第十一章 願掛け
――願掛け、だなんて。子供じみていて、克也には口が裂けても言えやしない――。
「たーつみー。床屋行って来るから、金くれよ」
克也から相変わらずの口汚い言葉を受け、辰巳はいつものように数枚の紙幣と一緒にお馴染みの説教もくれてやった。
「床屋じゃなくて、美容院。金くれ、じゃなくてお金をください」
彼女は辰巳のそんな苦言を華麗に無視し、今回もこれみよがしの独り言を口にした。
「今度こそバッサリ切っちゃおっ」
「……マジ?」
帰って来てからのお楽しみ。彼女はからかう口振りでそう言うと、『行って来ます』のキスをしてから出掛けていった。
昔は今より貧乏で、よくお互いの髪を切り合った。毛先を切り揃えるだけだから、それで充分だったのに。愛美に釣られてお洒落に目覚めてからは、結局美容院へ行くようになった。
最後に髪を切り合ったのはいつだろうと、依頼の報告書をまとめながら振り返る。
「愛美ちゃんと知り合ったのが十四の頃だから、五年か。――ま、しょうがないか」
ほんの少しだけ湧いた寂しさを飲み下そうと、ビールを飲みつつ彼女の帰りを待つことにした。
このところ東京と信州の往復が度重なっている所為か、酒の回りが思っていたより結構早い。リビングのソファで寝転がっている状態が睡魔を誘うのか、辰巳は次第にタイプした文字を追えなくなっていた。
最後に髪の切り合ったあの日、克也は鏡越しの辰巳にねだって来た。
『辰巳カットはもう飽きた。床屋に行かせてよ。バサっとサクっと落としたいよ』
『……ダメ、却下』
『なんで?』
(なんで、って……)
辰巳は思わず口ごもる。
『何もそんな、涙目にならなくてもいいじゃんか。……あ、解った! 実は床屋が苦手なんだろ。何、刃物が怖いとか?』
克也は元ヤクザ相手に対し、そんな的外れ過ぎる予想を自信満々な表情で口にした。刃物が怖くてヤクザが務まるか。かと言って、理由は意地でも克也に言いたくはない。
『……その方が、少しは女の子の自覚を持つかな、と』
と無難な回答をしておいた。
『実際には変わってないじゃん。暑いんだよね、夏場だと』
辰巳は暑くないのかと訊かれ、またもや答えに窮してしまう。
暑いに決まっているだろうが。だから夏場は極力上の方で髪を括って暑さを軽減させている。
『なんで辰巳まで伸ばしてる訳?』
さっき自分で結論を出していたじゃないか。
そんな心の中の突っ込みを口にしたところで、どうせ大人しく引き下がる克也ではない。
『……禁則事項です……』
はっきり訊くなと言った上に、これだけ目で訴えているのに、散髪の度に繰り返されるこの問答。少しは気づけと歯痒くなる。だが、ふと視線を上げると、克也の意地悪そうな笑みが鏡に映っていた。それと同時に彼女の頭上で真っ赤に染まった自分の顔も目に入る。克也ごときにからかわれていたと判ると、情けなくなって来た。重大事にはあれだけセルフコントロールが出来るのに、何故にこんなどうでもよいところで自分をセーブ出来ないんだ、と。
にやけていた克也の顔が、不意に不安げな表情をかたどり、
『ま、いいんだけどさ。カット代が浮く分、マナのお店でケーキが食えるし』
と追及の手を緩めてくれた。何故急に憂い顔を見せたのだろう。いぶかる辰巳の心は置き去りにされ、未だにそれは解らないままだ。
カットを終えた克也は、自分の言葉が元凶なのに悪びれもせず
『さんきゅー。んじゃ、こうたーい』
と、今度は辰巳のカットを施すのだった。
この時間は、辰巳がいつもビクビクしながら過ごす、非常にストレスフルな時間だった。最終的には激甘保護者という辰巳の甘い対応を、克也はよく心得ている。調子にのって本当にバッサリ切り落としはしないかと、常にはらはらしながら鏡に映る克也の手許を睨み続ける数十分なのだ。
人のこの緊迫感を察しもせず、彼女は鼻歌などを歌いながら、手早く、見様によってはかなり適当に毛先をカットする。
『一センチ以上切ったら夕飯抜きだからな』
『へえへえ』
いかにもスルーしている口振りが辰巳の言葉を荒くさせる。
『……本当に抜くからなっ』
『しねーよっ! 信用ないなぁ。今までだって一度もしたことないだろう?』
確かにこれまではなかったけれど。
『どうも虎視眈々と狙ってる気がしてしょうがないんだよ、お前さんのその目つきは』
『だったら切らない訳を言ってみなよ、納得出来たらやらねーよ』
と克也に言われ、三度目の赤面が自分で嫌になって来た。
(願掛け、だなんて。子供じみていて、克也には口が裂けても言えやしない)
辰巳の押し殺して吐き出された溜息が、克也に気づかれることはなかった。
克也に髪を切らせないのは、彼女に告げた理由だけではない。少しでも加乃の面影が見られるかも知れない、という自分のエゴが少なからず混じっている。そんなものを押しつけるのは克也に対して失礼だと思いつつ、密かにわがままを通してしまう自分の大人気なさに、つい赤面してしまうのだった。
(願掛け――自分は何を願っているのだろう)
自分でもそれを解っていない。ただ、ふと頭に浮かんだのが『願掛け』という言葉だった。これを切ってしまったら、自分の中の何かも切れてしまう、そんな危機感がいつも辰巳の脳裏を過ぎる。それがなんなのか解らないので、いつも自分で勝手に苛々し出す。
(ま、面構えからしてあまりロン毛が似合う感じでもないし)
(念願叶ったら切ってしまおう)
(なんでも屋の商売は冴えないから、シャンプー代も馬鹿にならんし)
考えても答えの出ない疑問を逡巡するのに疲れると、いつもそこへ帰結する。そんな頃合いには散髪も終了時間を迎える、というのが常だった。
『ほい、いっちょあがりっ。辰巳って結構髪の量が多いのな。もっと明るい色に染めるとかして、かるーい感じにしてみたら?』
愛美からいろいろお洒落の情報も仕入れているらしい。克也がそんな提案をしてくれた。
『そだね。いいかも知れない』
もっと別人らしく見えて、隠れ住むには丁度いい。
『でしょ、でしょっ』
『んじゃ、今度メッシュでも入れよっかな』
『ボク、美容院までついて行くーっ』
『自分でしますー』
『ちっ』
主目的は自分のお洒落の方か、と心の中で姑息な義妹に呆れていた。
――本当は、切ってしまいたいんだけどね。頭も心も軽くしたいんだけど。
なんだか、今はそれをしちゃいけない、っていう気がするんだ。
俺って結構直感が働くから、きっと間違ってないと思うんだ――。
その想いを口にするのもなんとなくはばかられ、彼女への突っ込みとともに呑み込んだ。
頭の中に残る髪の毛の屑を、掻き混ぜることで取り合いっこをする。
『せーのっ、わしゃわしゃわしゃわしゃーっ!』
辰巳はジーンズに上半身は丸裸で。
克也はホットパンツにキャミソール一枚で。
リビングに広げたレジャーシートの意味がないくらい、勢いよく互いの髪を掻き混ぜる。細かな髪が四方へ散らばった。
『勢いがよ過ぎたな。結局フローリングの掃除しなきゃダメじゃんか』
『ボク、シャワー一番乗りっ!』
その日もいつものように、克也が後片付けから逃げてシャワールームを占拠した。
『まったく』
仕方なく一人で散った髪屑をまとめ始める。少しずつ毛先だけ切った髪をまとめてみると意外と量の多いことに気がついた。
切らせたくない辰巳が切った、漆黒の細かな、克也の髪。切りたくて仕方のない克也が長めに切った、ナチュラルブラウンがそれを覆い尽くす。漆黒が、ナチュラルブラウンにどんどん侵蝕されてゆく――。
『……!?』
それが辰巳の中で、“何か”をヴィジュアル化させ始めた気がした。急な悪寒が、ぶる、と一度だけ辰巳を身震いさせた。
『……』
子供が手遊びをするように、それをぐしゃぐしゃと掻き混ぜた。混ぜて、握り締め、四方へ散らす。
『……はぁ……』
絡み合った漆黒とブラウンが、宙に舞ってほぐれていった。
辰巳は不意に立ち上がって浴室へ向かうと、思い切りそのドアに蹴りを入れた。
『こらっ! 最後くらい克也が片づけろ!』
ドアの向こうからシャワーの音に混じり、克也の不服そうな声が返って来た。
『何怒ってんだよっ』
『次からは美容院へ行くんだろう。最後くらいは自分でしろっ』
苛々する。何か嫌なものを見てしまった気がする。八つ当たりだと解りつつ、荒れる語気を改められないでいた。
『……わぁったよ、片せばいいんだろ。いいから向こうへ行っとけよ!』
別に、克也に対して怒っている訳ではない。では、この言いようのないざらついた感覚はなんなのだろう。
『やっぱ、いい。余計散らかしちゃったから俺が自分で片づける』
『は?』
そのざらつきは、答えが出ないまま辰巳の奥底に沈んでいったはずだった。
顔がくすぐったい。筆か何かでなぞられているような感覚。顔を撫でる柔らかなそれを、寝ぼけた意識のまままさぐり手で掴む。それは、長くて滑りのよい、辰巳にとってとても心地よい感触。夢うつつの中で、馴染んだ香りのそれを口許へ運ぶ。
「……んぁ?」
それに口づけている自分に気づくと同時に、間近い吐息にも気がついた。それが一気に辰巳の意識を現実へと覚醒させた。
「ごめん。起こしちゃった? ブランケット掛けようとしたんだけど」
固まった辰巳に苦笑を浮かべ、克也が辰巳の手から自分の髪をするりと抜いた。
「また、加乃姉さんの夢でも見てた?」
そう言いながらソファで横になったままの辰巳から離れ、テーブルでつけっ放していたパソコンの電源を切った。その背中は、美容院へ行く前とそれほど変わらない長さの髪で隠されている。
「いや。……バッサリいくんじゃなかったの?」
その髪をすくいながら、冗談交じりに彼女の揚げ足を取ってみる。
「本当にバッサリやったら、辰巳ってば本気で泣きそうじゃん」
彼女は笑いながら、そう言って辰巳に責任を押しつけて来た。そして、やっぱり訊いて来た。
「ね、辰巳は切らないの? なんで?」
「長い方が金髪へ余計に気が行くだろうから。顔を覚えさせないで済むでしょ」
嘘つき、と笑う彼女の言葉は聞こえない振りをした。
辰巳は未だに、願掛けの内訳が解らなかった。