第一章 喫茶『Canon』の裏稼業 3
店の片づけを終えてから気がついた。
「あ、辰巳から鍵を受け取るの、忘れた」
仕方がないので辰巳の携帯電話に連絡してから事務所で辰巳を待つことにした。
店の照明を消し、事務所の窓から下の通りをふと見下ろしてみた。
大きな包みを見つめながら、にんまりと笑うサラリーマン。両手を両親に握られながら、嬉しそうにジャンプして通り過ぎていく子。満面の笑みを零し合いながら寄り添い歩くカップル達。それらを見ていられなくなり、窓に背を向け応接ソファに突っ伏した。
クリスマス。克也はいつからか、それが苦手になった。その日はみんな、大切な人と幸せなひとときを過ごすらしい。だけど自分は、独りぼっち。いつの頃からか、そのことに気がついた。
親なんて知らない。自分の誕生日も知らない。自分が何者なのかも分からない。それを知っていた唯一の姉は、もうこの世にいない。辰巳の最も大切な人は、自分というお荷物を辰巳に託して逝ってしまった。
克也の大切な人は、きっと克也のことを重荷だと思っている。大切な人に託されてしまったから、いつも兄として頑張ってしまう。だから早く、独りでも平気でいられるくらいの大人になって、辰巳を自由にしてあげたいのに。
「遅いよ……家賃を払うのに何時間掛かってんだよ……」
呟いた言葉が、克也の涙腺を緩ませた。
どうしたらいいのか分からない。辰巳が、いない。ただそれだけで、途端に神経が尖って世界中が敵だらけに見えて怖くなる。頭ではもう“あんな世界”から逃れられたのだから大丈夫だと知っているのに、心がまだそれを受け容れてくれない。
怖くて強く目をつむる。何かにしがみつきたくて、自分の髪を掴んで手繰り寄せる。ふと目を開ければ、真っ黒な視界。髪が事務所の灯りを遮り、克也に暗闇と錯覚させた。
長い髪。邪魔なくらい、真っ黒な長い髪。克也の手が緩んでも、それが頬に張りついて離れない。
「ボクは……加乃姉さんみたいになんか……なれないよ……」
辰巳が自分の中に、姉を見る。自分ではない遠い誰かを見る瞳で克也を見る。
「もしボクが加乃姉さんの妹じゃなかったら……?」
口にし掛けた言葉の続きが、喉の奥でつかえて途切れた。
「嫌い」
自分のことが。こんな風に思うのは、まだ自分が辰巳に遠く及ばない甘ったれた子供だからだ。そう思うと悔しくて、また髪を掻き寄せる。
「早く辰巳みたいになりたいよ……」
受け止めてくれる人のいない静かな事務所に、しばらく克也の嗚咽が響いていた。
「ぶわっくしょぃっ!」
鼻にむず痒さを感じて出てしまった自分のくしゃみで目が覚めた。同時に眠っていたことにも気づかされる。
「あ、悪い」
辰巳がブランケットを掛けようと身を屈めた時に、彼の髪が克也の鼻をかすめたらしい。その至近距離に思わず肩をすくめ、咄嗟に髪で顔を隠した。きっとまだ目が腫れている。それを知られるのが癪だった。
「おせーぞ」
言った直後に気がついた。眠り呆けた顔を既に見られていること。声を押し殺していた所為で痛めた喉が克也の声をハスキーにさせていたことも、泣いていたとアピールしているようにしか聞こえないだろう。
案の定、辰巳は意地悪な笑みを含みながら、克也の髪を手櫛ですき払ってしまった。
「何、そんなに心細かったの?」
語尾を上げて問い掛ける癖に、答えはもう知っていると言いたげな瞳が克也をまっすぐ覗き込む。
「お前なっ」
頬がかっと熱くなる。そして赤くなっていくのが自分でも判った。克也の頭を撫でる辰巳の右手を、その腕ごと思い切り振り払った。
「いちいち子供扱いすんなっ」
「ほい、メリクリっ」
後ろ手にしていた彼の左手が、ずいと目の前に突き出される。その先にぶら下がっているのは、大きな紙袋。それにはコムサ・デ・モードのロゴがくっきりと印刷されていた。
「遅くなってごめんな。克也のサイズとか好みとかが解らないからさ。一旦アパートへ戻ってサイズチェックをしてから、お店のお姉さんに克也の写真を見せて一緒に見立ててもらったんだ」
不意に滑り込んで来る、居眠り前に見た窓からの風景。辰巳もあのサラリーマンのように、自分の反応を想像しながらあんな顔をして帰って来てくれたのだろうか。
「……ありがと」
やっと素直な言葉を出すことが出来た。憂鬱な気分が溶けていく。紙袋から箱を取り出し、包装紙と一緒に心にまとわりついたわだかまりや不安も剥がしていく。
「えへ。なんだろ」
独りぼっちなんかじゃない。そんな風に感じたら自然と変な笑い声が漏れた。だが、中から取り出したそれを見た途端、克也から零れた笑みが一瞬にして消えた。
「ミニスカートじゃんかよっ、これっ!」
もっとボーイッシュな服を選んでくれたと思っていたのに。
「だから言ったでしょ。克也のレディースの好みはさすがに俺、知らないもん」
「ふざけるな!」
手にしたスカートを床へ力一杯叩きつける。まだ箱に収まっているスーツジャケットも、ソファから立ち上がって箱ごと床へ叩き落して踏みつける。分厚い箱が、ぐしゃり、といびつな音を立ててひしゃげた。
「こんなの要らないっ。ボクは男だっ! そう育って来たんだから、男でしかいられないっ」
目を見開く辰巳の瞳の色を見て、口にしてはいけないことだと頭ではもう気づいているのに。
「そんなに困るんだったら、ボクを施設にでも入れときゃよかったんだっ」
叫びながら、一歩ずつあとずさる。すぐ後ろには扉が待っている。あともう一歩で振り返りつつ走り出せば、辰巳から逃げられる。違う、辰巳を逃がしてあげられる――自分から。
「辰巳なんか、大ッ嫌いだっ」
これ以上辰巳を傷つけたくなんかないのに。これ以上、自分も傷つきたくなんかないのに。この口が、止まらない。
「どうせボクはヘンな奴だよ、辰巳のお荷物だよっ。もういい、出て」
出て行くから、というより早く、辰巳の伸ばした腕の方が早かった。抗えないほど強い力が、克也の二の腕を掴んで辰巳の方へ引き戻す。
「克也」
辰巳の声が頭上から低く降り、苦しげに克也の髪を揺らした。
「男も女も関係ない。克也は克也だと俺は思ってる。ただね」
もがく克也を腕一本で封じてしまう。続く辰巳の言葉が、抗う気持ちまで封じてしまった。
「克也自身が、辛いだろう?」
好きで変な訳じゃない。なんとかしたいと思っている。だけど気持ちが巧くついていかない。その歯痒さも辰巳は全部解ってくれている。そう思わせてくれる声だった。それが克也の思い過ごしではないと言わんばかりに言葉の雨が降り注ぐ。
「もう、あんな世界に戻されることは絶対ないから」
“あんな世界”を思い出し、辰巳の背に回した克也の手が、きゅ、とシャツを握りしめた。
「少しずつ、ね? 焦らなくっていいんだよ。女の子なんだ、ってことを受け容れることが、克也と名づけてくれた加乃やこれまでの克也を否定することにはならないんだから」
加乃は加乃なりに、克也を守りたかっただけなんだ。絞り出すように囁いた辰巳の声が、胸につきりとした痛みを走らせた。
「ボク……こんな自分なんか、嫌いだ」
初めて辰巳に本当のことを口にした。シャツを掴んだ手に力を込める。逃げないと解ったからか、克也を抱え込む辰巳の力が緩んでいく。
夢にまで見た平和な生活なのに、実際にはなかなか馴染めなくて。
「ボクは、加乃姉さんみたいになんか、なれない」
辰巳は、自分の中に姉を見ているだけ。その怖さを初めて言葉に置き換えた。いつか違うことに気づいた辰巳に捨てられるくらいなら、いっそ自分からそう仕向けた方が、覚悟がある分少しはダメージが軽くて済む。いつの間にそう考えていたのだろう。つらつらと思うままに、そんなようなことを言葉にしていた。
「馬鹿だね、お前さんは」
辰巳が頭上から笑いながら呟いた。小さな頃にたくさん言ってくれた言葉を克也の耳許に囁いてくれる。
「お前さんは俺の宝物だって、前にも言っただろう」
そう言ってくれる辰巳の顔を見たかったのに。辰巳は懐の中に克也の頭を押さえ込み、顔を見せてはくれなかった。
「加乃みたいになれ、なんて一度も思ったことなんかないさ。女の子でいても怖くないんだと思えることで克也の生き方が楽になる、ってだけの話だよ」
楽になるのだろうか。そんな疑問が本音を吐き出させた。
「女なんか嫌いだ。ボクと同じパーツを持ってるのに、違う種族にしか見えないもん」
「うん」
辰巳はただ頷いて話を聞いてくれた。
「でも、男も嫌い。同性に恋するなんてあり得ない」
「そういう意味では、まあそうだな」
辰巳がくすりと小さく笑う。
「ボク……辰巳みたいになりたい」
「……俺が勘弁願いたい」
「なんで?」
「だって、それじゃあ克也がいなくなっちゃうじゃん」
こぽり。冷え切った心の奥底で、何か温かなものが生まれて、弾けた。それが心の中いっぱいに広がって温めていく。
「辰巳、だいすき」
克也自身よりも克也のことを理解し、こんな風に巧く切り替えさせてくれる、辰巳のそういう人柄に憧れた。子供みたいで、でも大人で。どんなことでも飄々と受け流し、ここ一番の時にはなんでも出来る。自分もそういう風になりたい。そういう意味で、辰巳のことが好きだった。
「どうしたら、辰巳みたいに強くなれる?」
一日も早く強い自分になりたくて少しでも辰巳に近づきたくて、あからさまに訊いてみた。
「俺? 全然強くなんかないよ」
辰巳からは、そんな言葉しか返って来なかった。ただ、泣きじゃくったままの克也を懐に抱えたまま、穏やかな声で呪文のように「大丈夫」と繰り返してくれた。
喫茶『Canon』は今朝も開店休業中。辰巳が呆れた顔で一言呟く。
「……マジ?」
そう問われた克也の出で立ちは、昨夜贈ってもらったコムサのスーツに、コーヒーの染みも鮮やかな腰巻タイプのエプロン姿。
「だってほかに着る機会がないんだもん」
「だからって何もその恰好で店に立つことはないんじゃないか、と」
「うっさいなあ、もう!」
これを着た理由。本当は女の子の自覚を持って欲しいと思っている辰巳への、克也なりのささやかなクリスマスプレゼント。素直にそう言うことが出来なかった。
「でもさ、スカートって股間がすーすーして気持ち悪い」
「お前さん、もそっと言葉を選びなさい」
ちぇ、と克也が舌打ちをするのと同時に、からん、とドアベルが来客を知らせた。
「いらっしゃい」
いつものように辰巳が営業スマイルを浮かべていざなう。
「らっしゃーい」
浮かれた声で克也も声を返す。
「おぉ! 克美ちゃん、今日はスカートっ」
「何なに? 年末期間限定サービスとか?」
休日が重なったクリスマスの朝一番、今日は朝から混みそうだ。いつも以上に学生で賑わい、店内はあっという間にサークルなのか店なのか分からない状態になる。
「ガン見すんなぁっ!」
克也が足を振り上げる。
「克美ちゃんっ、パンツ! 見えてる!」
と騒ぐ女の子達。
「ぐぉぅ!」
克也の蹴りを甘んじて受けてくれる男子学生のお客達。
「今日もいいお客さまばかりだねえ」
辰巳は煙草を燻らしながら、そんな感想を漏らしていた。