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第十三章 アダムの林檎 3

 気乗りしない牧瀬とのデートも今夜で最後。辰巳はその間に牧瀬の実家へ潜入して何かをするらしい。

 辰巳はやはり今回も、高木が依頼して来た牧瀬関連の案件について詳しいことを教えてくれなかった。まだ力の足りない今の自分を、歯痒く思う。

『潤の足止めを頼めるかな。親父さんの目がある実家へ寄るとは考えにくいけれど、一応万全を期しておきたいし』

 牧瀬家の動向は掴めているが、唯一、潤だけがフリーだったらしく、そう頼まれたのは数日前。

『俺がいなくても大丈夫?』

 心配そうなその問いに、頼りないと思われていると感じさせる寂しさがくすぐったい嬉しさを上回った。

『ヘーキ。ワイヤレスだって仕込んでいくし。レストランへ行くだけだから、何かあるとも思えないしね』

 着慣れないワンピースを着ていた所為か、空元気にも今一つ張りがなかった。

 それでも、初めて高木の案件に自分を少しでも絡ませてくれたことが、その時の克也には辰巳からの信頼の証に思えた。


「――って、克美ちゃん、聞いてる?」

 牧瀬のその声が、克也を回想から今へと時間を早送りさせた。

「え? あ、うん。ありがと、牧瀬サン」

 今回の贈り物は、某ブランドのロゴが入った紙袋。中身は恐らく、克美の好みとは程遠いデザインの女性っぽい服と思われる。

「あ。やっぱり聞いてなかった」

 牧瀬は大袈裟に肩をすくめて溜息をつくと、腕を組んで苦笑を浮かべながらこれからの予定を説明した。

「だからね、これから行く店に、克美ちゃんのその恰好だとちょっとカジュアル過ぎるかな、って話。スタジオを押さえてあるから今からそっちで着替えて、あとメイクも頼んであるんだ。それから食事に行こう、って」

(が、頑張れボク! 全ては赤字清算の為だっ!)

 これまでの依頼から彼の好む女性の嗜好を推測すると、自分がどんな恰好をさせられるのか容易に想像がついた。眩暈で卒倒しそうな自分に『赤字清算』という名の支えを刻み、どうにか吊り上げた眉を隠し切った。

「あはは……ごめんね、色気なくって。お願いします」

 心にもない謝罪を零すと、満足げな彼の笑みが返って来る。

「僕が好きでしていることさ。謝らなくていいんだよ」

 牧瀬の下心見え見えなこの対応を心の中で罵りながら、促されるままショッピングモールをあとにした。


 鏡に映る克也の顔は、完全に不貞腐れた幼児に近い。

「どこか気に入らないところがあったら、遠慮なく言ってね」

 頭上からそう告げたスタイリストの女性が、困った表情をさせて鏡に映る。克也は鏡を意識して見るまで、自分の仏頂面にも気づかなかった。

「あ、違うんだ。ボク、無理やり牧瀬に連れて来られたからさ」

「でしょうねえ。あなたの着ていた服と比べたら、趣味があまりにも違うもの」

 そう言って苦笑する彼女とは初対面だ。それでも牧瀬のお仕着せ趣向と判るくらいに、彼のオーダーは自分の趣味に一貫していた。

 贈られた服は、克美のコンプレックスを剥き出しにさせる、肌の露出が著しいフレアのワンピース。ワインレッドは妥協出来るとしても、ストラップのみで身ごろを吊っているこのデザインが気に食わない。キャミソールで外を歩く気分で恥ずかしい。揃いのピンヒールも歩きにくいことこの上ない。

 いろんな意味で、気持ちが悪い。まるで牧瀬の着せ替え人形になった気分だった。

 鏡の中の自分を見る。似合わない濃い目の化粧。濃い紅の唇は、克也の白い肌と合わせてみれば、どうしても艶を帯びた派手な印象を抱かせる。着替えさせられてしまったことで、服に縫いつけておいたワイヤレスの通信機も克也の心細さを倍増させた。

「お姉さんも大変だね。あいつって、モデルの仕事の時もこんな無茶ばっかり言うの?」

 彼女に罪はないのだし、とにかくその申し訳なさそうな顔をどうにかしたくて、少し無理して笑顔を見せた。

「そうなのよう。相手のモデルに似合うかじゃなく、自分の隣に並んで自分を引き立てるかどうかが基準みたいでね。この間も――」

 と、彼女は一通りの愚痴を零した。

「聞いてくれてありがとう。何だかちょっとすっきりしちゃった」

 と、気づけば互いに話しやすい雰囲気になっていた。

「そうだ、克美ちゃん。上着がレースのカーディガンなんて透けて嫌でしょう? せめて黒のボレロに替えてあげるわ。レンタル料は、愚痴聞いてくれたからサービスね」

 返却は『Canon』へ取りに行くからという言葉と、うっすら頬を染めたことから、彼女も家の『イケメンマスター』の噂を聞き及んでいると察せられた。

(……類とも、か)

 なかなか巧く友達を作れない。思えばいつも辰巳がお膳立てをしてくれていた。突然そんなことに気がついて、益々気が重くなっていった。


 牧瀬の車を降りてふと反対車線を見ると、見慣れたバイクが停まっていた。それを目に留め笑みが零れる。

「どうかした?」

「あ、ううん。いい匂いがするな、って」

 従業員に車を任せ、隣へ佇む牧瀬に慌ててそんな言い訳をした。

 どこかから、きっと辰巳が見ている。もし万が一何かあっても、いざという時には来てくれる。

 男が女に服を贈る理由をまったく知らない訳ではない。遠い昔、長屋で暮らしていた頃、同じ部屋にいた女達から聞いた古い話ではあるけれど。

「克美ちゃんって、ホントに色気より食い気だよね」

「あったり前じゃん。育ち盛りなんだから」

「え? 一体いくつなの?」

「秘密っ」

(演じなくちゃ)

(楽しそうに笑わなくちゃ)

(高木さんの案件が絡んでいるなら、きっと辰巳がやろうとしていることは危険なことだ)

(しくじって牧瀬を帰らせてしまったら、多分辰巳に危険が及ぶ)

 克也は自分にそう言い聞かせ、不安と恐怖を飲み下す。牧瀬の顔を、敢えて見る。

「早く入ろうよっ」

 克也は彼の腕を取って満面の笑みを浮かべると、甘えた声でそう言った。


 何に対する乾杯なんだろうと思いながらも、乾杯のグラスを傾ける。克也は泣く代わりとばかりに愛想笑いを浮かべ続けた。

「いいのかな。育ち盛りってことは未成年じゃないの?」

 牧瀬はそう言う癖に、ソフトドリンクをオーダーしてやろうという気はないらしい。

「だから、ヒミツっ。でも、育成条例違反になる年じゃないのは確かだよ」

 思えばアルコール類を口にするのは、去年高木が信州へ遊びに来た時以来だった。辰巳がその時盗聴録音なんて余計なことをした所為で、自分の酔った時の癖を思い出した。

 ――克也がキス魔ってことは初めて知ったよ。

「あ、でも、お手柔らかにね」

 一応牧瀬に、予防線を敷いておいた。


 辰巳が主に好んで飲むのはビールだ。だから家にはビールしかない。食前酒の梅酒もあっさりとした甘味で初めて味わう美味だったが。

「うぉ……、何これ。すっごい、美味いっ」

「モンラッシェだよ。僕はブルゴーニュ産の白が好きなんだ」

「もら?」

「モンラッシェ。ワイン、知らない?」

 その後に続いた牧瀬のうんちくは、克也の耳を右から左へと抜けていった。だがワインの芳香と舌触りの方が、そんな話よりも克也を魅了した。それも予想以上の口当たりのよさだ。くどい甘さはまったくない。ピリリと心地よい辛味の方が自分は好きらしいことも初めて自覚した。

「いい飲みっぷりだけど、大丈夫?」

 笑いながら問われたのは、何故だろう。思考が巧く回らない。

「ぜんっぜん。うまーい」

「ワインは逃げないし、味わって飲むものだよ。一気飲みしなくても、なくなったら次のを頼んであげる」

 スパークリングワインなんてどう? なんて訊かれたら。

「飲むーっ!」

 と即答している自分が、まるで自分ではないようだった。

 少し、大人の気分。ちょっとだけ辰巳に近づけた気分。以前辰巳に隠れてこっそり彼の煙草を失敬してみたが、それはどうしても身体が受けつけなかった。晩酌につき合えるようになったら、辰巳の夜の外出も少しは減るのかな――そんなことを考えながら、気づけば最後にワインボトルのラベルを見たのが何種類目だったかさえ曖昧になっていた。

 ふわふわとした気分の中で、牧瀬との会話が続く。

「克美ちゃん、実はイケる口なんだ。それとも、下戸?」

「下戸って、なぁにぃ~?」

「お酒に弱い人とか飲めない人。すぐ真っ赤になったからさ」

「じぇんじぇ~ん。まだまだ、いけるよっ」

「じゃあ――」

 克也はそこから先の会話を覚えていない――。




(夢? ……うん、きっと夢だ)

 不快に満ちた感覚の中、そんなことを意識する。夢うつつの中で考える。早く目が覚めないかな、と。

 両の手足に絡みついて来るそれは。

(――蛇?)

 ぞくりと背筋に寒気が走る。弓なりに反った背骨が痛い。

(辰巳、どこだよっ。早く助けろよっ!)

 声にしたくても、声が出ない。蛇は容赦なく上半身へと這い上って来る。

(来んなっ。キショイんだよっ)

 それに言葉が通じるはずもなく、悪意に満ちた感触が克也の口内を犯し、言葉を阻んだ。それは蛇というよりも。

(……ナマコ?)

 ぬめりとした感触と軟体動物を連想させる粘ついた動きが克也を総毛立たせ、粟立つ嫌悪感を溢れさせる。

 ナマコの実物を見たことなどなかったが、そんな嫌悪感を彷彿とさせる写真なら見たことがある。あの気色悪い吸盤が、全身に張りついているようなこの感覚に耐え切れなくなった時、初めて呼吸出来ないことにも気づいて、必死でもがいた。

「ぶゎは……っ!」

 悪夢から目覚めたのに、あの感触が拭えない。マシになったのは呼吸だけだ。夢の中ではなぜ息苦しかったのか、解らなかった。だが目覚めた今、最悪の状況が克也にそんな疑問をどうでもよいと思わせた。

「重たいんだよ。どけよ」

 強がる口調と裏腹に、声は上ずり心拍は上がる。知らない部屋の天井と自分の間に、薄笑いを浮かべた牧瀬が馬乗りになり、克也の手足を拘束していた。

「ほんっと、可愛くない子だよね。克美ちゃん、男を舐め過ぎ」

 ゆがんだ笑みが近づいて来る。

「依頼なんて嘘に決まってるじゃん」

 近づく牧瀬を前のように伸すことが出来ない。後ろ手に縛られた腕の自由が利かないのは解るが、自由を許されている脚が上がらないのはなぜ、という疑問がぐるぐる回る。そして鈍い思考が一つの可能性に思い至った。

「お……まえ、ボクに何か盛っただろっ」

 叫んだつもりが、呟きにしか聞こえない。処方薬も直接患者に渡している開業医の息子だ。薬なら幾らでも手に入る。確かに牧瀬を甘く見ていた。そんな自分を今更悔やんでも遅かった。

「キミの場合は薬が必要だったし、マンションは“奴”にバレているから下手に証拠を残すのもマズいしね」

 そんな牧瀬に出せるだけの力で抵抗を試みる。

「痛っ」

 遠慮のない平手を食らい、唇の端が切れた。それでも諦めなかった克也の動きを、牧瀬の次の一言が完全に止めさせた。

「ホント、あの子と顔はそっくりなのに、気性は全然違うんだね」

 ドクン、と心臓が強い脈を一つ打つ。体中に変な力が入った。

「ボクと、そっくりな、子……?」

 瞬間脳裏に浮かんだのは、大きな吊り目に溢れる涙。栗毛の長く艶やかな髪。克也の元を去った二つ年下の女の子――翠。

「心友だったんだってね、来栖の妹ちゃんと」

 牧瀬の声だけは、耳許へ甘やかに響く。だがその内容はその甘ったるさとは正反対だった。

「好みの子だったんだけど、たった一回で逃げられちゃってさ。キミのことは後輩から聞いてタゲってみたけど、ホント、性格があの子とは全然違う。まだ大人しく人形でいた分、翠ちゃんの方がマシだったな」

 首筋をきつく吸われてチクリと走った痛みよりも、胸の真ん中がよじれるほど痛んで身悶えた。

「まさか翠……兄貴だけじゃなくって……」

 口づけられる不快感が、あらわになっていた胸元から遠ざかる。

「へえ、知ってたんだ。あの子が兄貴のお人形だった、ってこと」

 大したことじゃない、とでも言いたげに軽い驚きの表情をかたどる牧瀬の顔がゆがんでいった。

「心友の癖に、知ってて助けもしなかったんだ。さすが、女のユージョー」

 せせら笑う牧瀬に、なんの反論も出来なかった。

 まさかこの場で、こんな状況の中で、翠の名を聞くとは思わなかった。

「ねえ、翠ちゃんの時で懲りたんだけど、これは合意だからね。勘違いしないでよ」

 意識をなくすという形で誘ったのはそっちだから。遠くでそんな声がする。でも克也の視界に広がるのは、下衆な男の顔ではなく。

 克也の着ていたブラウスを絞れそうなほど涙で濡らした翠の、震えた細く幼い肩。


 ――ごめんなさい。克美ちゃん。


 傷ついて、傷つけられて、それでも尚、誰のことも憎めなくて、苦しんだまま自分の前から姿を消していった心友。男としての自分が初めて恋した女の子。

「う……わぁ――っっっ!!」

 暴れても振りほどけない両手の縄。

「暴れるなって言ったじゃん」

「い……っ」

 肩を強く押さえられ、そこに激しい痛みが走る。肩関節を外された。痛みを堪えて身をよじっても、びくともしない重い身体。

「は、な、せ……っ」

 嫌というほど思い知る。自分の非力と、“女”という呪わしいさが

「やだね。キミら兄妹は、あの請負人と繋がってるんだろう。あいつにお灸を据える意味でも、言うことを利いてやれないな」

 ボレロを剥がされ、剥き出しにされた肩に牧瀬の歯が食い込んで来る。

「……っ」

「あの請負人ってさ、俺につきまとっていた女をあっという間にシフトチェンジさせちゃう訳よ。そりゃ依頼したのはこっちだけど、難なくやられると、それはそれでむかつくんだよね。ああもあっさり完了されちゃうと俺の面目が丸潰れじゃん?」

 堪え切れずに溢れた涙が視界をクリアに戻し、牧瀬の顔を鮮明に見せつけた。

「克美ちゃん、お兄さんに言えっこないよね、こんなことがありました、なんて。恨むならあの請負人を恨んでね。二年前からむかついてんだよ、あいつには」

「やめ……んっ」

 牧瀬は積年の恨みを吐くだけ吐くと、問答無用できつく結んだ克也の唇を割り深く入り込んで来た。酔いの醒めた頭で、やっと悪夢の元凶を知る。“ナマコ”の正体は、牧瀬だ。悔しさでまた涙が滲んでは、目尻から零れ出す。頭はすっかり冴えているのに、体が思うように動かない。最悪の形で女と思い知らされる、その状況に翠のそれが重なっていく。

 翠は自分よりもずっと幼い頃に、こんな想いをさせられていたのか。

 誰にも言えず、仮に言ったところで理解もされず、たった独りでこんな屈辱と苦痛と恐怖を抱えて……。

(ボクが)

 もっと早く気づけていたら、せめて牧瀬からは翠を守れたはずなのに。

 克也の浮かべたその言葉は、声にさえならなかった。牧瀬に抵抗するわずかな力さえも全身から抜けていた。

(これは、ボクが犯した罪の、罰)

 そんな想いが克也を支配していく。辰巳に甘えて翠の苦悩から逃げた自分への。辰巳に罪を犯させた自分への、罰。克也の中で、壊れたデータのように繰り返される。

「も……ない」


 ――もう、辰巳の家族でいる資格なんて、ない。


 また一筋、涙が目尻を伝っていく。もう辰巳に綺麗と思ってもらえない。もう、辰巳の傍にはいられない。

 克也の視界に、白い闇が静かに舞い降りた。

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