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第十三章 アダムの林檎 4

 ホワイトアウトし掛けた克也の意識を、鼓膜をつんざくほどの破壊音が踏み止まらせた。

「まさか家の家宝に手を出す度胸が貴様にあるとは思わなかった」

 轟音の主の声を耳にし、克也の口角がほんのわずかの時間だけゆるりとあがる。

「お、あ、あんた」

 牧瀬の声が上ずっていた。克也は彼が声の方へ目をやった隙に、腕の隙間から自由の利く首を声の方へと傾けた。踏み砕かれたドアの上に一度立ち止まった湿り気を帯びたレザーのショートブーツが視界に入る。それが一歩ずつ近づくとともに、克也も視線を徐々に上へと移した。

(え? なんで)

 彼の右手が、この場にそぐわないものを握っている。

(……林檎?)

 乗られた腹部に、ほんの一瞬牧瀬の全体重が圧し掛かった。同時にこみ上げた生理的な吐き気も一瞬だけで、その後の軽さが克也の濁った頭に解放を伝えた。

「意外と根性があったんだ」

 そう言って左右非対称にゆがんだ辰巳の微笑は、克也の関心を林檎からもっと深刻な方へと変えさせた。

「た、つみ」

 はっきりとした声が出せない。背中に嫌な寒さが走る。克也はあらん限りの力を振り絞り、身を起こそうと必死でもがいた。既に牧瀬は自分の上から離れ、辰巳から最も遠い壁へと逃げている。

「家の、って……まさか」

 呟く牧瀬の姿が辰巳の影になり、克也の位置から捉えることは出来ない。だがその表情は想像にたやすい。牧瀬を庇う義理はない。だが、辰巳の為に、牧瀬を放置することが出来なかった。

 辰巳の右腕がゆっくりと上がる。懐に向かった右手を見て、彼の横顔が少しだけ驚いた表情をかたどった。

「ああ、そっか」

 果実の噛み砕かれる、カシュ、という清涼な音が部屋に響く。次の瞬間、その残りが床へ叩きつけられた。彼が牧瀬との間を詰める。

「まさかあんた、『Canon』の……」

 牧瀬のその声を止めたのは、克也の前を通り過ぎる際に携えていた辰巳のトカレフに違いない。関節を外されていない右肩を軸に、身体の向きを彼らの方へと回転させて彼らを見ると、既に辰巳は牧瀬に標準を合わせていた。

「BINGO.翠ちゃんの件でキミを取っ掴まえた時は、名乗らなくて失礼したね」

 ふざけているとしか思えない口調が、余計に克也を焦らせる。今の辰巳には牧瀬しか見えていない。自分の方へ意識を向けさせないと。

 克也はどうにかベッドから降りようと身をよじらせた。

 辰巳から微笑が消え去った。

「お前さん、いろんな意味で地雷を踏み過ぎた」

 辰巳の上げた右腕から肩に掛けた動きが、微妙な力を入れる特定の所作をのぞかせる。間に合って、と心が叫ぶ。声にしたくて顎を上げた。

「目障りだ――消えろ」

「辰巳ダメぇっ!」

 どさりという大きな音とともに、やっと声を出すことが出来た。辰巳の小さく揺れた肩が、彼に自分の声が届いたことを教えてくれた。

「辰巳やめて! もうあんな思いは、いやだ!!」

 肩で床を這うたびに、皮膚が擦れ、動くことで外されている関節が悲鳴を上げる。フローリングの床に、ぽたりと雫が落ちていく。

(こんな痛みなんか……。辰巳が元に戻ったあとの痛みの方が……きっと、もっと、ずっと痛い)

 その想いだけが、克也の意識を支えていた。

「辰巳……お願い」

 もう、動けなかった。仰向けた恰好で見上げれば、苦笑を浮かべた辰巳が牧瀬を背にして克也を見下ろしていた。

「大丈夫……二度とあんな思いはさせないよ」

 彼はそれだけ言うと、トカレフを懐にしまい、再び牧瀬へ向き直った。次の瞬間、牧瀬から例えようのない叫びが漏れたかと思うと、彼は床へ身を崩していった。

 辰巳は再び克也の前に跪いて克也の手首の縄を解くと、外れた関節を容赦なく元の位置へ入れ直した。

「うぁだっ!」

「ごめんな。じわじわやっても痛みが長引くだけだから」

「ヘーキ、さんきゅ。牧瀬に何したんだ?」

「腹に思い切り蹴りを入れてやった」

「おも……殺したのかよっ」

「しないって言ったでしょ。気を失わせただけだよ。思い切りってのは冗談」

 安堵から、ようやく息を吐き出した。身体が勝手に反応し、吐き出した以上に息を吸い込む。気づかない内に息を詰めていたようだ。酸素を取り入れたことで、手足の痺れが急速に回復していった。ぼやけた頭が冴えて来ると、途端にあの薄ら寒い感触が克也を襲った。

「……気持ち悪い」

「へ?」

 辰巳の能天気な声にさえ腹が立つ。牧瀬に触れられたすべての皮膚を剥ぎ取って取り替えてしまいたい。掻きむしっても叩いても取れない感触。拭い切れない不快感。

 自分でも訳の解らない、支離滅裂なことを叫んでいた。どこまでも自分と翠が重なった。それでも翠の傷の方がより深く大きいと感じてしまう。

 翠は自分よりももっと幼い頃から、たった独りでこんな想いを抱えていた。同性として初めて共感する涙が克也の頬をびしょ濡れにする。だが克也は、こんな共感など望んではいなかった。翠にも、こんな想いなど一生知らずにいて欲しかった。

 不意に辰巳が、半ば無理やりに近い形で自分にぶつけていた抑え切れない克也の感情を押さえ込んだ。

「……消してやる……」

 その声で初めて気づく。辰巳が克也の掻きむしる両手首を掴んで後ろ手に押さえ込んだことで、血が出るほど自分の唇と喉元を掻きむしっていたことに。

「あ……?」

 首筋にちくんと痛みが走る。そこは、牧瀬が不快な烙印をつけた箇所だった。

「……“克美”は……じゃない……」

 ぷる、と小さく肩が震えた。背中に芯を通すような痺れが走る。克也には初めての感覚で、それがなんなのか解らなかった。

「ん……」

 長い髪を引かれ、顎を上向かされる。背骨が軋むかと思うほどの強い拘束が、克也に息を詰まらせた。

(……違う)

 息が詰まるのは、その所為だけじゃなくて。

 自分の傷つけた唇から滲んだ鉄の味で、気持ちの悪かった口の中。それが林檎の甘酸っぱい味に取って代わり、口の中いっぱいに広がっていく。柔らかな感触が、克也の舌に、歯に、触れる。それは牧瀬に強要されたそれと、確かに同じ行為のはずなのに――。

「……っ」

 何が起きているのか解らないまま、体中が一気に熱を帯びる。さっきまでの悪寒が嘘のように退いていく。代わりに滑り込んで来るその感覚と苦しいほどの早い鼓動が、克也に要らぬ力をこめさせた。

「……ぷは……っ」

 克也の脚を割って入った辰巳のそれを締めてしまった直後、酔いそうなほどの強い拘束が突然解かれ、克也に寒さを感じさせた。

「ナマコ、なくなった?」

 そう問い掛ける辰巳の声は、いつもと変わらぬ兄としての温和な声で。再び抱き寄せられるその力は、やはり兄としてのそれでしかなくて。

 酸欠で頭がくらくらする。いつ息をしていいのか解らなかった。下腹が妙に疼く。なぜかその感覚を浅ましく感じてしまい、辰巳の顔を見ることが出来なかった。

「……林檎臭ぇ……」

 倒れそうな膝にぐっと力をこめて、どうにか立ち膝の姿勢を保つ。辰巳の懐からそっと身を剥がして距離を取ることで、その言葉の続きを呑み込んだ。

 ――でも、辰巳のは、気持ち悪くなかった。

 そんなことを言ったら、きっともっと困った顔をする。きっと一緒にいられなくなる。その不安がぶっきら棒な一言を口にさせた。それを辰巳はどう思ったのだろう。

「早く好きな男を作んなさい」

 克也を背負って呟く声に、どんな想いが乗せられていたのか解らなかった。




 数ヶ月後、牧瀬親子が水死体で発見された。牧瀬の父親が経営していた個人病院は、このところ臓器移植の違法取引疑惑が浮上しマスコミに叩かれていた病院の系列だったらしい。ニュースでは自殺の可能性が高いと報じられていた。

「辰巳ぃ、牧瀬からの依頼の報酬、親父名義で五百万の入金があるんっすけど」

「お、ラッキー。そろそろ秋物の上着を買わないと、と思ってたんだ。バイクだと風邪ひきそうな空気になって来たしね。今度の休みに買いに行こっか」

 そんなどうでもいい切り返しをする時ほど、辰巳は何かを隠している。

「こっちへの入金直後に自殺ってどうよ」

 と辰巳に詰め寄ると、

「死なれる前に入金されててよかったよね。また俺の上着、選んでねっ」

 とふざけた口調でしらを切られた。


 勉強が、手につかない。ついと顔を上げれば、いつもと変わらない辰巳がまっすぐ視線を返して来る。

「あの時の野暮用ってなんだったのさ」

 やっとどうにか封じることの出来た、いろんな想いがまた溢れ出してしまいそうで、そう問うのにかなりの勇気が要った。

「牧瀬の依頼が架空だと判ったんでね。親鳥に責任持って雛を管理してもらう方が安心して過ごせると思って、裏工作。でも俺が手を下した訳じゃないから、何も心配しなくて大丈夫」

 そう答える辰巳に、ためらいや後ろめたそうな瞳の暗さは微塵もない。

 この案件の間に、一度だけ高木が信州へ赴いた。きっと、今回の件は高木サイドで処理したのだろう。そこまでの思考に至ると、ようやく克也の動悸も治まった。

「んじゃ、林檎はなんの関係があるんだ?」

「いや、あいつの実家、いいもん食ってるわ。味見してた。生産地をチェックして来ちゃった。家の林檎パイ、味がよくなっただろ」

 どちらともなく、ついと視線を逸らしてしまった。

「林檎、嫌いだからわかんない……」

 嫌なことを思い出す。あの夜の出来事。翠のこと。互いにこの数ヶ月、敢えてそれには触れない形で過ごして来た。傷をえぐるには、まだ傷が膿み過ぎているから。連想してしまう牧瀬に強いられたおぞましい感触。そして――。

「林檎って、神様がアダムとイブに食べちゃ駄目って言った、禁断の木の実だってこと、辰巳は知ってた?」

 気まずい沈黙をどうにかしたくて、最近読んだ本で知ったことを口にした。

「イブは蛇にそそのかされて、アダムに林檎を一緒に食べようって誘惑したんだってさ。それでアダムとイブは、自分達が男だとか女だとか知っちゃって、身体を隠すようになっちゃったんだって」

 辰巳は一瞬きょとんとした顔をしたのだが、次の瞬間苦笑を漏らし、逆に克也へ訊き返して来た。

「克也、蛇って何の象徴か知ってる?」

 今度は克也がきょとんとする番だった。

「……知らん」

 辰巳は意地悪な笑みを浮かべながら、克也の耳許へこっそりと答えを囁いた。

「げっ!」

「だから、蛇には気をつけな」

 辰巳はそう言ってクスクスと笑う。腹立たしいほど変わらない“よき兄”という顔をして。

「……辰巳も“克美”で、もういいよ」

 絶対的な肉体的構造の差を痛感したから、しょうがないから認めるよ。

 克也のその言葉を、辰巳がどう受け取ったのかは解らない。

 ただひと言

「了解、“克美”」

 とだけ言った。




 あれから、克也――克美は時折考える。

 本当に痛感したのは、肉体的な差だけではなく。

(ボクは牧瀬っていう悪い蛇にそそのかされて、禁断の木の実を口にしてしまっただけなんだ、きっと)

 だから、あまり思い出さないようにしないと。そんなことばかり思っていた。

 同時に克美は自身に誓う。克美にそうさせたのはひとつの想い。

(辰巳はボクのじゃない、“加乃姉さんの”アダムなんだ)

 加乃のアダムを誘惑しない為に、自分まで蛇になってはいけない。でないと、『Canon』という克美の『楽園エデン』を追い出されてしまうという恐怖が拭えなかった。

 それ以来、克美は林檎を食べられなくなってしまった。

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