第十三章 アダムの林檎 2
牧瀬と待ち合わせていたオープンカフェには、克也一人で赴いた。実際のところは牧瀬に気づかれぬよう、彼のすぐ後ろに辰巳も待機しているのだが。
「克美ちゃん、こっちこっち」
やや混み始めているオープンカフェのテラスから大きな声で名を呼ばれる。眉をひそめてそちらを見ると、立ち上がって手を振るカジュアルスーツ姿の男が見えた。ついでに迷惑そうな顔をした主婦世代らしき女性陣がその男に向ける批難の眼差しも。
(それが二十歳越えた大人のやることかっつうの)
心の中で呆れつつ、克也は形ばかりの営業スマイルを声の主に向かってぎこちなく返した。
「どもっ。ご依頼ありがとうございまーす」
克也が隣り合う席へ腰掛け、改めて挨拶をすると、牧瀬にいきなり
「デート気分が萎えるな、それ」
と小声でクレームを飛ばされた。
(確かにツラがいいのは認めてやらないでもないけどさあ……)
克也は心の中で、また独り愚痴零す。
実際牧瀬は、女受けしそうなルックスと立ち居振る舞いをするというのが、克也の客観的見解だ。清潔感溢れる小綺麗な顔を自覚しているのだろう。緩い癖毛の前髪を適度に梳いたスタイルで、優しげな印象を相手に持たせる。ハーフと勘違いさせる端正な顔立ちに見合う上下半身のバランスも、モデルのバイトをしているだけのものだと認めてやろう。
(でも、嫌いだ。その性格が)
親の経営する個人病院の跡を継ぐらしいが、それをナンパの材料にしては懲りずに次々と女を引っ掛け回す。自分でその後始末も出来ない癖に。女を自分の欲求の捌け口としか捉えていない。そんな牧瀬の黒い一面は、幼い頃住んでいた売春宿のオーナーと印象が被る。牧瀬潤は克也にとって、あの黒い世界を連想させる大嫌いな奴だった。
「ねえ」
呼ぶ声に克也が答える間もなく、牧瀬がいきなり腕を手繰り寄せ
「相手がどこに隠れてこっちを見てるか分かんないんだから、ちゃんと恋人らしく振舞ってよ」
と克也の耳許で囁いた。それは、傍から見れば、隠しているようでいてあからさまに甘い言葉を囁いていると見えなくもない。克也の全身が総毛立つ瞬間だ。
でも。
(この頃、ちょっとだけ、面白いといえば面白いんだよね、この案件)
腕を解放され、やっと椅子に落ち着けたその一瞬だけ、ちらりと牧瀬の後ろに視線を向ける。視線を流すほんの刹那、そのまま張りついて取れなくなるのではないかと思えるほどの深い皺を眉間に浮かべる辰巳の仏頂面を、克也の瞳がはっきりと捉えた。つい口許がほころんでしまう。
「はーい。相変わらずドキっとさせるのが上手だね、牧瀬サン。来年は卒業なんでしょ? そろそろ本命の一人を定めて落ち着いたらいいのに」
全然楽しい会話ではないけれど、彼の後ろにいる般若の顔をもっと不機嫌にしたくて、満面の笑みでそう返した。
「もしかして克美ちゃん、妬いてる?」
図々しい解釈をしながら手を握って来る牧瀬のそのリアクションについては、当面表を歩けなくなるほどフルボッコにしたいというのが本音だが。
「さあ、どうかなー。ああ、でも少なくても“例のこと”で牧瀬サンを心配してるのはホントだよ」
牽制しつつ、曖昧な答え方をする。何度か彼の案件を引き受けているから、リアクションも想定済みだ。
「じゃあ、そろそろ少しは期待していいのかな。結局最後にはスルーされちゃって来ているから、克美ちゃんの笑顔は信用出来ないんだよね」
そう言いながら、極自然に彼の右手が克也の左の頬に触れる。それに耐えながら、ちらりとテラスの向こう側の歩道を盗み見た。
(げ、やば)
店のテラスの反対側にバイクを止めてこちらの様子をうかがっていた般若が、バイクから降りようと動き出してしまった。辰巳が本気で牧瀬をたたむ前に、冗談をそろそろ止めにしないと、と焦りが悪戯心を制圧した。
「あ。そろそろ上映時間だよ。行こうか」
「え? 克美ちゃん、今来たばか」
「いいからっ、行こうってば!」
折角醸し出した妙な空気を一瞬にして掻き消された牧瀬が、不服感を露骨に表す。そんなことに構っている余裕はなかった。克也は彼の腕を無理やり掴むと逃げるようにオープンカフェをあとにした。
「うがーっ、きしょいっ!」
無駄に垂れ流される水道水に両手を浸しながら、克也はついに叫んでいた。何度洗っても、どれだけたわしでこすっても、気色の悪い感触が克也の手から消えてくれない。
依頼主だから。仕事だから。ここで牧瀬を怒らせて依頼をキャンセルされたら、きっと辰巳が困るから――。
そう言い聞かせて堪えて来た。その反動を、たわしで痛めつけるという形で自分自身へぶつける手が止まらない。いつまでも辰巳に泣き言を零していないで、自力で気持ちを切り替えなくては、いつまでも大人に近づけない気がした。だから辰巳が電話をしている間に、挨拶もしないまま洗面室へこっそり逃げ込んだのに。
「もういい加減にしておきな。お前さん、血が出てるじゃないか」
頭上から不意にそんな声が落ちたと同時に、目の前のカランが放水を突然止めてしまった。睨みつけていた自分の手から視線を外して顔を上げれば、鏡に映った呆れ顔の辰巳とぐしゃぐしゃな顔の自分がいる。
「……いつの間に電話切ったんだ」
鏡の中の辰巳に向かってそう問う自分の戸惑った顔が、なんだか自分のものではない気がした。
「お前さんの叫び声が高木にも筒抜けだったから。話も終わったし、切られちゃった」
そう言いながら、フェイスタオルを持った彼の右手が克也の顔を鏡から隠す。ぽふ、という感触とともに、一瞬克也の視界がブラックアウトした。
「高木さんだったのか。あっちの案件?」
くぐもる声が、上ずった。
「まあね。お仕事、ご苦労さんでした。ああいう、くすぐったい台詞を平気でぽんぽん出せるヤツの相手をしたら、少しは克也も女の子なんだって実感が湧くかな、なんて思ったんだけど。なかなかそうもいかない、か」
ごめんね、と続いた言葉を辰巳がどんな顔で言ったのかは、顔を拭うタオルが邪魔をして見届けることが出来なかった。
「ハンドクリーム、塗ってあげる。リビングに戻ろっか」
そう言った辰巳の声は、溜息が出るほど温かい。克也を抱む形で後ろから両手を拭ってくれる、辰巳のその手も温かい。かすかに鼓膜を揺さぶるコトコトという彼の心音を聞いて、ようやく帰って来れたと実感した。
「……っ」
結局辰巳に甘えてしまう。くるりと辰巳へ向き直り、無言で抱っこをせがむ子供みたいに彼の首へしがみつく。
「いつまでもお子さまなんだから、お前さんは」
辰巳のそんなむかつく台詞は、鼻をすする音で掻き消した。リビングまでの、ほんの数歩。ゆりかごで揺られるような感覚が、やっと牧瀬の触れた気色悪い感触を一つ残らず消し去ってくれた。
「ねえ、辰巳」
互いに視線を合わせないまま、赤くなった克也の手と、それをマッサージする辰巳の手を見つめていた。
「ん?」
「辰巳はさ、ボクを女に戻したくて克美って名前をくれたんだよね。なのに、どうして今でも克也って呼んでくれるの?」
どういう自分でいたらいいのか解らなくて、そしてどこかぎこちない空気を替えたくて、日頃から思っていた言葉を初めて辰巳に投げ掛けた。そして、それをすぐに後悔した。
「……難しい質問だね」
呟く声が、すごく重い。辰巳の瞳が、克也の手ではなく、彼の目にしか映っていない人を見つめる色に変わっていた。
「加乃は俺に、普通の生活をお前さんに与えてやってくれと頼んだけれど、克也という名は彼女とお前さんを繋ぐ、今では唯一のものでもあるだろう? お前さんが納得出来ない内は、加乃を取り上げてしまうようで、なんだか克美とは呼びにくい」
澱んだ冷たい辰巳の瞳は、きっと今、紅の海を見つめている。高木が昔教えてくれた。辰巳が何も教えてくれなかったから。
『君のお姉さんは、辰巳の目の前で彼の監視をしていた男に撃たれて死んだ』
物証はすべて海藤組に隠蔽され、令状を取れないまま捜査本部は事実上解体された。加乃、という姉の名は、優しい思い出を蘇らせてくれる。だが、辰巳とセットで思い返すと、どうしても苦しい結末まで蘇らせてしまう。
「……ごめん。思い出させちゃったね……」
いつの間にか、辰巳に加乃を思い出させるのが苦しくなった。沈む表情を見たくなくて、いつの頃からかその名を口にしなくなっていた。多分、意識していた訳ではない。毎日が目の前のことで忙しくて、なかなかその話題に終始して懐古する暇がなかっただけだとは思うのだけれど。
ぎこちない雰囲気を変えたくて口にした言葉が、余計に空気を重くさせてしまった。
「ほら、もう気持ち悪くなくなっただろ?」
わざとらしいくらいの明るい声で、辰巳がきゅ、と克也の両手を包んだ。
「だからもう泣かないの。ほら、元気出しな」
ぬくもりが手から離れた途端、額に吐息が直接掛かる。前髪を掻き分けられたと気づいた時には、トンと優しく柔らかな辰巳の温度が、漂う空気まで温めていた。
「さっさと牧瀬の案件片づけちゃおう。情報交換といきますか」
おどけた辰巳の調子に釣られ、克也も「うん」という声をようやく出せた。
互いに調べた情報を書き出し、また手にしたデータをテーブルに広げる。
「別にストーカーちっくな女とか見掛けなかったんだよな、実際のとこ」
「あ、やっぱ? 俺も誰かに依頼している可能性も考えて様子をうかがってたんだけど。あと、下調べの中からもそれっぽい情報がなかったしねえ。今日見てて確信した、って感じかな」
「……お前、それでボクを置き去りにして先に帰ったんだろ」
「あは、バレた? ごめんね」
悪びれもなくしれっと抜かされ、お約束のように踵落としをお見舞いしてやる。いつもどおりのこのやり取りで、克也はようやくいつもの自分を取り戻せた。
「あ。そんでさ、一応牧瀬のマンションに入って、室内の写真を一通り撮って来た。また監視カメラつけるだろ? 二度手間になるから、許可ももらって来たよ」
機転を利かせた自分を少しは見直して認めてくれるだろうか。そんな期待が克也の報告する声を弾ませた。
「い? お前さん、独りで部屋まで行ったの?」
克也の期待は見事なくらいに裏切られた。そう感じさせる辰巳の声に、写真を並べる手が止まってしまう。止まった、というより止めさせられたというべきかも知れないが。
「辰巳。痛い。腕」
掴まれた二の腕は、冗談抜きで痛かった。一度伸したことのある奴を相手に、今更心配もないだろうに。あんな優男でひょろっこい牧瀬なんかに、自分が負ける訳がない。
「あ……あ、ごめん。何にもされなかった?」
「うん。ね、それより写真」
「お前さんね、頼まれたこと以外はするんじゃないの。危ないでしょ」
「だって牧瀬だぜ? ボクが負けるとでも思ってる?」
「何があるか解らないでしょ。体力的には絶対的不利なんだからね、お前さんは女の子なんだから」
カチンと来た。「絶対的不利」という一言に。
「だったら最初っからこんな依頼、引き受けなければよかったじゃんか!」
「う。そこを突かれると、痛いです」
とにかく、もう手を引いていいよ、という言葉が止めを刺した。
「ちょ、待てよ。ボク、クビってこと? 言うこと利かなかったから? 中途半端で投げ出すなって、辰巳いつも言ってるじゃんかっ」
「それはまあそうだけど。あ、ほら、また嫌な思いしなくちゃいけないの、イヤでしょ?」
このところ感じている焦れ焦れとした苛立ちが湧き上がる。自分はショーケースに収められているお人形なんかじゃない。対等になりたくて。大人になりたくて。役に立ちたくて。いてくれてよかった、と、自分を引き取ったことを悔やんでなんか欲しくなくて。
「ボクは飾って置かれるだけの人形なんかじゃない! 何か役に立たせてよ!」
――でないと、ここにいられなくなる……。
立ち上がって叫んだ克也を驚いた顔で見上げていた辰巳が、不意に視線を落として、笑った。散らばった写真を一枚一枚丁寧に集めながら、克也を見ずにとつとつと語り出す。
「馬鹿だね、お前さんは。そんな風に思ってたんだ」
頼りないと思っている訳がない。それだったら東京の案件を高木から引き受けたりなんかしない。辰巳は苦笑混じりにそう言った。
「店を空けられるのも、高木からの案件を引き受けられるのも、克也にこうやってアシストを頼めるのも、お前さんを頼りにしてるからに決まってるだろう――ただ」
高木の案件にだけは、関わらせたくない。強い口調でそう告げる辰巳の意図と、今回手を引けと言った真意が克也にも解った。
「牧瀬の案件なのに――やばいの?」
「潤の方じゃなく、その親父さんが、ね。だから万が一を考えて、潤の方とも関わりを断っておく方がいい、と高木が言っていた。俺も、同意だ」
克也が撮って来た写真を見つめる辰巳の瞳が、ひどく冷たい。遠い昔を思い出させる、無表情で無感動な、空虚の瞳。
「……ねえ、ボクでも出来ること、ホントに何もない? 鍵の型取りくらい、ボクでも出来るよ。人目のあるところでなら安心だろ?」
掴まえておかないと。辰巳がまた壊れてしまいそうな気がして。断られる覚悟で節介な申し出を口にしてみた。
「……そうだね。高木からは情報しかもらってないから、助かる。次のデートっていつだっけ」
そう言って向けられた辰巳の視線からは、もう凍った非情の色が消えていた。