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第十三章 アダムの林檎 1

 ――昔々の聖書の話。

 イブは悪い蛇にそそのかされて、アダムと一緒に禁断の実を食べました。

 二人は自分達が裸であることが急に恥ずかしくなり、イチジクの葉をつけるようになりました。

 その姿を見た神様は、二人が禁断の実を食べたと判り、二人をエデンの園から追放しました。

 二人が食べた木の実は、アダムの喉に詰まって喉仏となり、またイブの乳房になったと言われています。

 その禁断の実の名は『林檎』と伝えられています――。




「やだ。ボクやんない」

 この類の依頼に関してだけは、いつも辰巳と克也の立ち位置が逆転する。それくらい、克也はこの類の依頼が嫌いだった。勿論それは辰巳も心得ていて極力丁重に断ってくれるが、今回は滅多にない『例外』とされる危機的状況に陥っていた――店の経営、という表稼業の方が。

「今月はピンチなんだよ。依頼を選ぶ余裕がないんだ」

 今年は度重なる大型台風の襲来で、臨時休校になる日が四日もあった。また、雨続きの天候の所為で出歩く人も少なく、それらの理由から必然的に店への客足も遠のいた。その上裏稼業の方でも、東京の案件で得た報酬が経費に見合わない額だった。二つの稼業の不振が重なり、『Canon』は予定外の赤字に悩まされていた。

「頼む、克也っ! このとおりっ」

 辰巳が土下座でひれ伏してそう言って来ても、なかなか首を縦に振れない。そこまで嫌う、その依頼内容とは。

「ボク、いい加減彼女役とか嫌だっ。大体牧瀬のヤツ、相手だけ違うだけのおんなじ案件、これで一体何件目だよ」

「まあねえ。でもほら、そのお陰で俺らも少しは潤う訳ですし」

「女装なんて気持ち悪い!」

「いや女装も何も、お前さんは女の子ですから」

「うっさい! そんなに金欠なら、辰巳が依頼を請ければいいだろっ」

 つい売り言葉に買い言葉と言おうか、心にもないことを口にした瞬間、しまった、と思った。克也の能天気な保護者の瞳が、あからさまに嬉々とした色を浮かべた所為だ。

「いいの? 牧瀬のストーカーしてる女の子、俺が食っちゃうパターンで請けちゃって、ホントにいいの?」

 確認する目がキラキラだ。それは、主人の許しに尻尾を振って喜ぶおバカな大型犬を連想させた。

「い……い訳ない、だろ……」

 依頼相手もその内容も、本当はものすごく嫌だけど。それでもやっぱり辰巳には――。

(加乃姉さんだけの辰巳でいて欲しい……)

 そう思い至ると荒げた声も、結局なりを潜めてしまった。

「じゃ、克也が請けてくれるってことで、いい?」

 おバカなわんこが策士の瞳に変わったのを見とめると、まんまとはめられた自分の解りやすさに自己嫌悪した。

「わぁったよっ。やればいいんだろ、やれば。くそ……っ」

 仕方なくそう答えると、辰巳は少し困った顔で嫌味のない笑みを浮かべた。

「大丈夫だよ。今回もちゃんと後ろからガードしてるから」

 とフォローの言葉を入れてから依頼内容を説明した。


 依頼人は、牧瀬潤。市内国立大学の医学生。イベントサークルの主催をしていて、しょっちゅう合コン幹事をしている頭の軽い男。今回もまた、粘着系の女の子とノリで寝てしまいストーキングをされて困っている。いつもの如く、克也が彼女の振りをして諦めさせる『別れさせ屋』という穏便な形の依頼とともに、最悪の場合に備えてストーキングの証拠収集、というダブルスタンダードになっていた。


「助かったよ。俺が請けると後々の依頼が請けられん」

 辰巳はそう言って苦笑したかと思うと、深い溜息とともにテーブルへぱたりと突っ伏した。初めて牧瀬の依頼を請けた時の、あの失態を思い出したに違いない。

 あの時は辰巳が『惚れさせ屋』をした。牧瀬のストーキングをしていたはずの女の気を牧瀬から外すまでは予定どおりだったのだが。

『克也、どうしよう。ストーカーの関心がモロこっちに来ちゃった。ほかの依頼を請けられん』

 彼女が辰巳に昼夜問わず張りついた。お陰でほかの依頼の進行が遅れ、その時の赤字は今回のそれに匹敵した。当時の辰巳のメンタルブロウは相当なもので、克也はその後その依頼がどうなったのか、訊くに訊けないままいつの間にか終わっていた。牧瀬の依頼をこうして今も請けているし、あれからかれこれ一年経っている。もう訊いてもいいだろう。

「初回の結果は大赤字だったもんね。あれって結局どうなったの?」

 機嫌を直してそう問い掛けると、辰巳はうつ伏せた頭をテーブルから剥がし、恨めしげな瞳だけを克也へ向けて来た。

「北木クンに協力してもらって『これが俺の彼氏です、騙してゴメンなさい』って言ったら、殴られた上に逃げられた」

「そこまでやんないとダメだったのか……」

 粘着女はマジで怖い。件の女性がした行動についてそういう感想しか抱けない自分は、まだ子供ということなのだろうか。そのオチに薄ら寒い感覚を覚えつつ、ぼんやりとそんなことを考えた。

 辰巳はそんな克也の胸の内も知らずに、お陰で今までボランティアでやってくれていたのに「あれは痛かったよなあ。結局北木クンの勤めている会計事務所経由で彼に税理を頼まざるを得なくなったし」「余計なコストがコンスタントに掛かるようになったし。頼んだ相手が間違ってた」と過ぎたことを愚痴っている。

「自力で解決できなかった癖に、何ケチなこと言ってるんだよ」

「しょうがないじゃん。ふん、どうせ俺は金にがめつい守銭奴だよー、だ」

「北木さんにそう言われたの?」

「奴の勤めてる会計事務所の代取じじいに言われた」

「んじゃ、気にするなよ」

「北木クンが庇ってくれなかった」

「……子供かよ」

 呆れるあまり、そんなツッコミにも力が入らない。つまらないことをグチグチ素で言って落ち込んでいる辰巳にも、馬鹿なことを繰り返している牧瀬潤にも、粘着女に対しても、本当の本気で呆れていた。

(オトナってどいつもこいつも、バカ。大人になんかならなくていいや)

 ならなくていいというより、なりたくない。

 知らない内に、変な顔でもしていたのだろうか。

「こら」

 いきなり辰巳が克也の両頬を、これでもか、というほど引っ張った。

「はんはひょ! いはい! ははへっ」

「そんな露骨にヤな顔しないでよ。大体お前さん、北木クンのなんちゃって彼女の依頼なら、全然オッケーな癖に」

 ばちん、と音がしそうなほど勢いよく両頬が辰巳の指から解放された。つままれていた時よりその瞬間の方が、確実に悪意を感じた。

「なんでそこで北木さんが出て来るんだよっ。北木さんは兄貴みたいなもんじゃんか。牧瀬と一緒にすんなっつーの」

 それに、そんなことを辰巳から言われる筋合いなんか、ない。

「大体な、辰巳はそんな偉そうに牧瀬のこと言っていいのかよ。行き先も言わないでふら~、ってすぐどっか出掛けちゃうこととかいっぱいあるじゃん、昔から。お前こそ、何かやま」

 やましいことでもあるんじゃないか、と言おうとしたのに封じられた。不意に長い髪を手繰り寄せられ、視界が辰巳でいっぱいになる。口にし掛けた言葉は淡い熱にふさがれ、むしゃくしゃした気持ちと一緒に彼が飲み込んでしまった。

「まあまあ。ちゃんと守ってあげるから。早く着替えておいで」

「……ホントに、ちゃんとついて来いよ」

 ものすごく巧みにごまかされた気がする。辰巳にそういう口の封じ方をされると、ぐうの音も出ない自分がいる。この頃、妙にそんな自分が癪に障って歯痒く思う。

 ずるい。人の弱味につけこんで。そう思うことが多くなった。


 ――キスは愛がなくちゃ出来ないわ。だって、雛鳥に餌を与えるような、ホンモノの愛を感じない?


 いつも姉が語っていたその言葉。言葉で表し切れない思いをそんな風に伝え合っていた姉妹の記憶が、いつも克也を黙らせた。

『みんな愛が欲しくて、でも得られなくて。だから時々どうしようもなく、克也が羨ましくなっちゃう時があるだけなのよ。ごめんね、上手に庇えなくて』

 加乃は同室の女達からの仕打ちで克也が傷つく度に、心が傷つき彼女へ縋りつく度に、ただ黙って克也が泣き止むまで淡くて優しいキスをしてくれた。

 辰巳のキスは、姉のそれとよく似ている。世界中が自分を拒絶しても、自分だけは味方だと伝えてくれる優しい温度。唯一の味方。唯一の家族。それを失うのが怖くて、その手で封じられるとそれ以上言葉を紡げなくなる。

 姉は、もういない。今の自分には、辰巳しか、いない。


「克也ー、そろそろ外で待機しとくよ。玄関の戸じまり、よろしくっ」

 扉の向こうから聞こえた声で、考えごとから今の時間へと引き戻された。

「……らじゃ」

 答えた声は、我ながら随分とだるそうでやる気のない声だった。

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