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第十章 喫茶『Canon』創世記 2

 次のページにあるのは愛美とのツーショット。写真に怯えた克也を彼女が無理やりレンズの前に引っ張り込んだ。

「ボクってば、超間抜けな顔してる」

 その瞬間を収められてしまった写真に写る自分の顔を見て、四年前の自分の心境に苦笑が漏れた。まるでカップルのように腕を組んで、克也の肩に頭を預ける少女を懐かしい思いで眺める。愛美のふんわりとした癖毛の柔らかさが、肩に載ったような気さえした。

「元気にしてるかな、マナ」

 引っ越した先で通っている高校の勉強に追いつくのが大変だ、と手紙で聞いて以来、大切な時間を奪う気がしてしまい、なんとなく手紙のやり取りが少なくなった。それでも、会えばまたあの頃と変わらず話せる気がする。

 克也にそう思わせてくれる手紙を、今でも彼女は時折届けてくれる。愛美は当時から心の扉がいつでも全開で、社交的な一つ年上の女の子だった。




 そんなポジティブな彼女と出会う前。身の回りの変化に気持ちがついていけなかったあの頃。今思えば、体の変化がメンタルに多少なりとも影響していたと今の克也は考える。

『女だとばれたら酷い目に遭う』

 物心ついた頃からそう教えられ、自らの女性を否定して来た克也にとって、“それ”の始まりは身体だけに留まらず、心にも強いダメージをもたらした。

(どんどんヤなヤツになっていく……ボク)

 辰巳と二人して部屋に引きこもっていたら生活なんてしていけない、ということを、頭では解っていた。それでも、いざ辰巳がなんでも屋の仕事で出掛けようとすると

『独りにしないで』

『置いていかないで』

 と泣いては出掛ける足を遅らせていた。結局辰巳は仕事へ行くのだけれど、時間にルーズという理由から、依頼をキャンセルされてしまうこともあった。いつも、あとで悔やんでいた。なのにその場になると独りになるのが怖くて、また同じ後悔を繰り返してしまう。そんな苦しい毎日だった。

『辰巳になんか、逢わなきゃよかった』

 苦しげに眉根を寄せてしかめた顔のまま出て行く辰巳を見送る度に、克也はそう感じて呟いていた。

 辰巳と出会うまでは、加乃があの長屋から解放されて自分の幸せを掴む姿を見届けられたら、あとはいつ死んでもいい、と思っていた。自分なんか要らない子、そう思えていた頃の方がマシだと本気で思っていた。


 そんな陰鬱とした生活の中で、嫌でも自分が女だと認識させられることが起きた。

 初めてそれを知ったのは、朝、気持ちの悪い湿度に起こされた瞬間。下着が張りつく感覚に不快な違和感を覚え、布団をめくった途端、卒倒した。

 敷布団や下半身についた赤い染みが、勝手にどんどん広がっていく。広がり、液体の流れをかたどり、じわじわと克也を紅に染め上げていく――その時は、それが幻覚だとは思えなくて。

『うわああああぁぁぁぁぁっ!!』

 そのあとのことを、覚えていない。ただ、着替えはちゃんと済んでいた。辰巳には、訊けなかった。辰巳も何も言わなかった。ただ、変な顔をして

『腹とか、どこも痛くない?』

 と言って、痛み止めを出してくれただけだった。

『藪じいのところへ行くの?』

 とだけ訊いた。病気だとばかり思ったから。

『病気じゃないから大丈夫』

 そう答える辰巳の表情が、あまりにも重たく暗かった。だからその時の克也は、辰巳が悪い病気に罹ったことを隠しているのだと思っていた。

 取り敢えずその時は、多分辰巳がしてくれたのだろう、そのやり方で、『赤い時期』をどうにかやり過ごした。


 それから数ヶ月経ったころ、突然辰巳が不愉快極まりない提案をして来たのだ。

『約束しちゃったから断れない、って……なんで勝手に約束なんかして来たんだよ!』

 居心地のいい喫茶店を見つけた、ということは聞いていた。けれど、そこへ自分も一緒に行く、だなんて。もう店の人や常連仲間のお客とも連れて行くと約束してしまったなんて。

『外になんか出て、また変なヤツが拉致りに来たらどうするんだよっ』

 辰巳にまで見捨てられると思って、キッチンと居間を隔てる扉にしがみついて抵抗した。頭では、解っていたから。自分が辰巳にとって迷惑でお荷物な存在でしかない、ということを。

『大丈夫だから。四年近く何もなかっただろう』

 何でも言うことを聞いてくれていたのに、その日の辰巳は克也に譲ってくれなかった。扉にしがみついた腕を離そうと力をこめては、しつこく説得を続けて来る。

『お前、加乃姉さんにボクを守れって言われてるんだろっ。丸腰でどうする気なんだよっ』

 途端、辰巳の引っ張る腕の力が緩んだ。あれ、と思う間もなく腹に腕を回される。ふわりと身体が浮いたかと思うと、煙草の匂いと真っ暗な温かい闇に包まれた。

拳銃チャカなしでも、何かあればこうやって体でちゃんと克也を守れるから。だから、頼む。信じてよ』

 降って来る声があまりにも苦しげで。その原因が、自分の駄々にあると思うと。

『……ずっと傍にいるって、約束するか?』

 ずるい、という恨みをこめて、上目遣いで辰巳を見上げた。

『約束するよ』

 ほっとしたように目尻を下げて、子供みたいな笑顔でそんな風に言われたら。

『……怒鳴って、ごめん』

 うな垂れながらそう呟くと、辰巳は額へ仲直りのキスをしてくれた。

『きっとね、実際にあの場所へ行ってしまえば、俺なんかがいると邪魔って思えるくらい、元気をもらえるはずだよ』

 その言葉を信じることで今日のわがままを償うしかない、と覚悟を決めるよりほかになかった。


 実際にその喫茶店へ赴いてから、初めて店主や辰巳の配慮に気がついた。

『いらっしゃい。待ってたよ』

 辰巳のブルゾンの裾を掴んで隠れる克也に向かい、思わず後ろから覗きたくなるような柔らかな低音が克也を迎えた。鼻をくすぐるコーヒーの香りは、この頃辰巳が好むブルマンの匂いだと思う。店内の木目を彩るこげ茶とその香りが、妙に克也をリラックスさせた。

『克美ちゃん、初めまして。北木、っていいます。僕も人の多い時間帯は苦手でね』

 そう言って名前を呼んで自己紹介をしてくれたのは、当時大学二年で、今は『Canon』の常連客にもなっている北木悦司だった。太った人を初めて見たので、思わずじいっと眺めてしまった。

『こら、克也。ごめんね、北木クン』

 と謝る辰巳に襟首を引っ張られるまで、自分が彼の傍まで歩を進めていたことさえ気づかずにいた。

『あ……は、初め、まして』

 気づくと足がすくんでしまう。まるで猫が首根っこを掴まれたような恰好だった。

『辰巳君、仔猫じゃないんだから』

 下ろしてあげたら、と、二人してクスクスと笑っている。見上げれば辰巳も面映そうな顔で頭を掻いて、家にいる時に近い緩んだ表情を晒していた。ちょこんと床へ下ろされると、すくんでいた足に、どうにか立てる程度の力が戻っていた。

(あったかい、ここ)

 辰巳がここを逃げ場にしている理由が、ぼんやりとだが解った気がした。理屈ではなしに、ここの空気は、限りなく優しく、そして温かい。それはきっとマスターの晃が、太陽みたいな人だから。幼いながらも、当時の克也にはそんな確信があった。扉に掛かったプレートが、こちら側に「営業中」の文字を向けている。北木という常連客がいるのは、彼の話し方がとても巧いから。押しつけるでもなく、退屈させるでもなく、子供の自分が相手でも真剣に話を聞いてくれる。辰巳と話している時でも、克也にも解る優しい言葉を選んだ会話をしてくれた。

 気づけば辰巳と話す時と同じように、普通に話せている自分がいた。


『ただいまーっ。克美ちゃんって子、もう来て……るね。ごめん! 今日は日直で日誌を書いて職員室まで持っていかなきゃいけなくって』

 数時間も大人の中で話していたところへ、そんな甲高い声が飛び込んで来た。

『お……あ、はじ』

『ああ、もう! 堅っ苦しい挨拶は抜きぬきヌキっ。ほら、おじさん達なんかほっといて、奥へ行こうよ、奥っ』

 咄嗟に返答に詰まってしまう。マシンガントークを見るのも、女の子女の子したふわふわの髪も、セーラー服の本物も、何もかもが初めてで……驚いた。

『おじさん……』

 と呟くとともに、カウンターテーブルへつっ伏す辰巳の哀愁漂う背中、なんていうコミカルな一面も初めて見た。

『まあ愛美ちゃんから見たら、僕も充分おじさんだから』

 と北木が健気に辰巳を慰める。克也は笑いをやっとの思いで噛み殺して、北木へ辰巳をお願いしますと口にした。

『こら、愛美っ。なんて口の利きか』

『ほーら、始まった、行くよっ、克美ちゃんっ』

 と、有無を言わせず奥へ連れて行こうとする愛美に腕を取られてしまう。

『あ、あの、ボク』

『あ、そか。マナね、愛美っていうの。克美ちゃんもマナって呼んでねっ』

 ひとつ年上だというその少女は、そう言ってにこりと微笑んだ。笑うとえくぼがぷくりと浮かぶ、とても可愛くて魅力的な女の子だった。

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