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第十章 喫茶『Canon』創世記 4

 ぱらぱらとアルバムのページを繰りながら、BGM代わりに流し続けているディスクの会話に耳を傾ける。

 辰巳の記録魔は病的だ。

「これって絶対用心や物証の為っていうより、完全に趣味の領域だよな」

 克也はそれらによって思い出されたあの頃の思いや忘れていた出来事を振り返りながら、しみじみとそう思った。

(それとも、晃さんの言葉だから、なのかな)

 ふと思いついた良心的な解釈は、流れて来た晃と辰巳の会話で推測から確信に変えた。


『晃さん、チラシ置かせてもらっちゃダメ?』

 過去から届く辰巳の甘えた声に、思わずコーヒーを噴きそうになる。この頃は確か、今のアパートに引っ越した頃だ。思えばあれは晃の提案から辰巳が自分のことを考えて引っ越してくれたのだと今頃知った。多分引越しに掛かった出費はかなり痛かったと思う。

『なんでも屋、ねえ。……いや、置くのは全然構わないけど、こんな水商売では生活が不安定だろう』

 呆れた声の晃とページを繰った先で見せる彼の顔が、あまりにもマッチしていて噴き出した。広げた写真は音声ディスクの日付と同じ。『Always』の前で克也が撮った一枚の写真。愛美を真ん中にして、大人二人とのスリーショットを撮るつもりだったはずが、愛美が「邪魔」と言って晃を思い切り押しやった。その瞬間を収めた晃の呆れ顔に克也は噴き出したのだが。たった今流れて来た晃の言葉で、一緒に写る辰巳の目が腫れぼったい理由を初めて知り、克也の笑いがぴたりと止まった。

『もしよかったら、しばらく家で働かないか? 辰巳君さえよければ、ゆくゆくはこの店を頼みたいと思っているんだ』

 引越しに加えて株の方でも下手を打って、本当に貯蓄が尽き掛けていたあの頃。その言葉に、辰巳はどれだけ救われただろう。

『愛美がどうしても東京の進学校へ行きたい、というんだ。まだまだ世間を甘く見ている田舎の子供だからね。独りで都会へ出すのがどうにも心配で』

 無言の辰巳に語るその声は、自分の都合を押しつけるでもなく、かと言って変な恩着せがましさを辰巳へちらつかせるものでもなく。

『ここは妻と育てて来た大切な思い出の集大成なんだ。僕にとっては愛美と同じ、子供のような存在だ。でも、愛美に叱られてしまってね』

 ママはそんなことを望んでないよ、と晃が言った愛美の台詞は、以前克也自身が直接彼女から聞いた言葉と同じだった。

『妻に操立てをしているつもりはないんだけどね。まあ、なんというか、それなりの女性がいるにはいるが、ちゃんと籍を入れないと、女性からは言い出しにくいものなのだと愛美にどやされて、なんというか』

 口ごもるなんて珍しい。浅黒い肌をほんのり赤らめて話す彼の姿が目に浮かぶようだった。

「そか。マナは、彼氏の為だけに東京へ行った訳じゃあなかったんだ」

 今ではお母さんと呼んでいる晃の後妻と、本当の母娘のように仲良くやっているらしい。時折届く手紙に書かれていた、晃の新店舗を一緒に支える彼女の母親自慢の話を改めて思い出した。

『子供、みたいなものなんだよ。妻と関係のあるなしだけではなく』

 囁くような声がもう一度辰巳に語り掛ける。

『誰でもいい訳じゃあないんだ。君なら、任せてもきっと大切に守ってくれると安心出来る。克美ちゃんを見ていると、つくづくそう感じさせられるよ』

 ――なさぬ仲の子を愛せる君に、もう一人家の「子」をお願い出来るかな。

 そう提案する晃の声は、どこまでも温かくて優しくて。

『そうしたら、君と僕は身内になるね』

 そうつけ加えた晃のあとへ続いた、辰巳の鼻をすする音と今の克也のそれとが重なった。




 いわゆる「普通」の人には解らないかも知れない。でも、克也には辰巳の涙の理由が痛いほど解った。人の温もりをこんなにも渇望している自分達の、その温情への感謝の想い。

 信州へ逃げて来るまでの人生の中で、人の温かみに触れたことなどなかった。

 辰巳はきっと、自分以上だったと思う。母親とは子供の頃に死に別れたと言っていた。姉とも一年そこそこしか過ごせなかった。保護関係から親しくなった貴美子とは、克也の目から見ると、心休まる関係というよりも牽制し合っている雰囲気だった。この頃はまだ、今ほど高木に信頼を寄せることも出来ていなかった。それ以外の辰巳を囲む人々は、皆、辰巳の敵ばかりだ。辰巳の実の父親までが、親子でありながら敵対関係だった。そんな辰巳にとって、晃の存在の大きさは計り知れないものだっただろう。


 東京へ発つ二人を松本駅で見送った時、晃が店の権利書と一緒に贈ってくれた言葉。

『“君らしく”営んでいってくれよ。お互いの新しい門出のお祝いに、またいつか客として“君の店”へ招待してくれるのを待ってるよ』

 二人は固く交わす握手とともに、また会おう、と再会の約束をしていた。

 それが克也と辰巳にとって、親しい人との生別という初めての経験になった。翌日に期待と希望を感じる別れを初めて知り、寂寥の中に妙な清々しさを感じていた。


 今の辰巳は、彼に倣って、店と店主の人気を保っている。

「今では営業スマイルが得意だもんねえ」

 克也は写真の中で目を赤くしている辰巳の鼻先を、指でびん、と弾いて笑った。それに向かって心の中で語り掛ける。

 ――頑張ったよね。頑張ってるよね、辰巳。

 晃の申し出のあとすぐに、辰巳は調理師の免許を取って晃を驚かせた。受験まで半年もなかったのだ。それを一発で合格し、辰巳は本気でここを守ろうとしていた。晃の想いの分まで。そして今は、姉の名前を店の冠にいただき、姉の分までここで克也を守ってくれている。

「ただ待つしか出来ないなんて、情けないよなっ」

 呟く言葉は、朝と同じ。だが、声の張りと気持ちが自分でも驚くほど違っていた。

「いつまでも甘えてたら、お子さまって言われても言い返せないや」

 克也はアルバムを閉じてディスクをパソコンから取り出すと、時間が惜しいとばかりに急いで片づけの続きに取り掛かった。




 あれから晃や愛美と会う機会は一度もない。やはり都会は競争率が高いらしく、晃は店を年中無休にしているらしい。約束している招待の話は保留のままだが、もしかしたら今回辰巳は、ついでに彼らにも会って来るのかも知れない。

「もし抜け駆けしてたら、蹴り飛ばしてやろっと」

 克也は店のキッチンへ立つと、おかしそうにそう呟いた。


 泣き言を言う前に、まずは実際に動かなくちゃ。役に立ちたいなら、行動を起こさなくちゃ。

 そんな当たり前のことが、ようやっと心に馴染んでくれた。辰巳が安心して店を自分に任せられるよう、まずはコーヒーを淹れる腕を磨こう。そんな想いが克也に妙案を浮かばせた。

「あ、そうだ。北木さんを呼んじゃおっ」

 自分の思いつきの素晴らしさに、ぽんと一つ手を叩く。彼ならきっと口が肥えているから、よいアドバイスをもらえるだろう。辰巳が帰って来たら自分がコーヒーを淹れて、今夜は辰巳をびっくりさせてやろう。そうしたら、もっと信用してくれるだろうか。もっと辰巳の域まで自分を近づけられるだろうか。そんな想像が北木の携帯電話へコールする克也の中で、ぐるぐると廻った。

 ――少なくても、邪魔な存在ではなくなってくれるかな。

 一瞬浮かんだその不安は、通話の繋がった北木の声で掻き消された。

『もっしもし、かっめよっ』

「かめさんよー、って、なんでボクだって判ったんだよっ」

『辰巳さんならケータイから掛けて来るからね』

 そんな北木に笑わされる。一瞬湧いた辰巳に対するネガティブな気持ちは、曖昧なまま知らない内に消えてしまった。


 幸い北木は公園通り沿いでウィンドウショッピングを楽しんでいたらしい。マッターホルンでケーキを買ってから寄る、と克也の頼みごとに快諾をくれた。来訪が待ち遠しいあまりじっとしていられず、克也は急いで準備を終わらせ、北木をビルの階下まで迎えに出た。


 駅前通から少し外れた小路のビルの一角で、隠れるように営まれているレトロな雰囲気の喫茶店。愛美達が旅立った年の四月から、店の木目調の看板を彩るフラクトゥーアの白文字で書かれた店の名前が替えられた。


『喫茶 Canon』


 その看板を眺めながら、あの時辰巳と交わした会話を思い出す。

『辰巳、カノンって、どういう意味?』

『一つは聖典。何をするにも規範って大事だろう? 晃さん達への感謝の気持ちをこめて。もう一つは音楽の形態の一つで、追走っていうのかな。同じメロディーを追い掛ける音楽形式のことを言うんだ。晃さんが営んでいた時みたいに、俺たちも、お客が立ち寄りたい気持ちになる居心地のいい店にしたいね』

 もう一つは、と言い掛けた辰巳の言葉を、あの時克也が遮った。

『加乃姉さん、だね』

『BINGO』

 最後は、克也にもすぐ解った。思わず見合わせた目が同時に緩い弧を描く。

『二人で守っていこうな、このお店』

 そう言って抱き上げてくれた辰巳と、約束するという誓いのキスを交わしてから、もう三年も過ぎていた。

 二人を結ぶ、最愛の人の名を冠にして。

 初めて出来た友人から学んだ営みを規範に、という自戒をこめて。

 彼らの辿った軌跡を追うように、明るく居心地のよい店に、という決意をこめて。

 そして、晃・愛美親子のような、平凡で平和な明るい未来を追い奏でていけるという期待を、ふんだんにその店の名にこめて。

 克也はフラクトゥーアの白い文字を見つめながら、あの時溢れていた前向きな気持ちをまた取り戻していた。


「お待たせー。出迎えてくれたんだ。光栄だね」

 ぽん、と肩を叩かれるまで、背後に立った北木に気づかなかった。

「うぉ、ビックリした。いらっしゃい」

「え。驚かしちゃった?」

 相変わらず、そこまで罪深い顔をしなくてもいいのに、と思うくらい申し訳なさそうな顔をする北木を見て、過保護な兄貴の多い自分の幸せやありがたさをひしひしと感じる。それが笑みになって溢れ出た。

「昔を思い出してて、そっちの世界に行っちゃってた。前に北木さんが撮ってくれた写真を見てたんだ」

「何の?」

「マナや晃さん。ほら、前に北木さんもここの前で撮ってくれたじゃん。戸棚から出て来てさ、見ていたら何だか看板を見たくなっちゃって」

「懐かしいなあ、愛美ちゃんか」

 克也の言葉を受けて、北木も懐かしげな瞳で『Canon』の看板に視線を遣った。

「まさかマスターや愛美ちゃんも、君達が『Canon』として、ここまであのままの形を保ってくれるとは思わなかっただろうね。常連としても、君達には本当に感謝しているよ」

 そう言った彼は、巷で流れているという噂話を楽しげに教えてくれた。


 ――駅前通から少し外れた小路のビルの一角で、隠れるように営まれているレトロな雰囲気の喫茶店。そこは、摩訶不思議な魅力の性別不詳ウェイトレスと、ぼさぼさ頭に無精ひげ、似合わない伊達眼鏡姿で始終煙草を燻らせながら、極上のコーヒーとチーズケーキを堪能させてくれるイケメンマスターがいるお店。

 特に女子高生の間で噂に上り、放課後の時間辺りから賑わう店となる。時にそこのイケメンマスターが、いろんな相談に乗ってくれるという。大サービスで依頼を引き受けてくれることもある、という噂は、OLの間にも広がっているらしい。

 合言葉は『スペシャルメニューをお願いします』。その噂は、今もまことしやかに広がり続けているそうだ。

 誰もがふと立ち寄りたくなる場所。一度入ったらなかなか腰を上げられないほど温かい場所。

 スピード社会の中にぽっかりと浮かぶ、レトロでアンティークなそれはまるで、現代の、楽園エデン――。


「なんて言われているんだよ。知らなかっただろう」

 北木が柄にもなく、少しだけいじわるな笑みを浮かべてそう語った。

「性別不詳とウェイトレスじゃあ、言葉が矛盾してるじゃん」

 克也は曖昧な笑みを浮かべてそう返すと、目を細めて微笑み返す彼を中へと促した。

「でも、楽園エデンっていうのは、ボクも正解だと思う」

 そこには、心から同意した。

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