第十章 喫茶『Canon』創世記 1
カノン【canon】
キリスト教の教理典範。教会法。また、聖書の正典。創世記からマラキ書まで。
ある声部の旋律を他の音部がそのまま模倣しながら追いかけていく楽曲形式。追復曲――。
「今日は顔合わせだけだから、夜までには帰るよ」
そう言って革のミドルブーツを履き終えて立ち上がった辰巳に、フルフェイスのヘルメットを手渡した。
「ボクがついてくのは、やっぱりダメ?」
しつこいと解っていつつ、またそれを口にする。辰巳は昨夜と同じ困った笑みを浮かべ
「高木経由の案件を収めるスペースを作っておいてくれる方が助かる、かな」
と、また克也の頭をくしゃくしゃと掻き混ぜた。
「んじゃ、行って来る」
「……行ってらっしゃい」
高木を介して東京からの依頼を請けた、路面に薄氷が張るほど冷え込んだ初冬の朝。克也はいろんな寒さを堪えて彼の後ろ姿を見送った。
店は休みにした。まだ克也に丸投げするのは心配だから、と辰巳は言っていた。
「ただ待つしか出来ないなんてな……なっさけね……」
数日前のタウン情報誌に掲載された訃報欄を切り抜きながら、その名前を見て呟いた。
『来栖勇輝(44)さん。~ご冥福をお祈りします~』
ほかの逝去者の欄には、死因や故人の人となりが数行にわたり記されるのが常だ。だが翠の父親の欄だけは、たった一行しか書かれていなかった。
『密葬にて葬儀は終了しておりますので御香典は固く辞退致します。親族一同』
辰巳が言っていた。翠の母は突然栃木の実家近くにある施設へ預けられたらしい。調査結果を怪訝に思った辰巳は、あくまでも克也の保護者として翠のその後を伺うという形で、彼のアパートを訪ねたそうだ。だがそこにいたのは、生きた来栖勇輝ではなく、宙吊りの状態で腐敗し始めているただの肉塊だったらしい。――自殺、だった。
翠に家族がいなくなったことは、当面伏せておくそうだ。辰巳は高木からの支援という形を取って、翠の学費を稼ぎたいと克也に言った。
『今の俺には、それしか出来ることがないから』
そう言われたら、仕事の範囲を広げると言う辰巳を引き止めることなど出来なかった。
切り抜いたそれを、翠のファイルへ張りつける。なかなかくっつかなくて苛々として来る。克也は湿った紙面に追加で張るのを諦めた。切り抜いたそれを、クリアケースに入れる。ケースごとパウチで穴を空けて翠のファイルへ追加で綴った。
(だめだ。メソるとまた辰巳に心配を掛けてしまう)
ジクジクし出した目許を拭い、詰まって来た鼻をすする。
「終わりっ。んじゃ、戸棚の整理から始めっか!」
事務所に空元気の声が響いた。
取り敢えず煩雑化している戸棚のファイルを下段から床へ積み下ろした。
「……一度にやるのは無茶だよな、うん」
膨大な資料の山に軽い眩暈を覚えてしまう。克也は敢えてそんな言い訳を口にしてから濡れ雑巾で空になった部分を拭き始めた。
「お? 何だ、これ」
ガムテープで厳重に戸棚の角へ固定された怪しげな箱は、棚と同系色の色で塗られ、いかにも隠し置いている、といった感じだ。
「エロビかな」
辰巳なら、あり得る。隠してある辺りが益々怪しい。
「捨てちゃお」
バリ、というガムテープを剥がす音は、意外にも長い時間放置されていることを物語っていた。ガムテープの粘着が酷くて、包装紙も破けてしまった。克也はその破れ目から見えた文字に気付くと、大きな目を更に見開いた。
「……Always?」
それはこの店が『Canon』になる前の名だ。克也と辰巳が温泉街にある診療所から退院して間もない頃に、辰巳が見つけた喫茶店。克也に初めて出来た友達の父が営んでいた店だ。辰巳にとっても、初めて一般の友達が得られた場所でもあり、あの息苦しかった毎日の中、彼にとっての隠れ家みたいな存在になっていた。
焦れる思いで包装紙を取り去る。中から出て来たのは、数枚のディスクと何冊かのミニアルバムだった。
「あの頃撮っていた映像とかが入ってるのかな」
どんよりとしていた気持ちに明かりが射す。懐かしいぬくもりが心の芯を温める。
克也はパソコンを立ち上げると、そのディスクをトレイに入れた。自動再生に任せてキッチンへ向かい、一人分のコーヒーの準備に掛かった。
『晃さんの娘さんって、確か中学生でしたよね』
まだ声がギスギスしていた頃の辰巳の声に振り返る。モニターを振り返って映像を期待したが、残念ながら、音のみのデータだった。
(何だ。あの頃のマナや晃さんを見れるかと思ったのに)
『何だい? また克美ちゃんのことで悩みごと?』
懐かしい声がそんな意味ありげなことを言うから。
「何それ」
止めようと停止ボタンをクリックし掛けた人差し指が固まった。
『あは。いつもそんな時ばっかり来てすみません』
(そうだったんだ。ただの気分転換だと思っていた)
退院してからの克也は、あまり辰巳と巧くやっていけないでいた。辰巳がことあるごとに克也を外へ出そうとしていた所為だ。辰巳のその行為が当時の克也にとって、自分をさっさと社会に馴染ませ手離そうとしているように思わせた。喧嘩ばかりの毎日で、よく辰巳は「頭を冷やして来る」と言っては一人アパートを出て『Always』で時間を潰してから帰って来た。
少しボリュームを上げて、キッチンへ再び立つ。丁度ケトルが沸騰を知らせる湯気を出し始めたところだった。
『お互いに身寄りなしの二人家族なんで、どうも年頃の女の子のことって解らなくて』
『いや、解るよ。家も愛美を授かった代わりに妻を亡くして、僕独りで育ててるからね。僕も先輩保護者のお客などに教えてもらって毎日どうにかやってるんだから。お互いさまさ』
そのどっしりと落ち着く懐かしい声に、今現在の克也までが癒される。理屈や思考では割り切れない、妙な安堵感をくれるのが晃だった。
それを醸し出すのは彼が発する声質だけではなく。見た目も懐も大きな、爽やかという言葉の似合うラガーマンの風貌からも漂っていた。
『大学までは、これでもラグビーで鍛えていた口なんだ。このくらい、全然平気さ』
彼の娘、愛美と親しくなったある時、彼女と一緒になって彼の腕へぶら下がって遊んだことがある。その時克也を叱った辰巳に、そう言って甘えることを許してくれた。済まなそうに詫びる辰巳へ向けた笑顔は、今でも鮮やかに思い出せる。浅黒い肌から真っ白な歯を見せて、
『君は何かと気を遣い過ぎるきらいがあるね。家ではもっと気楽にしていいんだよ』
と辰巳の頑なな猜疑心をほぐしてくれた、柔らかな笑顔。
『ま、今だから言えるんだけど、自分でも“あれ?”と思ったんだ』
偶然見つけて店へ立ち寄ったその瞬間から、何故か辰巳の中でも気が緩んだ、と。他者の腹の底など解らない、と疑って掛かるのが辰巳の処世術だったのに。
『晃さんには通用しないんだな、これが』
気づけば喋らされている。かと言ってそれを客との営業トークのネタにするいやらしい奴でもない。彼はただ、“そういう人”なのだ。そんな人間が本当に存在するなんて、最初は信じられなかった、と当時の辰巳は照れ臭そうに話していた。
コーヒーの芳香が漂い始める。最近のお気に入りはホンジュラス。その香りも相俟って克也の気持ちを和ませ切ったその時、遠い過去の辰巳が、トンデモ発言を繰り出した。
『いや、実は、まあ何ですか……飲食店で話す話題じゃないんですけど。克美に初潮があったんですけど、どう対応していいのか解んなくて』
「うわぁっちっ!」
その発言で手許が狂い、思い切り手の甲へお湯を注いでしまった。
「信じらんない! あり得ねえ! そんなことまで晃さんに相談なんかしてたのかよ!」
知っていたらきっと絶対『Always』になんて行かなかった。火傷をした手の甲よりも、頬の方が遥かに熱い。
『あれって本能的なものなんですかね。自分でもどうしていいのか解らない癖に、俺に隠すんですよ。俺もその辺りはどこまで介入していいのか解らないし、普通ならこういう時は女性の出番なんでしょうけど……ねぇ……』
ゴゴォ、というハウリングがスピーカーを割る。辰巳がマイクに向かって吐き出した溜息だと嫌でも解る。
(本気で、困ってたんだな)
考えてみたら、辰巳は男で未婚で普通の生活も知らなくて。何より当時はまだ二十五歳という若さだった。何もかも解らなくて不安になるのも当然だ、という当たり前の事実に克也の思考が行き着いた。
キッチンの壁へ掛けた鏡に、何とも言えない表情をした自分が映る。眉根を寄せているのに、口角が上がってしまう。嬉しいような切ないような、矛盾したぐちゃぐちゃの気持ち。それがそのまま克也の面に浮かんでいた。
背後から流れ続ける、当時の晃と辰巳の会話。
『ん? ところで辰巳君はどうして判ったの?』
『……狭い1Kなんで、まあそのダイレクトに発見、というか……』
「そこは普通、適当に濁すだろっ!」
やっぱり辰巳が帰って来たら、この物証を根拠に泣いて謝るまでフルボッコにしてやろう。決意新たに鏡を睨む。六割の力をゲンコツにこめ、それに向かって叩きつけた。
『そりゃ君、マズイっすねえ。克美ちゃん、もう十四歳でしょ?』
『数えで。って、え? “まだ”十四歳でしょ?』
『うーん。幾ら妹でも、ちゃんと部屋を与えてあげるべきではないかな。お兄ちゃんから妹離れをしてあげないと。ちゃんと女の子として認識出来ないのは、その辺も関係しているんじゃないかな。お手本が君しかいないんだろう?』
『はあ……まあ……』
『今度来る時は、克美ちゃんも誘ってごらん。家も学校帰りに店へ顔を出すよう、娘に伝えておくからさ。同性と接する機会を与えてあげてみてはどうだい?』
「あれって、晃さんの提案だったんだ」
ようやく淹れ終えたコーヒーをカップに注ぎ、パソコンの前へ腰掛けた。もう一方の手には、ミニアルバム。あの頃の自分の顔を、今の自分と見比べてみたくなった。
自分の知らないところで、そんな風に守られて来ていた。今この瞬間まで、そんなことも知らずに過ごして来たけれど。
ミニアルバムの扉をめくると、晃と愛美が満面の笑みで映るツーショット。克也がハート型に切り抜いたそれが、中表紙のように飾られている。
『ありがたいお話なんですけど、克美の奴、ちゃんとついて来てくれるかな。ああいった生い立ちなんで、対人恐怖の気があるんですよね』
どこか怯えた、辰巳の声。その理由が痛いほど伝わって来る。また克也が声と心を失くすかも知れない、と。そんな素の自分を晃には晒せていたのか、と彼への信頼を声そのもので改めて認識させられた。
『克美ちゃんの対人恐怖が改善されないのは、案外辰巳君が可愛がり過ぎているからかも知れないよ。少し別々の時間を作ってあげて、子供達がお喋りしている間の君は、僕にコーヒーの師匠でも演じさせてやる、というのはどうだい?』
興味があるんだろう、という晃の声が笑っている。聞いている克也まで釣られて噴き出してしまった。
「上目線で言われるのが嫌い、ってこと、晃さんにバレバレじゃん」
喫茶『Always』のマスター、晃は、確かに辰巳の師匠、と呼ぶに相応しい。心の声を敏感に聞き分ける、尊敬出来るマスターだった。
『え、いいんですか? 俺なんて役に立ちませんよ?』
『兄貴面をしたいお年頃なんだよ、僕は。つき合ってやってくれよ』
『はあ……ありがとうございます』
そんな二人のやり取りを聞いていると、なんだか胸がきゅんと痛くなる。揺れる視界があの頃の克也の姿を捉える。あの頃の自分に伝えたい。
――辰巳はボクを見捨てないから、大丈夫。
ページをめくった先でどんよりとした顔を見せる過去の自分へ、心の中でそう励ました。それを指で弾いてから、次のページへとまた一つめくった。