目に留まった。

「こーんばんは、牧瀬良一郎センセ」

 彼は大袈裟なほど肩を揺らして振り返った。

「だ、誰……お前、海藤の」

 彼の問い掛けは途中で途切れ、震えた声は辰巳の正体を知っていると伝えていた。何を考えたのか、彼は椅子から乱暴に立ち上がった。その手が机上の書類をぶちまけ、辰巳の足許に一枚の写真を滑らせた。見ればまだ髪を染める前だった頃の自分と、東京にいた頃の克也を盗撮したものだった。

「……ふん」

 面白くもなさそうに鼻を鳴らし、それを懐にしまい込む。それと差し替えに取り出したのは、愛用の一つ、トカレフだった。

「ま……待て、話を」

「一つ、尋ねたいことがあるんだけど」

 あとずさる牧瀬の襟首を掴み、腰を上げた椅子へ再び座らせる。間髪入れずに彼の口へ銃口マズルを咥え込ませ、もう一方の手で写真を収めた辺りを指差した。

「これ、俺の大事な宝物なんだ。もう親父に報告が済んでいるのか」

 問う声の低さに牧瀬は慄き、即座に首を横に振る仕草を見せた。

「ホント?」

 確認しながら、もう一方に携えたコルト・ウッズマンを眉間に当てる。辰巳がわずかに右足を浮かせた時、液体の存在を知らせるピシャ、という不快な音が、辰巳に皮肉な言葉を吐かせた。

「親父の駒をやってる割には、随分気が小さいな」

 牧瀬の失禁は不快この上ないものの、嘘をつく余裕もないと判ったので、それで無理やり相殺させた。克也の存在がまだ海藤にはばれていない。それであれば、高木の意向を汲んでやろうと考えた。

「ま、今回は特別に赦してあげよう」

 牧瀬に動いてもらわねば困る。辰巳は余計に強張り震え出す彼の様子に疲弊を感じながらも、彼の座る椅子を百八十度回転させた。彼に

「今から俺が言うことを、そのまま馬場に送信しな」

 と簡潔明瞭な指示をした。既に宛先は馬場にされてある。恐らく、馬場を介して辰巳や克也の情報を海藤に送るつもりでいたのだろう。間一髪で間に合ったことが、少しだけ辰巳を冷静にさせた。

「『これ以上協力は出来ない。これでも医者の端くれである。私を信じて縋る、幼い患者やその両親の瞳に私の良心が耐え兼ねた。ある人物に宛ててデータを警視庁へ極秘に届くよう手配した。遠からず捜査の手がそちらにも伸びるだろう。裏切りの贖罪に、君へ事前にその旨知らせておく。君が一医師としての誇りをまだ持ち、然るべき選択を採ると信じる。私は死を以てして犠牲者へ罪を償おうと思う。』以上」

 最後の一文を打つ牧瀬の指が、震えてなかなか打てないでいる。いちいち苛つかせる小心者の後頭部へ、銃口を強く押しつけた。

「今死ぬ方をご希望?」

 彼の耳許へ、冷ややかな囁きを送り届ける。彼は幼児のようにしゃくり上げながら最後の一文をタイプした。辰巳は送信ボタンのクリックを確認すると

「はい、ご苦労さん」

 というねぎらいとともに、彼に束の間の意識喪失をプレゼントした。これで、遅かれ早かれ裏切った牧瀬を海藤が生かしておくことはないだろう。何らかの形を取って、勝手に向こうで処理してくれるに違いない。

(あいつは、そういうヤツだ)

 ふと思い立つ。どうせなら、うっとうしい害虫な息子もまとめて処理してやろう。

 辰巳は関係データに潤の名前を追記した。勿論、改ざんの痕跡は残さなかった。


「きったね。ったくもう」

 牧瀬の失禁で汚れた靴をキッチンのシンクで洗い流す。視線をカウンターテーブルへ流した先に、たまたまフルーツバスケットが目に入った。艶のよい美しく青い林檎の光沢に魅了され、吸い寄せられるようにそれを手に取った。

「どこの生産だ、これ」

 思わずそんな声が漏れるほど、絶妙なその酸味に一目惚れした。思考が裏から表の自分へと切り替わる。次からは、家の林檎パイの食材をここから取り寄せよう。コストは合うだろうか。そんなことを考えながら、包装されたままのもう一つをバックパックへ放り込んだ。

「ふざけろ。クソ男女が」

 辰巳が二口目を齧り付いたとき、玄関の方から聞こえたその声が辰巳を裏の顔へ引き戻した。

(潤、やっぱりこっちへ来たか。克也はうまいこと逃げ切ったようだな)

 こちらの用件は、もう済んだ。辰巳は潤が階段を上がり切った気配を確認すると、こっそりと、しかし堂々と玄関から牧瀬の自宅をあとにした。

 病院側へ停めたバイクへ向かう手前にある牧瀬個人の駐車場を、林檎にかぶりつきながら通り過ぎる。当然と言えば当然目につく潤の愛車、その停め方の小さな違いにふと気づく。

(防犯センサーが、オフになってる)

 店に車で立ち寄る時、彼は必ず防犯センサーをオンにする。密かにいつも思っていた。

『車と同じくらい女も大事にしろよ』

 と。そう呆れてしまうくらい車を大事にするあの若造が、青空駐車に近いこの場所でセンサーをオフにするとすれば、それなりのイレギュラーが彼の身に起こっていると考えるのが妥当だろう。

 辰巳は人の気配の有無を確認すると、彼の愛車にそっと近づき目視で車内を確認した。後部座席へ無造作に放り出されていた紙袋。そこから、克也が出掛けに着ていたはずの服が覗いていた。

「……まさか」

 背負ったバックパックを下ろしたのは、背に走る汗の気持ち悪さからだけではなかった。

(保険が利いたな)

 モニタと受信機を取り出し路面にセットしながら、自賛で焦燥をごまかそうとするが、巧く自分を落ち着けることが出来なかった。手許が狂う度に舌打ちが口を突いて出るほど、辰巳にしてはセッティングに手間取った。

 どうにかセッティングを終えると、急いでイヤホンを押し当てる。傍受先は牧瀬潤の私室。映像は巧く拾えずノイズ交じりだったが、音声は意外とクリアに受信出来た。

『ホント、あの子と顔はそっくりなのに、気性は全然違うんだね』

(克也と、そっくりな、子……?)

 その一言で即座に浮かんだ、大きな吊り目が寂しげな少女。自分のミスの象徴とも言える、克也とよく似た女の子。

『心友だったんだってね、来栖の妹ちゃんと。好みの子だったんだけど、たった一回で逃げられちゃってさ。キミのことは後輩から聞いてタゲってみたけど、ホント、性格があの子とは全然違う』

 続いた潤の言葉が、辰巳のリミッターを切った。


 ――まだ大人しく人形でいた分、翠ちゃんの方がマシだったな。


 人形――DOLL.

 翠の救助に赴いた際、彼女の背に焼き入れられていた「D」「O」「L」の三文字が、その英単語の書き掛けだったことを今になって初めて知った。

 牧瀬、潤。どこかで聞いた気がするその名前。高木も同じことを言っていた。

「野郎、顔を変えていやがったのか」

 二年ほど前、来栖翠のことを調べ翠の堕胎の事実が判った時、その父親として名前を貸した男の名が『牧瀬潤』だったことを思い出した。なぜそんな大事なことを忘れていたのかと、握る拳に力が入る。あの時はほかの物証が見当たらなくて、名義貸しだけで無関係だと判断した。高木の言うとおり、自分は平穏な生活に浸かり過ぎたのか。なぜあの場で潤を仕留めておかなかった、と激しく悔やむ辰巳がいた。

(いや、それよりも)

 潤が語っている相手は間違いなく。

「克也……っ」

 辰巳はモニタから視線を離し、台替わりにしていたコンクリートブロックに手をついて立ち上がった。手許へ不安定に転がって来た邪魔な何かを、腹立たしさから手に取って動きを止めた。辰巳は、牧瀬邸の二階を睨むと、荷物を置き去りにしたまま身を翻した。

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